Music: Imagine
建礼門院陵
第80代高倉天皇皇后徳子 大原西陵




<陵印提供:京都市黒川さん>


		京都は左京区大原の里。観光地として有名なこの地の寂光院の側に、平家物語悲劇のヒロイン建礼門院の陵がある。大原のバス停か
		ら、三千院へ向かうのとは反対方向に、20分程歩いたところにある。




		建礼門院・平徳子(けんれいもんいん・たいらのとくこ:1155-1213)。
		平家の頂点に立った太政大臣平清盛と、桓武平氏の宗家、堂上平氏の娘、平時子(二位の尼)の娘で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の
		母である。
		久寿2年(1155)誕生。承安元年(1171)12月、後白河法皇の猶子となり、従三位を授かる。入内して女御となり翌承安2年(1172)
		2月、17歳で高倉天皇の中宮となるが、夫の高倉天皇はまだ11歳であった。治承2年(1178)安徳天皇を出産。治承4年(1180)
		高倉天皇が譲位し、翌養和元年(1181)11月25日、高倉院崩御とともに建礼門院の院号を宣下された。




		平清盛は平氏一門では決して主流ではなかったが、保元の乱・平治の乱で武功をたててのし上がり、その後二条天皇と後白河上皇の
		対立を利用して、次第に権力の基盤を確立していく。やがて、仁安2年(1167)清盛は太政大臣になり、翌年は甥に当たる憲仁親王が
		高倉天皇として皇位につき、承安2年(1172)には徳子が高倉天皇の中宮となって、清盛の天下は最高潮に達する。時子の同母弟・平
		時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と言ったのはこの頃である。

 


		後白河帝は「保元の乱」後、二条天皇に譲位して院政をしくが「平治の乱」が勃発し、一時源義朝に囚われの身となった。平清盛に
		よって乱は治まるが、これにより、武家が摂関・天皇をしのぐ実力者として初めて歴史の表舞台に登場する事になる。平家が源氏を
		押さえつけ清盛が権力をふるうが、しかしその後後白河上皇と清盛の関係は冷え切り、平家の専横を危惧する勢力は平家討伐の謀略
		(鹿ヶ谷の陰謀)を図るまでになった。後白河上皇もこれに荷担したが、平重盛の諫言でからくも難を逃れた。しかし重盛の死後そ
		の領地を後白河上皇が没収したため、怒った清盛は後白河上皇を幽閉し、院政はいったん中断する。後白河上皇の幽閉は、反平家勢
		力に蜂起の格好の口実を与えた。治承4年(1180)4月、源三位頼政が後白河帝の第五王子以仁王(もちひとおう)を擁して挙兵し、
		全国の源氏に「平家討伐」の檄を飛ばした。伊豆で源頼朝が、信濃で木曽義仲が、甲斐で武田信義が挙兵した。以後数年に及ぶ、武
		士達による内乱が開始された。

 


		源氏と平氏は北陸と東海で激突、その戦乱のさなかに清盛が没すると戦況は一気に源氏に傾き、もはや平家の命運も尽きようとして
		いた。寿永2(1183)年7月、木曾義仲が京都に入る直前の25日、平家一門は、二位の尼・建礼門院らとともに安徳天皇をいただ
		いて西国へ落ち延びるが、後白河上皇は天皇の京外脱出という異常事態に、高倉天皇の末子、後鳥羽天皇を即位させる。安徳天皇は
		「三種の神器」を持ったまま、皇位を失った。源氏は源義経を中心とする軍勢が一ノ谷、屋島と平氏を打ち破り、文治元年(1185)
		長門国壇ノ浦で源氏軍に敗北するのである。


御陵への石段の両側には民家がある。こんなぎりぎりまで人が住んでいる御陵は初めて見た。


		安徳天皇は二位の尼(祖母)に抱かれて入水し、多くの平家一門も関門海峡に沈んでいった。
		文治元年(1185)3月24日昼過ぎ、平氏の総大将平知盛は女房達に敗戦を告げる。二位の尼は天皇家の三種の神器である草薙の剣
		を腰に帯び、八尺勾玉を脇にはさみ、孫の安徳天皇を抱いて海に飛び込んだ。続いて建礼門院も飛び込み、さらに大納言佐局(平重
		衡の妻)が、三種の神器の最後の一つ八咫鏡を持って飛び込んだ。しかしその時、船に飛び移って来た源氏の武士たちがまだ波間に
		漂って沈みきっていない二人の女を引き上げ、その一人の女が建礼門院であることを知る。救われた建礼門院は京都に護送され、吉
		田の律師実憲の坊で出家、元暦2(1185)5月、京都東山長楽寺で、当寺の阿證房印誓上人(法然上人の高弟)を戒師として仏門に
		入る。法名・真如覚を名のり、時に建礼門院29歳であった。

 


		鎌倉幕府は建礼門院領として平宗盛の旧領地摂津真井・嶋屋荘を贈ったが、やがて十月に女房の一人右京太夫の助言で大原の寂光院
		に庵を結び、平家の菩提を弔うことに生涯を捧げた。後白河法皇が大原を訪れる話は平家物語の「灌頂巻・大原御幸の段」で有名だ
		が、出家の翌年彼女を気遣った後白河上皇が庵を訪れた折り、建礼門院は号泣して涙が止まらなかったと言う。平家物語は、この建
		礼門院の侍女・横笛の悲恋も併せて伝えている。山深い里で、平家一族の冥福をひたすら祈りその波瀾の生涯を閉じた建礼門院は、
		ついに再び歴史の表舞台に登場することはなく、建保元年(1213)12月13日、京都大原寂光院で逝去した。建礼門院は臨終にさ
		いし、阿弥陀仏の御手にかけてある五色の糸の一端を持って念仏を唱えたので、大納言佐の局と阿波内侍とが左右に付き添って、こ
		の世の名残りに声も惜しまず泣き叫んだと言う。念仏の声が弱くなると、西の方に紫雲がたなびき、たとえようもない美しい香りが
		部屋に満ち、来迎の音楽が空に聞こえてくる。そして静かに息を引き取ったと平家物語は伝える。




		建礼門院は寂光院で崩じ、その遺骸は背後の山(今の大原西陵)に葬られたと言うのが定説である。しかし、そうではないと言う説
		もある。平家物語の記す、「女院が大原御幸の後も引続き寂光院に住み、そこで往生を遂げられた」と述べている部分は間違いだと
		言うのである。女院は寂光院から他に転出しそこで崩じたとする。詳細に資料を読み解きそれを論じた学説もあるようであるが、む
		ろん素人の私にはその是非はわからない。しかし悲劇のヒロインのイメージからすれば、京の都へ戻っていくより、この大原の里で
		静かに余生を終わってくれていた方が相応しいような気もする。




		寂光院(建礼門院)

		天台宗で浄土兼学の尼寺。寂光院の名で知られているが、正式には清香山玉泉寺寂光院と言う。聖徳太子が推古2年(594)に、父用明
		天皇の菩提を弔うために創建したものと言われ、本尊は六万体腹竜りの地蔵菩薩で聖徳太子の作と伝えられている。平安時代末期、
		壇の浦の合戦で入水を図った建礼門院が、ここ大原寂光院で隠棲生活を送り、平家物語の「大原御幸」の段でこの寂光院が有名にな
		った。建礼門院に仕えた阿波内侍が、里人の貢ぎ物の夏野菜を一緒に漬け込んだのが京都における「しば漬」の始まりと 伝えられて
		いる。本殿は16〜17世紀、片桐且元が淀君の命により再建したもので、本尊の地蔵菩薩は重要文化財に指定されていた。








		本堂は改築中であった。2000年5月9日午前2時35分、放火により本堂付近から出火、木造こけらぶき平屋約八十二平方mを
		全焼。重要文化財であった本尊の「木造地蔵菩薩立像」と「建礼門院座像」、平家一門の手紙で造られたという「阿波ノ内侍(あわの
		ないし)張り子座像」も焼失した。犯人はまだ捕まっていない。京都府警のHPでは、犯人逮捕につながる情報の提供を呼びかけてい
		る。現在、募った浄財で本堂の復元を実施中なのだ。消失した「木造地蔵菩薩立像」は、最近復元されたと言う。





名物おばさんのガイドを聞き、しばし平家物語の最終章・灌頂巻(かんぢようのまき)の世界に浸る。

 
寂光院の庭の滝

		途中にあった「朧(おぼろ)の清水」という小さな湧き水。建礼門院が京都から寂光院へ移ってきた際、この清水のあたりで日が暮
		れて、自分自身の姿が月光によってこの水溜りに朧に写ったと言われる。

 



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