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第65代 花山天皇陵
紙屋上陵 2001.11.10 京都市北区衣笠北高橋町






				
				第65代 花山(かざん)天皇
				別名: 師貞(もろさだ)・入覚
				父:  冷泉天皇 第1皇子
				母:  藤原懐子(かいし:太政大臣藤原伊尹の娘)
				生没年:安和元年(968)〜寛弘5年(1008)41才
				在位: 永観2年(984)〜寛和2年(986)
				皇后: 
				皇妃: 藤原姚子、藤原ィ子、婉子女王 
				皇子女:清仁親王、昭登親王、深観、覚源、他
				皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				御陵: 紙屋上陵(かみやのほとりのみささぎ:京都府京都市北区衣笠北高橋町)

 


		醍醐天皇から村上天皇にかけての治世は、世に「延喜・天暦の治」と呼ばれ聖代視されるが、これは藤原氏による典型的な貴族政治
		とも言うべき摂関政治に咲いた一種のあだ花のようなものであった。村上天皇を継いだ冷泉・円融天皇はともに藤原師輔(もろすけ)
		の娘を母とし、藤原政治のいわば傍観者であった。花山天皇は藤原懐子を母として円融天皇の後を受け17才で即位したが、積極的に
		自らの手で国政を行おうとしたようだ。在位中は銭貨の流通を図り、荘園の増大を抑制するなど積極的な政治を行った。だが、外戚
		関係のない若い天皇を排して、自らの孫を皇位に着けたがっていた藤原兼家の陰謀に乗せられてしまう。寵愛した女御が身ごもった
		まま死去し嘆いていたのをつけこまれて、皇居から連れ出され騙されて剃髪させられ、出家してしまうのである。京都山科の元慶寺
		で発見された時には既に自ら皇位を捨てて出家されられていたのである。



		藤原一家の「花山天皇・退位大作戦」
		寛和2(986)年6月23日深夜、藤原兼家の次男道兼が言葉巧みに花山天皇を連れ出し元慶寺へ向かう。その頃長男の道隆と3男の
		道綱は、清涼殿に置かれていた神璽・宝剣を皇太子・懐仁親王(兼家の孫)の部屋へ移す。いったんは出家を納得した天皇だったが、
		心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに、自分もともに剃髪・出家するからと花山天皇を説き伏せ剃髪させてしまう。次は道
		兼の番になったが道兼はどこにもいない。花山天皇がだまされたと思った頃には、役者の道兼は、丸坊主になった花山天皇を残して
		藤原家へ帰って来ていた。その頃には、末子の道長が、関白藤原頼忠(兼家の従兄弟)に天皇行方不明の報告をしていた。そこで懐
		仁親王(当時7才)が即位して一条天皇となり、兼家は念願の外祖父となった。藤原一家の、壮大な花山天皇退位オペレーションはこ
		うして大成功に終わったのである。

 


		花山天皇出家の翌日に、兼家は娘の詮子(せんし)が生んだ懐仁(かねひと)親王を一条天皇として即位させてしまう。
		一条天皇は僅か7才、花山天皇は即位後2年足らずの在位だった。兼家は念願の摂政となって一条天皇を後見しながら政治を行い、
		ここに、藤原氏一族の老練、狡猾な全盛時代が始まった。
		その後、兼家の息子道長の詠んだ、「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば」という句はその驕慢さの極みと
		してあまりにも有名だ。




		その後、皇位を追われた花山上皇は熊野へ詣で、那智の山中にこもって千日修行を行ったり、西国三十三ケ所観音霊場巡礼の旅に出
		て、各地で歌を詠んでいる。それが御詠歌のはじまりとも言われ、那智山青岸渡寺は三十三ケ所巡礼の第一番札所となったともいう。

		「古事談」「大鏡」などによれば、花山天皇は安倍晴明とも親交があったとされ、那智山中にこもる花山上皇を守護するために晴明が
		都から那智に移り住んだという伝説もある。花山上皇は優れた歌人でもあり多くの和歌を残している。また女性関係の説話も残されて
		おり、余生は、仏門修行と和歌と女に明け暮れたようである。帰京して再度の熊野詣を企てたが、関白・藤原道長によって阻止され
		断念する。寛弘5年(1008)、41才で崩御した。




		花山法皇は寛弘5年(1008)2月8日、花山院で崩御し、17日には「紙屋川法音寺北」に葬られた(「日本記略」)。陵地につい
		ては後世その所在が不明となり、数カ所の御陵候補地があった。現陵は、もと「菩提塚」と呼ばれる小墳丘であったが、最終的に、
		ここが花山天皇陵と比定された。(「山陵史記」「山陵考」)。
		現陵は一辺14mの正方形で周溝をめぐらしているが、これは元治元年から慶応元年(1864〜1865)にかけての修築後の姿である。 

 


		平安時代における藤原氏の栄達物語は、人間の欲望の極みを描いているという意味ではまさしく物語的であって、今日の視点では、
		とても現世の出来事としては捉えがたいような面がある。しかし貴族社会の均衡は、それらの欲望となりふりかまわぬ陰謀と術策が
		渦巻く中で成立していた事を思えば、これもまた日本の律令政治が辿ってきた道であるし、その延長線上に現代があるとも言える
		のである。藤原家はその後も常に天皇家の傍らに仕えながら、貴族中の貴族として存続し続け、明治期の三条実美・西園寺家を初め、
		孝明天皇皇后、明治天皇皇后、大正天皇皇后らを輩出している。



		御陵から少し南へ歩くと、花山天皇が植えた桜がある平野神社である。季節には満開の桜で賑わう。



		<参考文献>
		『日本古典文学全集20「大鏡」』(小学館)
		『大鏡 全現代語訳』保坂弘司(講談社学術文庫)


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