SOUND:神前式



 

神武天皇の陵を訪ねての初夏の或一日。開けたのか開けぬのかまるで解らない梅雨の
合間。蝉が鳴き出して、日の照りつける暑い一日だった。郷土の大先輩の墓参りである。



	橿原神宮は、東征を終え大和を平定した神武天皇が即位した場所とされるが、皇居が現在の橿原神宮と同じ所かどうかは定
	かでない。「古事記」は「畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にましまして、天(あめ)の下治(したし)らし
	めしき」と伝えるだけで、後は何も記録していない。現在の橿原神宮は明治23年の創建で、白檮原宮はおそらくこの周辺
	にあったのだろうとされる。
	「日本書紀」の記述はもっと詳しく、即位の年月日や、東征に手柄を立てた家臣達の論功行賞にも言及している。それによ
	れば、己未(つちのとひつじ)年(紀元前 662)3月、畝傍山の東南の橿原の地に皇居を建設し始め、2年後の辛酉(かの
	とのとり)年(紀元前 660)の春、正月(むつき)の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ:1日)に完成した橿原宮で
	即位した、とある。

近鉄電車大阪線を八木で乗り換え、橿原神宮前駅で降りる。
駅前の通りを、JAZZのBGMを聞きながら(商店街のスピーカ
ーから流れている。)真っ直ぐ7,8分歩くと橿原神宮の
大きな鳥居に着く。














高い木々の間を抜けていくと拝殿への門にでる。門をくぐると拝殿前も大きな広場である。


広場は文字通り実に広い。上が拝殿である。この奥にご神体を祀るがその建物までは行けない。この拝殿から拝むのである。









拝殿前の広場を突っきって行くと、神武天皇陵へ行く道の門が広場の端に立っている。



深い木立の中を2,3分歩くとイトク古墳に出る。




イトク古墳からは、畝傍山が目の前に見える。畝傍山への登山道もあるが、登ってもこの木々では何も見えまい。



	神武天皇陵は車道に面している。橿原神宮の裏門から木立を抜けて行くとここに出るのだ。1台のホットドッグ屋が、来
	る人もまばらなこの陵の前に止まっていた。




	神武天皇は実在の人物ではない、とする見解が今日の学会の主流である。又、東征も単なる神話であって史実に基づいた
	ものではない、とする考えも昔からある。従来から、「記紀」を研究対象とする場合、神武天皇や東征物語の解釈をめぐ
	っての立場はおおむね以下のようなものであろう。

	1.神武天皇自体は Virtual(虚構、仮想)であっても、物語となった核の人物・史実は存在したとして、その史実を探
	    ろうとするもの
	2.全く机上の空論であるとして、その空論の成立についての過程や方法をさぐろうとするもの。
	3.事跡は後世の史実が反映しており、「記紀」成立の中で、神武天皇も後世の天皇の史実が投影されているとするもの。
	    モデル論とも言う。

	モデル論にも諸説あって、越前から大和を征服したとされる継体天皇、ハツクニシラススメラミコトという、神武天皇と
	同じ名前を持つ崇神天皇、或いは熊野征伐のコースが神武天皇の東征のコースと酷似している天武天皇(大海人皇子)等
	が、神武天皇のモデルとされる。
	又、1.の立場に立てば、神武天皇は九州にあった邪馬台国の卑弥呼の末裔という事になり、その大和征服物語が伝承さ
	れたとする。唯物史観の立場に立った人々の主張は、おおむね2.の意見であった。真実は陵を掘るしかないのかもしれ
	ないが、実はこの神武天皇の陵の位置をめぐっても論争が長い間続いていたのである。現在綏靖(すいぜい)天皇陵とさ
	れている所(橿原市四条町)が神武陵とされていた時期もあり、江戸時代にも貝原益軒、松下見林、本居宣長、竹口英斎、
	蒲生君平などが陵の位置をめぐって説を発表している。結局、現在の陵の位置は、明治天皇の勅裁を仰いで決定されたの
	である。(孝明天皇が勅裁し明治天皇が発布したとの説もある。)


蝉時雨れの中、杉並木を抜けていくと陵の前の鳥居が遠くに見えて来る。


	
	日本書紀では、天皇は紀元前711年に生誕、前585年に127歳で崩御したと伝えている。日向を発った神日本磐余
	彦尊(かんやまといわれひこのみこと:神武天皇)は、宇佐や筑紫を経由して瀬戸内海を東進し難波の浜に上陸しようと
	するが果たさず、地場の長随彦(ながすねひこ)に破れて兄五瀬命(いつせのみこと)を失う。「日の御子等である我ら
	が、日の昇る方角へ攻め入ったからだ」と、難波から紀伊半島を迂回して、熊野から大台ヶ原山中を越えて奈良盆地へ入
	る。そして長随彦を滅ぼし、冒頭の橿原宮での即位となるのである。この東征物語は、古事記・日本書紀ともに同じよう
	な内容を持ち、似た故事を伝えている。

	勿論、寿命127歳からして、この物語が史実そのままであると言う人は少ない。しかし、西から来た武装集団が近畿勢
	と戦って勝利し、何らかの勢力圏を近畿内に確立して、やがてそれが大和朝廷を成立させる源になったという意見は近年
	とみに多くなっている。一部の学者先生の中には、これを戦前への逆戻りだ!とか、皇国史観の復活だ!と目くじらを立
	てる人もいるが、この物語には何らかの史実が含まれているのではないか、と考えた方が諸事象をうまく説明できそうな
	気がする。

	熊野から奈良に至る途上に神武旧跡が数多く点在しているのはなぜなのか? 
	神武東征にまつわる事象や人物にゆかりの場所が現存しているのは、後世の人々が記紀を読んでその旧跡をねつ造してい
	ったのか?
	地名は人名に比べてその由来が残りやすいと言うが、これも誰かが東征の足跡を辿(たど)り、神武ゆかりの地名を付与
	して歩いたのだろうか。とてもそうとは思えない。
	神武東征に似た史実が過去にあり、土地の人々はその記憶を忘れていなかったのだ。語り伝えて子々孫々にその由緒を伝
	承し続けたのだろう。だから、国見丘があり、宇陀(うだ)があり、磯城(しき)があり、各所にヤタガラス神社が残っ
	ているのである。



	
	神武天皇は、大和入りに際して原住民との戦いに追われるが、すべて平定して橿原に即位した後で三輪の大物主神(おお
	ものぬしのかみ)の娘、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を正式な皇后(当時はまだそういう呼び名
	はない)として迎えるのであるが、これは、天津神(あまつかみ:渡来系氏族)がこれ以上の無益な争いをなくすため国
	津神(くにつかみ:縄文・弥生時代を通しての豪族)の娘をめとり、その地での支配権を周りに確定させようとする行為
	だろう。それによって天津神も国津神となって、やがて今日の日本人となれたのである。もっとも、国津神自身も、もと
	もと先の渡来で縄文人と融和していった初期の渡来人たちの可能性も非常に濃厚なので、ますます「原」日本人、すなわ
	ち縄文人の血は薄れていった事だろう。



	
	神武天皇の実在について、今日でも論議はますます盛んである。神武天皇その人の実在は不確かだとしても、それに似た
	事績を行った人物が過去に実在したのだろうと思われる。日本書紀の天武紀に、「壬申の乱」に際し高市の県主許梅(こ
	め)が神懸かりになって、大海人皇子(おおあまのおうじ)軍が神武陵に軍馬・武器を奉納したという記事がある。少な
	くとも、日本書紀の成立した時期(7世紀)にはすでに「神武天皇陵」が存在し、当時にあっては最大の献物「軍備」を
	奉納されるほど、皇祖としての認識が確立していたのである。





実在・非実在、陵はホントにここか、というような議論とは関係なく、
ここに立つと自然に柏手(かしわで)を打ち礼拝してしまう。







	
	【神倭伊波禮毘古】神武天皇 (古事記)

	神倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】與其伊呂兄五瀬命【上伊呂二字以音】二柱、坐高千穗宮而、議云「坐何地者。平聞
	看天下之政。猶思東行、」即自日向發、幸御筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人名宇沙都比古、宇沙都比賣【此十字以音】
	二人、作足一騰宮而獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡〔冠横目脚止〕田宮一年坐。亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁
	理宮、七年坐。【自多下三字以音】亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮、八年坐。故、從其國上幸之時、乘龜甲、爲釣乍、
	打羽擧來人、遇于速汲門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。名宇豆毘古。」又問「汝者知海道乎。」答曰
	「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故、爾指度槁機、引入其御船、即賜名號槁根津日子。【此者倭國造之祖】

	故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古【自登下九字以音】興軍待向以戰。爾
	取所入御船之楯而下立。故、號其地謂楯津。於今者云日下之蓼津也。於是與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古
	之痛矢串。故、爾詔、「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行迴而、背負日以撃期」而、自南
	方迴幸之時、到血沼海洗其御手之血。
	故、謂血沼海也。從其地迴幸、到紀國男之水門而詔、「負賤奴之手乎死。」爲男建而崩。故、號其水門謂男水門也。陵即
	在紀國之竃山也。故、神倭伊波禮毘古命、從其地迴幸、到熊野村之時、大熊髮出入即失。爾神倭伊波禮毘古命nihakani[冠
	攸脚黒]忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏.【遠延二字以音】
	此時、熊野之高倉下【此者人名】齎一横刀、到於天神御子之伏地而、獻之時、天神御子即寤起、詔「長寢乎。」故、受取
	其横刀之時、其熊野山之荒神自皆爲切仆。爾其惑伏御軍、悉寤起之。故、天神御子、問獲其横刀之所由。高倉下答曰、
	「己夢云、天照大神、高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔、『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理祁理。【此十一字以音】
	我之御子等、不平坐良志。【此二字以音】其葦原中國者、專汝所言向之國。故、汝建御雷神可降。』爾答白、『僕雖不降、
	專有平其國之横刀。可降是刀。
	【此刀名云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。】降此刀状者、穿高倉下之倉頂、自其
	墮入。故、阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝取持獻天神御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而
	獻耳。」於是亦、高木大神之命以覺白之、「天神御子、自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今自天遣八咫烏。故、其八咫烏
	引道。從其立後應幸行。」故、隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天神御子問「汝
	者誰也。」答曰「僕者國神。名謂贄持之子。」【此者阿陀之鵜飼之祖】從其地幸行者、生尾人、自井出來。其井有光。爾
	問「汝誰也。」答曰「僕者國神。名謂井氷鹿。」【此者、吉野首等祖也。】即入其山之、亦遇生尾人。此人押分巖而出來。
	爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國神。名謂石押分之子。今聞天神御子幸行。故、參向耳。」【此者、吉野國巣之祖。】
	自其地蹈穿越幸宇陀。故、曰宇陀之穿也。故、爾於宇陀有兄宇迦斯【自宇以下三字以音。下效此】、弟宇迦斯二人。故、
	先遣八咫烏。問二人曰「今天神御子幸行。汝等仕奉乎。」於是兄宇迦斯、以鳴鏑待射返其使。故、其鳴鏑所落之地謂訶夫
	羅前也。將待撃云而聚軍。然不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿内作押機待時、弟宇迦斯先參向、拜曰、「僕兄兄
	宇迦斯、射返天神御子之使、將爲待攻而聚軍、不得聚者、作殿。其内張押機將待取。
	故、參向顯白。」爾大伴連等之祖道臣命、久米直等之祖大久米命二人、召兄宇迦斯罵詈云、「伊賀【此二字以音】所作仕
	奉於大殿内者、意禮【此二字以音】先入、明白其將爲仕奉之状」而、即握横刀之手上、矛由氣【此二字以音】矢刺而、追
	入之時、乃己所作押見打而死。爾即控出斬散。故、其地謂宇陀之血原也。然而其弟宇迦斯之獻大饗者、悉賜其御軍。此時
	歌曰、

			宇陀能多加紀爾 志藝和那波留
			和賀麻都夜 志藝波佐夜良受
			伊須久波斯 久治良佐夜流
			古那美賀 那許波佐婆
			多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥
			宇波那理賀 那許婆佐婆
			伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥
			疊疊【音引】志夜胡志夜 此者伊能碁布曾【此五字以音】
			阿阿【音引】志夜胡志夜 此者嘲咲者也 

	故、其弟宇迦斯【此者宇陀水取等之祖也。】自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲【訓云具毛】八十建在其室待伊那流。
	【此二字以音】故、爾天神御子之命以、饗賜八十建。於是宛八十建、設八十膳夫、毎人佩刀、誨其膳夫等曰、「聞歌之者、
	一時共斬。」故、明將打其土雲之歌曰、

			意佐賀能 意富牟廬夜爾
			比登佐波爾 岐伊理袁理
			比登佐波爾 伊理袁理登母
			美都美都斯 久米能古賀
			久夫都都伊 伊斯都都伊母知
			宇知弖斯夜麻牟
			美都美都斯 久米能古良賀
			久夫都都伊 伊斯都都伊母知
			伊麻宇多婆余良斯

	如此歌而、拔刀一時打殺也。然後將撃登美毘古之時、歌曰、

			美都美都斯 久米能古良賀
			阿波布爾波 賀美良比登母登
			曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖
			宇知弖志夜麻牟

	又歌曰、

			美都美都斯 久米能古良賀
			加岐母登爾 宇惠志波士加美
			久知比比久 和禮波和須禮志
			宇知弖斯夜麻牟 

	又歌曰、

			加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾
			波比母登富呂布 志多陀美能
			伊波比母登富理
			宇知弖志夜麻牟

	又撃兄師木、弟師木之時、御軍暫疲。爾歌曰、

			多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母
			伊由岐麻毛良比 多多加閇婆
			和禮波夜惠奴 	志麻都登理
			宇(上)加比賀登母 伊麻須氣爾許泥

	故、爾邇藝速日命參赴、白於天神御子、「聞天神御子天降坐。故、追參降來。」即獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、
	娶登美毘古之妹、登美夜毘賣、生子、宇麻志麻遲命【此者、物部連、穗積臣、[女采]臣祖也。】故、如此言向平和荒夫琉
	神等【夫琉二字以音】退撥不伏之人等而、坐畝火之白梼原宮、治天下也。
	故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹、名阿比良比賣【自阿以下五字以音】生子、多藝志美美命。次、岐須美美命。二柱坐也。
	然更求爲大后之美人時、大久米命曰、「此間有媛女。是謂神御子。其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女、名勢夜陀多良比賣。
	其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登【此二字
	以音。下效此】爾其美人驚而、立走伊須須岐伎。【此五字以音】乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、即娶其美人、生子、
	名謂富登多多良伊須須岐比賣命。亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。【是者、惡其富登云事後改名也。】故、是以謂神御
	子也。於是七媛女、遊行於高佐士野、【佐士二字以音】伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以
	歌白於天皇曰、

			夜麻登能 多加佐士怒袁
			那那由久 袁登賣杼母
			多禮袁志摩加牟


	爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前、乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、

			賀都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟

	爾大久米命、以天皇之命、詔其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、

			阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米

	爾大久米命、答歌曰、

			袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米

	故、其孃子白之仕奉也。於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。
	【其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。】後其伊
	須氣余理比賣、參入宮内之時、天皇御歌曰、

			阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美
			伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯

	然而阿禮坐之御子名、日子八井命。次神八井耳命。次神沼河耳命。【三柱】故、天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡
	后伊須氣余理比賣之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須氣余理比賣患苦而、以歌令知其御子等、歌曰、

			佐韋賀波用 久毛多知和多理
宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須 又歌曰、 宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流 於是其御子聞知而驚、乃爲將殺當藝志美美之時、神沼河耳命、曰其兄神八井耳命、「那泥、【此二字以音】汝命。持兵入 而、殺當藝志美美。」故、持兵入以將殺之時、手足和那那岐弖【此五字以音】不得殺。故、爾其弟神沼河耳命、乞取其兄 所持之兵、入殺當藝志美美。故、亦稱其御名謂建沼河耳命。 爾神八井命、讓弟建沼河耳命曰、吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故、吾雖兄、不宜爲上。是以汝命爲上、治天下。僕者扶 汝命、爲忌人而仕奉也。故、其日子八井命者【茨田連、手嶋連之祖。】神八井耳命者【意富臣、小子部連、坂合部連、火 君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國 造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣等之祖也。】神沼河耳命者、治天下也。凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、 壹佰參拾漆歳。御陵在畝火山之北方白梼尾上也。
【神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)】神武天皇 ~倭伊波禮毘古の命【伊より下の五字は音を以ちてす】と、其の伊呂兄(いろせ)五瀬(いつせ)の命【上の伊呂の二字 は音を以ちてす】と二柱、高千穗の宮に坐(ま)しまして議(はか)りて、「何地(いずこ)に坐(ま)しまさば、平け く天の下の政(まつりごと)を聞こし看(め)さん。猶(なお)東に行かんと思う」と云いて、即ち日向より發ちて筑紫 に幸御(いでま)しき。故、豐の國の宇沙に到りし時に、其の土人、名は宇沙都比古(うさつひこ)・宇沙都比賣(うさ つひめ)【此の十字は音を以ちてす】の二人、足一騰(あしひとつあがり)の宮を作りて大御饗(おおみあえ)獻(たて まつ)りき。其の地より遷移(めぐ)りて、竺紫(つくし)の岡田の宮に一年坐しましき。また其の國より上り幸(いで ま)して、阿岐(あき)の國の多祁理(たぎり)の宮に七年坐しましき【多より下の三字は音を以ちてす】。また其の國 より遷り上り幸して、吉備の高嶋の宮に八年坐しましき。故、其の國より上り幸しし時に、龜の甲に乘り釣を爲しつつ打 ち羽擧(はぶ)り來る人、速汲(はやすい)の門(と)に遇いき。爾くして喚(よ)び歸(よ)せて、「汝は誰ぞ」と問 いき。答えて曰く、「僕(やつがれ)は國つ~ぞ」。また、「汝は海道を知れるや」と問うに、答えて曰く、「能く知れ り」。また、「從いて仕え奉らんや」と問うに、答えて曰く、「仕え奉らん」。故、爾くして槁機(さお)を指し度して 其の御船に引き入れ、即ち名を賜いて槁根津日子(さおねつひこ)と號(なづ)けき【此は倭(やまと)の國造(くにの みやつこ)の祖(おや】 故、其の國より上り行きし時に、浪速の渡(わたり)を經て青雲の白肩(しらかた)の津に泊(は)てき。此の時に登美 能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)【登より下の九字は音を以ちてす】、軍(いくさ)を興して待ち向いて戰いき。 爾くして御船に入れたる楯を取りて下り立ちき。故、其の地を號けて楯津(たてつ)と謂う、今に至りては日下(くさか) の蓼津(たでつ)と云う。是に登美毘古(とみびこ)と戰いし時に、五瀬の命、御手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし) を負いき。故、爾くして詔りて、「吾は日の~の御子にして、日に向いて戰うは良からず。故、賎(いや)しき奴(やっ こ)が痛手を負う。今よりは行き迴りて背に日を負いて撃たん」と期(ちぎ)りて、南の方より迴り幸しし時に、血沼 (ちぬ)の海に到りて其の御手の血を洗いき。故、血沼の海と謂う。其の地より迴り幸して、紀の國の男(お)の水門 (みなと)に到りて詔らさく、「賎しき奴の手を負いてや死なん」と、男建(おたけ)び爲して崩りき。故、其の水門を 號けて男の水門と謂う。陵(みはか)は即ち紀の國の竃山(かまやま)に在り。 故、~倭伊波禮毘古の命、其の地より迴(めぐ)り幸して熊野の村に到りし時に、大いなる熊、髮(ほのか)に出で入り て即ち失せき。爾くして~倭伊波禮毘古の命、忽(にわか)に遠延(おえ)爲(し)て、及び御軍(みいくさ)、皆遠延 (おえ)て伏せき【遠延(おえ)の二字は音を以ちてす】。此の時に、熊野の高倉下(たかくらじ)【此は人の名】一ふ りの横刀(たち)を齎(も)ちて、天つ~の御子の伏せし地に到りて獻(たてま)つる時に、天つ~の御子、即ち寤(い) ね起きて、「長く寢ねつるか」と詔(の)りき。 故、其の横刀を受け取りし時に、其の熊野の山の荒ぶる~、自から皆切り仆(たお)されき。爾くして、其の惑(おえ) 伏しき御軍、悉く寤ね起きき。 故、天つ~の御子、其の横刀を獲(え)し由を問うに、高倉下、答えて曰く、「己が夢に云う。天照大~・高木の~、二 た柱の~の命(みことのり)以ちて建御雷(たけみかづち)の~を召して、『葦原中國(あしはらのなかつくに)は伊多 玖佐夜藝帝阿理祁理(いたくさやぎてありけり)【此の十一字は音を以ちてす】。我が御子等、平らかならず坐す良志 (らし)【此の二字は音を以ちてす】。其の葦原中國は專ら汝が言向(ことむ)けし國。故、汝、建御雷の~降るべし』 と詔りき。爾くして答えて、『僕、降らずと雖ども、專ら其の國を平げし横刀有り。是の刀降すべし【此の刀の名は佐士 布都(さじふつ)の~と云い、またの名を甕(みか)布都の~と云い、またの名は布都(ふつ)の御魂(みたま)。此の 刀は石上~宮に坐します】。此の刀を降す状(さま)は、高倉下が倉の頂を穿ちて其より墮し入れん。故、阿佐米余玖 (あさめよく)【阿より下の五字は音を以ちてす】汝取り持ちて天つ~の御子に獻れ』と白(もう)しき。故、夢の教え の如くに、旦(あした)に己が倉を見れば、信(まこと)に横刀有り。故、是の横刀を以ちて獻る耳(のみ)」。 是にまた高木の大~の命(みことのり)以ちて、覺(さと)して、「天つ~の御子、此より奧つ方へ便(すなわ)ち入り 幸すこと莫(なか)れ。荒ぶる~、甚(いと)多し。今、天より八咫烏(やたがらす)を遣す。故、其の八咫烏引道(み ちび)かん。其の立てる後より幸行(いでま)すべし」と白しき。 故、其の教え覺しの隨(まにま)に、其の八咫烏の後より幸行せば、吉野の河の河尻に到りし時に、筌(うえ)を作りて 魚を取る人有り。爾くして天つ~の御子、「汝は誰ぞ」と問いき。答えて曰く、「僕は國つ~。名は贄持(にえもつ)の 子と謂う【此は阿陀(あだ)の鵜飼の祖(おや)】」。其の地より幸行せば、尾生(おお)いたる人、井より出で來たり。 其の井に光有り。爾くして、「汝は誰ぞ」と問いき。答えて曰く、「僕は國つ~、名は井氷鹿(いひか)と謂う【此は吉 野の首(おびと)等の祖(おや)】」。即ち其の山に入れば、また尾生いたる人に遇いき。此の人、巖(いわ)を押し分 けて出で來たり。爾くして、「汝は誰ぞ」と問いき。答えて曰く、「僕は國つ~、名は石押分(いわおしわけ)の子と謂 う。今、天つ~の御子、幸行すと聞くが故、に參い向う耳(のみ)【此は吉野の國巣(くず)の祖】」。其の地より蹈み 穿ちて宇陀(うだ)に越え幸しき。故、宇陀の穿(うがち)と曰う。 故、爾くして宇陀に兄宇迦斯(えうかし)【宇より下の三字は音を以ちてす。下、此に效え】弟宇迦斯(おとうかし)の 二人有り。故、先ず八咫烏を遣し二人を問いて曰く、「今、天つ~の御子、幸行す。汝等仕え奉らんや」。是に兄宇迦斯、 鳴鏑(なりかぶら)以ちて其の使を待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちたる地を訶夫羅前(かぶらさき)と謂う。 將に待ち撃たんと云いて軍を聚(あつ)めき。然れども軍を聚むることを得ざれば、仕え奉らんと欺陽(あざむ)きて大 殿(おおとの)を作りて、其の殿内(とのうち)に押機(おし)を作りて待ちし時に、弟宇迦斯先ず參い向いて拜(おろ が)みて曰く、「僕が兄、兄宇迦斯、天つ~の御子の使を射返し、將に待ち攻めんと爲て軍を聚むるに聚め得ざれば、殿 を作りて其の内に押機を張りて將に待取らんとす。故、參い向いて顯(あらわ)し白す」。爾くして大伴の連等の祖、道 (みち)の臣(おみ)の命、久米(くめ)の直(あたい)等の祖、大久米(おおくめ)の命の二人、兄宇迦斯を召して罵 詈(ののし)りて、「伊賀(いが)【此の二字は音を以ちてす】作り仕え奉らん大殿の内には、意禮(おれ)【此の二字 は音を以ちてす】先ず入りて、其の將に仕え奉らんとの状(かたち)を爲て明かし白すべし」と云いき。 即ち横刀の手 上(たがみ)を握り、矛(ほこ)由氣(ゆけ)【此の二字は音を以ちてす】、矢刺(やざし)して追い入れし時に、乃ち 己が作れる押に打たれて死にき。爾くして即ち控き出し斬り散らしき。故、其の地を宇陀の血原と謂う。然して其の弟宇 迦斯が獻れる大饗(おおみあえ)、悉く其の御軍に賜いき。 此の時に歌いて曰く 宇(う)陀(だ)能(の)多(た)加(か)紀(き)爾(に) 志(し)藝(ぎ)和(わ)那(な)波(は)留(る) 和(わ)賀(が)麻(ま)都(つ)夜(や) 志(し)藝(ぎ)波(は)佐(さ)夜(や)良(ら)受(ず) 伊(い)須(す)久(く)波(は)斯(し) 久(く)治(じ)良(ら)佐(さ)夜(や)流(る) 古(こ)那(な)美(み)賀(が) 那(な)許(こ)波(は)佐(さ)婆(ば) 多(た)知(ち)曾(そ)婆(ば)能(の) 微(み)能(の)那(な)祁(け)久(く)袁(を) 許(こ)紀(き)志(し)斐(そ)惠(え)泥(ね) 宇(う)波(は)那(な)理(り)賀(が) 那(な)許(こ)婆(は)佐(さ)婆(ば) 伊(い)知(ち)佐(さ)加(か)紀(き) 微(み)能(の)意(お)富(ほ)祁(け)久(く)袁(を) 許(こ)紀(き)陀(だ)斐(ひ)惠(え)泥(ね) 疊(え)疊(え)【音、引け】 志(し)夜(や)胡(ご)志(し)夜(や) (此は伊(い)能(の)碁(ご)布(ふ)曾(ぞ)) 【此の五字は音を以ちてす】 阿(あ)阿(あ)【音、引け】 志(し)夜(や)胡(ご)志(し)夜(や) (此は嘲咲うぞ) 宇陀の高城に   鴫罠張る   我が待つや   鴫は障らず   いすくはし   鷹等障る   前妻が   肴乞はさば   立ち柧の   実の無けくを   こきし削えね   後妻が   肴乞はさば   厳榊   実の多けくを   こきだ削えね   ええ   しやごしや   (こはいのごふぞ) ああ しやごしや (こはあざわらうぞ)    故、其の弟宇迦斯は【此は宇陀の水取等の祖】。 其の地より幸行(いでま)して忍坂(おしさか)の大室(おおむろ)に到りし時に、尾生えたる土雲(つちぐも)【訓み て具毛(ぐも)と云う】の八十建(やそたける)、其の室に在りて待ち伊(い)那(な)流(る)【此の三字は音を以ち てす】。故、爾くして天つ~の御子の命(みことのり)以ちて饗(あえ)を八十建に賜いき。 是に八十建に宛てて八十 膳夫(やそかしわで)を設(ま)けて人毎に刀を佩けて其の膳夫等に誨(おし)えて曰く、「歌うを聞かば一時共(もろ とも)に斬れ」。 故、其の土雲を將に打たんとするを明かせる歌に曰く、 意(お)佐(さ)賀(か)能(の) 意(お)富(ほ)牟(む)廬(ろ)夜(や)爾(に)   比(ひ)登(と)佐(さ)波(は)爾(に)   岐(き)伊(い)理(り)袁(お)理(り)   比(ひ)登(と)佐(さ)波(は)爾(に)   伊(い)理(り)袁(お)理(り)登(と)母(も)   美(み)都(つ)美(み)都(つ)斯(し)   久(く)米(め)能(の)古(こ)賀(が)   久(く)夫(ぶ)都(つ)都(つ)伊(い)   伊(い)斯(し)都(つ)都(つ)伊(い)母(も)知(ち)   宇(う)知(ち)弖(て)斯(し)夜(や)麻(ま)牟(む)   美(み)都(つ)美(み)都(つ)斯(し)   久(く)米(め)能(の)古(こ)良(ら)賀(が)   久(く)夫(ぶ)都(つ)都(つ)伊(い)   伊(い)斯(し)都(つ)都(つ)伊(い)母(も)知(ち)   伊(い)麻(ま)宇(う)多(た)婆(ば)余(よ)良(ろ)斯(し) 忍坂の   大室屋に   人多に   来入り居り   人多に   入り居りとも   厳々し   久米の子が   頭槌い   石槌い持ち   撃ちてし止まむ   厳々し   久米の子らが   頭槌い   石槌い持ち   今撃たばよろし  如此(かく)歌いて刀を拔きて一時に打ち殺しき。 然くして後に、將に登美毘古を撃たんとする時に歌いて曰く、 美(み)都(つ)美(み)都(つ)斯(し)   久(く)米(め)能(の)古(こ)良(ら)賀(が)   阿(あ)波(は)布(ふ)爾(に)波(は)   賀(か)美(み)良(ら)比(ひ)登(と)母(も)登(と)   曾(そ)泥(ね)賀(が)母(も)登(と)   曾(そ)泥(ね)米(め)都(つ)那(な)藝(ぎ)弖(て)   宇(う)知(ち)弖(て)志(し)夜(や)麻(ま)牟(む) 厳々し   久米の子らが   粟生には   香韮一本   其ねが本   其ね芽認ぎて   撃ちてし止まむ  また歌いて曰く 美(み)都(つ)美(み)都(つ)斯(し) 久(く)米(め)能(の)古(こ)良(ら)賀(が) 加(か)岐(き)母(も)登(と)爾(に) 宇(う)惠(え)志(し)波(は)士(じ)加(か)美(み) 久(く)知(ち)比(ひ)比(ひ)久(く) 和(わ)禮(れ)波(は)和(わ)須(す)禮(れ)士(じ) 宇(う)知(ち)弖(て)斯(し)夜(や)麻(ま)牟(む) 厳々し   久米の子らが   垣本に   植えし山椒   口疼く   我は忘れじ   撃ちてし止まむ    また歌いて曰く   加(か)牟(む)加(か)是(ぜ)能(の)   伊(い)勢(せ)能(の)宇(う)美(み)能(の)   意(お)斐(ひ)志(し)爾(に)   波(は)比(ひ)母(も)登(と)富(ほ)呂(ろ)布(ふ)   志(し)多(た)陀(だ)美(み)能(の)   伊(い)波(は)比(ひ)母(も)登(と)富(ほ)理(り)   宇(う)知(ち)弖(て)志(し)夜(や)麻(ま)牟(む) ~風の   伊勢の海の   大石に   這ひ廻ろふ   細螺の   い這ひ廻り   撃ちてし止まむ  また兄(え)師(し)木(き)・弟(おと)師木を撃つ時に御軍(みいくさ)暫らく疲れき。 爾くして歌いて曰く 多(た)多(た)那(な)米(べ)弖(て) 伊(い)那(な)佐(さ)能(の)夜(や)麻(ま)能(の) 許(こ)能(の)麻(ま)用(よ)母(も)   伊(い)由(ゆ)岐(き)麻(ま)毛(も)良(ら)比(ひ)   多(た)多(た)加(か)閇(へ)婆(ば)   和(わ)禮(れ)波(は)夜(や)惠(え)奴(ぬ)   志(し)麻(ま)都(つ)登(と)理(り)   宇(う)上加(か)比(ひ)賀(が)登(と)母(も)   伊(い)麻(ま)須(す)氣(け)爾(に)許(こ)泥(ね) 盾並べて   伊那佐の山の   木の間よも   い行き目守らひ   戦へば   我はや飢ぬ   島つ鳥   鵜飼が伴   今助けに来ね  故、爾くして邇藝速日(にぎはやひ)の命、參い赴きて、天つ~の御子に、「天つ~の御子、天降り坐すと聞くが故に、 追い參い降り來つ」と白して、即ち天津瑞(あまつしるし)を獻りて仕え奉りき。 故、邇藝速日の命、登美毘古の妹の 登美夜毘賣(とみやびめ)を娶りて生みし子は、宇麻志麻遲(うましまぢ)の命【此は物部の連・穗積の臣・の臣の祖】。 故、如此(かく)荒夫琉(あらまぶる)~等【夫(ぶ)琉(る)の二字は音を以ちてす】を言向け平らげ和(やわ)し、 伏(まつろ)わぬ人等を退け撥いて、畝火(うねび)の白梼原(かしはら)の宮に坐しまして天の下治しめしき。 故、日向に坐しましし時に、阿多(あた)の小椅(おばし)の君の妹、名は阿比良比賣(あひらひめ)【阿より下の五字 は音を以ちてす】を娶りて生みし子は多藝志美美(たぎしみみ)の命、次に岐須美美(きすみみ)の命、二た柱坐しまし き。 然れども更に大后(おおきさき)と爲す美人(おとめ)を求めし時に、大久米の命曰く、「此間(ここ)に媛女 (おとめ)有り。是れ~の御子と謂う。其の~の御子と謂う所以(ゆえ)は、三嶋の湟咋(みぞくい)の女(むすめ)、 名は勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)、其の容姿(かたち)麗美(うるわ)しきが故に、美和の大物主の~、見感でて、 其の美人(おとめ)の大便(くそま)らんと爲(せ)し時に丹塗(にぬり)の矢と化りて其の大便らんと爲し溝より流れ 下り、其の美人の富登(ほと)【此の二字は音を以ちてす。下、此に效え】を突きき。爾くして其の美人、驚きて、立ち 走り伊(い)須(す)須(す)岐(き)伎(き)【此の五字は音を以ちてす】。 乃ち其の矢を將ち來て床の邊に置くに忽ち麗(うるわ)しき壯夫(おとこ)と成りき。 即ち其の美人を娶りて生みし子 は、名を富登多多良伊須須岐比賣(ほとたたらいすすきひめ)の命と謂い、またの名を比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめ たたらいすけよりひめ)【是は其の富(ほ)登(と)と云う事を惡(にく)み後に名を改める也】と謂う。故、是を以ち て~の御子と謂う也」。是に七たりの媛女(おとめ)、高佐士野(たかさじの)【佐(さ)士(じ)の二字は音を以ちて す】に遊び行くに、伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)其の中に在り。 爾くして大久米の命、其の伊須氣余理比賣を見 て、歌を以ちて天皇に白して曰く 夜(や)麻(ま)登(と)能(の)   多(た)加(か)佐(さ)士(じ)怒(の)袁(を)   那(な)那(な)由(ゆ)久(く)   袁(お)登(と)賣(め)杼(ど)母(も)   多(た)禮(れ)袁(を)志(し)摩(ま)加(か)牟(む) 大和の   高佐士野を   七行く   媛女ども   誰をし娶かむ  爾くして伊須氣余理比賣は其の媛女(おとめ)等の前(さき)に立てり。 乃ち天皇、其の媛女等を見て、御心に伊須氣 余理比賣の最も前に立てるを知りて、歌を以ちて答えて曰く 賀(か)都(つ)賀(が)都(つ)母(も)   伊(い)夜(や)佐(さ)岐(き)陀(だ)弖(て)流(る)   延(え)袁(を)斯(し)麻(ま)加(か)牟(む) かつがつも   いや先立てる   兄をし娶かむ  爾くして大久米の命、天皇の命(みことのり)以ちて、其の伊須氣余理比賣に詔りし時に、其の大久米の命の黥(さ)け る利目(とめ)を見て、奇(あや)しと思いて歌いて曰く   阿(あ)米(め)都(つ)都(つ)   知(ち)杼(ど)理(り)麻(ま)斯(し)登(と)登(と)   那(な)杼(ど)佐(さ)祁(け)流(る)斗(と)米(め) あめ鶺鴒   千鳥真鵐   など裂ける利目   爾くして大久米の命、答えて歌いて曰く 袁(お)登(と)賣(め)爾(に)   多(た)陀(だ)爾(に)阿(あ)波(は)牟(む)登(と)   和(わ)加(か)佐(さ)祁(け)流(る)斗(と)米(め) 媛女に   直に逢はむと   我が裂ける利目 故、其の孃子、「仕え奉らん」と白しき。   是に其の伊須氣余理比賣の命の家、狹井河(さいがわ)の上に在り。天皇、其の伊須氣余理比賣の許に幸行して、一宿 (ひとよ)御寢(みね)し坐しき【其の河を佐(さ)韋(い)河と謂いし由は、其の河の邊に山由理(やまゆり)草多に 在り。故、其の山由理草の名を取りて佐韋河と號けき。 山由理草の本の名を佐韋と云う也】。 後に其の伊須氣余理比 賣、宮の内に參い入りし時に、天皇の御歌に曰く 阿(あ)斯(し)波(は)良(ら)能(の)   志(し)祁(ぎ)志(し)岐(き)袁(お)夜(や)邇(に)   須(す)賀(が)多(た)多(た)美(み)   伊(い)夜(や)佐(さ)夜(や)斯(し)岐(き)弖(て)   和(わ)賀(が)布(ふ)多(た)理(り)泥(ね)斯(し) 葦原の   穢しき小屋に   菅畳   いや清敷きて   我が二人寝し 然して阿禮(あれ)坐す御子の名は、日子八井(ひこやい)の命、次に~八井耳(かむやいみみ)の命、次に~沼河耳 (かむぬなかわみみ)の命【三柱】。 故、天皇の崩(かむざ)りし後に、其の庶兄(ままね)當藝志美美(たぎしみみ)の命、其の嫡后(おおきさき)伊須氣 余理比賣を娶りし時に、將に其の三はしらの弟を殺さんとして謀りし間、其の御祖(みおや)伊須氣余理比賣患え苦しみ て、歌を以ちて其の御子等に知らしめて、歌いて曰く、 佐(さ)韋(い)賀(が)波(は)用(よ)   久(く)毛(も)多(た)知(ち)和(わ)多(た)理(り)   宇(う)泥(ね)備(び)夜(や)麻(ま)   許(こ)能(の)波(は)佐(さ)夜(や)藝(ぎ)奴(ぬ)   加(か)是(ぜ)布(ふ)加(か)牟(む)登(と)須(す) 狹井河よ   雲立ち渡り   畝傍山   木の葉さやぎぬ   風吹かむとす また歌いて曰く、 宇(う)泥(ね)備(び)夜(や)麻(ま)   比(ひ)流(る)波(は)久(く)毛(も)登(と)韋(い)   由(ゆ)布(ふ)佐(さ)禮(れ)婆(ば)   加(か)是(ぜ)布(ふ)加(か)牟(む)登(と)曾(ぞ)   許(こ)能(の)波(は)佐(さ)夜(や)牙(げ)流(る) 畝傍山   昼は雲揺い   夕されば   風吹かむとぞ   木の葉さやげる   是に其の御子聞き知りて驚き、乃ち將に當藝志美美(たぎしみみ)を殺さんと爲し時に、~沼河耳(かむぬなかわみみ) の命、其の兄(え)~八井耳(かむやいみみ)の命に曰く、「那泥(なね)【此の二字は音を以ちてす】汝命、兵(つわ もの)を持ち入りて當藝志美美を殺せ」。故、兵を持ち入り以ちて將に殺さんとする時に、手足和(わ)那(な)那(な) 岐(き)弖(て)【此の五字は音を以ちてす】殺すことを得ず。故、爾くして其の弟(おと)~沼河耳の命、其の兄の所 持てる兵を乞い取り、入りて當藝志美美を殺しき。 故、また其の御名を稱えて建沼河耳(たけぬなかわみみ)の命と謂 う。爾くして~八井耳の命、弟建沼河耳の命に讓りて曰く、「吾は仇(あた)を殺すこと能わず。汝命は既に仇を殺すこ とを得つ。 故、吾は兄と雖えども上と爲すこと宜しからず。是を以ちて汝命は上と爲りて天の下治せ。僕は汝命を扶(たす)け、忌 人(いわいびと)と爲して仕え奉まつらん」。故、其の日子八井の命は【茨田(うまらた)の連(むらじ)、手嶋(てし ま)の連の祖(おや)】、~八井耳の命は【意富(おお)の臣、小子部(ちいさこべ)の連、坂合部(さかいべ)の連、 火(ひ)の君(きみ)、大分(おおきだ)の君、阿蘇の君、筑紫の三家(みやけ)の連、雀部(さざきべ)の臣(おみ)、 雀部の造(みやつこ)、小長谷(おはつせ)の造、都(つけ)の直(あたい)、伊余の國造(くにのみやつこ)、科野 (しなの)の國造、道奧石城(みちのくいわき)の國造、常道仲(ひたちなか)の國造、長狹(ながさ)の國造、伊勢の 船木の直、尾張の丹波(にわ)の臣、嶋田の臣等の祖也】。 ~沼河耳の命は天の下治しめしき。   凡そ此の~倭伊波禮毘古の天皇の御年は壹佰參拾漆歳(ももとせあまりみそとせあまりななとせ)。 御陵(みささぎ)は畝火山(うねびやま)の北の方の白梼(かし)の尾の上に在り。






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