【第86代 後堀河(ごほりかわ)天皇】 別名: 茂仁(ゆたひと) 誕生崩御: 建暦2年(1212) 〜 天福2年(1234)(23歳) 在位期間: 承久3年(1221) 〜 貞永元年(1232) 時代: 鎌倉時代 父: 守貞親王(高倉天皇の子) 母: 藤原陳子(北白河院) 皇后: 三条有子、近衛長子、九条貴子、 皇妃: 藤原氏某 皇子女:暉子内親王、秀仁親王(四条天皇)、体子内親王、c子内親王、良子内親王、皇子某、順子内親王 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 観音寺陵(かんおんじのみささぎ:京都府京都市東山区今熊野泉山町:泉涌寺内)
歴代天皇が眠る京都東山の「月の輪陵」の脇を、孝明天皇陵を目指して登っていくと、途中の小高い丘にこの天皇陵がある。一人だけ ポツンと歴代から離れた場所で眠っている。後堀河天皇の息子四条天皇は、崩御に際して父の墓の近くに葬ってくれと遺旨する。それ 以降、この北山の山中は天皇家の墓所となった。
後鳥羽上皇の実兄の子。「承久の変」で後鳥羽上皇一派が佐渡へ流刑された後、11才で鎌倉幕府による推挙で天皇となったが、23才 で生涯を終えるまで幕府の傀儡であった。帝即位の3年後、元仁元年(1224)執権北条義時が62歳で死去し、息子の泰時が執権とな る。泰時と後堀河天皇の在位期間はほぼ重なっている。この頃、親鸞が浄土宗(一向宗)を広め、元仁2年、女傑北条政子死去。69 歳。その年の暮れ(12月)幕府は、評定衆を置く。翌年藤原頼経が将軍となり、摂家将軍の初めとされる。帝は、貞永元年(1232)、 秀仁親王(四条天皇)に譲位し、2年後病没した。
新勅撰集は、後堀河天皇の命により、藤原道家、藤原教実、藤原定家らが、文暦2年完成させた勅撰和歌集である。歌の採択中に後堀 河天皇の譲位、崩御の為一時中断するが文暦2年に完成をみる。歌数は1498首で、収録されている後堀河天皇の歌は、 「山の端を 分出づる月のはつかにも 見てこそ人は 人をこふなれ」