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第9代 開化天皇
2000.Oct.22 奈良市油阪町 春日率川坂本陵






	<第9代開化(かいか)天皇>
	異称: 稚日本根子彦大日日尊(日本書紀)/若倭根子日子大毘毘命(古事記)【わかやまとねこひこおおひひのみこと】
	生没年: 孝元天皇7年 〜開花天皇60年 110歳(日本書紀)
	在位期間  孝元天皇57年〜開化天皇60年 (日本書紀)
	父: 孝元天皇
	母: 穂積臣(ほずみのおみ)の遠祖鬱色雄命(うつしこおのみこと)の妹、鬱色謎命(うつしこめのみこと)【日本書紀】
	   / 内色許男命(うつしこおのみこと)の妹、内色許売命(うつしこめのみこと)【古事記】
	皇后: 伊香色謎命(いかがしこめのみこと)
	皇妃: 丹波竹野媛(たにはのたかのひめ)、姥津媛(ははつひめ)
	皇子皇女: 御間城入彦五十瓊殖尊/御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、彦座王(ひこいますのみこと)
	宮: 「春日率川宮」(かすがのいざかわのみや)
	   奈良市本子守町率川神社付近【元要記】/春日野の東の端にある四恩院付近 との2説あり。
	陵墓: 春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかうえのみささぎ:奈良市油阪町)

 


	父孝元天皇の皇妃で、物部氏の遠祖にあたる伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を皇后としたが、古事記には相当数の皇
4	妃が顔をのぞかせている。この天皇は「欠史八代」のなかでは一番記載が長い(古事記)が、その全編が系統の説明である。
	何とか姫に産ませた子が誰それでという記述が延々と続く。又それらの子達が何々氏の祖先である、という説明も結構ある
	が、勿論検証は不可能である。

 


	この御陵は珍しく市街地のど真ん中にある。近鉄「奈良駅」を降りて、奈良市の商店街を抜けメインストリートを行くと、
	「ホテルフジタ」の横に御陵への道が延びている。

	この天皇までの8代は、その皇居の多くが畝傍山麓から御所を中心とした葛城山麓にあり、活動の範囲もここを拠点に行っ
	ていたものと思われる。葛城王朝説が出現するのも無理からぬ所であるが、全くの造作だとしたら、記紀の編者は相当な力
	量を持った創作家たちだった可能性もある。何しろ、今に至るまで千何百年にわたってその真贋の論議を巻き起こしている
	のであるから、彼らがもしあの世から今の現状を見ていたら、「ヒッヒッヒッ」とほくそ笑んでいるかもしれない




	この天皇の次の天皇、すなわち崇神天皇は、一転して三輪山付近を活動の拠点とした。「ハツクニシラシメス」という異名
	から、この天皇から実在性を認めるのが学会の通説である。江上波夫氏の騎馬民族説によると、この崇神天皇が半島から北
	九州へ渡ってきた「天皇家始祖」という事になり、三王朝交代説を唱えた水野祐氏も、この崇神天皇を天皇家最初の王朝を
	築いた始祖と位置づけている。
	そのような葛城王朝と崇神王朝の狭間にあって、この開化天皇の存在はまことに影が薄いような気がする。もしねつ造され
	たとするならば、この天皇こそが欠史のような気がしてならない。まだ地場の豪族にすぎなかった葛城一族の物語を、無理
	矢理皇祖物語に加え、明らかな皇脈の祖「崇神」との、いわば「つなぎ」として、記紀の編者たちによって創造された天皇
	なのではないだろうか。

 


	ここは珍しく鳥居の前に門がある。私は後5つの天皇陵を訪問すればすべての天皇陵探訪を完了するが、今まで見てきた
	120ほどの御陵の中で、鳥居の全体像がみれなかった御陵はここだけである。




	古事記には、この天皇は63才で崩御し(書記は110歳)、陵は「伊耶河(いざかわ)の坂の上」にあると記述されている
	が、坂の上のようには思えない。古都奈良の秋は、京都と違って落ち着いた雰囲気を醸しだし、随所で秋の終わりを感じる
	ことができる。

 




2004.Sep.20 奈良市もちいいどの通り




	奈良へ行ったとき時間があったので、奈良市の餅飯殿(もちいいどの)町で古本屋をやっている先輩を訪ねていった。JR
	奈良駅から、或いは近鉄奈良駅から「猿沢の池」を目指して商店街のメイン・ストリ−トを歩いていくと、猿沢の池の手前
	で右へはいる小さな路地がある。ここら辺が餅飯殿町で、この通りが餅飯殿通りである。全く変わった名前だが、先輩はこ
	こに古書店を開いている。もう2年近くになるそうだが、52才でゼネコンを辞め、それまで自分で買い集めていた本を元
	にしてこの商売を始めたのだそうだ。我らがふる里、福岡県の甘木・朝倉地方の名を付けた「朝倉文庫」である。ちょっと
	メインストリートからはずれているので、商売としてはちょっとどうかなという気がするが、先輩はあまり人のこない所の
	方がよさそうである。自宅から自転車で5,6分だそうで、訪ねたときは弁当を食っていた。年収はサラリーマン時代の3
	分の1になったと言っていたが、「まぁ、覚悟していたし。」と、今の生活を楽しんでいる風だった。机の上にノートパソ
	コンが置いてあった。



その時、メインストリートにある「開化天皇陵」に寄ってみた。通りは人で溢れているが、ここに寄る人は一人もいない。




	第9代 開化天皇 (古事記)
		
	若倭根子日子大毘毘命 坐春日之伊邪河宮 治天下也
	 此天皇 娶旦波之大縣主 名由碁理之女 竹野比賣 生御子 比古由牟須美命【一柱此王名以音】 又娶庶母伊迦賀色許
	賣命生御子 御眞木入日子印惠命【印惠二字以音】 次御眞津比賣命【二柱】 又娶丸邇臣之祖 日子國意祁都命之妹 意
	祁都比賣命【意祁都三字以音】生御子 日子坐王【一柱】 又娶葛城之垂見宿禰之女 比賣 生御子 建豐波豆羅和氣
	【一柱 自波下五字以音】 比天皇之御子等并五柱【男王四女王一】 故御眞木入日子印惠命者 治天下也 其兄比古由牟
	須美王之子 大筒木垂根王 次讚岐垂根王【二王 讚岐二字以音】此二王之女五柱坐也 次日子坐王 娶山代之荏名津比賣
	亦名苅幡戸辨【此一字以音】生子 大俣王 次小俣王 次士夫美宿禰王【三柱】 又娶春日建國勝戸賣之女 名沙本之大闇
	見戸賣 生子 沙本毘古王 次袁邪本王 次沙本毘賣命 亦名佐波遲比賣【此沙本毘賣命者爲伊久米天皇之后 自沙本毘古
	以下三王名皆以音】 次室毘古王【四柱】 又娶近淡海之御上祝以伊都久【此三字以音】天之御影~之女 息長水依比賣 
	生子 丹波比古多多須美知能宇斯王【此王名以音】 次水穗之眞若王 次~大根王 亦名八爪入日子王 次水穗五百依比賣
	次御井津比賣【五柱】 又娶其母弟袁
	祁都比賣命 生子 山代之大筒木眞若王 次比古意須王 次伊理泥王【三柱此二王名以音】 凡日子坐王之子并十一王 故
	兄大俣王之子 曙立王 次菟上王【二柱】 此曙立王者【伊勢之品遲部君 伊勢之佐那造之祖】 菟上王者【比賣陀君之祖】
		次小俣王者【當麻勾君之祖】 次志夫美宿禰王者【佐佐君之祖也】 次沙本毘古王者【日下部連 甲斐國造之祖】
	次袁邪本王者【葛野之別 近淡海蚊野之別祖也】 次室毘古王者【若狹之耳別之祖】其美知能宇志王 娶丹波之河上之摩須
	郎女 生子 比婆須比賣命 次眞砥野比賣命 次弟比賣命 次朝廷別王【四柱】此朝廷別王者【三川之穗別之祖】 此美知
	能宇斯王之弟 水穗眞若王者【近淡海之安直之祖】 次~大根王者【三野國之本巣國造 長幡部連之祖】
	次山代之大筒木眞若王 娶同母弟伊理泥王之女 丹波能阿治佐波毘賣 生子 迦邇米雷王【迦邇米三字以音】 此王 娶丹
	波之遠津臣之女 名高材比賣 生子 息長宿禰王 此王 娶葛城之高額比賣 生子 息長帶比賣命 次虚空津比賣命 次息
	長日子王【三柱 此王者吉備品遲君 針間阿宗君之祖】 又息長宿禰王 娶河俣稻依毘賣 生子 大多牟坂王【多牟二字以
	音 此者多遲摩國造之祖也】
	上所謂建豐波豆羅和氣王者【道守臣 忍海部造 御名部造 稻羽忍海部 丹波之竹野別 依網之阿毘古等之祖也】
	天皇御年陸拾參歳 御陵在伊邪河之坂上也



	

	(開化天皇)

	若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこおおびび)の命、春日の伊邪河(いざかわ)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇(すめらみこと)、旦波(たには)の大縣主(おおあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)の女(むすめ)、竹野比
	賣(たけのひめ)を娶りて生みし御子は比古由牟須美(ひこゆむすみみ)の命【一柱。此の王(みこ)の名は音を以ちてす】。
	また庶母(ままはは)伊迦賀色許賣(いかがしこめ)の命を娶りて生みし御子は御眞木入日子(みまきいりひこ)印(いに)
	惠(え)の命【印(いに)惠(え)の二字は音を以ちてす】。次に御眞津比賣(みまつひめ)の命【二柱】。
	また丸邇(わに)の臣の祖、日子國(ひこくに)意祁都(おけつ)の命の妹、意祁都比賣(おけつひめ)の命【意(お)祁
	(け)都(つ)の三字は音を以ちてす】を娶りて生みし御子は日子坐(ひこいます)の王【一柱】。
	また葛城の垂見宿禰(たるみのすくね)の女、比賣(わしひめ)を娶りて生みし御子は建豐(たけとよ)波豆羅和氣(はず
	らわけ)【一柱。波より下の五字は音を以ちてす】。比の天皇の御子等は并せて五柱【男王四たり、女王一たり】。
	故、御眞木入日子印惠(みまきいりひこいにえ)の命は天の下治しめしき。 其の兄、比古由牟須美(ひこゆむすみ)の王
	の子は大筒木垂根(おおつつきたりね)の王。次に讚岐の垂根(たりね)の王【二王。讚岐の二字は音を以ちてす】。
	此の二王の女、五柱坐しき。 次に日子坐(ひこいます)の王、山代の荏名津(えなつ)比賣またの名は苅(かり)幡(は
	た)戸辨(とべ)【此の一字は音を以ちてす】を娶りて生みし子は大俣(おおまた)の王(みこ)。次に小俣(おまた)の
	王。次に士夫美(しぶみ)の宿禰の王【三柱】。
	また春日(かすが)の建國(たけくに)勝戸賣(かつとめ)の女、名は沙本(さほ)の大闇見戸賣(おおくらみとめ)を娶
	りて生みし子は沙本毘古(さほびこ)の王。次に袁邪本(おざほ)の王(みこ)。次に沙本毘賣(さほびめ)の命またの名
	は佐波遲(さはぢ)比賣【此の沙本毘賣の命は伊(い)久(く)米(め)の天皇の后(きさき)と爲す。沙本毘古より下の
	三王の名は皆音を以ちてす】。次に室毘古(むろびこ)の王【四柱】。
	また近つ淡海の御上(みかみ)の祝(はふり)が以ち伊都久(いつく)【此の三字は音を以ちてす】天の御影(みかげ)の
	~の女、息長(おきなが)水依(みずより)比賣を娶りて生みし子は丹波(たには)の比古多多須美知能(ひこたたすみち
	の)宇斯(うし)の王【此の王の名は音を以ちてす】。 
	次に水穗の眞若(まわか)の王。 次に~大根(かむおおね)の王またの名は八爪入日子(やつめいりひこ)の王。次に水
	穗の五百依(いほより)比賣。次に御井津(みいつ)比賣【五柱】。また其の母の弟袁祁都(おけつ)比賣の命を娶りて生
	みし子は山代の大筒木(おおつつき)の眞若(まわか)の王。次に比古意須(ひこおす)の王。次に伊理泥(いりね)の王
	【三柱。此の二王の名は音を以ちてす】。凡そ日子坐の王の子は并せて十あまり一王。故、兄(え)大俣(おおまた)の王
	の子、曙立(あけぼのたつ)の王。次に菟上(うなかみ)の王【二柱】。此の曙立の王は【伊勢の品遲部(ほむぢべ)の君、
	伊勢の佐那(さな)の造(みやつこ)の祖】。菟上の王は【比賣陀(ひめだ)の君の祖】。
	次に小俣の王は【當麻(たぎま)の勾(まがり)の君の祖】。次に志夫美(しぶみ)の宿禰の王は【佐佐(ささ)の君の祖
	也】。次に沙本毘古の王は【日下部(くさかべ)の連、甲斐(かひ)の國造の祖】。次に袁邪本(おざほ)の王は【葛野
	(かづの)の別(わけ)、近つ淡海の蚊野(かの)の別の祖】。次に室毘古(むろびこ)の王は【若狹の耳(みみ)の別
	(わけ)の祖】。
	其の美知能宇志(みちのうし)の王、丹波の河上の摩須(ます)の郎女(いらつめ)を娶りて生みし子は比婆須(ひばす)
	比賣の命。次に眞砥野(まとの)比賣の命。次に弟(おと)比賣の命。次に朝廷別(みかどわけ)の王【四柱】。此の朝廷
	別の王は【三川(みかわ)の穗(ほ)の別の祖】。此の美知能宇斯の王の弟、水穗眞若の王は【近つ淡海の安(やす)の直
	(あたい)の祖】。次に~大根の王は【三野(みの)の國の本巣(もとす)の國造、長幡部(ながはたべ)の連の祖】。
	次に山代の大筒木眞若の王、同母弟伊理泥(いりね)の王の女、丹波能(の)阿治佐波(あぢさは)毘賣を娶りて生みし子
	は、迦邇米雷(かにめいかづち)の王【迦(か)邇(に)米(め)の三字は音を以ちてす】。
	此の王、丹波の遠津(とおつ)の臣の女、名は高(たか)材(き)比賣を娶りて生みし子は息長宿禰(おきながすくね)の
	王。此の王、葛城の高(たか)額(ぬか)比賣を娶りて生みし子は息長帶(おきながたらし)比賣の命。次に虚空津(そら
	つ)比賣の命。次に息長日子(おきながひこ)の王【三柱。此の王は吉備の品遲(ほむぢ)の君、針間(はりま)の阿宗
	(あそ)の君の祖】。また息長宿禰の王、河俣(かわまた)稻(いな)依(より)毘賣を娶りて生みし子は大多牟坂(おお
	たむさか)の王【多(た)牟(む)の二字は音を以ちてす。此は多遲摩(たぢま)の國造の祖也】。
	上の所謂(いわゆ)る建豐波豆羅和氣(たけとよはづらわけ)の王は【道守(ちもり)の臣、忍海部(おしぬみべ)の造、
	御名部(みなべ)の造、稻羽の忍海部(おしぬみべ)、丹波の竹野(たかの)の別、依網(よさみ)の阿(あ)毘(び)古
	(こ)等之祖也】。
	天皇の御年は陸拾參歳(むそとせあまりみとせ)。 御陵は伊邪河(いざかわ)の坂の上に在り。






2010.2.10 工事中



仕事で奈良へ行った。帰りにココを通ったら御陵前を全面的に掘り返していた。この商店街は道幅を広げるらしい。




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