Music: Mr.lonely

第47代 淳仁天皇
2001.Feb.12 兵庫県南淡町 淡路陵




 

					【第47代淳仁天皇(じゅんにん)天皇】
					異名: 大炊王(おおいおう)・淡路廃帝
					生没年: 天平5年(733)〜 天平神護元年(765)(33歳)
					在位: 天平宝字2年(758)〜 天平宝字8年(764)
					父:  舎人親王(天武天皇の子)第7子
					母:  当麻山背(たぎまのやましろ)
					皇后: 粟田諸姉(あわたのもろね:はっきり皇后とは記録がない。)
					皇子女: 不明
					皇宮: 平城京(へいじょうきょう:ならのみや:奈良市)
					御陵: 淡路陵(あわじのみささぎ:兵庫県三原郡南淡町賀集)  

 


		近畿圏に御陵のない天皇が3人いる。山口県下関の壇ノ浦に沈んだ「安徳天皇」と、鳥羽上皇によって讃岐(現坂出市)へ流され
		た「憤怒の大魔王・崇徳天皇」、そして淡路島に流された「淳仁(じゅんにん)天皇」である。大正天皇、昭和天皇は除くとして、
		この3人以外の119人(代)の天皇は、全て近畿圏に御陵を持っている。それも滋賀県大津市の「弘文天皇」以外は全て、京都・大
		阪・奈良である。
		2月の三連休、一日は「郷土の文化財を訪ねる会」で南河内の「一須賀古墳群・近つ飛鳥博物館」を訪ね、もう一日は淡路島の
		「淳仁天皇陵」を訪れた。WIFEは「Westin Hotel淡路」のランチを食べたいと言うので、二人で淡路島小旅行を楽しんだ。行きは、
		明石から出ている「淡路たこフェリー」というフェリーに乗って、たった20分の船旅。2,400円。アッという間に淡路島に着いてし
		まう。帰りは明石海峡大橋を渡って、名神をすっ飛ばして返ってきた。






		最後まで生き残った天武天皇の皇子で、唯一長寿(60歳)を全うした「舎人親王」(とねりしんのう:「日本書紀」編纂で有名)
		の第七子。池田王、船王は兄弟。母は当麻氏。藤原朝臣仲麻呂(ふじわらのあそみなかまろ)の長男真従(まより)の未亡人粟田諸
		姉を妻とする。『続日本紀』によれば、立太子以前は妻と共に仲麻呂邸に居住していたとある。天平宝字元年(757)4月、孝謙天皇
		の推挙により25歳で皇太子となり、翌年8月即位し第47代淳仁天皇となる。実際には権勢を誇った仲麻呂の意向により孝謙天皇が
		退位させられたと見る方が一般的。この皇位継承には、橘諸兄を失脚させて絶大な権力を身につけて行く仲麻呂の政治力が働いて
		いたはずである。即位後、皇后・夫人などを立てた記事は見えない。皇子女には斎宮となった山於女王などが伝わる。淳仁天皇は
		仲麻呂を重用し、管制改革・租税軽減・窮民救済などの諸施策を行うが、仲麻呂の専横もあって次第に上皇との仲が悪化する。

 

 



		天平宝字4年6月光明皇太后が崩じ、後ろ盾を失った淳仁天皇・藤原仲麻呂(恵美押勝:えみのおしかつ)連合軍の勢威は蔭りを見
		せ始める。天平宝字5年(761)10月、淳仁天皇・孝謙上皇が保良宮に行幸した際、保良宮滞在中に上皇は病を得、道鏡の呪法によ
		り平癒。以後、上皇と道鏡の仲は親密になり男女の仲になったとも推測され、一部では「孝謙の道鏡狂い」と評される。これが契
		機となってか、天皇と上皇の不和が決定的となり、政務は上皇と天皇の間で二分されるに至った。孝謙上皇は、日常の国務は天皇
		が行い、対外事項など国の方針を決めるような事項については上皇が決定すると、内外に宣言した。




		藤原仲麻呂は、宝字6年(762)2月正一位となり、自邸の敷地内に東西の高楼を構え南門を城楼のようにするなど、皇宮に対抗しよ
		うとした。この無道に憂憤した藤原宿奈麻呂は、佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持らと謀って押勝暗殺を計画するが発覚し、懲罰
		を受ける。宝字6年(762)、孝謙上皇は宣命で淳仁天皇の非礼を非難し出家を宣言、「孝謙上皇・道鏡」対「淳仁天皇・押勝」の対
		立は激化する。
		孝謙上皇の道鏡重用は度を外し、ついに道鏡は天皇の位をねらうまでになったと伝えられる。宝字8(764)年9月、押勝は道鏡を退け
		るよう進言するが、上皇は押勝が謀反を計画したとしてこれを征伐。藤原仲麻呂は首を斬られる。【恵美押勝の乱】孝謙はこの直
		後、藤原豊成を右大臣に再任、道鏡を大臣禅師に任命し、自らは再祚して称徳天皇となる。

 



 

		淳仁天皇は、恵美押勝の乱の直後、孝謙上皇に対する謀反を理由に天皇を廃され、淡路に幽閉される。翌年の天平神護元年(765
		年)10月、逃亡を計って捕えられ、その翌日変死。薨年33才。天皇を廃された後は淡路廃帝・淡路公などと称され、「淳仁天
		皇」の諡号を追贈されたのは、明治政府によってである。ちなみに「廃帝」と呼ばれるのは、歴代の天皇の中では淳仁天皇と第85
		代の仲恭天皇の二人のみである。『続日本紀』に残る淳仁天皇崩御の記事は以下。

		「天平神護元年十月庚辰、淡路公、幽慎ニタエズ垣ヲコエテ逃グ。守佐伯宿禰助、接高屋連 並木等、兵ヲ率イテコレヲサエギル。
		公、還リテ明日院中に於テ甍ズ」

		御陵は淡路島の最南端「南淡町」にあり、隣の「三原町」には幽閉地の跡という「野辺の宮」、淳仁天皇の菩提寺と伝えられる
		「宝積寺」が残っている。しかし淡路島には、後で見て頂くように、ここが実際の天皇埋葬場所だという所が数ヶ所ある。これは、
		天皇の死が通常の死ではなかった事を想像させ、皇室における激しい権力抗争を窺わせるのである。



野辺の宮

 

 



琵琶湖の北、滋賀県西浅井郡菅浦の須賀神社は淳仁天皇を合祀する。同地には淳仁天皇の菩提寺と伝える長福寺跡があり、天皇の墓と称する供養塔もある。



宝積寺





 



以下は、奈良の赤土(しゃくど)さんが訪問して送って来てくれた「大炊神社」の写真(2003.9.6)。








		【藤原朝臣仲麻呂(ふじわらのあそみなかまろ)】
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		生没年、706(慶雲3)〜764(天平宝字8) 。758(天平宝字2)年以後、藤原恵美朝臣押勝の名前を賜る。『藤氏家伝』の編集、『日
		本書紀』に次ぐ史書『続日本紀』、及び『氏族志』(新撰姓氏録に引き継がれる諸氏の系譜書等の編纂にも着手。「万葉集」に
		も、幾つかの歌が収録されている。


		宇佐八幡神託事件(769)
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		弓削道鏡は、称徳天皇が道鏡のために新設した「法王」という地位を得て、行政の頂点に登りつめる。天皇は子供がなかったた
		め、後継者として道鏡を考えるが、しかし道鏡が皇統の血を引いていないのは明白で、常識的に考えるとこれは不可能なことだ
		った。しかしこの時、宇佐八幡の神が「道鏡を天皇にすると国家は安泰になるであろう」というお告げを出した、という噂が流
		れてくる。宇佐八幡を管理していた九州太宰府の長官は道鏡の弟だったので、この噂を流したのはこの弟であろうと考えられて
		いるが、称徳天皇はその噂の確認のため、腹心の部下である和気広虫(わけのひろむし)の弟、清麻呂(きよまろ)を宇佐へ派
		遣してその神託を確認させようとした。帰京した清麻呂の言葉は天皇を激怒させた。それは、「古えより、天皇と臣下の別は明
		確である。臣をもって君に代えることはできない。」というものだった。
		怒った称徳天皇は清麻呂と姉の広虫を配流するが、いかに天皇と言えども神託をくつがえすことはできず、失意の天皇は翌年病
		没。ここに推古天皇以来の180年間に及んだ女帝の時代が終わり、奈良時代も終焉を迎えることになる。
		称徳天皇の後は、天皇の姉・井上内親王の夫である白壁王が藤原永手の強力な後押しにより新天皇となる(光仁天皇)。道鏡は
		下総へ左遷され、和気清麻呂は流刑地から呼び戻されて復権し、以後天皇家断絶の危機を救った英雄として重用される。道鏡の
		天皇即位を阻んだ功績により、昭和初期まで「皇国の忠臣」としてもてはやされ、紙幣の肖像画にまでなっていた。








		帰りに明石海峡大橋のサービスインに入った。ここを通るときは必ず立ち寄る。「明石のたこメシ」や「淡路灰わかめ」などの
		おみやげを買うのと、うまいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店があるからだ。海峡を通る商船を見ながらお茶を飲んでいると、
		ハイファイセットの歌を思い出す。「ソーダ水の中ぉ〜、貨物船がぁ、通る〜」。

 

10年乗ったゴルフを北海道の娘にやったので、新しく買ったプジョーで試し乗り。なかなか快適なドライブだった。

 




		2001.11.4 再び淡路島へ行った。WIFEの友人が博多から来阪して、一宮町にある「伊弉諾神宮」(いざなぎじんぐう)に行きたいと言う。
		前日もwifeと大阪・京都の神社巡りをして今日は淡路島だ。実は彼女は博多で神主になろうとしているのである。三重の皇學館大學で
		その為の資格を取り、なんと神社を建立するという。勿論結婚していて、旦那は公務員だが息子は出雲大社の神主である。
		母子で神社を建てようとしているらしい。驚いてしまう。
		さてそれはさておき、「伊弉諾神宮」見学中に、現地に第47代淳仁天皇の墓があるという話を聞いた。宮内庁が定めたこの天皇の陵は、
		淡路島南端の南淡町にあるので、ここは「伝」淳仁天皇陵である。「伊弉諾神宮」の神主さんからその由来を伺ったが、真相は不明である。
		神主さんも、「まぁ、伝承ですからねぇ。私自身は、あそこは「XXXXXX」の墓だと思ってるんですが。」との事だった。
		〔 XXXXXX の部分は私の知らない人物(淡路島に関係した大和朝廷の人物らしい)名前だった。〕


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