SOUND:Across the Universe

第34代 舒明天皇陵
押坂内陵 2001.12.22






		【舒明(じょめい)天皇】

		異名: 田村皇子(たむらみこ)、息長足日広額尊(おきながたらしひひろぬかのみこと)
		生没年: 推古天皇元年(593)〜 舒明天皇13年(641)10月9日(49才)
		在位: 舒明元年(629)1月4日 〜 舒明天皇13年(641)10月9日
		時代: 飛鳥時代
		父:  押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえ:敏達天皇の皇子)
		母:  糠手姫皇女(ぬかでひめ:押坂彦人大兄皇子の異母妹)
		皇后: 宝皇女(たからひめ:皇極天皇・斉明天皇)
		皇妃: 田眼皇女、蘇我法提郎媛、粟田香櫛娘、蘇我手杯娘、蚊屋采女姉子  
		皇女子: 古人大兄皇子、葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇)、
			蚊屋皇子、布敷皇子、押坂錦向皇女、箭田皇女  
		宮居:  飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや:奈良県高市郡明日香村)、
		    田中宮(たなかのみや奈良県橿原市畝傍町)、厩坂宮(うまやさかのみや:奈良県橿原市大軽町)、
		    百済宮(くだらのみや……奈良県北葛城郡広陵町百済) 
		御陵: 押坂内陵(おさかうちのみささぎ:奈良県桜井市大字忍阪)

 


		インターネットから出力した地図を片手に奈良の桜井を目指した。JR桜井駅から南へ1.5km、忍ぶ坂と書いて「おしざか」とい
		う。先月行った「大宇陀」のちょうど真西にあたり、さらに西へ行けば葛城山の麓「御所:ごせ」を経て、大和三山に囲まれた飛
		鳥の郷に至る。

 

 


		推古天皇は聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子・摂政として政務にあたらせる。数々の善政を行ったとされる聖徳太子は、ついに天皇と
		なることなく49才で世を去るが、推古天皇はその後馬子の死も看取り、75才で崩御するまでさらに6年在位した。通常なら、推古天皇
		の死後は聖徳太子が後を継ぐのが順当だが、太子は皇太子のまま推古天皇より先に死んでしまっている。後継者としては、聖徳太子
		の子供である山背皇子(やましろのおうじ:大兄)と、敏達天皇の孫である田村皇子(たむらのおうじ)の二人が候補者だった。
		しかし、推古天皇はそのどちらを後継者にするとも決めぬまま崩御してしまうのである。

 


		死期の迫った女帝は、孫の田村皇子(後、舒明天皇)を枕元に呼び、皇位に就くことの困難さを説き、謹んで物事をよく見通すように
		諭した。同様に聖徳太子の子、山背大兄(やましろのおおえ)にはよく人の意見を聞くように忠告したが、ついに後継者を明言するこ
		とはなかった。その為両者はそれぞれが正統性を主張し、群臣たちも二派に別れる事になる。




		山背大兄皇子は、聖徳太子と刀自古郎女(とじこのいらつめ)の間に生まれ、推古天皇の皇位を継承する最有力者と目されていた。
		しかし、山背皇子を押す蘇我(境部)摩理勢が蘇我毛人大臣と対立して殺害されると(629年1月4日)、蘇我蝦夷・群臣達は一気に田村
		皇子擁立に傾き田村皇子が即日、舒明天皇として即位するのである。だが彼は蘇我の血統からは離れた天皇であった為、影響力を行使
		しにくいと考えた蘇我一族は、蘇我稲目の血を引く皇女・宝皇女を皇后に付ける。後の皇極天皇(斉明天皇)である。彼らの間には、
		二人の息子(後の天智天皇,天武天皇)と一人の娘(後の孝徳天皇妃)が誕生した。

 




		日本書紀によれば、舒明天皇の在位中に初めて遣唐使が派遣されたり(630年2月、犬上御田鍬を唐に派遣)、学問僧が帰国したりして
		(640年10月、留学生高向玄理、南淵請安帰国)、聖徳太子が進めた仏教文化移入が大い拡大した時代である。生前、聖徳太子は山背大
		兄ではなく田村皇子に、「熊凝(くまごり)村の道場を授けるので、立派な寺にするように。」と遺言したという記事が、奈良の大安
		寺の資財帳に残っているそうである。日本書紀にも、舒明記に「639年百済川のほとりに百済宮を作り、九重の塔を建てた。」という記
		事や、「641年百済宮で崩御し、宮の北に殯宮(もがりのみや)を設けた。これを百済の大殯(おおもがり)という。」等の記述が見え
		る。




		舒明天皇は、641年に百済宮で崩御し、滑谷間岡(なめはさまおか)に葬られたが、643年に大和朝倉の忍阪(おしざか)の押坂陵に改
		葬された。この陵は、横穴式石室をもつ上円下方墳で、下方部三段、上円部は二段と記録されている。 

 


		舒明天皇の崩御後、山背大兄皇子に人望が集まると蘇我入鹿はこれを排除しようとする。幾度か攻撃を加え、皇子は一度は攻め手を退
		けたものの、結局、皇極2年11月、家族と斑鳩の地で自害する。この時入鹿の父蝦夷は、息子の挙行を知って大いに心配したという。
		すでに乙巳の変(大化改新)の来ることが予感出来ていたのかもしれない。

 


		ここから真北へ進むと桜井、天理を経て奈良へ至る。この後崇峻天皇陵を見て奈良の光仁天皇陵、太安万侶の墓と廻ったのだが、ここ
		で少し雨が降り出して、WIFEがピクニック気分で作ってきたサンドイッチとコーヒーを、御陵に背を向けてプジョーの中で食べる事に
		した。途中止んだり降ったりしていた雨は、奈良に入って小さな雪となり、太安万侶の墓を見ているときだけ猛烈な吹雪になった。
		太安万侶の墓から降りてきたとたん、ピタリと雪は止んで大阪へ戻ると晴れていた。







邪馬台国大研究/ 古代天皇陵 / 舒明天皇陵