神功皇后は別名を息長帯比売(おきながたらしひめ:古事記)と言う。古代には、息長(おきなが)という名前の付いた皇族が何人も 出現する。注意して「記紀」を読むと、この名前の付いた人が結構登場するのだ。これは一体何を意味しているのだろうか? 滋賀県 に今も息長という地名の残る場所があり、ここに息長氏が隆盛を誇っていたという説がある。滋賀・京都南部から奈良北部・大阪東部 にかけてこの息長氏の勢力圏は広がっており、継体天皇の大和入りを助けたのはこの一族だという説もある。神功皇后もこの一族の出 身だという意見もあるが、また反面、そのあまりに超人的な行動や、神懸かり的な故事の故に、神功皇后は実在の人物ではないという 意見も結構根強い。直木孝次郎氏は、神功皇后物語は新しく七世紀後半に成立したとしている。
記紀の伝えるところによれば、
仲哀天皇・神功皇后は熊襲征伐のため九州に赴いていた。一行が筑紫の香椎の宮に居るとき、神懸(かみがか)った神功皇后に建内宿禰 が神託を問うと、「西に国がある。金銀をはじめ輝くような財宝がその国にある。今その国をお前にやろうと仰せになった。」だが夫の 仲哀天皇は、「高いところにのぼっても国は見えない。ただ大海原が広がっているだけだ。」と答えてこの神託を信じなかった。引いて いた琴を止めておし黙った天皇に対して神々は怒った。建内宿禰は恐れて天皇に「琴をお引き下さい」と進言した。天皇はしぶしぶ引い ていたがやがて琴の音がとまり、そのまま仲哀天皇は崩御した。 (日本書紀は、一書に曰くとして、仲哀天皇は矢で腹を射抜かれ絶命したという伝承があることを紹介している。ここから、仲哀天皇は 熊襲との戦いの最中、戦乱の中で戦死したのだという説もある。) 御大葬の時、建内宿禰が神託を問うと神は、「この国は今皇后の腹の中に居る御子が治める国である」と答え、子供は男の子であると告 げた。そこで建内宿禰は「今お教えになっている貴方は何という神様ですか」と聞いた。神が答えるに、「これは天照大神の御心である。 神は、底筒の男、中筒の男、上筒の男である。西の国を求めるならば、天地の神、山の神、海河の神を奉り、我が御魂を船の上に祭り、 木の灰を籠に入れ、箸と皿を沢山作って全て海の上に散らし浮かべて渡っていくが良い」と答えた。 上記部分からは、これはまさしく我が国「神道」の基本理念ではないかと思える。まさに汎神論の世界である。
この後も皇后は神の神託を求め、それに従って行動した様が記紀に記録されている。 小山田邑(おやまだむら)に斎宮(いつきのみや)を作らせ、自ら神主となって神託を聞く。神の教えに従って神々を祀り、吉備臣の 祖、鴨別(かものわけ)を使わして熊襲を滅ぼし服従させた。また筑前国夜須郡秋月庄(あきづきのしょう)荷持田村(のとりたのふ れ)を根城にして暴れ廻る「羽白熊鷲」(はじろくまわし)は、朝廷の命は聞かず民衆を脅かしてばかりいたので、皇后は兵を差し向 けこれを討つ。神懸かりした皇后軍の前に、さしもの熊鷲も屈伏した。
この故事の舞台は、実は私の故郷である。 荷持田村(のとりたのふれ)は今、福岡県甘木市大字野鳥となっていて、小学・中学時代の友人は今もここに住んでいる。私の卒業し た秋月小学校も野鳥(のとり)にあった。子供の頃この話を聞いて、「羽白熊鷲」(はじろくまわし)という名前のおどろおどろした 印象とは裏腹に、話自体には全く現実味を感じなかった。故郷の故事が日本書紀に載っている事にも、さしたる感動も覚えなかったが、 今になってみると、どうしてこのような事象が我が故郷に残っているのかに俄然興味を惹かれている。 「古処山」(こしょさん)という、近在では一番高い山(864m)を根城にしていたという、この「羽白熊鷲」なる人物はいったいいか なる素性の人間だったのか? どこから来たのだろう? 書記に載るくらいだから、もし実在していたのなら相当な蛮族だっただろう し、この譚が架空の物語だとしたら、何故山峡の小さな町である我が故郷が、日本書紀の編者の目にとまったのだろうか? 全く、「謎が謎を呼ぶ古代史」(黒岩重吾)である。
この後「記紀」は、神功皇后が魚の力を借りて朝鮮半島に渡り新羅・百済の国を治める事になったと記し、「底筒の男、中筒の男、上 筒の男」を祭ってそれが住吉大社になったと記録する。さらに帰国後筑紫で誉田別命(ほんだわけのみこと)を産み、それ故その地を 「宇美」と呼ぶようになったと記録している。神話的な要素の濃い説話の故に、この話そのものは後世の造作であり、朝鮮遠征そのも のも実在しなかった逸話だとされ、ひいては神武皇后非実在説へ発展している。 非実在・実在説の真贋については現在決着は着いていない。わからないのである。しかし住吉大社の縁起や、宇美町の実在等を考える に、何かそれに類似した故事があったのではないかと思えてくる。 また、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)は、実は神功皇后と建内宿禰の子供であると言う説もある。
日本書紀の記すところによれば、神功皇后は「摂政」という後の世の制度を与えられ、ほぼ天皇に近い扱いを受けている。実際天皇だ ったという説を唱える学者もいる。また暗に皇后を魏志倭人伝に言う「卑弥呼」だと匂わせているが、書記の編者には、卑弥呼に該当 する日本史上の女帝が神功皇后以外には思い浮かばなかったのだろうと思われる。新井白石以後、この書記の内容を受けて「神功皇后 =卑弥呼」説を唱える論者は多い。現代でもその説を唱える人がいる。しかし、その記述内容から見ても、この説は無理があるようだ。 神功皇后は、摂政69年を経て100歳で没し、「狭城盾列池上陵」(さきのたたなみのみささぎ:現奈良市山陵町)に葬られたと書 記は記録している。
神功皇后陵:宮内庁が立ち入り調査許可 考古学協会に通達 毎日新聞 2008年1月18日 2時30分 立ち入り調査が認められた神功皇后陵(五社神古墳)=奈良市山陵町で、本社ヘリから森園道子撮影 神功皇后陵の位置 宮内庁は17日、古墳時代のものとされる奈良市の神功(じんぐう)皇后陵(五社神(ごさし)古墳)の立ち入り調査を許可する ことを決め、日本考古学協会に通達した。陵墓への立ち入り調査は、宮内庁が補修工事を行う際の見学は認めてきたが、学会側要望 を受けた許可は初めて。今後、他の陵墓の立ち入り調査についても申請があれば検討し認めていく方針だ。 神功皇后陵は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の妻が葬られたとされ、全長約275メートルの前方後円墳。4世紀後半から5世 紀初めに造られたと考えられている。宮内庁によると、立ち入りを認めるのは1段目の平らな部分までで、撮影は可能だが、発掘は できない。調査は2月中旬ごろになる見通し。 歴代天皇や皇族を埋葬した陵墓について、宮内庁は「御霊(みたま)の安寧と静謐(せいひつ)を守るため」などとして学術調査 を認めてこなかった。 しかし、79年から年1回ペースで、宮内庁が補修時に行う発掘調査を学会などに見学させてきたことや、過去のこうした調査で 安全性から立ち入りを認めたことがある−−などから、昨年1月に陵墓管理に関する内規を変え、研究テーマを問わず申請があれば 審査の上、調査を受け入れるよう方針転換した。 同協会理事の高橋浩二・富山大准教授は「調査範囲が限定されているとはいえ、大きな一歩と考えている。今後も他の陵墓の公開 を申請していきたい」と話している。【真鍋光之】 ▽陵墓 宮内庁は歴代の天皇、皇后、皇太后らを埋葬した場所を「陵」、それ以外の皇族は「墓」としている。近畿地方を中心に、 1都2府30県に陵188基、墓552基がある。形状は時代によって異なり、前方後円墳、石塔などさまざま。陵墓の可能性があ る「陵墓参考地」を合わせると、全国で458カ所、計896基になる。仁徳天皇陵とされる大山古墳(堺市)は面積46万4000 平方メートルで最大規模の前方後円墳。 神功皇后陵:22日に調査 宮内庁は15日、奈良市の神功(じんぐう)皇后陵(五社神(ごさし)古墳)の立ち入り調査を22日に行うと発表した。すでに 考古学者の組織、日本考古学協会など歴史系の16学会に調査の許可を通達。これまでは同庁が陵墓を補修する際、考古学関係者に 見学の形で認めていたが、学会側の要望を受けた立ち入りの許可は初めて。 同陵は、全長約275メートルの前方後円墳で、4世紀後半から5世紀初めに造られたとされる。調査対象は、墳丘部分の最下段 の巡回路で、各学会の研究者計16人が参加の見込み。【大久保和夫】 毎日新聞 2008年2月16日 中部朝刊 神功皇后陵:立ち入り調査 陵墓研究へ一歩 専門家、将来の「発掘」に期待 陵墓研究の重い扉がようやく開いた−−。奈良市の神功(じんぐう)皇后陵(五社神(ごさし)古墳)で22日、初めて実現した 考古学・歴史学の学会関係者の立ち入り調査。研究者からは「陵墓が文化財と認識されてきた証拠」「今後の発掘調査につながる」 などの歓迎の声が上がった。 今回の調査は、発掘を伴わず、墳丘1段目の平らな部分までに制限されている。しかし、今尾文昭・奈良県立橿原考古学研究所総 括研究員は「実績を積み重ねていくことが大事」と意義を強調する。 日本考古学協会理事で陵墓担当の高橋浩二・富山大准教授も歓迎。「制限があっても調査できること自体が重要で、公開調査を認 めるのは、宮内庁が陵墓を文化財と認識し始めた証拠だ」と話す。 陵墓は古事記、日本書紀などの文献を基に、江戸時代末期から明治時代に指定された。学会が05年、立ち入り調査を要望した陵 墓の中には、日本最古の巨大前方後円墳で卑弥呼の墓の説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)や、日本最大の前方後円墳 ・仁徳天皇陵(堺市)がある。実現すれば古代史の研究に大きな成果となる可能性がある。 「今回、成果はあまり期待できない。だから立ち入り調査しただけで満足してはいけない」と話すのは、「天皇陵の近代史」の著 書がある外池昇・成城大非常勤講師(日本文化史)。「これまでの宮内庁の陵墓の発掘調査は不十分なものが多い。陵墓を管理する 宮内庁自身が責任を持って発掘調査すべきだ」と指摘する。【大森顕浩】 毎日新聞 2008年2月22日 大阪夕刊 神功皇后陵:考古学者らの要望で初の立ち入り調査 考古学や歴史学の研究者が調査する神功皇后陵=奈良市山陵町で2008年2月22日午前10時35分、本社ヘリから懸尾公治撮影 「神功皇后陵」に立ち入る研究者=奈良市山陵町で2008年2月22日午後0時57分、三村政司撮影 宮内庁が管理する神功(じんぐう)皇后陵(奈良市、五社神=ごさし=古墳)で22日、日本考古学協会ら考古学・歴史学関係の16 学会の代表が立ち入り調査をした。宮内庁は、改修工事に伴う発掘調査に限り研究者の見学を認めてきたが、学会側の要望を受けた立 ち入り調査は初めて。古代史解明に欠かせない陵墓研究にとって重要な一歩で、同庁は今後も許可申請があれば審査し、陵墓立ち入り を認める方針という。 神功皇后陵は、4世紀末〜5世紀初めに造られたとされる全長約275メートルの前方後円墳。第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の 妻、神功皇后の墓として宮内庁の管理下にある。 代表16人は午後1時に立ち入り、墳丘1段目の平らな部分を約2時間半調査した。発掘は許可されず、ふき石や埴輪(はにわ)片 の残存状況、墳丘すそ部などを目視で確認、写真撮影をした。 調査後、近くの施設で同庁の推定復元図が検討された。学会の調査結果は4月5日午後1時から奈良市の県文化会館で開くシンポジ ウムで報告される。【大森顕浩】 毎日新聞 2008年2月22日 19時21分 (最終更新時間 2月22日 19時36分) 神功皇后陵:初の立ち入り調査 前方後円墳の特徴がよく残っていると評価 /奈良 ◇築造時期、新しくなる可能性も「国民に広く公開を」 宮内庁が管理する神功(じんぐう)皇后陵(奈良市)で22日、初めての立ち入り調査をした考古学・歴史学学会の研究者は、調査 後の検討会で、陵墓として厳重に管理されたため、前方後円墳の特徴がよく残っていることを評価した。【大森顕浩】 「大切に保存され、行き届いた手入れを続けてきた宮内庁に敬意を表したい」。調査終了後、西谷正・日本考古学協会長はそう感想 を述べた。日本考古学協会の理事で陵墓担当の高橋浩二・富山大准教授は「段丘構造の残りもよかった。200メートル級の古墳はさ すがに大きいなあと思った」と話した。 神功皇后陵は宮内庁が03年度に発掘や測量調査を行い、前方部3段、後円部4段の段丘構造の推定復元図を作成している。検討会 では、現状の墳丘より前方部の幅が広がる可能性が指摘された。 今尾文昭・県立橿原考古学研究所総括研究員は「築造時期が新しくなる可能性が高いことも確認された。これまで佐紀盾列(さきた てなみ)古墳群の西側にある古墳の中では最古とされてきたのが、そうでなくなるだろう」とした。 立ち入り調査の意義について、調査に参加した森岡秀人・芦屋市教委文化財担当主査は「私は高松塚古墳の発掘に携わったが、高松 塚古墳も陵墓も、長い間、国民に対して非公開という点では同じだった。学会による立ち入り調査を進め、今後は国民に広く公開でき るようなれば」と話した。 毎日新聞 2008年2月23日 神功皇后陵:16学会代表が立ち入り調査 構造「宮内庁の復元図通り」 宮内庁が管理する神功(じんぐう)皇后陵(奈良市、五社神(ごさし)古墳)で22日、初の立ち入り調査を実施した日本考古学協 会など考古学・歴史学関係の16学会の代表は、古墳の構造が宮内庁の推定復元図通りだった点や、円筒埴輪(はにわ)列を新たに確 認した。 約2時間半かけて陵墓の周囲を一周し、円筒埴輪列は、墳丘すそ部で見つけた。今尾文昭・奈良県立橿原考古学研究所総括研究員は 「宮内庁の発掘調査結果を検証したが、ほぼその通りだった。円筒埴輪列などから、4世紀末〜5世紀初めとされた築造時期も、やや 新しくなるのではないか」と推測した。 西谷正・日本考古学協会長は調査後の会見で、「非常に良好な形で当時の典型的な前方後円墳の形が残っているのが確かめられたの が大きかった。古墳調査で外観の調査は医師の触診に当たる基礎的な調査。そのデータが分かったのは重要な成果だ」と語った。 宮内庁の福尾正彦・陵墓調査官も会見し、「今後も陵墓の尊厳が損なわれない限り、申請に対応したい」と話した。学会の調査結果 は4月5日午後1時から奈良市の県文化会館で開くシンポジウムで報告する。【大森顕浩】 毎日新聞 2008年2月23日 大阪朝刊