懿徳天皇の懿(い)という字はこの天皇のためにだけあるような字だ。別名は「大日本彦耜友尊」(おおやまとひこすきと ものみこと)、あるいは、大倭日子鋤鋤友命(おおやまとひこすきとものみこと)。古事記によれば、師木県主波延(はえ) の娘阿久斗比売(あくとひめ)との間に、日本書紀では事代主神の孫鴨王(かもおう)の娘、淳名底仲津媛命(ぬなそこな かつひめのみこと)との間に生まれた第二子。綏靖天皇29年に誕生し、安寧天皇11年に16歳で立太子、同38年に安 寧天皇崩御に伴って即位したとされる。都は「軽曲峡宮」(かるのまがりおのみや)と、古事記、日本書紀で一致し、現在 の奈良県橿原市大曲町と考えられている。懿徳天皇も第二皇子である。ここにも末子相続思想の跡がみえる。
古事記によれば師木県主の祖、賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)を、日本書紀によれば兄、息石耳命(おきそ みみのみこと)の娘、天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)を皇后に迎え、観松彦香植稲尊(みまつひこかえしねのみこ と:日本書紀)、あるいは 御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと:古事記)、武石彦奇友背命(不詳)とい う皇子女を残したとされている。前者が[第5代孝昭天皇]となる。在位34年で、古事記によれば45歳、書記では77歳 で、畝傍山南の繊沙谿上陵(まさごのたにのうえのみささぎ)に葬られた。
この天皇陵は自然地形を利用して築かれた前方後円墳だが、前方部は後になって付け足されたもののようである。一部周濠 らしきものの残っているところがあるがこれも後世の造作のようである。本来堀はなかったようだ。正面右に五葉の松があ る。
御陵の前の車道を5,6分歩くと左側に森が見え橿原神宮の西入り口へ来る。ここを入って行くと、やがて右側に深田池が見え てきて野鳥が泳いでいる。明治になって 橿原神宮が大造営される前までは、この池は田圃に水を供給する灌漑用の池であっ たようだ。
神撰田を通り深田池の脇を抜けていくと橿原神宮に着く。池の畔に休憩所がある。白鳥や鴨が餌をもらいに寄ってくる。餌 がもらえるため、最近はいろいろな野鳥も集まってくるようになった。白鳥は翼の一部を切り飛べないようにして、この池 で飼われているとの事だが、神の池にしてはチトむごいような気も。
【大倭日子[金且]友命】懿徳天皇(古事記) 大倭日子[金且]友命、坐輕之境岡宮、治天下也。 此天皇、娶師木縣主之祖、賦登麻和訶比賣命。亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命。【自訶下四字以音】 次、多藝志比古命。【二柱】 故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次、當藝志比古命者【血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。】 天皇御年、肆拾伍歳。御陵在畝火山之眞名子谷上也。 【大倭日子[金且]友命(おおやまとねこすきとものみこと)】懿徳天皇 大倭日子□友(おおやまとねこすきとも)の命、輕(かる)の境の岡の宮に坐しまして天の下治しめしき。 此の天皇、師木の縣主の祖、賦登麻和訶比賣(ふとまわかひめ)の命、またの名は飯日比賣(いいひひめ) の命を娶りて生みし御子は御眞津日子(みまつひこ)訶惠志泥(かえしね)の命【訶より下の四字は音を以ちてす】。 次に多藝志比古(たぎしひこ)の命【二柱】。 故、御眞津日子訶惠志泥の命は天の下治しめしき。次に當藝志比古の命は【血沼(ちぬ)の別(わけ)、 多遲麻(たじま)の竹の別、葦井(あしい)の稻置の祖】。 天皇の御年は肆拾伍歳(よそとせあまりいつとせ)。御陵は畝火山の眞名子谷(まなこだに)の上に在り。