SOUND:離宮にて

第19代允恭天皇
2000.7.16(日)恵我長野北陵




		<第19代 允恭(いんぎょう)天皇>
		異称:  雄朝津間稚子宿禰尊(日本書紀)、男浅津間若子宿禰命(古事記)(おあさづまわくごのすくねのみこと)
		生没年: ?年 〜 允恭天皇42年 78歳(古事記)
		在位期間  反正天皇5年+1(允恭元年) 〜 允恭天皇42年
		父: 仁徳天皇 第4子
		母: 磐之媛命(いわのひめのみこと:葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘)
		皇后: 忍阪大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)
		皇妃: 弟姫(おとひめ:忍阪大中姫命の妹:衣通郎女(そとおしのいらつめ))
		皇子皇女: 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、名形大娘(ながたのおおいらつめ)皇女、境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、
			  穴穂天皇(あなほのすめらみこと:安康天皇)、軽大娘(かるのおおいらつめ)皇女、八釣白彦皇子(やつりのしろひ
			  このみこ)、大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと:雄略天皇)、但馬橘大娘(たじまのたちばなの
			  おおいらつめ)皇女、酒見(さかみ)皇女
		宮: 遠飛鳥宮 とおつあすかのみや(奈良県高市郡明日香村)
		陵墓: 恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ:大阪府藤井寺市国府:近鉄電車南大阪線「土師ノ里」)




		17代履中天皇、18代反正天皇の弟で、「倭の五王」の内の「済王」とされている。「宗書」によれば、443年に倭国の済王が使者
		を派遣し、貢ぎ物を贈り、「珍王」をしのぐ「6国の諸軍安東将軍・倭国王」という高位に任ぜられたとある。

		氏姓を偽るものが多く混乱していたため、盟神探湯(くがたち)と呼ばれる判別法を用いてそれを正したという。 
		また帝は、後に小野小町の祖とされ和歌の神となる、衣通郎女(そとおしのいらつめ)という絶世の美女を愛した事でも知られる。
		(ちなみに、柿本人磨呂・山部赤人と並んで、和歌三神と尊ばれている。)


 


		先帝反正天皇の崩御に際して、群臣は雄朝津間稚子宿禰尊に即位を促すが、尊は「天皇の位は大業で、自分には到底つとまらないと
		即位を辞退する。再三の群臣たちの願いにも頑として同意しなかったので、群臣たちの心労を察した妃の忍阪大中姫命が死を覚悟で
		雄朝津間稚子宿禰尊に頼み即位が実現した。翌年天皇は忍阪大中姫命を皇后とし、刑部(おしさかべ:皇后の料地)を定めた。皇后
		との間に生まれた皇子女が最初に掲げた皇子皇女たちである。




		允恭天皇は慈悲深い天皇だったが、壮年になって病に冒され半身不随となった。允恭3年に新羅へ使いを使わし名医を求めたら、そ
		の年の秋医者が来日し天皇の病は治癒したので、天皇は医者を厚遇して帰国させた、と日本書紀にある。

		允恭7年12月、新居落成の祝いが行われ、天皇自ら琴を奏で皇后が舞を舞った。当時の慣習として、舞の終わりに舞手は帝に対し
		「娘子(おみな)を奉りましょう。」と言うのが常であったが、皇后はこれを言いたくなかった。天皇に促され渋々奏上したところ、
		天皇はすかさず、「そは、誰(たれ)そ。」と問い、慌てた皇后はつい、「私の妹、弟姫(おとひめ)です。」と答えてしまう。

		当時弟姫は、容姿端麗でまばゆいばかりの肌の細やかさから、衣通郎女(そとおしのいらつめ)と呼ばれていた。皇后は天皇が妹に
		心奪われることがわかっていたので実は隠していたのである。案の定天皇は、姉の心中を推し量って入宮するのをためらう衣通郎女
		の元へ、再三使者を送りとうとう妃になることを了承する。
		天皇はしかし、皇后の嫉妬をおそれて宮中に迎える事はせず、藤原部を定めて新しく茅渟宮を造営しそこへ足繁く通うのである。
		皇后の怒りは増大し、皇后の出産が迫っても天皇は衣通郎女の元への行幸を止めなかったので、さすがの皇后も死を決意する。
		これには天皇も慌てて、平身低頭謝ったと日本書紀は記す。この時皇后が出産したのが、大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけの
		すめらみこと)すなわち後の雄略天皇である。



		日本書紀「允恭紀」でもう一つ有名な逸話は、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の恋愛物語
		である。古代にあっては、今日から見れば婚姻関係は近親相姦もいいところで、叔父と姪、兄と異母妹などの婚姻はざらである。聖
		徳太子などの家系は複雑すぎて、1回聞いたくらいでは到底理解できない。そんな中にあっても、さすがに同母の兄と妹の恋愛はタ
		ブーだったようで、上の図でわかるように、皇太子に立てられていた木梨軽皇子を同母弟の穴穂天皇が糾弾する。




		允恭天皇24年6月に、天皇の朝の御膳の羹汁が氷りついてしまった。驚いた天皇がその原因を占なわせたところ、「御一族の中に
		乱れた関係があります。きっと近親が相姦したのです。」と奏上する。誰かが「木梨軽皇子が、同母妹の軽大娘皇女をお犯しになり
		ました。」と報告したので、木梨軽皇子を推問すると、事実であった。これが発覚して、人心は木梨軽皇子から離れて穴穂天皇に傾
		いたと記録されている。
		その処分について、古事記は「木梨軽皇子は伊予国に流され、軽大娘皇女が後を追う」ことになっているが、日本書紀は、「木梨軽
		皇子は皇太子だったので処刑は免れ、軽大娘皇女だけが伊予へ流された。」となっている。

		しかしながら日本書紀は、次代の「安康天皇紀」の記述では、「木梨軽皇子は、大前宿禰(おおまえのすくね)の家に逃げ込んで、穴
		穂天皇に館に火をかけられ自害した。」となっており、記では大前・小前宿禰に捕えられ、伊予の湯に流されたあと、追って来た軽
		大郎皇女と心中したとある。この悲恋物語の結末も、例のごとく「藪の中」である。

		割腹して果てた三島由紀夫には「軽王子と衣通姫」という作品があるが、この物語では、軽王子は実の妹ばかりか、父の愛人とも情
		をかわしたことになっている。これは古事記で、允恭天皇の皇女軽太娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)と衣通郎女が同じ人物と
		されている事に題材を求めている。

		私が若い頃の大学のコンパで、酔うといつも「兄妹心中」(きょうだいしんじゅう)を唄う先輩がいた。「あ〜にぃのxxx、十九で・
		・・、妹xxxは、とぉおとななぁ〜つぅ〜」と自分にか酒にかはわからないが酔いしれて唄うのだ。兄と妹の純愛という題材は、いつ
		の世になっても日本人のメンタリティに訴えているもののようだ。古事記、日本書紀をあまり読んだことのない女の子たちでも、こ
		の「木梨軽皇子と軽大娘皇女の悲恋物語」はよく知っている。
		どうも西洋に比べ、日本人の近親相姦に対する背徳感は薄いような気がするが、これは古代からのこういう歴史的な背景を、嫌とい
		うほど我々の先祖は見聞きし、また自分の血族においても同様のことを繰り返していたからのような気がする。勿論、日常茶飯事で
		はなく、古代にあってもきわめて特殊な例ではあったと思うが、我々のDNAは、しっかりとその記憶を配列に刻み込んでいるので
		はないだろうか。




		近鉄電車南大阪線に乗って「土師ノ里」(はじのさと)駅で降りると、目の前にこの陵が見えている。見えてはいるが駅側は裏手に
		あたるので、表側へ行こうとするとぐるりと御陵を廻っていく事になり、10分ほどかかる。堀はあるが水が無く空堀である。この周
		辺には他にも沢山古墳があり、陪冢も3つある。(い号、ろ号、は号と記された木の立て札)



上空から見た市ノ山古墳(允恭天皇陵)。空堀なのがよく分かる。







市野山古墳と書いてある文献もある。墳丘230mの前方後円墳。5世紀中頃から後期にかけての築造と思われる。堤と濠が二重にめぐっている。三段の墳丘の両側には造り出しが付く。ここは勿論発掘されてはいないが、周辺の小型古墳からは、竪穴式石室のなかに、阿蘇石の家型石棺を持ち、甲冑や馬具などの豊富な副葬品が出土している(長持山古墳・唐櫃山古墳)。

















		【男淺津間若子宿禰王】允恭天皇(古事記)

		弟、男淺津間若子宿禰王、坐遠飛鳥宮、治天下也。
		此天皇、娶意富本杼王之妹、忍坂之大中津比賣命、生御子、木梨之輕王。次、長田大郎女。次、境之黒日子王。次、穴穗命。次、
		輕大郎女、亦名衣通郎女【御名所、以負衣通王者、其身之光自衣通出也。】次、八瓜之白日子王。次、大長谷命。次、橘大郎女。
		次、酒見郎女【九柱】
		凡天皇之御子等、九柱。【男王五、女王四】此九王之中、穴穗命者、治天下也。次、大長谷命、治天下也。

		天皇初爲將所知天津日繼之時、天皇辭而詔之、我者有一長病。不得所知日繼。然大后始而、諸卿等、因堅奏而、乃治天下。此時、
		新良國主、貢進御調八十一搜、爾御調之大使、名云金波鎭漢紀武、此人深知藥方、故、治差帝皇之御病。
		於是天皇、愁天下氏氏名名人等之氏姓忤過而、於味白梼之言八十禍津日前、居玖訶瓮而【玖訶二字以音】定賜天下之八十友緒氏
		姓也。又爲木梨之輕太子御名代、定輕部、爲大后御名代、定刑部、爲大后之弟、田井中比賣御名代、定河部也。
		天皇御年漆拾捌	歳。【甲子年正月十五日崩。】御陵在河内之惠賀長枝也。


		天皇崩之後、定木梨之輕太子所知日繼、未即位之間、奸其伊呂妹輕大郎女而歌曰、

			阿志比紀能 夜麻陀袁豆久理
			夜麻陀加美 斯多備袁和志勢
			志多杼比爾 和賀登布伊毛袁
			斯多那岐爾 和賀那久都麻袁
			許存許曾婆 夜須久波陀布禮

		此者志良宜歌也。又歌曰、

			佐佐波爾 宇都夜阿良禮能
			多志陀志爾 韋泥弖牟能知波
			比登波加由登母 宇流波斯登
			佐泥斯佐泥弖婆 加理許母能
			美陀禮婆美陀禮 佐泥斯佐泥弖婆

		此者夷振之上歌也。

		是以百官及天下人等、背輕太子而、歸穴穗御子。爾輕太子畏而、逃入大前小前宿禰大臣之家而、備作兵器。【爾時所作矢者、銅其
		箭之内。故、号其矢謂輕箭也。】穴穗王子亦作兵器。【此王子所作之矢者、即今時之矢者也。是謂穴穗箭也。】於是穴穗御子、興
		軍圍大前小前宿禰之家、爾到其門時、零大氷雨。故歌曰、

			意富麻幣 袁麻幣須久泥賀
			加那斗加宜 加久余理許泥
			阿米多知夜米牟

		爾其大前小前宿禰擧手打膝、[イ舞]訶那傳【自訶下三字以音】歌參來。其歌曰、

			美夜比登能 阿由比能古須受
			淤知爾岐登 美夜比登登余牟
			佐斗毘登母由米

		此歌者、宮人振也。
		如此歌參歸白之、我天皇之御子、於伊呂兄王、無及兵。若及兵者、必人咲。僕捕以貢進。爾解兵退坐。故、大前小前宿禰、捕其輕
		太子、率參出以貢進。其太子被捕歌曰、

			阿麻陀牟 加流乃袁登賣
			伊多那加婆 比登斯理奴倍志
			波佐能夜麻能 波斗能
			斯多那岐爾那久

		又歌曰、

			阿麻陀牟 加流袁登賣
			志多多爾母 余理泥弖登富禮
			加流袁登賣杼母

		故、其輕太子者、流於伊余湯也。亦將流之時、歌曰、

			多豆賀泥能 岐許延牟登岐波
			和賀那斗波佐泥

		此三歌者、天田振也。又歌曰、

			意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆
			布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙
			和賀多多彌由米 許登袁許曾
			多多美登伊波米 和賀都麻波由米

		此歌者、夷振之片下也。其衣通王獻歌。其歌曰、

			那都久佐能 阿比泥能波麻能
			加岐加比爾 阿斯布麻須那
			阿加斯弖杼富禮

		故後亦不堪戀慕而追往時、歌曰、

			岐美賀由岐 氣那賀久那理奴
			夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟
			麻都爾波麻多士

		【此云山多豆者。是今造木者也】故追到之時、待懷而歌曰、

			許母理久能 波都世能夜麻能
			意富袁爾波 波多波理陀弖
			佐袁袁爾波 波多波理陀弖
			意富袁爾斯 那加佐陀賣流
			淤母比豆麻阿波禮 都久由美能
			許夜流許夜理母 阿豆佐由美
			多弖理多弖理母 能知母登理美流
			意母比豆麻阿波禮

		又歌曰、

			許母理久能 波都勢能賀波能
			加美都勢爾 伊久比袁宇知
			伊久比爾波 加賀美袁加氣
			麻久比爾波 麻多麻袁加氣
			麻多麻那須 阿賀母布伊毛
			加賀美那須 阿賀母布都麻
			阿理登 伊波婆許曾余
			伊幣爾母由加米 久爾袁母斯怒波米

		如此歌即共自死。故此二歌者讀歌也。



		【男淺津間若子宿禰王(おあさづまわくごのすくねのみこ)】允恭天皇

		弟、男淺津間若子宿禰の王は遠つ飛鳥の宮に坐しまして、天の下治しめしき。
		此の天皇、意富本杼(おほほど)の王の妹、忍坂の大中津比賣(おおなかつひめ)の命を娶りて生みし御子は木梨の輕の王。
		次に長田(ながた)の大郎女。次に境のK日子(くろひこ)の王。次に穴穗(あなほ)の命。次に輕の大郎女、またの名は衣通
		(そとおり)の郎女【御名に衣通(そとおり)の王と負う所以(ゆえ)は、其の身の光、衣(そ)より通り出づれば也】。次に
		八瓜(やつり)の白日子(しろひこ)の王。次に大長谷の命。次に橘の大郎女。次に酒見(さかみ)の郎女【九柱】。
		凡そ天皇の御子等は九柱【男王(おとこみこ)五はしら。女王(ひめみこ)四つはしら】。此の九はしらの王の中に穴穗の命は
		天の下治しめしき。次に大長谷(おおはつせ)の命、天の下治しめしき。

		天皇、初め天津日繼(あまつひつぎ)を知らさんと爲(せ)し時に、天皇の辭(いな)びて詔らさく、「我は一つの長き病有り。
		日繼を知らすことを得じ」。然れども大后を始めて諸(もろもろ)の卿(まえつきみ)等、堅く奏(もう)すに因りて、乃ち天
		の下治しめしき。此の時に新良(しらき)の國主(こにきし)、御調(みつぎ)八十一艘(やそあまりひとふね)を貢進(たて
		まつ)りき。爾くして御調(みつぎ)の大使(おおきつかい)、名は金波鎭漢紀武(こんはちんかんきむ)と云う、此の人、深
		く藥方(くすりのみち)を知れり。故、帝皇の御病を治さめ差(いや)しき。
		ここに天皇、天の下の氏氏名名の人等の氏姓(うぢかばね)の忤(たが)い過(あやま)れるを愁えて、味白檮(あまかし)の
		言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前に玖訶瓰(くかへ)を居えて【玖(く)訶(か)の二字音はを以ちてす】天の下の八十
		(やそ)友の緒の氏姓を定め賜いき。また木梨の輕の太子の御名代と爲て輕部を定め、大后の御名代と爲て刑部(おさかべ)を
		の御年は漆拾捌歳(ななとせあまりやとせ)【甲午(きのえうま)の年の正月(むつき)十五日(とおかあまりいつか)に崩
		(かむざ)りき】。御陵(みささぎ)は河内の惠賀(えが)の長枝(ながえ)に在り。

		天皇、崩(かむざ)りし後に木梨の輕の太子の日繼知らすを定めたるに、未だ位に即かぬ間に、其の伊呂妹(いろも)、輕の大
		郎女を姦(おか)して歌いて曰く、

			阿(あ)志(し)比(ひ)紀(き)能(の)
 			夜(や)麻(ま)陀(だ)袁(を)豆(づ)久(く)理(り)
 			夜(や)麻(ま)陀(だ)加(か)美(み)
 			斯(し)多(た)備(び)袁(を)和(わ)志(し)勢(せ)
 			志(し)多(た)杼(ど)比(ひ)爾(に)
 			和(わ)賀(が)登(と)布(ふ)伊(い)毛(も)袁(を)
 			斯(し)多(た)那(な)岐(き)爾(に)
 			和(わ)賀(が)那(な)久(く)都(つ)麻(ま)袁(を)
 			許(こ)存(ぞ)許(こ)曾(そ)波(は)
 			夜(や)須(す)久(く)波(は)陀(だ)布(ふ)禮(れ)

			あしひきの
 			山田を作り
 			山高み
 			下樋を走せ
 			下訪ひに
 			我が訪ふ妹を
 			下泣きに
 			我が泣く妻を
 			今夜こそは
 			安く肌触れ 
 
		此は志良宜歌(しらげうた)也。 また歌いて曰く、

			佐(さ)佐(さ)波(は)爾(に)
 			宇(う)都(つ)夜(や)阿(あ)良(ら)禮(れ)能(の)
 			多(た)志(し)陀(だ)志(し)爾(に)
 			韋(い)泥(ね)弖(て)牟(む)能(の)知(ち)波(は)
 			比(ひ)登(と)波(は)加(か)由(ゆ)登(と)母(も)
 			宇(う)流(る)波(は)斯(し)登(と)
 			佐(さ)泥(ね)斯(し)佐(さ)泥(ね)弖(て)婆(ば)
 			加(か)理(り)許(こ)母(も)能(の)
 			美(み)陀(だ)禮(れ)婆(ば)美(み)陀(だ)禮(れ)
 			佐(さ)泥(ね)斯(し)佐(さ)泥(ね)弖(て)婆(ば)

			笹葉に
 			打つや霰の
 			たしだしに
 			率寝てむ後は
 			人は離ゆとも
 			愛しと
 			さ寝しさ寝てば
 			刈り薦の
 			乱れば乱れ
 			さ寝しさ寝てば 
 
		此は夷振(ひなぶり)の上歌(あげうた)也。
		是を以ちて百官(もものつかさ)及び天の下の人等と輕の太子(おおみこ)を背(そむ)きて穴穗の御子に歸(よ)りき。
		爾くして輕の太子、畏みて大前小前宿禰(おおまえおまえのすくね)の大臣の家に逃げ入りて兵器を備え作りき【爾(そ)の時
		に作れる矢は其の箭(や)の内を銅(あかがね)とせり。故、其の矢を號けて輕箭(かるや)と謂う】。穴穗の王子もまた兵器
		を作りき【此の王子の作れる矢は即ち今時(いま)の矢ぞ。是は、穴穗箭(あなほや)と謂う】。ここに穴穗の御子、軍(いく
		さ)を興(おこ)して大前小前宿禰の家を圍(かこ)みき。爾くして其の門(かど)に到りし時に大氷雨(おおひさめ)零(ふ)
		りき。 故、歌いて曰く、

			意(お)富(ほ)麻(ま)幣(へ)
 			袁(を)麻(ま)幣(へ)須(す)久(く)泥(ね)賀(が)
 			加(か)那(な)斗(と)加(か)宜(げ)
 			加(か)久(く)余(よ)理(り)許(こ)泥(ね)
 			阿(あ)米(め)多(た)知(ち)夜(や)米(め)牟(む)

			大前
 			小前が宿禰
 			金門蔭
 			斯く寄り来ね
 			雨立ち止めむ 
 
		爾くして其の大前小前宿禰、手を擧げ膝を打ちて、■訶(か)那(な)傳(で)【訶(か)より下の三字は音を以ちてす】、歌
		いて參い來たり。其の歌に曰く、

			美(み)夜(や)比(ひ)登(と)能(の)
 			阿(あ)由(ゆ)比(ひ)能(の)古(こ)須(す)受(ず)
 			淤(お)知(ち)爾(に)岐(き)登(と)
 			美(み)夜(や)比(ひ)登(と)登(と)余(よ)牟(む)
 			佐(さ)斗(と)毘(び)登(と)母(も)由(ゆ)米(め)

			宮人を
 			足結ひの小鈴
			落ちにきと
 			宮人響む
 			里人もゆめ 
 
		此の歌は宮人振(みやひとぶり)也。
		かく歌い參い歸(よ)りて白さく、「我が天皇の御子、伊呂兄(いろね)の王に兵(いくさ)及(や)ること無かれ。若し兵及
		(や)らば、必ず人咲(わら)わん。僕(やつがれ)が捕え以ちて貢進(たてまつ)らん」。爾くして兵を解きて退(しりぞ)
		き坐しき。故、大前小前宿禰、其の輕の太子を捕えて率(い)て參い出で、以ちて貢進(たてまつ)りき。其の太子捕えられて
		歌いて曰く、

			阿(あ)麻(ま)陀(だ)牟(む)
 			加(か)流(る)乃(の)袁(を)登(と)賣(め)
 			伊(い)多(た)那(な)加(か)婆(ば)
 			比(ひ)登(と)斯(し)理(り)奴(ぬ)倍(べ)志(し)
 			波(は)佐(さ)能(の)夜(や)麻(ま)能(の)
 			波(は)斗(と)能(の)
 			斯(し)多(た)那(な)岐(き)爾(に)那(な)久(く)

			天廻む
 			輕の嬢子
 			甚泣かば
 			人知りぬべし
 			波佐の山の
 			鳩の
 			下泣きに泣く 
 
		また歌いて曰く、

			阿(あ)麻(ま)陀(だ)牟(む)
 			加(か)流(る)袁(を)登(と)賣(め)
 			志(し)多(た)多(た)爾(に)母(も)
 			余(よ)理(り)泥(ね)弖(て)登(と)富(ほ)禮(れ)
 			加(か)流(る)袁(を)登(と)賣(め)杼(ど)母(も) 

			天廻む
 			輕嬢子
 			確々にも
 			寄り寝て通れ
 			輕嬢子ども
 
		故、其の輕の太子は伊余(いよ)の湯(ゆ)に流しき。 また將に流さんとせし時に歌いて曰く、

			阿(あ)麻(ま)登(と)夫(ぶ)
 			登(と)理(り)母(も)都(つ)加(か)比(ひ)曾(そ)
 			多(た)豆(づ)賀(が)泥(ね)能(の)
			岐(き)許(こ)延(え)牟(む)登(と)岐(き)波(は)
 			和(わ)賀(が)那(な)斗(と)波(は)佐(さ)泥(ね)

			天飛ぶ
 			鳥も使いそ
 			鶴が音の
 			聞えむ時は
 			我が名問はさね 
 
		此の三つの歌は天田振(あまだぶり)也。 また歌いて曰く、

			意(お)富(ほ)岐(き)美(み)袁(を)
 			斯(し)麻(ま)爾(に)波(は)夫(ぶ)良(ら)婆(ば)
 			布(ふ)那(な)阿(あ)麻(ま)理(り)
 			伊(い)賀(が)幣(へ)理(り)許(こ)牟(む)敍(ぞ)
 			和(わ)賀(が)多(た)多(た)彌(み)由(ゆ)米(め)
 			許(こ)登(と)袁(を)許(こ)曾(そ)
 			多(た)多(た)美(み)登(と)伊(い)波(は)米(め)
 			和(わ)賀(が)都(つ)麻(ま)波(は)由(ゆ)米(め)

			大君を
 			島に放らば
 			船余り
 			い帰り来むぞ
 			我が畳ゆめ
 			言をこそ
 			畳と言はめ
 			我が妻はゆめ 
 
		此の歌は夷振(ひなぶり)の片下(かたおろし)也。
		其の衣通(そとおり)の王、歌を獻(たてまつ)りき。 其の歌に曰く、

			那(な)都(つ)久(く)佐(さ)能(の)
 			阿(あ)比(ひ)泥(ね)能(の)波(は)麻(ま)能(の)
 			加(か)岐(き)加(か)比(ひ)爾(に)
 			阿(あ)斯(し)布(ふ)麻(ま)須(す)那(な)
 			阿(あ)加(か)斯(し)弖(て)杼(ど)富(ほ)禮(れ)

			夏草の
 			阿比泥の浜の
 			掻き貝に
 			足踏ますな
 			明して通れ 
 
		故、後にまた戀い慕ぶに堪えずして追い往きし時に、歌いて曰く、

			岐(き)美(み)賀(が)由(ゆ)岐(き)
 			氣(け)那(な)賀(が)久(く)那(な)理(り)奴(ぬ)
 			夜(や)麻(ま)多(た)豆(づ)能(の)
 			牟(む)加(か)閇(へ)袁(を)由(ゆ)加(か)牟(む)
 			麻(ま)都(つ)爾(に)波(は)麻(ま)多(た)士(じ) 

			君が往き
 			日長くなりぬ
 			造木の
 			迎へを行かむ
 			待つには待たじ 
 
		【此に云える山多豆(やまたづ)は、是れ今の造木(みやつこぎ)なる者也】
		故、追い到りし時に待ち懷(むだ)きて歌いて曰く、

			許(こ)母(も)理(り)久(く)能(の)
 			波(は)都(つ)世(せ)能(の)夜(や)麻(ま)能(の)
 			意(お)富(ほ)袁(を)爾(に)波(は)
 			波(は)多(た)波(は)理(り)陀(だ)弖(て)
 			佐(さ)袁(を)袁(を)爾(に)波(は)
 			波(は)多(た)波(は)理(り)陀(だ)弖(て)
 			意(お)富(ほ)袁(を)爾(に)斯(し)
 			那(な)加(か)佐(さ)陀(だ)賣(め)流(る)
 			淤(お)母(も)比(ひ)豆(づ)麻(ま)阿(あ)波(は)禮(れ)
 			都(つ)久(く)由(ゆ)美(み)能(の)
 			許(こ)夜(や)流(る)許(こ)夜(や)理(り)母(も)
 			阿(あ)豆(づ)佐(さ)由(ゆ)美(み)
 			多(た)弖(て)理(り)多(た)弖(て)理(り)母(も)
 			能(の)知(ち)母(も)登(と)理(り)美(み)流(る)
 			意(お)母(も)比(ひ)豆(づ)麻(ま)阿(あ)波(は)禮(れ)

			隠り処の
 			泊瀬の山の
 			大峰には
 			幡張り立て
 			さ小峰には
 			幡張り立て
 			大小にし
 			仲定める
			思い妻あはれ
 			槻弓の
 			臥やる臥やりも
 			梓弓
			立てり立てりも
 			後も取り見る
 			思い妻あはれ 
 
		また歌いて曰く、

			許(こ)母(も)理(り)久(く)能(の)
 			波(は)都(つ)勢(せ)能(の)賀(か)波(は)能(の)
 			加(か)美(み)都(つ)勢(せ)爾(に)
 			伊(い)久(く)比(ひ)袁(を)宇(う)知(ち)
 			斯(し)毛(も)都(つ)勢(せ)爾(に)
			麻(ま)久(く)比(ひ)袁(を)宇(う)知(ち)
 			伊(い)久(く)比(ひ)爾(に)波(は)
 			加(か)賀(が)美(み)袁(を)加(か)氣(け)
 			麻(ま)久(く)比(ひ)爾(に)波(は)
 			麻(ま)多(た)麻(ま)袁(を)加(か)氣(け)
 			麻(ま)多(た)麻(ま)那(な)須(す)
 			阿(あ)賀(が)母(も)布(ふ)伊(い)毛(も)
 			加(か)賀(が)美(み)那(な)須(す)
 			阿(あ)賀(が)母(も)布(ふ)都(つ)麻(ま)
 			阿(あ)理(り)登(と)
 			伊(い)波(は)婆(ば)許(こ)曾(そ)余(よ)
 			伊(い)幣(へ)爾(に)母(も)由(ゆ)加(か)米(め)
 			久(く)爾(に)袁(を)母(も)斯(し)怒(ぬ)波(は)米(め)

			隠り処の
 			泊瀬の河の
 			上つ瀬に
 			斎杙を打ち
 			下つ瀬に
			真杙を打ち
			斎杙には
 			鏡を懸け
 			真杙には
 			真玉を懸け
 			真玉なす
 			吾が思う妹
 			鏡なす
 			吾が思う妻
 			有りと
 			言はばこそよ
 			家にも行かめ
 			國をも偲はめ 
 
 		く歌いて即ち共に自ら死にき。 故、此の二つの歌は讀歌(よみうた)也。









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