Music: Prity woman
飯豊天皇陵
飯豊青皇女(いいとよあおのおうじょ)
2005.3.12 雪






	
	近鉄御所線「忍海(おしみ)駅」から北へ1分歩き、最初の道路の手前で左へ曲り踏切を渡る。南西から流れてくる溝の様
	な「安位(あに)川」を渡ると、すぐ葛城市歴史博物館(旧新庄町歴史民俗資料館)の駐車場と建物が見えてくる。駐車場
	の先にこんもりとした小さな森が見える。この森のあるところが「角刺(つのさし)神社」である。





	
	葛城市歴史博物館(旧新庄町歴史民俗資料館)(TEL 0745-64-1414)

	開館は9:00〜17:00(但し、入館は16:30まで)、観覧料200円。20名以上の団体は、観覧料が2割引。
	休館日は、毎週月曜日と第2・4週の火曜日、祝日の翌日(土・日曜日の場合を除く)年末年始の12月28日〜1月4日。
	資料館に入ると、正面に「島ノ山1号墳」から出土した実物大の組合せ式「家形石棺」が置かれ、また、館内に種々発掘資
	料・民俗資料も展示され、葛城山麓の歴史を知る事が出来る。(博物館めぐりコーナー「葛城市歴史博物館」参照。)



 

	
	旧村社「角刺(つのさし)神社」 <近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分>

	祭神は飯豊青命(いいとよのあおのみこと)である。彼女は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億
	計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、
	ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされている。忍海の「角刺神社」の辺りは「日本書紀」顕宗即位前記で「日本邊也
	(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な
	宮殿が建っていたものと推測されるが、今はその面影はない。角刺神社境内の東側に、見ていただくような小さな「鏡池」
	がある。飯豊青皇女が「忍海角刺宮」で政務を取っていた時、毎朝この池で顔を洗って、池に自分の姿を映していたという
	故事から、この池は「鏡池」と呼ばれている。また、時代が下って奈良時代には、當麻寺にいた「中将姫」が、蓮糸で曼陀
	羅を織るために探し求めていた蓮が仰山生えていた。今は1本も生えていないが、当時は相当生えていた様で、それで願い
	がかなって曼陀羅を織り上げたという。











	
	【飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)】

	生没年:  ? 〜 清寧5年11月崩御(45歳?「本朝皇胤紹運録」による。)
	父  : (市辺押磐皇子(履中天皇の子)/履中天皇:市辺忍歯別王の妹)
		 【市辺押磐皇子=市辺忍歯別王】
	母  :  葛城黒媛(くろひめ:黒比売命(古事記):父は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね))/
		  葛城はえ媛
	別名 :  忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよのあおのみこと)/飯豊皇女(いいとよのひめみこ)/
		  飯豊青尊(いいとよあおのみこと)/忍海部女王(おしうみべのひめみこ)/青海皇女/
		  飯豊女王/忍海部女王/飯豊郎女など。
	宮城 :  忍海角刺宮(仮政庁とされている。)
	陵墓 :  葛城埴口丘陵(北花内大塚古墳)奈良県葛城市新庄町(旧葛城郡新庄町北花内)



	
	飯豊天皇陵(北花内大塚古墳)

	歴史博物館から「近鉄御所線」沿いに北へ行くと、新庄町北花内に「北花内大塚古墳」がある。全長約90mの相当大きな
	前方後円墳である。前方部を南西に向け、周濠を巡らしている。現在宮内庁により「飯豊(いいとよ)天皇埴口(はにぐち)
	陵」に治定されて、その管理下にあり整備されている。陵上の木々はだいぶ伐採されていた。周辺遺物から、6世紀前半の
	築造と推定され、また、飯豊天皇は、先の「角刺神社」に祀られている飯豊青皇女で、別名忍海郎女(おしみのいらつめ)
	とも云い、古事記では第23代顕宗(弘計)、第24代仁賢(億計)両天皇の伯母だが、日本書紀では彼らの姉となってい
	る。また「扶桑略記(ふそうりゃっき)」では、神功皇后が第15代天皇で、飯豊天皇も第24代天皇となっている。





	

	飯豊青皇女の即位、及びその周辺の事情については「顕宗・仁賢天皇」のコーナーでも見てきたが、再度考察を試みること
	にしたい。
	白髪武広国押稚日本根子(清寧)天皇の治世3年4月、清寧天皇は億計(おけ)王を皇太子とし、弘計(おけ)王を皇子と
	した。
	清寧5年春1月、清寧天皇は崩御したが、皇太子億計皇子と弘計皇子とが皇位を譲り合い、長く天皇不在の期間があった。
	このため両皇子の姉(日本書紀による。古事記では叔母。)の飯豊青皇女が、忍海の角刺宮(つのさしのみや)で、自ら忍
	海飯豊青尊(おしぬみいいとよのあおのみこと)と名乗り皇位に着いた。つまり天皇になったわけで、23代顕宗天皇24
	代仁賢天皇の前に即位したという事になる。ホントであれば33代推古天皇の登場を見るまえに、我が国初の女帝となって
	いたはずである。



	
	しかし現在、皇統譜にも勿論天皇とは記されていないし、公式には天皇ではないのだが、宮内庁が立てたこの陵の看板・石
	柱には、ちゃんと「飯豊天皇」と記されている。当時の歌に、

	「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」
	(大和のあたりでみておきたいものは、忍海の高城にある、立派な角刺の宮であろう。)

	日本書紀巻十五、顕宗紀

	「(清寧天皇)五年春正月。白髪天皇(清寧天皇)崩。皇太子億計王与天皇(顕宗天皇)譲位。久而不処。由是天皇姉飯豊
	青皇女於忍海角刺宮臨朝秉政。自称忍海飯豊青尊。当世詞人歌曰。日本邊也。見欲物也。忍海乃此高城名也。角刺宮。冬十
	一月。飯豊青尊崩。
	葬葛城埴口丘陵。十二月。百官大会。皇太子億計取天皇之璽。置之天皇之坐。」

	という歌があり、宮殿が相当立派だったことを推測させる。だとしたら、実は彼女が我が国初の女帝だった可能性は高いと
	言えるのではなかろうか。





	
	彼女の呼称である「忍海飯豊青尊」「飯豊青尊」の「尊」という称号や、「崩」「陵」という文字の使用から、彼女を女帝
	とする説もあり、後世の「扶桑略記」などでは、「飯豊天皇、廿四代女帝」として、彼女を「飯豊天皇」としている。また
	皇胤紹運録には「飯豊天皇、忍海部女王是也」と書かれている。しかし勅撰歴史書である日本書紀は、彼女を女帝として認
	めていないし、忍海飯豊青尊と自称して忍海角刺宮で政務を執った、となっている。
	清寧天皇が崩じたのは清寧5年春1月で、彼女が没したのも清寧天皇と同じ年の11月である。その翌月、弘計王が即位し
	顕宗天皇となっている。この記述からみれば彼女の統治期間は最大11ケ月間ということになる。11ケ月あれば十分天皇
	と記してもいい期間ではなかろうか。もっと短い在位期間の天皇もいる。しかしそれにしても、清寧の死から1年にも満た
	ず死去してしまう彼女の死にも、勘ぐれば何か不自然な臭いがしないでもない。ここに言う「臨朝秉政」は、天皇の代わり
	に政治を行うという意味だそうだが、十分即位したとも受け取れる。彼女が公式には歴代天皇に数えられなかった理由は何
	であろうか。





	
	巻末で見て頂くように、古事記は清寧天皇の段に「天皇みまかりましし後、天の下しろしめす王なかりき。ここに日継ぎ知
	らしめす王を問うに、市辺忍歯王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺(つのさし)宮にましましき」
	と述べて、清寧の没後、飯豊皇女が皇位を継いだことを記している。そして、治世の間に、播磨に隠れていた意祁(おけ)
	(仁賢天皇)袁祁(をけ)(顕宗天皇)の兄弟が現れたので、彼らに皇位を譲ったとしている。一方日本書紀は、清寧天皇の
	在世中に億計(おけ:仁賢天皇)、雄計(をけ:顕宗天皇)の2皇子が発見されるが、やがて清寧は没する。ところが、兄弟
	は皇位を譲り合って決しない。そこで「これによって、天皇の姉、飯豊青皇女、忍海の角刺宮に、みかどまつりごとしたま
	い、自ら忍海飯豊青の尊と称えたまいき」と顕宗紀に記している。すなわち、古事記が飯豊皇女を履中天皇の娘とし、また、
	その皇位継承を公式なものとしているのに反し、日本書紀は、皇女を市辺押磐皇子の娘で2兄弟の姉とし、かつ、その皇位
	は全く臨時的方便的なものとしており、飯豊の皇位継承は無かったごとく記している。しかし、彼女が女帝、それも、日本
	最初の女帝であったことは疑得ないように思われる。

 	それは、後世、天皇就任を渋る炊屋姫(推古天皇)に対して聖徳太子が、「女性の天皇は飯豊青皇女という前例があります」
	といって説得するという話がある事でも確認できる。史界では、実際飯豊青姫が即位したのかしなかったのかについては意
	見が分かれているが、この角刺神社は飯豊青皇女が政務を執った宮の場所に建っていると伝承されているし、とても、古事
	記・日本書紀を読んだ後世の人たちが作ったものとはちょっと考えられない。





	
	ところで日本書紀はこの飯豊青皇女について、清寧天皇三年秋七月の条に以下のような短い記事を突然挿入している。前後
	の脈略とは何の関係もなさそうに見える記事だが、一体何のためにここに記載されているのか昔からの謎の一つである。
	
	「飯豊皇女、於角刺宮、与夫初交、謂人曰、一知女道、又安可異、終不願交於男」 
	「飯豊(いいとよ)の皇女(ひめみこ)、角刺(つのさし)の宮にて、夫(おとこ)と交(ま)ぐわいしたまいき。人に語りて曰
	く、ひとはし女の道を知りぬ。またいずくんぞ異ならん。終(つい)に、まぐわいを願わじ、とのたまいき」 
	
	「ひとおおり女の道を知ったが、特にどうという事はないので、今後はもう男とは交わらない、と語った」と言うものだが、
	これは何を言うためにここに記事として挿入されたのか。解釈は諸説あって、「夫と初めて交わりたまう」という部分の夫
	が一体誰を指しているのかを巡っても諸説紛々だが、真相は例によって、永遠の謎である。日本書紀もその註記で「ここに
	夫ありと云える。いまだ詳(つまびら)かならず」と書き添えている。



	
	この短い記事からは、彼女が相当な年齢になるまで処女であった事がわかるし、おそらく、若い時から神に仕える巫女のよ
	うな存在として過ごし、一生独身のままで死んだことも判る。この時交わったと云う男が雄計(顕宗)だとし、彼女は雄計
	に殺されたという見方もある。飯豊皇女に比べて雄計はあまりに若く(17歳?)、満足に女の喜びを教えるような性交は
	出来ず、恥をかいた雄計がやがて飯豊皇女を殺害したというのだが、古代にあっては17歳は十分に大人のような気もする。

	角刺の「角」(つの)は(かど)でもあり、かど=かつであり「葛」に通じ、「刺」は、さし(城)と呼んで、「角刺」は
	「葛城」と同義だとする説もあるが、男と交わったことを示す単なる語呂合わせの「角刺し」だと言う説もある。






	
	ところでこの日は、ネットで知り合った東京の「国分寺友の会」のコマツさんとSEIZANさんと、大阪は難波の松竹座の前で
	待ち合わせていた。コマツさんは東京から、seizanさんは大津からだったが、飛鳥での現地説明会を二つ、橿原考古学研究
	所附属博物館、そしてこの飯豊天皇陵と目一杯スケジュールをこなしたものだから、また特急電車に乗るハメになった。
	しかしネットの効用はほんとに抜群である。本来知り合うことも無かった皆さんと、こうして知り合ってお酒まで一緒に飲
	める。internetは正しく人々の出会いも変えつつある。

 

お二人と待ち合わせの時間に間に合うか心配だったが、何とか5,6分遅れですんだ。


	
	陵墓、江戸時代に土盛り「改造」 立派に見せようと…… 2005年12月03日16時05分 asahi.com

				
	北花内大塚古墳の発掘現場。男性の後ろ側が盛り土		北花内大塚古墳の形状
 
	宮内庁が「飯豊(いいとよ)天皇陵」として管理する奈良県葛城市の北花内(きたはなうち)大塚古墳(5世紀末〜6世紀
	初め)が、江戸時代の改修で、前方後円墳の鍵穴のような形から三角おにぎり形に「改造」されていたことがわかった。発
	掘調査中の宮内庁が2日、報道関係者と歴史系学会の代表に初めて同古墳を公開した。陵墓を立派に見せようと、江戸時代
	に土を盛ったために形がかわってしまったらしい。 
	同古墳は全長90メートル、幅は前方部70メートル、後円部40メートルで濠(ほり)に囲まれている。墳丘の護岸工事
	を前に、墳丘のすそに沿って12カ所、計約150平方メートルを調査した。 
	現状は三角おにぎりのようで、鍵穴タイプではない。前方部と後円部の継ぎ目部分を発掘したところ、すそ部分に土が高さ
	最大約2メートル盛られていた。江戸末期の全国的な陵墓の大改修「文久の修陵」の跡とみられる。 

	橿原考古学研究所の今尾文昭・総括研究員は「江戸末期、勤王思想に基づいて荘厳化するため、陵墓は大きく姿を変えた。
	古墳の変遷を知るためにも、形を確定する調査を宮内庁に続けてほしい」と話している。 
 


	
	【白髮大倭根子命】清寧天皇 (古事記)

	御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。
	此天皇、無皇后、亦無御子。故、御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是問日繼所知之王、市邊忍齒別王
	之妹、忍海郎女、亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。爾山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民、名志自牟之新
	室樂。於是盛樂、
	酒酣以次第皆■[イ舞]。故、燒火少子二口、居竃傍、令■[イ舞]其少子等。爾其一少子曰、「汝兄先■[イ舞]。」其兄亦曰、
	「汝弟先■[イ舞]。」如此相讓之時、其會人等、咲其相讓之状。爾遂兄[イ舞]訖、次弟將[イ舞]時、爲詠曰、

		(以下 略)

	
	【白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)】清寧天皇

	御子、白髮の大倭根子)の命、伊波禮(いはれ)の甕栗(みかくり)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	此の天皇、皇后無く、また御子無し。故、御名代に白髮部(しらかべ)を定めき。故、天皇崩(かむざ)りし後に天の下の
	治しめすべき王無し。ここに日繼(ひつぎ)知らさん王を問いて、市邊(いちのへ)の忍齒別(おしはわけ)の王の妹、忍
	海(おしぬみ)の郎女、またの名は飯豐(いいとよ)の王を葛城の忍海(おしぬみ)の高木(たかぎ)の角刺(つのさし)
	の宮に坐(いま)せき。
	爾くして山部の連小楯(おだて)、針間(はりま)の國の宰(みこともち)に任(まか)りし時に、其の國の人民、名は志
	自牟(しじむ)が新室(にいむろ)の樂(あそび)せるに到りき。ここに盛りに樂(あそ)び酒酣(たけなわ)にして次第
	(つぎて)を以ちて皆(ま)いき。故、火を燒く少子(わらわ)二口(ふたり)、竃の傍(かたわら)に居れば、其の少子
	(わらわ)等にわしめき。
	爾くして其の一りの少子(わらわ)が曰く、「汝兄(なね)、先(ま)ずえ」。其の兄(え)もまた曰く「汝弟(なおと)、
	先(ま)ずえ」。如此(かく)相讓りし時に、其の會(つど)える人等、其の相讓る状(かたち)を咲(わら)いき。
	爾くして遂に兄い訖(おわ)りて、次に弟、將にわんとする時に詠(うたよみ)爲て曰く、

		(以下 略)



	
	【大和名所記  和州旧跡幽考 第九巻】
	
	忍海郡 角刺の宮

	忍海村にあり、西に西辻村、東に東辻村、南に南花内村などというあり。此の忍海村や皇宮の跡にこそあらめ。
	角刺の宮は人王廿三代清寧天皇五年正月崩御なり給いて、皇太子億計王と御弟弘計王と互いに御位をゆづりあらそい給いし
	かば即位もあらず日を経たり。御妹君にておわします飯豊青の皇女、忍海角刺の宮にして臨朝秉政とし給いて、みづから忍
	海飯豊青尊と名のり給いき。世に哥つくりてうたう(日本紀)。

	やまとべに[日本邊也]見まほしものは[見欲物也]忍海のこのたかき名は角刺の宮

	この歌の註は釈日本紀によれり。抑、飯豊皇女は清寧天皇三年七月、角刺の宮にして與夫(みとのまぐはひ)はじめて侍り
	しが、人にかたり給いしは、一たび女の道をしりにき、なにの異なることかあらん。その後、交會の道おわしまさゞざりけ
	るとなん(日本紀)
	或いは又其の道もありけるとも。

		(中略)

	和州旧跡幽考 第九巻 終



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