この御陵は京都市東山、知恩院の裏手にある。バス、電車、地下鉄、何を使っても来れる。京阪電車「三条」または「四条」駅から 八坂神社か知恩院と尋ねてくれば、サルでもわかる。御陵自体もわかりやすい。観光客の歩く自動車道に面している。 この付近は名所・旧跡のメッカである。観光地化した京都らしい京都だ。シーズンになると満員電車なみに混雑するが、御陵を訪ね る人は殆どいない。
【第95代 花園(はなぞの)天皇】 別名:富仁(とみひと) 生没年:永仁5年(1297) 〜 正平3(貞和4)年(1348)(52才) 在位: 延慶元年(1308) 〜 文保2年(1318) 時代: 鎌倉時代終末 父: 伏見天皇 母: 藤原季子(洞院) 皇后: 藤原頼子 皇妃: 正親町実子、藤原氏 皇子女:寿子内親王、覚誉親王、源性親王、直仁親王、儀子内親王、祝子内親王、他 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 十楽上陵(じゅうらくいんうえのみささぎ:京都府京都市東山区粟田口三条坊町)
花園天皇は、永仁5年(1297)、持明院統の伏見天皇の第2子として誕生し、12才で即位した。諱(いみな)は富仁、幼少時から健康 に恵まれず、専ら絵画・書籍の観賞や読書研究に努めた。極めて才知があり、歴代天皇の中でもその学識や読書量は並はずれていた。
しかし、12才から22才までの10年間の在位中にその才能を十分に生かす機会はなかった。実権は父の伏見上皇にあったからだ。 在位10年を経た22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となった。時あたかも皇室と北条・足利両政権をめぐる激動 の時代で、帝は殆ど政務に関与せず、ひたすら学芸に精進した。 39才で天台の円観慧鎮僧都について剃髪得度(出家)、法名を遍 行と称し花園法皇といわれるようになった。
貞和4年(1348)花園法皇は52才の生涯を閉じ、正法山妙心禅寺は花園法皇を開基としている。花園天皇には、22年間の行状や 生活の様子を繊細に記した日記「花園院宸記」があり、法皇の人柄をしのぶことができる。
後醍醐天皇の御代、ある時伏見上皇に幕府打倒の異心ありとする嫌疑がかけられる。事態は何とか収束するが、その機に乗じて大覚 寺統の巻き返しが始まる。 89代後深草天皇に端を発した「持明院統」と「大覚寺統」の対立は、鎌倉幕府・北条体制の介入をみながら数十年に渡って継続し ていく。陰謀や猜疑心が渦巻き、天皇家は皇位を巡る争いにあけくれたのである。花園天皇の譲位を受けた後醍醐天皇の時代に至っ て、遂に天皇家は日本史上はじめて2系統に分かれて争い、世に「南北朝時代」と呼ばれる。