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伴大納言絵巻

応天門の変
2008.1.1 NHK BS特集





	<応天門の変>	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年( 866)に起こった政治事件である。応天門が放火され、大納言
	伴善男(ばんのよしお/とものよしお)は左大臣源信(みなもとのまこと)の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房(ふじ
	わらのよしふさ)の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これに
	より、古代からの名族「伴」氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。

	<経過>
	大納言伴善男は左大臣源信と不仲であった。源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相(ふじわらのよしみ)がな
	り、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。864年に伴善男は源信に謀反の噂があると言い立てたが、これは取り上
	げられなかった。866年閏3月10日、応天門が放火炎上する事件が起こる。朝廷は大騒ぎとなり、盛んに加持祈祷を行った。
	ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発する。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏をの
	ろって火をつけたものだとされた。
	藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しん
	だ。参議藤原基経(ふじわらのもとつね)がこれを父の太政大臣藤原良房に告げると、驚いた良房は清和(せいわ)天皇に奏上し
	て源信を弁護した。源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。

	8月3日、備中権史生(ごんのしょう)の大宅鷹取(おおやけのたかとり)が応天門の放火の犯人は伴善男とその子伴中庸(ばん
	のなかつね)であると訴え出る。鷹取は、応天門の前から善男と中庸、雑色の豊清(とよきよ)の3人が走り去ったのを見て、そ
	の直後に門が炎上したと申し出た。鷹取の子女が善男の従僕生江恒山(いくえのつねやま)に殺されたことを恨んでいたとも、鷹
	取の子が善男の出納の子供と喧嘩して、その出納が鷹取の子を死ぬほど殴りつけたのを恨んでのことともされる。
	(「子供の喧嘩に親が出る」の初源。)

	鷹取は左検非違使に引き渡される。天皇は勅を下して伴善男の取調べを命じた。伴善男、伴中庸、生江恒山、伴清縄(ばんのきよ
	なわ)らが捕らえられ厳しく尋問されるが(杖で打ち続けられる拷問を受けていた可能性もあり)、彼らは犯行を認めなかった。
	9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。伴善男は伊豆国、伴
	中庸は隠岐国、紀豊城(きのとよしろ)は安房国、伴秋実(ばんのあけみ)は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井
	(きのかい)らが処分された。また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために、藤原良房が朝廷の全権
	を把握する事になった。この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政とな
	り藤原氏の勢力を拡大することに成功した。

	事件は「伴大納言絵詞」(ばんだいなごんえことば/とものだいなごんえことば:絵巻とも言う。)にも描かれている。「伴大納
	言絵詞」は、『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と並んで四大絵巻物と称され、現在国宝に指定されてい
	る。作者は常磐光長(ときわみつなが)とされ、東京の「出光美術館」が、昭和57年若狭国(福井県)小浜藩主の子孫から32
	億円で譲り受けた。



上の絵をクリックしてみてください。これが「応天門炎上」を描いた有名な絵です。(伴大納言絵詞より、応天門炎上の場面)
	一説によれば、

	貞観8年( 866)閏3月10日、平安宮大内裏の朝堂院の正門・応天門から出火した。火は瞬く間に燃え広がり、応天門は全焼、
	両脇の棲鳳楼(せいほうろう)・翔鸞楼(しょうらんろう)も灰燼に帰した。朝廷内外の衝撃を与えたが、2ヶ月余り後にはさらに大
	きな衝撃を朝廷に与えた。左大臣源信が応天門に放火したというのである。
	大納言伴善男と源信の間は、貞観年間の初め頃から次第に不和となり、善男は源信の失脚の機会を狙っていたが、応天門の炎上を
	源信の放火にして、源信の左大臣解任を謀った。当時、右大臣には藤原良房の弟の藤原良相がいたが、善男は良相と相謀り、良房
	の嫡子(養子)藤原基経に命じて、左大臣邸を囲ませ、源信を逮捕させようとした。その時藤原基経は事の重大さから、太政大臣
	の藤原良房も承知のことかと良相に訊ねたところ、良房は仏法三昧にふけり政務を見ていないから知らないはずであると答えたの
	で、基経は良房に事の次第を伝えた。その報せを聞いた良房は、直ちに左大臣のために帝に釈明し、源信は難を逃れることができ
	たのである。
	さらに2ヶ月後の8月3日、もう一度大きな衝撃が宮廷内外に走った。備中権史生大宅鷹取が、伴善男・伴中庸父子が放火犯人で
	あると訴え出たのである。善男は頑強に否定し続けた。その間に鷹取の女が殺され、善男の従者の生江恒山らが捕らえられた。
	恒山らは鷹取の密告を恨み、その女を殺害したらしいが、その取調中に応天門の放火は伴中庸の仕業と自白したのである。しかし
	伴中庸が父伴善男の命に依ったことは疑いなく、善男は当然大逆罪として斬刑となるところを、とくに死一等を減ぜられて伊豆に
	遠流となり、財産いっさいを没収されることとなった。伴中庸・紀豊城らの共犯、縁座の者十二人もそれぞれ遠流となった。

	という非常に不透明な事件である。結局誰が応天門を焼いたのか。果たしてほんとに放火なのかも含めて、さっぱり分からない。
	果たして真相は?





	平成20年1月1日、NHKのBS特集番組でこの「伴大納言絵詞」を取り上げていた。貴族とその従者(探偵とその助手)が、
	絵巻の中へ入り込んで、「応天門の変」の謎を解明するという番組だった。49インチのハイビジョンで見る「伴大納言絵詞」は
	綺麗で、CGもなかなか良くできていて面白かったのでここに紹介したい。謎解きは、番組の進行と共に徐々に進んでいくのであ
	るが、もちろん結論は出なかった。この事件を巡っては、学界でも解釈は様々にわかれているので、ここで結論を出せないのは当
	たり前だろう。


	<伴大納言絵巻>
 
	伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば、とものだいなごんえことば)とも言う。応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。
	「応天門の変」の約300年後、後白河法皇が「年中行事絵巻」とともに常磐光長に描かせた、と言われる。
	作成年は1177年とも言われるが定かではない。冒頭の詞書は失われているが、内容は宇治拾遺物語・巻第十の「伴大納言、応
	天門を焼く事」で補うことができる。応天門の変における、大納言伴善男の陰謀を描いた作品で、放火され、炎上する応天門、無
	実の罪で捕らえられる左大臣源信と、嘆き悲しむ女房ら、舎人の子供の喧嘩から真犯人が発覚、伴善男を捕らえる検非違使の一行
	という全3巻の巻物構成になっている。
	平安時代の人々を描いたものとして非常に優れており、特に検非違使の活動を伝える具体的なものであり、歴史學史料としての価
	値も高い。(但し、人物は院政期のものとされる。)人物や炎の表現に優れ、大胆な画面構成も高く評価されている。

	日本史の教科書によく描かれている、事件の真相解明のきっかけとなった子供の喧嘩の場面では「異時同図法」という手法が用い
	られている。これは、一つの場面の中に、舎人の子供と大納言伴善男の出納の子供が喧嘩しているところに出納が駆けつける、出
	納が舎人の子供をけとばす、出納の妻が子供を連れて帰る、という三つのシーンを一つの場面の中に描いたものである。
	2004年9月から東京文化財研究所が、蛍光X線分析法や高精細デジタル画像解析などの最新技術で化学的分析を行っており、
	顔料には純度の高い品質のよい物(おそらくは輸入品)が使用されている事や、人物や炎については下書きがなく一気に描かれた
	ことなどが判明した。分析にはまだ数年かかる見込みである。


	<宇治拾遺物語> 巻十には以下のようにある。

	水尾帝(清和天皇)の御時、応天門が焼けた。その時、大納言・伴善男が「これは左大臣・源信の仕業です」と申し出た。すると
	右大臣藤原良相の兄の忠仁公(太政大臣・藤原良房)が白川から駆けつけて、そのようなことはよくよく調べてから対処なさいま
	すようにと天皇に奏上。頭中将(藤原基経)の働きもあって、源信に関しての取り調べは保留になる。
	そして秋頃、右兵衛の舎人が、応天門が焼けた直前、門の前から伴善男とその息子(伴中庸)、それに雑色のとよ清の3人が駆け出
	して来たのを見たと申し出た。この舎人は大変なことだからと思い黙っていた。しかしある時、大納言の出納の家の子供と自分の
	子供がケンカをして、自分の子供が死にそうなほど痛めつけられる事件があった。抗議をしに行くと、出納は自分の主人は大納言
	だぞと威張って、謝ろうともしない。そこで腹を立て自分は応天門のことを知ってるんだぞと言う。すると、そのやりとりを聞い
	ていた近所の人々が噂に噂を重ね、やがてお上の耳に届いた。そこで、役人がその舎人を呼びだして、応天門の事件について何を
	知っているのか問いただした所、その日火事の起きる直前に伴善男らを見たことを語る。
	かくして、伴善男らは処分を受けて流刑にされたのである。

	『伴大納言絵詞』『宇治拾遺物語』などでは、善男・中庸・紀豊城(きのとよき)らが放火したとしている。『日本三代実録』でも
	そうなっているが、善男は犯行を否認し続けたという。『日本三代実録』『伴大納言絵詞』『宇治拾遺物語』などは善男が逮捕さ
	れた報復として鷹取の娘が殺されたとある。




	探偵と助手は、貴族と従者に身を代えて応天門炎上の謎を解くべく、絵巻の中へ入っていく。

	この話に一貫して登場してくるのが検非違使であり、この絵巻は院政時代におけるその活動をよく伝えている。なかでも最終の巻
	は、あたかも検非違使の巻といっても過言ではなく、善男が真犯人であることを喋った舎人を使庁に連れていって尋問し、最後に
	は善男を追捕して連行する検非違使の姿を描いている。火事の警護から検断・追補という検非違使の主要な活動を絵巻にしたもの、
	という性格がある。



駆けてくる馬に驚き、思わず身をくねる人物と、「おぉーつ、うまい、うまい」とはやす探偵と助手。



検非違使の一行が大納言の逮捕に向かう。




	「伴大納言絵巻」は平安時代後期の絵巻物の名品、いわゆる「応天門の変」を描き、制作当時流布していた説話文(「宇治拾遺物
	語」114「伴大納言応天門を焼く事」とほぼ同じ内容のテキスト)を詞書に採用して、鑑賞絵巻と成したものである。事実関係
	は別として、出世を願って政敵の抹殺を計った一人の野心家の野望と失墜を描いたドラマ仕立てで、すなわち、策略家大納言伴善
	男はみずから応天門に火を放ち、その罪を左大臣源信に着せる。が、実は目撃者があって、真相は子供のけんかをきっかけに露見、
	事態は急転直下解決に向かい、ここに罪が確定した伴大納言は流刑に処せられるというもの。3巻本であるが、全体は起承転結を
	踏まえた5段構成で、絵巻としても、巧みなデッサン、豊かな色彩感覚、体系だった画面展開は、「鑑賞絵巻」と呼ぶにふさわし
	いという声が高い。



先達が、大納言を逮捕に来たことを大納言の従者に告げている。従者はあわてて出てきたと見えて裸足である。



網代車に後ろ向きに座らされた大納言が連行されていく。



嘆き悲しむ家人達と、「屋敷の中は?」と邸内をのぞき込む助手。



大納言邸内では女房たちが、主人が逮捕されたのを嘆き悲しんで泣き叫んでいる。





「おう、おう、おう、これはどうした事じゃ。みんなしてそのように泣き叫んで!」



「泣かずとも良い、これ、もう泣きやまんか!」「ええい、泣くのを止めぃ。」







	解説書によれば、登場人物はなんと延べ461人という。延べというのは同じ人物が物語の進行に伴って何回も登場するからである。
	しかもそれを絵師は何の下書きもなく描いたことが、X線などを使った調査で判明している。毛筆で一気呵成に顔の表情から細かい
	衣服の文様まで描ききっている。すばらしい才能である。圧巻は、大納言の逮捕が明らかになって奥の間で嘆き悲しむ女たち。巻物
	全体に描かれた嘆きの場面は、探偵でなくとも、あたかも部屋の中の愁嘆場に居合わせたような雰囲気である。「まあまあ、奥さん、
	なんと申し上げてよろしいやら」と言いながらも、内心、「まいったな、こりゃ」という状況であろうか。









番組では、描かれた女房たちの泣く叫ぶ様を、現代のパントマイム演者たちに再現させていた。
それによれば、絵巻は適当に描いたものではなく実際の号泣を見た者が描いているという結論。






























「さて、そろそろ誰が犯人なのか。この絵巻の謎解きをしなきゃならんな。」「じゃまた絵巻の中へ入りますか」





	当時の勢力図は、藤原家は、良房が太政大臣、弟の良相が右大臣の地位にあり、良房の養子で次世代のホープ藤原基経はまだ近衛
	中将である。この基経の妹が、伊勢物語のヒロインで在原業平の恋人・藤原高子。清和天皇の女御で陽成天皇の母となる。良相の
	娘が藤原多美子。同じく清和天皇の女御だが、清和天皇の愛を一身に受けていた。
	一方で、政治勢力の中で無視できない存在だったのは、臣籍に降下した嵯峨天皇の皇子たち、とりわけ源信・源常・源融の3兄弟
	だった。「応天門の変」での一般的な通説は、この事件は良房・基経親子が、一気に良相・大伴・源3兄弟を政治中枢から駆逐し
	ようとしたのではないか、というものである。
	まず大伴が源信を告発することで、あわよくば源信らを外すことができる可能性があった。しかしこの段階では源信が良房を頼っ
	て来たため、それは断念せざるを得なかった。そして次は、目撃者を仕立てて、まんまと大伴に放火の罪を着せることに成功した。
	良房は大伴と一緒に良相も連座させようとしたが、そこまではできなかったという話もある。しかし、結果的には翌年10月良相
	は亡くなり、多美子も子供に恵まれず皇統は高子の生んだ陽成天皇に引き継がれて、良房・基経による「摂関政治」の体制が始ま
	る。この体制がこのあと平安時代末期の「保元の乱」のまで続くことになる。しかしながら、この良房・基経陰謀説もどこまで信
	憑性があるのかは不明である。






	この絵巻では、上巻の応天門出火直後の場面で、後ろ向きに立つ貴族と天皇寝所の広庇にいる貴族がなぞの人物とされ、その行って
	いる行為も不明とされてきた。後ろ向きに立つ貴族は、自らが放った火で応天門が炎上するのを眺める伴善男であるとか、いや靴を
	履かずに飛びだしてきているので、少なくとも下手人ではなく、犯人ではない伴善男か、炎上に驚く源信であろうとか、諸説入り乱
	れている。



束帯の左右で色が違っているのは、実はこの間にもう一枚絵が存在していたが、紛失したので左側を後から書き足したという説もある。




	二人の謎の人物の服装の文様は、「庭に立つ貴人よりも、広廂に侍坐している貴人のほうが藻の密度が大きい」点から判断して別人
	であるとか、この文様や束帯からみて三位以上の人物であるとか、人物の顔を塗るのに用いられている顔料が好奇な人にしか用いら
	れていないとか、番組はこれまでのさまざまな解釈を紹介しているが、結局それらも、決め手にはならないという結論になる。






	天皇寝所の広庇にいる謎の貴族。伴善男、藤原良相、藤原基経説などがある。これまでこの部分の解釈は、広庇にいる貴族は中の様
	子を窺って聞き耳をたてているとか、あるいは帝に訴えを取り次いでいる、とか理解されてきた。伴善男、藤原良相、藤原基経の誰
	をこの人物とするかで、この絵巻全体の理解も変わってくる。
	広庇にいる人物が善男とすれば、その前に描かれている背を向けて立つ貴族も善男だろう。背を向けて立つ人物が火事を眺める善男、
	その人物が広庇で天皇に訴えている貴族(良房)を見て、聞き耳をたてている。「源氏物語絵巻」が、時間の流れを一つひとつの場
	面ごとに中断し、詞書によって場面と場面を繋いでいるのに対し、「伴大納言絵巻」では、時間や空間の連続性が重視されていると
	同時に、ときにはそうした時間の流れが重ね合わされ、物語を効果的に表現している。そういう絵巻の意図からすれば、ここに描か
	れている人物は「大納言伴善男」その人であると解釈すべきだろうと思う。




	良房が応天門の変を利用して、摂政に就任しようとしたとする説や、また伴善男を放火犯人にしたのも実は良房の差し金であったと
	の説に対して、以下のような反論もある。

	「応天門の炎上後、政局の混迷は甚だしかった。太政大臣藤原良房は、貞観6年( 864)冬頃から病の為もあって出仕せず、専ら仏法
	三昧の生活であった。左大臣源信は当初犯人に仕立てられかけて以来、自宅に籠もって政治を見ず、右大臣藤原良相は左大臣邸を囲
	む失政を行っている。そして大納言伴善男が逮捕された。一体誰が政治を執るのか。当時、清和天皇は元服を終えたとはいえ、未だ
	17歳である。混迷した政局を乗り切るためにはあまりにも若年過ぎる。そこで良房の出仕を請うに当たり、新たに摂政という職を
	設けて補政を行わしめようとしたのである。従って良房の摂政就任は、天皇の要請に基づくものであって、良房の画策によるとする
	のは結果論というべきであろう。」

	だが、この事件にはかなりの疑問点があり、事件には複雑な政治的背景がある。清和天皇は、当時最大の実力者藤原良房の孫にあた
	る。嘉祥3年(850)3月、良房の娘、明子(めいし)を母として、良房の館一条第で誕生した。文徳天皇は惟喬(これたか)親王を
	押したが、良房の意志によって、生後9ヶ月にして異母諸兄を飛び越えて立太子した。文徳天皇が没すると9歳にして即位し清和天
	皇となり、良房は人臣として初の摂政となった。
	もともと、血統を誇る源信ら嵯峨源氏と、光仁天皇の頃に台頭してきた伴善男ら文人派との間には抜きがたい対立があったが、時の
	権力者藤原良房も文人派の排除を狙っていたとされる。事件の最中、良房は人臣初の摂政となり、跡継ぎの基経(もとつね)を中納
	言に抜擢するとともに、姪の高子(こうし)を入内させ、着々と不動の地位を確立していった。

	事件はやはり、藤原良房の陰謀と考えた方が後の展開が理解できる。大宅鷹取が伴善男に私怨を抱いていたこと、五ヶ月近く立って
	から訴えていること。敏腕な善男の存在が藤原良房にとって目障りであったことなどを考えあわせると、応天門炎上を利用して強引
	に善男を犯人に仕立て、その失脚を謀ったと考えたほうが自然であろう。何と言ってもこの事件で一番得をしたのは藤原良房である
	という点は大事である。伴善男は古代の名氏族・大伴家の末裔で、大伴一族において最後に中央政治に関わった人物である。彼がこ
	の事件で失脚した後、大伴家の名前は歴史の表舞台には出てこない。ここに大伴氏( 821年以降、大伴皇子の名を避けて伴氏と改め
	る)は中央政界から脱落し、一方藤原良房は事件審理中に摂政となり、藤原氏全盛時代の基礎をさらに固めたのである。
	貞観10年(686)、善男は流刑地の伊豆で一人寂しく没した。




	清和天皇の治世は、良房を中心とした藤原北家により摂関政治が確立されてゆく所に特徴がある。清和天皇は多くの女性を愛した事
	でも有名だが、そこに生まれた多くの皇子女たちは臣籍に下り、源朝臣姓を与えられて「清和源氏」となった。
	良房没後、良房の養嗣子基経が実権を握り、清和天皇は基経の妹である皇后高子(後に皇太后)との間にもうけた第一皇子、貞明親
	王(陽成天皇)に譲位して自らは仏門に入った。帝は27歳で突如退位し、余生を山中における仏教修行に明け暮れた。陽成天皇に
	譲位後は、嵐山郊外の水尾に居住し、この地が気に入って、「ここを終焉の地と定む」と遺詔を残した。




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