【第60代 醍醐(だいご)天皇】 別名: 敦仁(あつぎみ) 生誕−崩御:元慶9年(885)〜 延長8年(930)(46歳) 在位期間: 寛平9年(897)〜 延長8年(930) 父: 宇多天皇 第1皇子 母: 藤原胤子 皇后: 藤原穏子 皇妃: 為子内親王、源和子、藤原能子、藤原和香子、藤原桑子、藤原淑姫、源周子、 源封子、藤原鮮子、満子女王、源暖子、他 皇子女:克明親王、保明親王、代明親王、重明親王、常明親王、式明親王、有明親王、時明親王、長明親王、 宣子内親王、恭子内親王、慶子内親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、修子内親王、敏子内親王、 雅子内親王、普子内親王、靖子内親王、韶子内親王、康子内親王、斉子内親王、英子内親王、兼子、厳子、 自明、允明、為明 皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 陵墓: 後山科陵(のちのやましなのみささぎ:京都府京都市伏見区醍醐古道)
この陵は住宅街の真ん中にある。御陵だけが家と家、家と駐車場の中にぽつねんとある。 昌泰3年(900)9月9日、重陽の節句に宮中では観菊の歌会が行われた。翌日の後宴にて右大臣近衛大将であった菅原道真は、醍 醐天皇より作詩を命じられ、宇多上皇・醍醐天皇の恩に報いたいと詠んだ漢詩を献上した。感激した醍醐天皇は御衣を与える。こ の4ケ月後、政敵の時平に西の果てまで流されるとは露程も思わなかった、道真絶頂の時であった。
宇多天皇の第一皇子敦仁(あつぎみ)親王が即位したのは13才の時である。そのため宇多帝は菅原道真と藤原時平を車の両輪とする 天皇親政の政治を画策した。だがその思惑はうまくいかなかった。時平は多くの賛同者を得てライバルの道真に退位をせまった。 天皇の廃位を謀ったという理由で、道真は太宰府の権師(ごんのそち)に左遷される。醍醐帝は、道真の弁護にでた宇多上皇の意見 を無視する形でこの処分を実行した。 昌泰4年(901)正月25日、突然の「道真太宰府左遷」を聞いて驚いた宇多上皇は、醍醐天皇への抗議の為宮中に駆けつけるが、かつ ての宇多上皇の腹心で道真の弟子でもあった「藤原菅根」が門番をしていて、天皇の命令だとして上皇を宮中にいれず、上皇は呆然 と裸足のまま門の外に夜まで立ちつくしていたと言う。道真は、結局九州へと赴き、太宰府の地で59歳で没した。 道真は遺言で、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれと言い残した。味酒安行(うまさけや すゆき)によって遺言は実行され、小さな塚が築かれた。2年後味酒はその場所に祠廟を建てたが、延喜19年、更にこの祠を藤原 仲平が大きな社殿に作り替える。これが現在の太宰府天満宮(福岡県太宰府市)であり、天満宮に牛の像があるのはその故事によっ ている。
時平とともに行われた治世は33年にもおよび、世に「延喜の治」として讃えられている。今日、歴史好きの連中にとってはバイブ ルのような「延喜式」は、醍醐天皇の延長5年(927)に完成し、全国の神社が登録され、諸事万端にわたる規則や式次第が記録され て、我々はそのおかげで1000年前の朝廷の儀式、百官の作法、地方行政の規定、神祇の制度、などを知ることができるようにな った。 だが晩年の帝は、常に道真の怨霊の祟りに悩まされた。道真を太宰府へ流した張本人時平(39歳)、時平の一派で道真を迫害した右大 臣の源光が相次いで早世し、時平の妹が生んで皇太子に立てられていた保明親王までもが没する(21歳)事態に、道真の怨霊の仕業 と恐れおののいた天皇は、太宰府左遷の勅書を破棄し、道真の官位を右大臣に復し、正二位を贈ったが、既に後の祭りであった。 その後も、保明親王の後をうけて立太子した慶頼王(保明親王と時平の娘・褒子との間の子)も5歳で没し、相次ぐ皇太子の死と天 変地異の続発となった。雷神と化した道真は会議中の清涼殿へも雷を落とし、藤原臣下数名の胸を裂いたという。まさに異常事態だ った。この後帝は道真の怨霊におびえながら、自らも病に伏せり、寛明親王(朱雀天皇)に譲位すると程なく46才で崩御した。 醍醐天皇は死ぬ間際に宇多法皇に会いに行こうとしたそうであるが、会って一体何を話すつもりだったのか。 『日本紀略後篇・百練抄』 「殿上に侍する者大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫は衣焼け胸裂けて夭亡す(年六十三)。又従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希 世は顔焼けて臥す。又紫宸殿に上る者右兵衛佐美努忠包は髪焼けて死亡す。紀蔭連は腹燔け悶乱す。安曇宗仁は膝焼けて臥す。民部 卿朝臣(清貫)は半蔀に載せ陽明門外に至り車に載す。希世朝臣は半蔀に載せ修明門外に至り車に載す。時に両家の人々悉く侍所に乱 入し哭泣の声禁止すれど休まず。……』
醍醐上皇は延長8年(930)崩御し、土葬される。山陵の埋葬主体は、一辺3丈、深さ9尺の土壙を掘り、その中に一辺1丈、高さ4 尺3寸の「校倉」を納め、さらにその中に棺を入れたもの。外部構造としての墳丘はないが、陵上には卒塔婆3基を立て、承平元年 (931)には空堀が掘られた。現陵は直径45mの円憤だが、盛り土はなく周囲に周溝と外堤をめぐらせている。 鎌倉時代の「宇治郡山科郷古図」に「延喜御陵」として挙げられている事、醍醐寺が陵の管理と祭祀を継続していた事などから、こ の陵は、醍醐天皇陵と見なしても問題なさそうである。 怨霊物語 古来から、無実の人間が陥れられて、その怨念が時の政権に祟るというのは日常茶飯事的に記録されている。これはおそらく、当時 にあっては広く一般社会に受け入れられていた概念だろうと思う。今日では一笑に付されるようなお話も、古代にあっては真面目に 取りざたされていたのである。藤原氏に冤罪をかけられ、流罪になった光仁天皇の皇后・井上(いのへ)内親王、皇太子・他戸親王 (おさへしんのう)。桓武天皇の弟で、反逆罪で流刑となった早良親王(さわらしんのう)らは特に有名である。 彼らの怨霊は、その高い地位の故に一般の怨霊とは区別されて「御霊」と呼ばれることもあるが、生前の権力が強大だったこともあ って、死後も天変地異や疫病を引き起こす力があると信じられていたようである。古来、御霊を慰めるための様々な催しが幾度と無 く行われてきており、京都の「祇園祭」などはその名残と言われている。 怨霊(御霊)信仰が社会に及ぼした影響については、古くは梅原猛、最近は小説家の井沢元彦らが言及しているが、御霊信仰は近世 に至るまでこの国の支配層に根付いており、明治天皇は、「末代まで天皇家に祟ってやる」と言い残して死んだ崇徳上皇の鎮魂のた め、その鎮守府を讃岐から京都へ移している。(京都・白峰神社) 太宰府において死んだ菅原道真の怨霊が、政敵に祟り、天地異変を起こしたことは「怨霊復讐劇」としては最初のものとされるが、 当時の記録には見えないようである。文献での初現は、「日本紀略」延喜23年の条に、「菅帥の霊魂宿忿の仕業と世間は噂せり。」 とある。道真が左遷されたのは昌泰四年(延喜元年)正月だから、23年後という事になる。道真は、延喜3年(903)に死去したが、 死後20年間に渡ってのあらゆる凶事が道真のせいだとされたのは、それだけ道真の生前の権力が大きかったのだとも言える。