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第25代 武烈天皇
2001.MAR.10 傍丘磐杯丘北陵






		<第25代 武烈(ぶれつ)天皇>
		異称:  小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと:日本書紀)、
			小長谷若雀命(おはつせべのわかさざきのみこと:古事記)
		生没年: 仁賢天皇2年 〜 武烈天皇8年 58歳(日本書紀)
		【この生没年は全く信憑性がない。18歳で没した事になったり、父仁賢が10歳の頃に生まれたりしている。】
		在位期間  仁賢天皇11年(武烈天皇元年) 〜 武烈天皇8年
		父: 仁賢天皇 第1皇子
		母: 春日大娘(かすがのおおいらつめ)皇女(雄略天皇の皇女)
		皇后: 春日娘子(かすがのいらつめ)
		皇妃: 
		皇子皇女: 
		宮: 泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや:奈良県櫻井市初瀬)
		陵墓: 傍丘磐杯丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ:奈良県北葛城郡香芝町)




		JR大阪天王寺駅から大和路線に乗り、王寺で和歌山線に乗り換える。王寺からはすぐである。2つ目か3つ目の駅、志都美(しずみ)
		で降りる。この駅には、武烈天皇の叔父(父仁賢天皇の弟)、顕宗天皇の御陵もある。訪れた日は生憎の雨模様だった。駅員一人の
		小さな駅である。




		駅員のオジさんは親切だった。こまかく道を教えてくれたが、午後から寝屋川へ講演会を聞きに行くので、顕宗天皇陵は又の機会に
		して、とりあえず武烈天皇陵を見ることにした。下右は、途中にあった針灸院。変わった格好だったので思わず写してしまった。

 




		「古事記」の武烈天皇の記事はその前後の天皇達と同様にわずかである。すなわち、

		「天皇は長谷(はつせ)の列城宮(なみきのみや)におられて、天下を治めること8年であった。この天皇は太子がなかったので、
		御子代(みこしろ)として子長谷部(おはつせべ:未詳)を定められた。御陵は片岡(かたおか)の石杯岡(いわつきのおか)にあ
		る。そのため応神天皇五世の子孫、継体天皇を近江の国から呼び寄せ、手白髪命(たしらかのみこと)と結婚させ、天下をお授け申
		し上げた。」

		となっている。実に簡単な記事である。
		後半部になると古事記の記事は全く簡略だ。このあたりが古事記の謎を解く鍵かもしれない。それはともかくとして、「子長谷部」
		とあるのは何のことか現在でも不明である。日本書紀に、天皇が後世に我が名を伝えよと指示したとあるので、それを受け持つ一族
		あるいは役所の事かと考えられている。短い「古事記」に反して「日本書紀」の記事は詳しい。 概略を記すと、

		武烈天皇は仁賢(にんけん)天皇の皇太子である。母は春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのきさき)と言う。成人となられてか
		らは刑罰の是非の判定を好まれ、法令に通じ、日が暮れるまで政務を行い、隠れた冤罪も必ず明らかにし、訴えを処断されても道理
		にかなっていた。また、悪行を重ねられ、良いことは一つもなさらなかった。(なんか矛盾しているような気がする。)
		およそすべての極刑で、自分でご覧にならないものはなかった。国内の人民は皆恐怖に震えていた。

		と、まぁこんな調子で始まる。今までの天皇の記事と違って、なんじゃこりゃ、というような悪人面からその記事が始まっているの
		である。




		仁賢天皇の死後、大臣平群真鳥臣(おほおみへぐりのまとりのおみ)は驕慢で国政を恣(ほしいまま)にし、臣下としての礼節がま
		るでなかった。武烈天皇は、嫁にと望んだ物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘影媛(かげひめ)が、平群真鳥
		臣の息子鮪(しび)にすでに犯された事を知り、大そう怒って鮪を殺し、大伴金村連(おおとものかなむらじ)とともに平群真鳥臣
		も焼き殺す。そして即位し、大伴金村連を大連(おおむらじ)とするのである。
		ある説によれば、これが元で武烈天皇は一生女を憎み妻帯しなかったのだと言うが、むろん書記にはそんなことは書いていない。
		この後、日本書紀は残虐とも言える武烈天皇の行為を書き連ねている。

		2年秋、妊婦の腹を割いてその胎児をご覧になった。
		3年冬10月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
		4年夏4月に、人の頭髪を抜いて梢に登らせ、樹の根本を切らせて、登っていた者が落ちて死ぬのを眺めるのを楽しみとされた。
		この後突然百済の末多王の話が出てくる。残虐だったので国民に殺されたという話なのだが、武烈と対比させて挿入されたものだろ
		うか。
		5年夏6月に、人を池の堤の樋(ひ)に伏せて入らせ、外に流れ出てくるのを三つ又の矛で刺し殺してはそれを楽しまれた。
		7年春2月に、人を樹に登らせ、弓で射落としてお笑いになった。
		8年春3月に、女を裸にして平板に座らせ、馬を全面に引き出して交接させた。女の陰部を見て、潤っているものは殺し、
		潤っていないものは召し上げて官婢とされた。そしてそれを楽しまれた。

 

		とまぁ、こんな調子なのだ。この後すこし記事があって、天皇は崩御された、で武烈記は終わっている。日本書紀の武烈天皇の記事
		は、その悪逆非道ぶりを記すだけで他にはなにもない。これは一体どうした事か。
		日本書紀というのは天皇紀である。天武の子舎人親王が編纂した、天皇家の歴史を書き記した書物なのだ。それ故に母の持統天皇御
		代までしか記録されていないが、これらの武烈天皇の記事は何かおかしい。どうしてここまでの、いわば天皇家の恥のような記事を
		収録したのであろうか。定説では、
		次の継体天皇が皇脈から遠く(応神天皇の5世孫)、そのため正当性を広くアピールするために、直前の武烈天皇をことさら悪人に
		仕立てて、継体天皇の善帝ぶりを際だたせるためだろう、とされている。はっきりそう断じている学者もたくさんいる。つまり、ほ
		んとは武烈はそんな極悪人ではなかったと言うのだ。

 


		だが私はどうもすっきりしない。継体天皇の即位は、武烈の死後側近達が探してつれてきたと言うことになっているが、武烈は継体
		に殺されたとは考えられないのだろうか。武烈天皇はほんとに残虐な大王で、見かねた側近が継体を連れてきて武烈体制を倒した可
		能性はないのだろうか。ある人に話したら、「それならそうと書記に書いてあるやろう」と言う返事だったが継体は、武烈の非道ぶ
		りに怒って決起した、皇族とはなんの血脈もなかった人物のような気もする。
		それ故、大和に入るのに20年もかかったのではないか。大伴金村が継体天皇を擁立して、その後6世紀にかけて大伴氏が隆盛を誇る
		ことを考えたらこの説はかなり信憑性が高いように思うのだがいかがなものだろう。(大伴金村は、512年、任那4県を百済に割譲し
		たため、物部尾輿らの弾劾にあって失脚した。)



		この古墳がほんとに武烈の墓なのかどうかは、今となっては皆目わかりはしないのだが、もしそうだとしたら、恨みを抱く民衆によ
		って、墓の中はとっくに盗掘され尽くしているのではなかろうか。

		近鉄大阪線五位堂駅から西へ5,6分歩いた、大和高田市築山に「狐井城山古墳」というのがある。地元にはここが武烈天皇陵とい
		う伝承があって、今は「陵墓参考地」として宮内庁の管轄下に入っている。濠を持った結構大きい古墳である。昔、20年ほど前、
		この近くのお客さん(靴下メーカーさん)を訪ねた帰り、ぶらっと寄ってみたことがある。その頃は、こんな天皇陵めぐりをするこ
		とになるなど思いもしなかったのだが、今になって思えばその頃から興味はあったのだろう。
		(ちなみに、狐井城山古墳については顕宗天皇陵という説もある。)





 


		御陵の南側には延喜式内社の「志都美神社」がある。一般的に、御陵の側にある神社は、その墓の主を守るために建てられた鎮魂所
		ではなかろうか。

 

 

 


		桜井市出雲付近に泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)跡の碑が建っている。武烈天皇の泊瀬列城宮の伝承地である。
		歴史街道案内板として桜井市教育委員会の手で立てられている。この付近には、朝倉遺跡と脇本遺跡という遺跡があり、朝倉遺跡は、
		朝倉小学校改築に伴う調査で検出された。六世紀の石溝が発見され、現在体育館の下に埋めて保存されている。また、西隣の春日神
		社を中心とした脇本遺跡からは、五世紀から七世紀にかけての、大型掘立柱建物や石溝・柵列が発見されており、両遺跡ともに泊瀬
		朝倉宮(雄略天皇宮殿)や、列城宮(武烈天皇宮殿)の候補地の一つとして、重要な遺跡である。


		【小長谷若雀命】武烈天皇 (古事記)

		長谷若雀命、坐長谷之列木宮、治天下捌歳也。
		此天皇无太子。故、爲御子代、定小長谷部也。御陵在片岡之石坏岡也。天皇既崩、無可知日續之王。故、品太天皇五世之孫、袁本杼
		命、自近淡海國、令上坐而、合於手白髮命、授奉天下也。


		【小長谷若雀命(おはつせべのわかさざきのみこと】武烈天皇

		小長谷の若雀の命、長谷の列木(なみき)の宮に坐しまして、天の下治しめすこと捌歳也。
		此の天皇に太子无し。故、御子代と爲て小長谷部を定めき。御陵は片岡の石坏(いわつき)の岡に在り。
		天皇既に崩(かむざ)りますに日續を知らす可き王無し。故、品太(ほむだ)の天皇の五世の孫、衰本杼(をほど)の命を近つ淡海
		の國より上り坐さしめて、手白髮(たしらか)の命に合わせて天の下を授け奉りき。



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