【第91代 後宇多(ごうだ)天皇】 別名: 世仁(よひと) 生没年:文永4年(1267) 〜 元亨4年(1324)(58歳) 在位: 文永11年(1274)〜 弘安10年(1287) 父: 亀山天皇 第3皇子 母: 洞院佶子(京極院) 皇后: 藤原忠子 皇妃: 瑞子女王、揄子女王、堀川基子、藤原氏 皇子女:邦治親王(後二条天皇)、奨子内親王、尊治親王(後醍醐天皇)、 性円親王、承覚親王、性勝親王、他 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 陵: 蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ:京都市右京区北嵯峨朝原山町)
後宇多天皇は亀山天皇の第3皇子で、父亀山天皇の譲位を受け8歳で践祚した。当然亀山上皇の院政が行われる。院政を行う「治天の 君」は、天皇の親でなければならない。後宇多天皇が即位した時点で、実父である亀山帝が「治天の君」になれるというわけである。
しかし、それは亀山帝の兄、後深草上皇が「治天の君」になれないという事でもある。亀山天皇の兄であり、同じ上皇でありながら、 後深草上皇にとっては当然面白くない。しかも後宇多天皇は、末代の英主と言われるほどの名帝だった為、在位は13年9ケ月に及 び、弘安10年(1287)に、伏見天皇が践祚するまで在位するのである。後宇多天皇は21歳の時、後深草上皇の皇子煕仁(ひろひ と)親王に譲位し、この時点で、後深草上皇にとっては待望の院政が行えるようになったのである。
この時点では、「両統迭立」はまがりなりにもほぼ実行されてゆくが、やがて両統の対立は激化してゆき、大覚寺統内における分派 行動も出現して、この争いには鎌倉幕府もあきれる程の様相を呈するようになるが、その経緯については、次代の後二条天皇の項に 譲る。 文永・弘安の2度の元寇はこの帝の在位中である。父の亀山上皇と一緒になって「元国退散」の調伏を行った。 後宇多天皇は幼時より学を好み、内外(ないげ)の典籍を修め、仏典の講究、仏道の修練に熱心であった。徳治2年(1307)、仁 和寺禅助(ぜんじょ)についてにわかに出家、法名金剛性(こんごうしょう)と称した。大覚寺の側に宮室をつくり、世事をさけて 専ら密教を修め、宇多天皇、円融天皇の例にならって東寺で灌頂(かんじょう)した。正中元年(1324)、大覚寺殿にて58歳で崩 御、同月蓮華峰寺(れんげぶじ)の傍山に埋葬された。
後宇多天皇が大覚寺で法皇となり、4年間にわたって院政を執ったので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれるようになり、亀山・後宇多 の皇統を、以後「大覚寺統」と呼ぶようになる。南朝の源であり、その後持明院統派の北朝と長きに渡って争うことになるのである。
随筆「徒然草」(1330頃成立)の作者である吉田兼好は、後宇多天皇に武士として仕えていたが、天皇が正中元年崩御すると出家し、各 地を変遷して、京都雙丘(ならびがおか)に居住した。