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第97代後村上天皇陵
2001.December 大阪府河内長野市






		観心寺(かんしんじ)
		大阪府河内長野市寺元。近鉄長野線「河内長野」下車。南海バスで約20分「観心寺」下車、徒歩3分。タクシ−だと7,8分。  
		境内には後村上天皇の檜尾陵をはじめ、国宝の金堂、楠公(楠木正成)首塚、楠公建掛塔などがある。本尊は「如意輪観世音菩
		薩」で国宝である。観心寺の開祖も「役行者」だ。はじめは霊心寺とよばれていたようだ。その後、観心寺と改称される。



 

上左は南朝方の武将「楠木正成」像。下の全景で左の方に立っている。






		【上記2つの図、および以下に記された青字の解説文は、寺で貰った由緒書による】
 

 




		後村上天皇後旧跡: 後村上天皇行在所、約10ヶ月、日本の政治をここで執行。山門を入ってすぐ右手にある。

 



		
		中院: 楠木家の菩提寺。正成八歳から十五才までの学問所。正成の首級が送り届けられた時、長男正行が切腹しようとしたところ。
		瓦の紋も「菊」だ。

 


		金堂(国宝)
		金堂は大阪府下最古の国宝建造物であり、七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式の代表的な遺構である。
		室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中頃、明治の始め、昭和の初め等たびたび修理し、昭和五十九年に昭和
		大修理の落慶をみた。本尊は如意輪観音で脇侍(わきじ)は不動明王、愛染明王、内陣に板製の両界曼陀羅がある。





 









 

楠木正成首塚: 正成湊川で討死後、足利尊氏の命令によってその首が当寺に届けられ、ここに祀られる。

 

 



新待賢門院墓: 後村上天皇の母、阿野廉子のこと。



 




				【第97代(南朝2代)後村上(ごむらかみ)天皇】
				別名: 憲良(のりなが)、のち義良。
				生没: 嘉暦3(1328)年 − 応安元・正平23年(1368) (41歳)
				在位: 延元4(1339)年 − 応安元・正平23年(1368)
				父:  後醍醐天皇 第8皇子
				母:  阿野廉子(新待賢門院)
				皇后: 
				皇妃: 女御・藤原氏
				皇子女:寛成親王(長慶天皇)、熙成親王(後亀山天皇)、惟成親王、
				    師成親王、泰成親王、説成親王、良成親王、皇女某
				皇居: 吉野宮(よしののみや:奈良県吉野郡西吉野町)、
				    住吉行宮(すみよしのあんぐう:大阪府大阪市住吉区)、
				    賀名生宮(あのうのみや:奈良県吉野郡西吉野町)
				御陵: 観心寺 檜尾陵(ひのおのみささぎ:大阪府河内長野市寺元)  




		父後醍醐天皇同様、「反北朝」は徹底していた。幼少から戦塵の中で育ち、歴代天皇の中では珍しい武闘派である。1333年わずか6
		歳で北畠親房・顕家に擁せられて陸奥へ参戦、東国の武士を統合する。1339年12歳で父後醍醐天皇の後を受け吉野で即位した。以
		後、在位は30年に及ぶ。帝は再三京都奪還を図り、一時的に京都を占拠したが1ヶ月足らずで敗走し、結局都の奪還はならず、以
		後、賀名生、住吉、河内、などを転々とした。1352年に京都占拠後敗走した時は、帝自ら褐色の鎧・直垂を身につけ、乗馬の鞍に神
		器をくくりつけてようやく賀名生へ落ち延びたというエピソードが『太平記』に載っている。

 

 

ひぇー、また石段かいと思ったが、そんなに段数はなかった。御陵の石段で一番えらかった
(関西弁。しんどかったの意)のは、京都竜安寺の一条天皇陵だ。あれはえらかった。

 


		帝は、正平7年(文和元年:1352)に吉野から住吉大社へ移り、正印殿(しょういんでん)を行宮にした。その後はここが南朝の中心
		地となり、正平23年(応安元年:1368)後村上天皇がここで崩御して長慶天皇が即位し再び吉野に移るまで、約9年間行宮であった。
		晩年は北朝との和平も工作したようだが、成果は得られなかった。
		同じく和平派だった楠木正儀が北朝の軍門に降るのは、帝の死の翌年のことである。御陵は、河内(現河内長野市)の観心寺に作ら
		れた。享年41歳。

 

最後の石段を登りきると、デーンと御陵全景が飛び込んでくる。




		北畠親房(1293-1354)の書いた「神皇正統記」は、皇統と各天皇の御代の記事が書かれた資料ではあるが、執筆の主たる目的はやはり
		南朝の正統性を主張することにあった。幼い後村上天皇の教育の為とも、関東武士に読ませて檄を飛ばす為とも言われているようだ
		が、南朝方にとってはこの本は精神的な支柱になり、日本書紀等に深く根ざした教養を母体にして書かれたこの著は、対立した側で
		ある北朝の人々にもよく読まれたという。







		北畠親房は、長子の顕家とともに後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて、いったん奥州に下り、その後再び義良親王とともに中央に
		戻って、天皇や親王を守って活躍した。後村上天皇が賀名生へ移った際、親房らも同行し、親房はその地で正平9年(文和3年:1354)
		62歳で他界している。その後北畠家は伊勢を本拠地にして南朝を支え続けた。顕家が足利勢と戦った古戦場である大阪の阿倍野神
		社は、北畠親房・顕家親子を祀っており、阪界電車の軌道沿いに今も北畠町が現存している。









もう今年も終わりだというのに、ここにはまだ紅葉があった。



近隣の憂国の士が建てたと思われる石碑・句碑がいくつか建っている。

 

 

 


		宝物殿があったので寄ってみたが、大講堂横の宝物殿は鍵がかかっていた。下の寺に頼めば開けてくれるのだろうと思ったが、又こ
		こまで登って来るのは面倒だったので、もう寄らずに帰ることにした。

 

帰りにバス停まで4,5分歩いた。奇岩の渓谷が橋の下にある。





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