【第99代 後亀山(ごかめやま)天皇】 別名: 熙成(ひろなり) 生没年: ? 〜 応永31年(1424) 在位: 弘和3年(1383) 〜 元中9年(1392) 父: 後村上天皇 第2子 母: 藤原氏(女御?) 皇后: 不詳 皇妃: 不詳 皇子女:恒敦 宮居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 陵: 嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ:京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町) 奥嵯峨野を歩く。落柿舎の脇をズーツと、化野念仏寺方向へ歩いていくと、滝口寺、祇王寺の先にこの天皇陵がある。住宅街の中に 入り口を示す石碑が立っていて、注意していないとこんな所に天皇陵がと見過ごしてしまいそうである。
91代後宇多天皇が大覚寺で法皇となり、ここで4年間にわたり院政を執ったので、大覚寺が「嵯峨御所」と呼ばれるようになる。 また、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだことにより大覚寺統(だいがくじとう:南朝)と称され、以後、京都に 残った持明院統(じみょういんとう:北朝)と南北朝時代を争うことになる。
南北朝動乱期にあって、特に南朝は各地を転戦していたため記録らしい記録が殆ど残っていない。南朝第4代後亀山天皇は、後村上 天皇の第2皇子で長慶天皇の弟にあたるが、出生年月日も不明である。何処で生まれたかの記録もない。 この天皇が歴史に名を残すのは、南北朝の争いを終結した天皇としてである。
足利義満は主要な守護大名達を滅ぼす一方、北朝の朝廷が持っていた各種の権限にも介入してゆき、京都の警察権・裁判権も掌握す る。その一方で南朝の凋落は激しいものがあった。北畠顕能・宗良親王・懐良親王など各地での戦闘を指揮してきた重鎮たちがたて つづけに死去し、もはや戦い続行は不可能な状態になっていた。そのため、講和派の後亀山天皇により和平がはかられることになる。 37歳で即位した帝は、在位10年目に大内義弘の仲介を得て、南北朝統一に踏み切る。南朝元中9年(北朝明徳3年・1392)南北 朝の講和が大覚寺で行われ、南朝の後亀山天皇が、北朝第6代の後小松天皇に三種の神器を譲る。後醍醐天皇吉野潜行以来、約半世 紀ぶりに南朝は京都へ還幸したのである。講和後、後亀山天皇はそのまま大覚寺に入り、これをもって56年に及んだ南北朝の戦い は終わりを告げる。後小松天皇は6歳で即位し、10歳の時南北朝統一を見たのである。講和の条件は以下の通りであった。 一、三種の神器は、後亀山天皇から後小松天皇に譲位される形式で渡されること。 一、今後皇位は、両朝迭立とすること。 一、国衙領は、すべて大覚寺統のものとすること。 一、長講堂領は、すべて持明院統のものとすること。
しかしながらその後、これらの条件は全く遂行される事がなかった。約束だった「三種の神器譲渡式」も行われず、両朝迭立の約束 で、東宮(皇太子)となるはずであった後亀山天皇の皇子にも一向にその気配なく、領地譲渡の話も手続きは進まなかった。一方で 三種の神器を得た後小松天皇側は、これで正統天皇の証が戻ったとして朝廷内外にその認知を求める。後亀山法皇を迎えた幕府側の 処遇は冷ややかそのものであった。今や揺るぎない地位を確立した足利幕府にとって、滅び行く南朝など顧みる価値のない、反乱者 の群れとしてしか映っていなかったのかもしれない。足利義満は「明徳条約」を悉く反古にする。しかも、京都における大覚寺統は、 幕府の厳しい監視下に置かれ、後亀山法皇をはじめとしてその行動の自由は制限された。
ここに至って、応永17年(1410)後亀山帝は、突如嵯峨野を出て旧南朝拠点の吉野にむかった。後醍醐天皇に習い、幕府に反旗を 翻す志を天下に示し、和平の条件の履行を幕府にせまることにこの行動の真意があったとされている。しかし後亀山帝の努力もむな しく、「両統迭立」の破棄を見せつけるように、後小松天皇は応永19年(1412)年、我が子実仁親王(称光天皇)に譲位してしまっ たのである。後亀山帝はこれに対抗し伊勢の北畠満雅(みつまさ)を挙兵させたが、その力は弱くとても南朝再興というようなもの ではなかった。その後、後亀山帝は吉野に応永23年(1416)まで滞在したが、すべての望みを絶たれ、むなしく嵯峨野へ戻ってい った。以後、南朝系統の天皇が皇位に就くことは二度となかった。この、南朝の再興運動を「後南朝時代」と呼ぶ人もあるが、とて も一時代を形成したとは言えない。