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第82代後鳥羽天皇 第84代順徳天皇 2001.12.29 大原陵  京都市左京区大原勝林院町






		京都市内からバスに揺られること1時間あまり(京都駅から)で、有名な観光地大原に着く。春秋には芋の子を洗うような賑わいだが、
		冬、しかも年末の押し迫った時に、観光客は数えるほどである。私もWIFEと娘が買い物に出かけた隙にここへ来た。大掃除をさぼって
		きたのだ。

 



 


		バス停から10分あまり。三千院の石垣、山門を横目で見てまっすぐ行くと突き当たりが「勝林院」で、その手前右手が御陵である。
		鎌倉幕府に反旗を翻し続けた親子は、今はここに仲良く葬られているが、実際死に臨んだ地は遠く離れた隠岐と佐渡であった。
		後鳥羽天皇陵は、三千院の北側にあり、順徳天皇陵と並んでいる。併せて大原陵とも呼ばれている。承久の乱に敗れた後鳥羽天皇は
		隠岐に、順徳天皇は佐渡に島流しにされて、その地で逝去したが、遺骨はこの地に運ばれて埋葬された。
 
 

 

				【後鳥羽(ごとば)天皇】
				別名:尊成(たかひら)・隠岐院・顕徳院・良然・金剛理
				誕生崩御: 治承4年(1180) 〜 延応元年(1239)(60才)
				在位: 寿永3年(1184) 〜 建久9年(1198)
				父:  高倉天皇 第4皇子
				母:  藤原(坊門/七条院)殖子
				皇后: 藤原任子
				皇妃: 源在子、藤原重子、少納言典侍、丹波局、右衛門督、姫法師
				皇子女:昇子内親王、為仁(土御門天皇)、道助親王、粛子内親王、守成親王(順徳天皇)、覚仁親王、
		 	 	    道守、雅成親王、礼子内親王、頼仁親王、尊快親王、道覚親王、熙子内親王、
		 		    尊円親王、覚誉、道伊、道縁、行超  
				宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				御陵: 大原陵(おおはらののみささぎ:京都府京都市左京区大原勝林院町)

 

				【順徳(じゅんとく)天皇】
				別名: 守成(もりなり)・佐渡院
				誕生崩御: 建久8年(1197) 〜 仁治3年(1242)(46才)  
				在位: 承元4年(1210)〜 承久3年(1221)
				父:  後鳥羽天皇 第3皇子
				母:  藤原(修明門院)重子(左大臣高倉範季の娘)
				皇后: 九条立子(九条良経の娘(東一条院))
				皇妃: 藤原某
				皇子女:尊覚親王(天台座主)、慶子内親王、義尹、諦子内親王、覚恵親王、懐成親王(仲恭天皇)、
				    忠成親王、善統親王、彦成王  
				宮居:  平安京(へいあんきょう:京都府京都市)
				御陵: 大原陵(おおはらののみささぎ:京都府京都市左京区大原勝林院町)




		治承5年(1181)、平清盛病死。源平の争いは小康状態に入るが、上野から北陸を迂回して上洛を目指す木曽義仲が、寿永2年(1183)
		5月、平惟盛(これもり)軍を越中倶利伽羅峠(くりからとうげ)で大破し、7月には宇治・瀬田の戦いでも平氏を破った。平宗盛は、
		上皇を擁して西国へ逃げようとするが後白河は山門へ逃亡し、やむなく幼い安徳天皇を抱えて都落ちする。

 


		その翌々日、木曽義仲・行家らが入京するが、平氏一門が神器をたずさえ、安徳帝を奉じて西海へ逃れていたため、都は一時的に天皇
		不在となっていた。後白河上皇はこの難局を打開するため協議の上、九条兼実の議を容れて、新天皇を擁立するという策をとり、占い
		の結果高倉天皇の第四皇子である4才の後鳥羽帝を暫定天皇とした。南北朝を別にすれば、日本史上2人の天皇が同時に存在したのは
		この時だけである。

 


		京都を束ねる義仲と鎌倉の源頼朝の不仲は次第に表面化していき、頼朝は弟義経を京都へ派遣して義仲を討たせた。義経は平家を長門
		に追いつめ、ついに壇ノ浦で平家一門を滅亡させた。文治元年(1185)3月、安徳天皇が携えていた3種の神器は海中に没するが、剣
		のみがついに発見されなかったと記録されている。

 


		壇ノ浦で安徳天皇が没すると同時に、第82代後鳥羽天皇が正式に誕生した。頼朝は全国統一を成し遂げたが、今度は京都の義経との
		対立が表面化した、義経は、後鳥羽院を脅し頼朝追討の院宣を発給したが、兵力徴集に失敗し、西国へ逃走した。頼朝は上皇に迫り、
		守護・地頭の設置を認めさせ、建久3年(1192)、鎌倉幕府が成立した。同時に後白河上皇崩じて後鳥羽天皇の親政となったが、6年
		後の建久9年(1198)、後鳥羽天皇は長子為仁(ためひと:土御門天皇)に譲位し、18才で上皇となった帝はその後も生涯一貫して、
		鎌倉幕府の倒幕を推進した。土御門天皇に譲位した後、23年に渡って院政を行う。事あるごとに鎌倉幕府には反抗し続け、西面の武
		士の新設、和歌所の再興、水無瀬殿造営など公家文化を振興したが、「承久の乱」の敗北で出家し、隠岐に配流となる。
		延応元年(1239)隠岐国海部郡刈田郷の仮御所にて、流刑から18年後60歳で崩御し、刈田山中で火葬に付された。遺骨を藤原能茂が
		京都に持ち帰り、この大原西林院に安置した。後鳥羽天皇は多芸で詩歌にも優れ、「新古今和歌集」を勅撰している。

		土御門天皇は承元4年、弟の守成(順徳天皇)に譲位したが、「承久の乱」は後鳥羽上皇と、この順徳天皇の共同謀議で引き起こされ
		た。土御門天皇は乱には関与していないとされる。
		




		承久の乱
		後鳥羽上皇は、度重なる熊野詣や寺社造営に乱費を繰り返して財政を圧迫し、専制指向を強めていたが、将軍源実朝が緩衝勢力となっ
		て幕府との全面対立には至っていなかった。しかし実朝が甥の公暁(くぎょう)に鎌倉で暗殺されると、後鳥羽は幕府との協調に意欲
		を失い、急速に幕府との関係は悪化していく。上皇は反幕府勢力を引き寄せ、幕府の宮将軍東下(鎌倉詣)要請も蹴ってしまう。息子
		の順徳天皇も反鎌倉で父後鳥羽と決起することを決め、承久3年4月、嫡男懐成(かねなり:85代仲恭天皇)に譲位してしまう。そし
		て5月15日後鳥羽上皇は京都守護職を滅ぼし、ここに「承久の乱」が開始された。
		結果は後鳥羽上皇側の大敗で、参謀の宮廷臣下達は処刑され、後鳥羽は隠岐へ、順徳は佐渡へ、その他の重臣も但馬・備前などへ流刑
		となった。



		
		順徳天皇も、父後鳥羽上皇とともに積極的に倒幕を推進した。兄土御門帝の譲位を受けて践祚後、父の後鳥羽院と共に宮廷の儀礼の復
		興に努め、また内裏での歌会を盛んに催した。幼少期から藤原定家を和歌の師とし、詠作にはきわめて熱心であった。俊成卿女とも親
		交が深く、建保三年(1215)、俊成卿女出家の際などに歌を贈答している。
		建保6年(1218)、中宮立子との間にもうけた懐成親王(即位して仲恭天皇)を皇太子とし、承久3年(1221)皇太子に譲位し、後鳥羽院と
		ともに討幕を企図して「承久の乱」をおこす。乱に大敗し、北条義時により同年、24歳で佐渡に配流される。佐渡へ流されたのち、
		20数年をこの地で過ごしたが、父崩御の知らせを受け、断食の結果46才で崩御した。火葬墓が佐渡の真野にある。慶子内親王(12
		25年〜1286年)は佐渡で生まれた順徳天皇の第1皇女。佐渡の畑野町には女王を祀る一宮神社がある。
	
		順徳天皇 辞世の歌
		「思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江にて 朽ち果てむとは」

		父の後鳥羽院も隠岐に火葬墓があり、謀議には加わっていなかった土御門帝も、自ら望んで流された阿波の鳴門に火葬墓がある。

		後鳥羽天皇 辞世の歌
		「眺むれば 月やはありし 月やあらぬ うき身はもとの 春にかはれる」

		この親子3人は、いずれも都から遠く離れた地で葬られたのである。

 

 

 


		「承久の乱」を朝廷側の立場から見て書かれた「増鏡」の中に、以下のような逸話がある。執権北条義時は、息子の泰時が京都側へ
		討って出ようという時に、「敵中に後鳥羽上皇自身が出馬していたときはどうすればよいか」と訪ねられる。義時の返答は、「御輿
		に向かって弓は引けぬ。神妙に冑を脱ぎ、弓の弦を切って、ひたすらに畏まれ。身をまかせ奉るべし」というものだった。朝廷側の
		立場で書かれたという点を見れば、どこまで真実かはわからないが、当時の朝廷に対する武家集団の「天皇は神聖にして犯すべから
		ざる存在である」という感情はある程度真実だったのではないかと思える。

		これに反して後鳥羽上皇のとった行動は、過去、古代律令制国家に置いて歴代の天皇達がとってきた行動と変わらない。
		北条泰時率いる幕府軍19万が、東海道、東山道、北陸道から、京都へ攻めのぼってきて、承久の乱は朝廷側の惨敗に終わる。5月
		15日に蜂起した乱は1ケ月後の6月15日には幕府軍の入京によって鎮圧される。敗軍の将兵達が、最期の合戦をと覚悟して上皇
		の御所へ駈けつけた時、後鳥羽上皇は門を固く閉ざして会いもせず、「武士どもは、勝手にどこへなりと逃げてゆけ」と言い放つ。
		更に、上皇は入京した北条泰時に使いを派遣し、「この度の討幕運動は、自分の意志ではなく謀臣達の企みである」と訴え、同時に
		北条泰時追討の宣旨を撤回し、これまでの味方の武将達を名指して追討の宣旨を出したのである。
 
		生き延びるためになりふり構わぬ所業と言えば言えるが、一般の感覚から言えば誠にもって情けない。圧倒的な武力を持った、しか
		も政権の担い手としては新参者とも言える武士達に対抗して、生き延びて再度の機会に期待したと考えられなくもないが、それにし
		てもあまりにも無責任、無節操である。このたった1ケ月の政変劇が、本格的に、武家政権への信頼、公家政権への失望を確立した
		のは確かであろう。






		
		2004年、もう夏も終わろうかという9月中旬、北海道の娘が夏休みだと言って帰省した。友人の居る隠岐の島に行くというので、
		後鳥羽天皇の火葬塚の写真を頼んだのだが、先日来の台風で大木が御陵に倒れかかっていて、近くには寄れなかったそうである。
		「立入禁止の札、立っとってんよ。」というわけで、余り鮮明には写っていないが、以下が隠岐の島の「後鳥羽天皇」の火葬塚であ
		る。











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