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第67代 三条天皇陵
北山陵 2001.11.17 京都市北区衣笠西尊上院町





			第67代 三条(さんじょう)天皇
			別名: 居貞(おきさだ)・金剛浄
			父:  冷泉天皇 第2皇子
			母:  藤原超子(藤原兼家の娘)
			生没年:天延4年(976) 〜 寛仁元年(1017)(42歳)
			在位: 寛弘8年(1011)〜 長和5年(1016)
			皇后: 藤原妍子
			皇妃: 藤原綵子、藤原原子
			皇子女:敦明親王、敦儀親王、敦平親王、師明親王、当子内親王、℃q内親王、禎子内親王  
			皇居: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市)  
			御陵: 北山陵(きたやまのみささぎ:京都府京都市北区衣笠西尊上院町)

京都の西大路がつきる北の果て、大文字山のすぐ麓にこの陵はある。下左、山の稜線下に見えているのが「大」の字である。
 


		【三条天皇即位の背景】
		関白藤原道隆が没した後、その長子伊周(これちか)は当然自分が関白になるものと考えていた。だが道隆の後は、道隆の弟で右大臣
		の藤原道兼(花山天皇を謀略で退位させた)が就任する。伊周にとっては叔父にあたる。ところがこの道兼は4月27日関白の宣旨を受け
		た時、既に巷間猛威を振るっていた疫病にかかっており、七日後に死去してしまう。世に七日関白と言われるが、道兼の死で、再度
		関白への望みを抱いた伊周だったが、意外な対立候補が出現する。同じく叔父である内大臣藤原道長である。宮中での勢力バランスは
		ほぼ五分五分であったが、道長の姉で一条天皇の生母東三条院詮子(せんし)が道長を強力に支援し、ついに道長に内覧(ないらん:
		摂政・関白に準じた天皇補佐職)の宣旨が下る。位も右大臣となり伊周より上位となる。伊周は失望し、道長との不仲は決定的となる。
		その後幾つか不穏な事件が続いた後、弟の藤原隆家が法王を弓矢で威嚇するという事件が発生し、加えて法王の従者が殺害されその嫌
		疑が伊周側にかかり、また東三条院(詮子)の病の呪詛の嫌疑も噂され、天子のみの行為である太元帥法を伊周が密かに行ったこと
		などが告発され、伊周・隆家らは流罪となる。翌年伊周は赦免されるが、もはや政治的には無力となっていた。道長は藤原家内部抗争
		で頂点に立ったのである。

 


		【三条天皇と道長】
		一条天皇が崩御(道長長女彰子の夫)して、居貞親王(三条天皇)が即位した。道長は次女研子(けんし)を居貞親王が皇太子の時、
		入内させていたが、その前に三条天皇は大納言藤原済時の娘清子(せいし)の間に、敦明親王以下六人の皇子、皇女をもうけていた。
		三条天皇は冷泉天皇の皇子で、母は道長の姉超子である。三条天皇にとって道長は外叔父であるが、超子が早く死んだので、両者の
		間には血縁的な意識が薄かったと言われる。加えて居貞親王は長い東宮(皇太子)時代を通じて道長への批判をつのらせてきた。
		さらに、研子ではなく清子を中宮にしたことも道長の不興をかっていた。そうした外因と、一方道長は、外孫東宮敦成親王(後一条
		天皇)の一日も早い即位を願っていた。長和3年(1014)1月27日の彗星出現にかこつけ、体調の芳しくなかった三条天皇に対し、道長
		は三条天皇に退位を迫った。天皇の眼病は治癒することなく、しかも焼失後再建された内裏が再び焼失する出来事もあり、三条天皇は
		次の東宮に第一皇子の敦明親王を立てることを条件に、長和5年(1016)1月29日敦成親王(後一条天皇)に譲位する。こうして道長待望
		の外孫が帝位についた。後一条天皇は僅かに9歳。道長は摂政となる。



		さらに道長の追撃は続いた。道長は東宮に後一条天皇の弟敦良親王を擁したかったが、三条天皇の退位と引き替えにやむなく譲歩した
		のであって、三条の皇子敦明親王の東宮(皇太子)には不本意であった。道長は、後一条帝が皇太子の証として所持していた壺切の剣
		を敦明親王に渡さず、敦明親王の母清子の父藤原済時もすでに亡く、敦明親王の後援者は父三条上皇のみであった為、唯一の後盾三条
		上皇が寛仁元年(1017)5月42才で崩御した後、東宮は孤立無援となり、8月9日自ら東宮を辞した。道長は直ちに外孫敦良親王を東宮と
		した。ここに道長の「天皇家外堀埋込オペレーション」は完了した。その後約50年間、道長家は繁栄の頂に居続ける。




		【道長の外戚政策】
		「一家に三后(さんこう)を立つ」と言われた道長の外戚政策は、今日凡人達の眼から見れば非常識を通り越して浅ましさすら覚えるよ
		うな部分がある事は確かである。「そこまでして」と思わせる。しかし凡人達ばかりではない世界では、これに似た政策は今も行われ
		ている。凡人はそんな世界を知らないだけである。一度権力や財力を手にし、その効力の絶大なることを体感した人間達が、それを失
		う事に対する防御のエネルギーは凄まじいものがある。機会が有れば私が見聞きした例をご紹介したいが、ここでは止めておく。
		(ちなみに、私は完全に凡人である。)

		甥の伊周(これちか)に勝利して権力を握った藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を11才の若さで入内させ、後に一条天皇の中宮とする。
		中宮とは皇后の事であるが、通常皇后は一人である。一条天皇には既に定子という皇后がいた為、皇后が2人という前例の無い事になる。
		程なく皇后の定子は他界するので、彰子が正式に中宮となるのではあるが、一条天皇の次に三条天皇が即位する。道長は、三条天皇が
		まだ皇太子で35才の時、次女の妍子(けんし)17才を入内させている。後に三条天皇は元の妃清子を中宮にし、道長の圧力で妍子も
		三条天皇の中宮となり、二代続いて中宮二人という極めて異例な事態を引き興した。また、一条天皇の中宮に彰子、三条天皇の中宮に
		妍子と、一家から二人の中宮を輩出するのも史上初であった。
		道長の圧力で三条天皇が退位し、彰子の生んだ後一条天皇が即位する。後一条天皇が11才になった時、道長は三女の威子(いし)を入内させ、
		後一条天皇の中宮とした。威子の立后によって道長家から3人の娘が中宮となったのである。日本史上、後にも先にもこんな例は無い。
		威子の立后の日、道長の邸宅で酒宴が開かれ酔った道長は和歌を読む。

					「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることも なしと思えば」

		東宮敦良(あつなが:後の後朱雀天皇)親王には、四女嬉子(きし)も用意されていた。


上右は、御陵のすぐ東側にある家だが、御陵よりも緑が多い。この辺りはお屋敷町だ。


		【藤原道長(ふじわらのみちなが)】
		庚保3(966)年〜1027)平安中期の公卿。政治家。藤原兼家(かねいえ)の4男(5男説もある)。母は藤原中正の娘時姫。988年、
		権中納言、991年、権大納言に昇進。995年兄道隆の子、内大臣伊周と争い勝利、内覧の宣旨を受ける。同年右大臣、翌年左大臣に進んだ。
		999年、娘彰子を一条帝に入内させ、翌年中宮に冊立、1012年に娘妍子を三条帝の、さらに1018年威子を後一条帝のそれぞれ中宮にたて
		栄華を築く。1016年摂政となったが、同年左大臣を辞し、同年太政大臣。翌年摂政を子の頼通に譲り、1019年出家し晩年には浄土教に
		傾倒した。法成(ほうじょう)寺を建立し,ここに居住したので「御堂関白」ともよばれたが,実際には「関白」にはなっていない。 
		日記『御堂関白記』、家集『御堂関白集』がある。
		藤原兼家の4男としての道長には、本来は摂政になって権力者になる可能性などなく、兄達の死等の幸運によって地位を築いたという
		見方が一般的である。なお中宮となった娘達の女御達の中に、和泉式部や紫式部などがあり、道長は彼女らのスポンサーでもあった。
		万寿4年(1027)12月4日、自ら建立した法成寺阿弥陀堂の本尊の前で、妻倫子や関白頼通以下有力者が病床を囲む中、午前4時頃、30年
		間無双の権勢を誇った入道前摂政太政大臣従一位藤原道長は没した。享年62歳。

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