【第78代 二条(にじょう)天皇】 別名: 守仁(もりひと) 生没年:庚治2年(1143)〜 永万元年(1165)(23才) 在位: 保元3年(1158)〜 永万元年(1165) 父: 後白河天皇 第1皇子 母: 藤原懿子(よしこ:藤原経実の娘、源有仁の養女) 皇后: 貞子内親王、藤原育子 皇妃: 伊岐致遠の娘、藤原多子、伊岐氏、中原氏、源氏 皇子女:順仁親王(六条天皇)、君子内親王、尊恵 皇居: 平安京( へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ:京都府京都市北区平野八丁柳町)
「院政」の権化、白河法王が崩御してから10年後に、鳥羽上皇と美福門院得子に一子が誕生した。躰仁(なりひと)親王である。 我が子を皇位に着けたい一心の鳥羽上皇は、崇徳天皇に譲位を求め、誕生したのが近衛天皇である。若干3歳であった。 だが近衛天皇が17歳で崩御してしまい、鳥羽上皇と美福門院の間には近衛天皇しかおらず、雅仁親王にはやや問題がある。となれば、 通常なら崇徳上皇の子「重仁親王」に皇位が廻るはずであるが、崇徳が憎くてたまらない鳥羽法皇は、問題ありの雅仁親王に後を継が せた。後白河天皇である。
鳥羽法皇の第4皇子雅仁親王は、若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」「文にも非ず・武にも非ず」などと評さ れ、天皇としての器量には欠ける人物と見なされていた。 しかし、近衛天皇の没後、適当な皇位継承者が見つからず、後白河天皇はその子守仁親王(二条天皇)への中継ぎとして保元元年(1155) 、第77代天皇として即位することになった。崇徳上皇の系統は徹底的に排除しようとしたのだ。「保元の乱」は、この後白河天皇の 即位に反対する崇徳上皇側の不満が原因となって勃発したのである。鳥羽上皇が崩御すると崇徳院はただちに保元の乱を引き起こすが、 その辺りの事情については、先代までの項を参照されたい。
二条天皇。高倉天皇の異母兄。鳥羽天皇の皇后美福門院得子(なりこ)に養育される。久寿二年(1155)、後白河天皇の皇太子となる。 保元三年(1158)8月、保元の乱に勝利した後白河天皇は、15才の二条天皇へ譲位する。和歌を好み、内裏で百首歌や歌会をしばし ば催した。平治元年(1159)、藤原清輔より『袋草紙』を献上される。清輔に詞花集に次ぐ勅撰集『続詞花集』の撰進を命じたが、完 成を見ることはなく崩御した。
二条天皇の御代平治元年(1159)12月、「平治の乱」が勃発し、藤原信頼・源義朝らにより後白河上皇とともに幽閉されるが、平清 盛の六波羅邸に逃れ、得子の八条室町邸に入った。平治の乱を平定した平清盛は、翌永暦元年(1160)正三位の参議となり、武士とし ては初めて公卿の列に加わる。また、長寛2年(1164)には、平清盛は安芸の国厳島神社に平家納経を奉納し、同年後白河上皇のため に京都東山に蓮華王院(三十三間堂)を造営した。
乱後、二条天皇は近衛天皇の后であった太皇太后宮多子(まさるこ)を后に迎える。後白河上皇は、譲位後も院政を行い、政治の実権 を握り続けた。親政をめざした二条天皇は、父後白河院と対立、関白基実・太政大臣藤原伊通を重用した。しかし上皇の権力は大き く、結局二条・六条・高倉と三代の天皇の御代に渡って君臨し、二条、六条両天皇自らは院政を行うこともなく、後白河上皇の思い のままであった。遊芸の皇子の次に院政を行うのは高倉上皇である。後白河という人は「非文非武」などではなく、結構非常に老練 な人物だったのかもしれない。 二条天皇は長寛二年(1164)、待望の皇子(のちの六条天皇)を得たが、翌年の永万元年(1165)6月病により譲位、2歳の六条天皇が即 位した。翌月、23歳で崩御した。
【平治の乱】 保元の乱勝利者側に源義朝がいたが、恩賞が少なすぎたのに加え、平清盛に比べて不公平だったのと、保元の乱で敗者となった父源為義 の助命嘆願が聞き入れられなかった事を理由に、藤原信頼らと挙兵した事件。 保元4年(1159)12月4日、平清盛一族は熊野詣での旅に出発した。挙兵の機会を窺っていた藤原信頼と源義朝は、9日夜半御所を襲って 火を放ち、後白河上皇を幽閉し内裏を制圧して二条天皇をも軟禁した。保元の乱後政権を専横していた藤原通憲(信西)は、都を逃げ 出したが、追っ手に迫られ田原の山中で自害した。信西の子息の藤原俊憲・貞憲・成範らは皆配流された。 この段階では信頼・義朝の反信西クーデターは成功したかに見えたが、平清盛ら平家一族は急遽都に引き返し、16日夜半には六波羅邸 に入った。清盛はクーデターに屈服した風を装って油断させ、25日に二条天皇を内裏から六波羅邸に迎えることに成功する。状況は一変 し、清盛は信頼・義朝追討の勅宣を得て、朝敵となった義朝らの軍兵が占拠する内裏に攻撃をかけた。前年信西が復興したばかりの内裏 を、源氏の白旗と平家の赤旗が討ち乱れて駆けめぐったのである。平家三千騎、源氏八百騎と言う戦力の差に加えて、追討宣旨を奉じて 意気の揚がる平家に対して源氏の士気は揚がらず惨敗する。義朝は再起を図って東国に落ちる途中、尾張国で刺殺された。保元の乱で 一度打撃を受けた源氏は、平治の乱では壊滅状態に陥る。片や平家は、この後しばらく我が世の春を謳歌するのであるが、やがて源氏の 巻き返しに合い、その平家も壇ノ浦で滅亡する。