この御陵には上記12人の天皇が葬られている。第89代後深草天皇(1243〜1304:在位は1246〜1259)を皮切りに、92代伏見天皇、 93代後伏見天皇、北朝の第4代後光厳天皇、同じく北朝5代後円融天皇、北朝6代で100代目の後小松天皇、101代称光天皇、103代 後土御門天皇、104代後柏原天皇、105代後奈良天皇、106代正親町天皇、そして第107代の後陽成天皇(1571〜1617:在位1586〜 1611)までの12帝である。 後深草天皇の御代から持明院統と大覚寺統の対立が始まる。この対立のそもそもは、後嵯峨天皇が兄の後深草より弟の亀山(90 代天皇)を偏愛したことに端を発しているが、対立はやがて北条、鎌倉幕府の介入による天皇譲位をもたらし、やがて南北朝の 戦いに発展する。この御陵には持明院統派の天皇達が眠っている。 陵は、京阪電車「深草駅」から徒歩で15分ほど行った、京阪電車の線路沿いにある。廻りは住宅地である。
【第89代 後深草(ごふかくさ)天皇】 異名: 久仁(ひさひと) 生没年:寛元元年(1243) 〜 嘉元2年(1304)(62歳) 在位: 寛元4年(1246) 〜 正元元年(1259) 父: 後嵯峨天皇 第3皇子 母: 西園寺成子(太上大臣・西園寺実氏の娘) 皇后: 藤原(西園寺)公子 皇妃: 藤原(洞院) 諳子、藤原相子、藤原房子、藤原成子、三善衡子 皇子女:貴子内親王、熙仁親王(伏見天皇)、性仁親王、幸仁親王、久子内親王、行覚親王、深性親王、久明親王(鎌倉幕府8代将軍)、 恒助親王、永子内親王、増覚親王 皇宮: 平安京(へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ:京都府京都市伏見区深草坊町) 後嵯峨天皇より譲位を受け、4歳で即位した。勿論4歳では政務は無理で、後嵯峨上皇が院政を敷いた。在位14年後、弟の恒仁親王 (亀山天皇)に譲位した。後嵯峨上皇は兄の後深草よりも、弟の恒仁親王を寵愛し、恒仁が亀山天皇として即位すると、後深草に皇子 があるにもかかわらず、亀山の皇子・世仁(よひと)親王(後宇多天皇)を、生後一年で立太子した。後嵯峨院はさらに、皇位は亀山 天皇の子孫が受け継ぎ、そのかわり後深草院の子孫には長講堂領とよばれた180ケか所におよぶ荘園を授けるという遺勅を残して他 界した。後深草院は、これに不満を持たないはずがない。時の執権・北条時宗の仲介で、後深草院の皇子・煕仁(ひろひと)親王(伏 見天皇)を、亀山天皇の子として皇太子に立てる事になった。伏見天皇が即位した弘安10年から正応3年までの4年間が、後深草院 の院政の期間で、彼が天皇家の家長としての実権を握ったのはこの時期だけと言われる。永仁6年〈1298〉、伏見天皇の皇子・胤仁親 王(後伏見天皇)が践祚すると、今度は後宇多院が不満を示し、再度、幕府の斡旋で、後宇多院の皇子・邦治親王(後二条天皇)を皇 太子に立てた。以後、後深草(持明院統)と、亀山(大覚寺統)から交代で天皇をたてる、「両統迭立」の時代が続き、やがて、南北 朝の争乱に発展していくことになる。後深草院は嘉元2年62歳で崩御した。後嵯峨院がどうして兄より弟の亀山天皇を寵愛したのか については諸説あり、はっきりしない。 【第92代 伏見(ふしみ)天皇】 異名: 熙仁(ひろひと) 生没年:文永2年(1265) 〜 文保元年(1317)(53歳) 在位: 弘安11年(1288)〜 永仁6年(1298) 父: 後深草天皇 第1皇子 母: 藤原(洞院) 諳子(玄輝門院:左大臣洞院実雄の女) 皇后: 藤原(西園寺)■子(西園寺実兼の娘:永福門院) 皇妃: 藤原経子、洞院季子、五辻経子、三善衡子、藤原守子、藤原英子 皇子女:胤仁親王(後伏見天皇)、誉子内親王、寛性親王、恵助親王、延子内親王、富仁親王(花園天皇)、尊円親王、尊悟親王、 寛胤親王、道熙親王、尊熙親王、聖珍親王、進子内親王 建治元年(1275)後宇多天皇の皇太子に立てられた。正応元年(1276)即位し、西園寺実兼の娘藤原■子(後に永福門院)を皇妃とし た。伏見天皇の践祚とともに父後深草上皇の院政となった。藤原■子には皇子女が生まれず、参議藤原経氏の娘経子との間に生まれた 胤仁(たねひと)親王を立太子し、のち後伏見天皇となった。また伏見天皇は、生母諳子の末の妹季子(叔母に当る)との間に富仁 (とみひと)親王をもうけ、のち花園天皇となっている。 正応3年(1278)に、甲斐国小笠原一族の浅原為頼ら数人による、伏見天皇暗殺未遂事件が発生。反乱の原因は不明だが、両統対立が からまって、事件の背後に亀山上皇がいるという風評がたった。実際のところは亀山上皇がどの程度に関与したかは不明だが、この事 件は、両統間の対立がきわめて深刻であったことを物語る。この時先帝の宇多帝は伏見帝より21歳も年下で、疑いは宇多帝とその父 亀山上皇に向けられた。2帝はこの件を全面否認、誓紙を幕府に提出する事で事件は落着した。 伏見上皇は後伏見、花園両天皇時代院政をとったが、正和2年(1313)政権を後伏見上皇に譲ると出家して法皇となった。文保元(13 19)伏見殿で崩御した。53歳。
【第93代 後伏見(ごふしみ)天皇】 異名: 胤仁(たねひと) 生没年:弘安11年(1288) 〜 延元元年(1336)(49歳) 在位: 永仁6年(1298)〜 正安3年(1301) 父: 伏見天皇 第1皇子 母: 藤原(五辻)経子(参議・藤原経氏の娘) 皇后: 藤原(西園寺) 寧子(左大臣・西園寺公衡の娘) 皇妃: 藤原守子、藤原氏、高階邦子、治部卿局、右京大夫局 皇子女:尊胤親王、法守親王、c子内親王、量仁親王(光厳天皇)、尊実親王、景仁親王、承胤親王、長助親王、亮性親王、 豊仁親王(光明天皇)、尊道親王、覚公 この頃、時明院・大覚寺両統の対立は激化し、実質上の天子決定権を持つ鎌倉幕府には両統から特使が派遣され、猛烈な運動が展開さ れた。業を煮やした幕府は、両統の皇太子を交互にたて、譲位は天皇の意志によるという方針を出した。 後伏見帝もこうした流れのなかにあり、永仁6年(1298)、譲位を受け11歳で践祚。父伏見上皇の院政が行なわれた。同年、後宇多 上皇の皇子邦治(くにはる)親王を皇太子とした。亀山法王の意向で、後伏見帝は在位2年6力月で譲位させられ、正安3年正月、邦 治親王践祚が実現した。後伏見天皇はいまだ14歳だった。 治世は久々に大覚寺統に移り、後二条天皇の後見として、父後宇多上皇の院政が開始される。後伏見上皇は後に正和2年(1313)から 5年間、95代花園天皇の御代に院政を行ない、さらに、元弘元年(1331)の後醍醐天皇の笠置脱出から、同3年の京都還幸まで約2 年間、光厳天皇の御代にも院政を行なった。そして元弘3年鎌倉幕府滅亡の時、六波羅探題北条仲時に擁せられ、花園上皇、光厳天皇 とともに東国に脱出をはかったが、近江国番場(ばんば)宿で捕えられて帰京、その後46歳で出家。それから3年後の延元元年(13 36)、49歳で崩御。なお、後伏見天皇は後醍醐天皇と同じく弘安11年(1288)年生まれで、ともに母は五辻家出身である。 【北朝4代 後光厳(ごこうごん)天皇】 異名: 彌仁(いやひと) 生没年:延元3年(1336) 〜 文中3年(1374)(37歳) 在位: 正平8年(1353) 〜 建徳2年(1371) 父: 光厳天皇 母: 三条秀子 皇后: 藤原(紀)仲子(崇賢門院、中納言典侍:父は石清水八幡宮祠官法印通清) 皇妃: 藤原氏、橘氏、右衛門佐局 皇子女:亮仁親王、緒仁親王(後円融天皇)、行助親王、覚叡親王、永助親王、 堯仁親王、覚増親王、道円親王、寛守親王、明承親王、寛教親王、 聖助親王、堯性親王、治子内親王、見子内親王、秀仁 北朝初代光厳天皇の第2皇子。正平(南朝)6年(1351)の正平一統で北朝が廃止され、光厳・光明・崇光の三上皇は南朝に幽閉される。 南朝が吉野、賀生名等を変遷する間、足利幕府は出家する予定だった光厳上皇の皇子弥仁親王(後光厳天皇)を即位させて、北朝を再 建した。帝は14歳で即位するが、譲位もなく三種の神器もない即位だった。 この天皇の御代も、南北朝の戦いのまっただなかである。足利尊氏は、晩年にいたって弟直義との対立以来相次いでいた、幕府内の権 力争いに終止符を打つことができなかった。直義と高師直を失った尊氏は、幕府を安定化することもできず、晩年を実子で直義の養子 となっていた直冬や、楠木正成の遺児・正儀との戦いに費やす。南北両朝は、京都を奪われたり奪還したりという闘争を繰り返し、後 光厳天皇はその都度、北朝に奉じられて近江・小嶋(揖斐川町)・その他へ逃れるという逃避行を繰り返す。 正平一統によって連れ去られた光厳・光明・崇光の三上皇だが、延文2(1357)年には京へ帰還する。この上皇達の還京によって、北朝 はさらに崇光皇統と後光厳皇統とに分裂する事態になった。崇光上皇は、京に戻ると後光厳の次には自分の皇子をと望むが、後光厳帝 にとっては自らの皇統に継がせようとするのが当然であった。双方から幕府へ働きかけたが、幕府にすれば皇統のもめ事に介入するこ とは得策ではなく、結局時の帝である後光厳帝に一任して、後光厳系皇統が続く事となった。皇統は北朝と南朝だけではなく、北朝内 部でもまた分裂が起きていたのである。応安7年(1374)1月、第2子の後円融天皇へ譲位していた後光厳上皇は37歳で崩御する。 【北朝5代 後円融(ごえんゆう)天皇】 異名: 緒仁(おひと) 生没年:正平13年(1358) 〜 明徳4年(1393)(36歳) 在位: 文中3年(1374) 〜 弘和2年(1382) 父: 後光厳天皇 第2皇子 母: 紀仲子 皇后: 藤原(三条)厳子(通陽門院) 皇妃: 藤原今子、右衛門佐局 皇子女:幹仁(後小松天皇)、道朝親王、珪子内親王 14歳で践祚。以後11年間在位した後は院政を敷いた。この院政時代は比較的安定していた。と言うより時の将軍足利義満の時代が 安定していたと言ったほうがいいかもしれない。室町幕府三代将軍足利義満(在職1368〜94)は、歴代の足利将軍のなかにあっては極 めて非凡な才能を発揮し、それまでどちらかと言えば「衆合の議」で、有力豪族を中心にした寄り合い所帯だった幕府を、名実ともに 「足利」幕府にした。尊氏の孫義満が将軍になったのは17歳の時(正平23年・応安元年:1368)で、室町幕府はその頃足利氏が将軍と して統治する幕府ではあったが、幕政は細川・斯波などの有力守護大名の連合政権で成り立っていた。しかし義満は次第に頭角を現し、 有力守護を牽制しながら足利氏の力を他の氏族と比較できないほど強化していく。元中7年(明徳元年:1390)美濃・尾張の内乱にか こつけ土岐氏を滅ぼし(美濃の乱)、翌元中8年(明徳2年:1391)の明徳の乱では山名氏を滅ぼすのである。山名氏は、山名時氏が前 将軍足利義詮に降って、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作5ヶ国の守護を安堵されて以降大いに繁栄し、一族で11ヶ国を独占するよう になっていた。当時の日本は66ケ国と言われているので、11ヶ国と言えばその6分の1になる。そこで世人は山名一族の繁栄を讃 歎し、「六分の一殿」と呼んだと言われる。だが、「明徳の乱」の戦いは一日で勝敗を決し、乱後山名氏が保持できたのは、但馬・因 幡・伯耆の三ヶ国だけで、結果、山名氏は勢力を大幅に後退させた。義満の有力守護の力を排除していく一連の政策の結果、足利義満 は実質的な日本の元首となったのである。 実は足利将軍は徳川の御代と同じく15代続くのだが、義満以後、これほどの人物は出現していないように思える。義満と後円融天皇 とは従兄弟同士でしかも同い年。足利将軍家に擁立された天皇ではあるが、若い頃の関係はどうであったのか非常に興味をそそられる。 この帝は学問や伝統文化を愛し、義満の庇護も受けて学芸にいそしんだ。「後円融院御百首」を残している。
【第100代(北朝6代) 後小松(ごこまつ)天皇】 異名: 幹仁(もとひと) 生没年:天授3年(1377) 〜 永享5年(1433)(57歳) 在位: 弘和2年(1382) 〜 応永19年(1412) 父: 後円融天皇 第1皇子 母: 三条厳子 皇后: 日野西資子 皇妃: 日野西資子、藤原経子、藤原氏、藤原氏、 皇子女:宗純、実仁親王(称光天皇)、理永 足利尊氏は北朝により征夷大将軍に任命され室町幕府が成立する。後醍醐天皇は吉野山に逃れ南朝を興し、深い山々を彷徨しながら抵 抗を続け、以後南北朝対立状態は56年間続いて行くが、それがこの帝の御代に終焉を迎える。 足利義満は主要な守護大名達を滅ぼす一方、北朝の朝廷が持っていた各種の権限にも介入してゆき、京都の警察権・裁判権も掌握する。 その一方で南朝の凋落は激しいものがあった。北畠顕能・宗良親王・懐良親王など各地での戦闘を指揮してきた重鎮たちがたてつづけ に死去し、もはや戦い続行は不可能な状態になっていた。そのため、講和派の後亀山天皇により和平がはかられ、有力守護大内義弘の 仲介によって南北朝の統一が達成された。元中9年(明徳3年,1392)閏10月5日、南朝の後亀山天皇(第99代)が皇位の象徴である三 種の神器を北朝の後小松天皇に譲り、両者の合一が実現した。後小松天皇は6歳で即位し、10歳の時南北朝統一を見る。後亀山天皇 は三種の神器を渡す時、両者の系統が交互に皇位に就く両統迭立(てつりつ)を交換条件としたが、実際に後小松天皇が皇位についた 後、統一朝廷側はその約束を反故にし、以後南朝系統の天皇が皇位に就くことは二度となかった。 足利義満については、後小松天皇は実は後円融天皇の皇子ではなく足利義満の子であったとか、北朝の後小松天皇も滅ぼして、自分が 天皇になろうとしたとかの逸話が残っている。実際、将軍勇退後、当時の東アジア世界の「盟主」であった「明」の皇帝・洪武帝に朝 貢し、1395年、「日本国王」の称号を獲得している。死後、朝廷より「太上天皇」の尊号を贈られたが、息子で第4代将軍の義持 がこれを辞退した。後小松天皇の御代は無力ながら30年を越え、一説には禅僧として有名な一休はこの後小松天皇の皇子と言われる。 【第101代 称光(しょうこう)天皇】 異名: 躬仁(みひと) 生没年:応永8年(1401) 〜 正長元年(1428)(28歳) 在位: 応永21年(1414)〜 正長元年(1428) 父: 後小松天皇 母: 日野西資子 皇后: 皇妃: 日野光子、藤原氏、源氏、鴨氏 皇子女:胤仁親王(後伏見天皇)、誉子内親王、寛性親王、恵助親王、延子内親王、 富仁親王(花園天皇)、尊円親王、尊悟親王、寛胤親王、道熙親王、 尊熙親王、聖珍親王、進子内親王 称光天皇の父の後小松天皇は、はじめ北朝の第6代天皇として即位したが、明徳3年(1392)南朝の後亀山天皇(99代)が三種神器を後小 松天皇に譲り、ここに南北朝の統一がなり、後小松天皇は第100代天皇となる。この時、天皇は北朝側・南朝側から交互に出すとい う両統迭立の約束がなされたが、室町幕府・北朝朝廷のごり押しによりそれは実現しなかった。14歳で即位した帝は、後小松天皇の 第1皇子で父後小松上皇が院政を行った。我が子を次期天皇にという後亀山天皇の期待は完全に打ち砕かれた。この時点で、南朝の夢 は完全についえたことになる。この時南朝側から異議申し立てが出て、その不穏な空気は各地に飛び火して各地で反乱が勃発した。 称光天皇は仏教に深く帰依し、身を潔斎して女性を近付けなかったため後継ができず、また両統迭立を破ったために起きた各地の反乱 に神経を病み、28歳で夭折してしまう。そこで後小松上皇は、北朝第3代天皇・崇光天皇の曾孫の彦仁親王を後継者に定め、第10 2代後花園天皇とした。ここでもまた南朝は無視され、以後、後花園天皇の系統が天皇を継いで行くことになる。
【第103代 後土御門(ごつちみかど)天皇】 異名: 成仁(ふさひと) 生没年:嘉吉2年(1442) 〜 明応9年(1500)(59歳) 在位: 寛正6年(1465) 〜 明応9年(1500) 父: 後花園天皇 母: 藤原信子 皇后: 庭田朝子 皇妃: 藤原房子、藤原兼子 皇子女: 勝仁親王(後柏原天皇)、尊伝親王、応善、仁悟親王、皇女某、智円、理秀 室町幕府は、足利15代の約240年間(1338−1573)続いた。3代将軍足利義満が,京都の室町の邸宅で政務をとったので、一般に 室町幕府といわれる。幕府は義満の時代に最も繁栄を極めるが、それ以外は一般に将軍の力は弱く、室町幕府は有力守護の連合政権の ようであった。文正2年(1467)8代将軍義政の時、畠山義就が京都上御霊社にいた畠山政長を攻めて、これを発端に文明9年(1477) まで11年にも及ぶ「応仁の乱」が始まった。応仁の乱は、足利将軍家の相続問題に、北畠・斯波氏の相続問題が絡み、山名宗全・細 川勝元らを巻き込んだ全国的な大乱となる。 将軍義政は妻の日野富子との間に実子がなかったため、次期将軍として弟の義視を還俗させて後継者に指名するが、その直後富子に 男子「義尚」が誕生する。当然富子は義尚を次期将軍にしたいと願うが、義視は細川勝元に応援を求めて、次期将軍の座を得ようと した。富子は、義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼し、細川勝元の勢力と対抗させようとする。それに、管領の斯波・畠山両氏 の家督相続争いもこの両勢力の対立に絡み、細川勝元・畠山政長・斯波義敏との間に攻守同盟が結ばれ、これに対し山名宗全・畠山 義就・斯波義廉との連盟が形成された。諸国の守護大名や豪族達もまた地位保全のために、どちらかと結託して立ち上がらざるを得 なかった。調停者無き一大対立は、やがて武力衝突へと発展し、文正2年1月18日の乱勃発となるのである。戦乱のさなか、将軍 義政に代わって日野冨子が政務の決裁を行っていたと言われる。冨子は財政的に有能だったと見えて、幕府の財政難をしのぎ、また 将軍家以上に困窮を極めた天皇家にも財政的支援を続けた。後土御門天皇と日野冨子の密通騒ぎもそんな中から取りざたされたのか もしれない。戦いは日本を二分して11年の長きに渡ったため、京都は焼け野原となり天皇をはじめ貴族たちは戦乱を逃れてあちこ ちに避難し続けた。やがて天皇家は将軍家ともに疲弊しきって財政的基盤を失い、世は大きく戦国時代へと移行していく。 帝の治世は36年に及ぶが、帝が崩御したとき朝廷は葬式費用を捻出できず、帝の遺骸は44日間御所内に安置されていたと言う。
【第104代 後柏原(ごかしわばら)天皇】 異名: 勝仁(かつひと) 生没年:寛正5年(1464) 〜 大永6年(1526)(63歳) 在位: 永正18年(1521)〜 大永6年(1526) 父: 後土御門天皇 母: 庭田朝子 皇后: 皇妃: 勧修寺藤子、源源子、藤原継子 皇子女:覚鎮、知仁親王(後奈良天皇)、覚道親王、道喜、尊鎮親王、覚音、彦胤親王 天皇諡号で、以前の天皇の名前に「後」の字を冠したものがある。第68代の後一条天皇を皮切りに26天皇の例がある。ところが、 第89代後深草天皇の場合、それ以前に「深草」天皇は存在していない。これは、実は第54代仁明天皇が「深草」帝と呼ばれていた 事から来たものであり、同様に、後小松天皇(100代)、後柏原天皇(104代)、後奈良天皇(105代)、後水尾天皇(108代)に関して も、それぞれ光孝天皇(58代)、桓武天皇(50代)、平城天皇(51代)、清和天皇(56代)の異称が、「小松」、「柏原」、「奈良」、 「水尾」として出現していたからである。 諡号は一般に死後付与されるが、その名前の選択には当然政治的な意味合い、主張が込められている。その系統の正当性を主張する場 合が多い。尚、諡号を生前に自分で決めてしまった唯一の天皇が後醍醐天皇であり、まさに「異形の王」に相応しい所業である。 乱世に入って朝廷の貧窮はさらに切迫し、この帝がようやく即位の大礼を行うことができたのは、践祚から22年後のことだった。 帝は、父後土御門帝の遺志を受け継いで、引き続き長く途絶えていた元日の節会(せちえ)、大元帥法(だいげんのほう)をはじめと する年中行事などの朝儀・祭事の復興に尽力した。 【第105代 後奈良(ごなら)天皇】 異名: 知仁(ともひと) 生没年:明応5年(1496) 〜 弘治3年(1557)(62歳) 在位: 天文5年(1536) 〜 弘治3年(1557) 父: 後柏原天皇 第2皇子 母: 勧修寺藤子 (豊楽門院) 皇后: 万里小路栄子 皇妃: 藤原国子、藤原量子、藤原具子、小槻氏、王氏 皇子女:覚恕、方仁親王(正親町天皇)、永寿、皇女某、皇女某、皇子某、普光、聖秀、春齢 大永6年(1526)4月7日に後柏原天皇が崩御したあとを受け、同29日に践祚した。弘治3年(1557)に崩ずるまでの在位期間は皇 室の最も衰微した時代で、即位式は10年もおくれて、天文5年(1536)2月26日に行われた。在位は31年に及び、まさに戦乱の 時代であった。幕府も衰退し、財政も困窮を極めた。帝はついに大嘗祭を断念する。その一方、滞りがちだった鎮護国家祈念の大元帥 法を復興する。また宸筆の「般若心経」を全国の一宮に奉納する事で、国家と臣民の安寧を祈念した。
【第106代 正親町(おうぎまち)天皇】 異名: 方仁(みちひと) 生没年:永正14年(1517) 〜 文禄2年(1593)(77歳) 在位: 永禄3年(1560) 〜 天正14年(1586) 父: 後奈良天皇 母: 西園寺成子 皇后: 万里小路栄子 皇妃: 万里小路房子、藤原氏、 皇子女:永高、皇女某、誠仁親王 正親町天皇は、永禄3年(1560)1月に即位したが、時の室町幕府は弱体化しており、各地の戦国大名に助力を仰がなければ、即位の 大礼を挙げることができなかった。毛利元就は、朝廷と幕府の求めに応じて、前年の永禄2年に銀48貫を献上。これにより元就は陸 奥守(むつのかみ)に任ぜられた。即位式は、毛利元就の献金で賄われたのだ。戦国大名が皇室の権威を利用し始めたのである。 この動きは天皇家にとっても歓迎すべきことだった。帝は織田信長に勅命し、将軍・足利義昭を追放、240年続いた室町幕府は滅亡 する。しかし信長の圧力には屈せず、断固朝廷の権威を主張した。信長は、正親町天皇の第5皇子である誠仁(さねひと)親王を自ら の猶子(ゆうし:相続権は無いが実子と同等の立場)とし、親王のために屋敷を献上した。対立していた正親町天皇ではなく、自らの 手の内にある誠仁親王を新天皇とすることで、天皇より優位に立とうしたのである。しかし誠仁親王への譲位は実現せず、これを信長 の敗北とする説もある。しかし正親町天皇の譲位については、譲位に伴う儀式には莫大な費用がかかり、それを援助できる人物は信長 しかいず、天皇側も譲位を望んでいたとも言われる。譲位を迫る信長に対して天皇が抵抗したからではなく、譲位に伴う経済的余裕が 信長の側に無かったのではないかとも言われる。しかしながら一方で信長は、絢爛豪華な安土城の築造を行っており、ここに天皇行幸 を迎えるためとおぼしき一角が近年発見され、安土城本丸の行幸御殿は、正親町天皇のためではなく、譲位後即位した新天皇である誠 仁親王を迎えるためだったのではないかと考えられている。天皇の即位式を執り行い、新天皇を自らの居城へ行幸させることで、信長 の統一権力としての権威を天下に鼓舞するねらいだったのだろう。 【第107代 後陽成(ごようぜい)天皇】 異名: 和仁(かずひと) 生没年:元亀2年(1571) 〜 元和3年(1617)(47歳) 在位: 天正14年(1586)〜 慶長16年(1611) 父: 誠仁親王 母: 勧修寺晴子 皇后: 西園寺房子 皇妃: 近衛前子、藤原輝子、藤原親子、藤原宣子、藤原孝子、源具子、平時子、清原胤子、大中臣氏 皇子女:覚深親王、聖興、承快親王、文高女王、清子内親王、政仁親王(後水尾天皇)、 尊英、尊性親王、堯然親王、好仁親王、良純親王、貞子内親王、 尊覚親王、永宗女王、道晃親王、道周親王、尊清、慈胤親王 正親町院の孫に当たる後陽成天皇は、秀吉から家康に移行する24年4ヶ月の間在位した。秀吉は、かって皇居のあった場所に聚楽第 を建設し、18歳の帝を招いて盛大な饗宴を催すことで天下に権威を誇示した。その後も帝は、秀吉の要求するままに綸旨(りんじ) や勅命を出し続けたが、この事が結果的に国家の安定、天下統一につながったとする見方もある。 しかし、文禄・慶長の役が始まると、秀吉は天皇に譲位させて新上皇を大陸へ遷すという計画をたて、大陸での軍事行動にも天皇をか つぎだそうとした。驚いた天皇家は、上皇・天皇両者による「渡海論止の詔書」を発給して秀吉の渡海を断念させ、後陽成帝の大陸行 幸をも中止させる事に成功した。やがて秀吉は慶長5年(1598)に没し、関ヶ原の戦い(1600)を経て、天下は徳川家康の治めるとこ ろとなったが、まだ秀頼は大阪城にあり、大阪冬の陣・夏の陣を前に、後陽成天皇は息子の後水尾天皇に譲位して上皇となり、その6 年後47歳で崩御した。