【浦入(うらにゅう)遺跡】 −舞鶴湾入り口の大浦半島西側に位置する面積約4万6000平方メートルの遺跡群。縄文時代〜平安時代までに至る複合 遺跡。 「丹後の旅」に先駆けて、大阪府立弥生文化博物館で開催されている「青いガラスの燦(きらめ)き −丹後王国が見えて きた−」展を見に行った。展示中の丸木舟は、関西電力(株)舞鶴発電所建設工事に先立つ発掘調査で、舞鶴市千歳の浦入 遺跡から出土した、船体半ばから船尾にかけの部分(約4・6m)。平成7年度から本格調査が開始され、8年度までの調 査で、弥生時代〜平安時代にかけての集落遺構や製塩遺構、古墳の存在などが判明した。9年度からは、奈良時代の製塩遺 構や縄文時代の調査を実施しており、この丸木舟は、平成10年度調査で、約5300年前の地層から発見された。出土後 は、奈良県生駒市の(財)元興寺文化財研究所保存科学センターで復元・保存処理が行われ、地元は勿論、全国の博物館そ の他の展示会、特別展を回っている。 丸木舟の全長は約8mと推定され、幅0・8m、舟底の厚さは5cmで、造られたときについた焦げ目も実見できる。 縄文時代の丸木舟はわが国では50数例発見されているが、前期は5例ほど(長崎・伊木力遺跡や福井・鳥浜貝塚など)で、 浦入遺跡の丸木舟はなかでも特別大きく、湾口近くで発見されたことから、外洋航行に使用されたと推測されている。外洋 航海用としては我が国でも最古級と判断される。また北東約500mにある同時代の集落跡からは、魚の骨、蛇紋岩製のけ つ状耳飾り(富山湾周辺に多くある)や北陸産の羽状縄文土器片などが見つかっている。縄文人の広域的海上交易は今や定 説になっているが、日本海側で出土した舟と船着き場・集落跡などから日本海沿岸の交易起点の一つと考えられる。
これまでの発掘調査によれば、丸木舟は、わずかな例を除き、殆どが日本海側の遺跡から発掘されていて太平洋側からは出 土していない。福井県鳥浜貝塚からも「最古の丸木舟」が見つかっているが、滋賀県近江八幡市の元水茎遺跡(もとすいけ いいせき:縄文時代初期)も外洋舟ではないかと見られている。日本海側では、日本全国のいろんな地域と「海の道」を通 じて交易していたことがわかる。 遠くシベリヤとの交易があった痕跡も確認されている。日本列島の縄文人は、1万年に渡り相当高度な「海の文化」を築い ていたと推察される。
丸木舟は、浦入湾の砂嘴(し)の付け根部分から発見された。市教育委員会から委託を受けた京都府埋蔵文化財調査研究セ ンターが調査。地下50cmの砂層にへ先を南の舞鶴湾側に向けた形で発見された。同じ砂層から縄文時代前期の土器片が 見つかったことで、約5千300年前のものと判明。出土した丸木舟はスギをくり抜いたU字形で、4・6m分が残ってお り、幅は約1m、舟のへりの厚みは約5cm。船尾部分は腐食していたが、幅から推定すると全長は8m〜10m。表面に は焼いた石で焦がした跡もあり、今も確認できる。木をくり抜きやすくするために、石斧(ふ)でなどを焼いたものと思わ れる。縄文時代前期のものとしては全国で6例目にあたり、同時代のものでは最大級である。丸木舟は3年間かけて(財) 元興寺文化財研究所保存科学センターで保存処理が行われた。
丸木舟と同時に出土した、富山湾周辺の蛇紋岩を加工したけつ状耳飾りは、約6300年前の火山灰層(アカホヤ火山灰) から出土した。同じ形の耳飾りは、中国大陸をはじめ日本各地でも出土しており、縄文時代前期における東アジア地域の幅 広い交流を示すものとして、内外の考古学者からも注目されている。 このほか、漁労に使っていたと思われる石錘、木を切り加工する各種の石斧、弓矢の先に付けて狩りに使う石鏃、石皿やす り石などの出土品もあり、豊かな自然と暮していた当時の様子がわかる。 市教育委員会が調査していた丸木舟出土地点の約500m北東の遺跡からは、縄文時代前期〜後期の大量の土器や石器が出 土したほか、焼土なども検出した。北陸地方の特徴を示す土器や二上山のサヌカイト(奈良県)、隠岐島(島根県)の黒曜 石の固まりも発見されている。
舞鶴市内には、浦入遺跡群の他にも17か所の縄文時代遺跡が発見されている。最古の遺跡は大浦半島の小橋遺跡で、約1 万年前の有舌尖(せん)頭器(石槍)が発見されている。また、集落遺跡で最も古いものは由良川流域沿いの志高遺跡で、 約7千年前の土器のほか石器などが出土している。由良川の下流域には10カ所の縄文遺跡がある。洪水が出れば流されて しまいそうな環境にもかかわらず継続的に集落が営まれている。 同じ流域の、由良川下流域の河底から遺物が出土した桑飼下遺跡(後期)からは、炉跡や縄文人の主食であったドングリや クルミなどが発見されている。この遺跡は、由良川対岸の河川敷から河底にかけて遺跡域が広がっており、発掘調査の過程 で縄文後期の黒色砂層が全域に広がり、この黒色砂層が南に傾斜して河川堤防上にまで達していることが判明した。つまり、 砂層と傾斜が遺構・遺物を河底まで運んだと見られ、又黒色砂層からは48基の炉址が出土したものの、砂地のため竪穴住 居址の輪郭を留めていない。しかし大量の土器・石器 等の出土状況から住居址内の炉址と考えられ、全容が解明されれれば、近畿地方では最大の縄文集落だった可能性がある。 遺跡から出土した1300点の石器のうち750点が打製石斧で、これを使ってカタクリやヤマユリなどの根茎類を管理栽 培した可能性も指摘されている。植物性食料を加工する石皿やすり石も多数発見されている。漁業も盛んに行われていたよ うで、サマ、マダイ、スズキ、マフグなど海の魚の他、アユやコイなどの川魚、ヤマトシジミ、アサリなどの貝も獲ってい る。石棒や石斧、土偶などの祭りの道具も多数出土し、桑飼下での安定した豊かな縄文時代を垣間見る事ができる。 このほか、アンジャ島遺跡からは、丸木舟を作るときに使用したと思われる約4千年前の乳棒状蛤(はまぐり)刃石斧も2 本出土しており、遺跡の多い日本海沿岸にあっても、特に舞鶴周辺は縄文時代の宝庫と言える。
浦入遺跡から出土した丸木舟は、2001年に「NHKスペシャル」として放映された「日本人はるかな旅」のなかで、わが国 最古・最大級の丸木舟として紹介されていた。また、私も見学したが、同年11月まで上野の国立科学博物館で開催されて いた「日本人はるかな旅」展にも展示されていた。今はこの大阪へ来ているし、この舟が舞鶴へ帰ることはあるのかしらん。
【参考:縄文時代の海洋遺物 出展:国立民俗歴史博物館】 [舟] ・栃木県西山田遺跡(ニレ属) ・埼玉県伊奈氏屋敷跡(後期・カヤ、ケヤキ) ・東京都中里遺跡(中期初頭・ムクノキ) ・東京都袋低地遺跡(後期・へさき部分) ・千葉県矢摺泥炭層遺跡(クリ) ・千葉県栗山川遺跡(中期・7.45m・ムクノキ) ・愛知県佐織町(晩期・複財くり船か?) ・滋賀県元水茎遺跡(7隻) ・滋賀県長命寺湖底遺跡(後期6.2m・スギ) ・滋賀県松原内湖遺跡(13隻/製作途中のもの1、ヤマザクラ製) ・京都府浦入遺跡(前期・推定10m以上) ・滋賀県佃遺跡(後期・木道に転用) ・鳥取県桂見遺跡(後期中葉・ケヤキ/スギ 推定6.5m) ・鳥取県東桂見遺跡(7.2m) ・鳥取県栗谷遺跡 ・島根県三田・遺跡(後期・5.4m) ・島根県島根大学構内遺跡(前期・木道に転用) ・福井県鳥浜貝塚(前期・スギ、トチノキ) ・福井県ユリ遺跡(3隻) ・長崎県伊木力遺跡(前期・桃の実とともに出土) ・沖縄県前原遺跡(後期・へさき部分) [かい] ・青森県亀ヶ岡遺跡(広葉樹) ・埼玉県伊奈氏屋敷跡(カヤ) ・埼玉県寿能泥炭層遺跡(後期・クヌギ) ・千葉県加茂遺跡(前期・イヌガヤ、トネリコ属) ・東京都武蔵野公園低湿遺跡(クヌギ節) ・鳥取県桂見遺跡(ヤマグワ?) ・福井県鳥浜貝塚(前期・カシ類、ケヤキ、ヤマグワ) ・福井県布施遺跡(後期・スギ、ケヤキ?、ヤマグワ、ヤマグワ?、不明)
上の発掘写真は「京都府立丹後郷土資料館」発行の「丹後発掘(特別展図録30)」(1999年10月1日発行)から転載した。