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鉄とガラスの遺跡を訪ねて 丹後半島の旅 2002.6.29〜30(日) 第65回歴史倶楽部例会


		歴史倶楽部の第65回例会は丹後半島「鉄とガラスの遺跡」めぐりである。昔から、「丹後半島の鉄の道に行こうで!」と言い続けて
		いた東江(あがりえ)さんの念願の旅だ。参加者は10名の予定だったが、河内さんが急遽入院したので9名となった。河原さん、西
		本さん、松田さんが運転して3名ずつ便乗し、それぞれ奈良、高槻、千里から出発して、舞鶴道へ入った最初のPA「上荒川」に集合
		した。丹後半島には民宿は多いが公営の国民宿舎のような宿は少ないので、今回は夕日が浦(浜詰)温泉の旅館に宿を取った。屋上の
		露天風呂から日本海に沈む夕日を眺められるとあったので期待したのだが、あいにく曇り空で「露天風呂から夕陽を」というわけには
		いかなかった。しかしこの週末、近畿南部は大雨だったそうで、我々は30日の昼間に1時間くらいと、帰り出してから降られたので、
		自他共に認める「雨男」の橋本さんが居たわりには、非常に Lucky だった。またこれに先だって、4月13〜6月16日の間、大阪
		府泉大津市の弥生文化博物館で開催されていた「青いガラスの燦(きらめ)き −丹後王国が見えてきた−」展を見に行った人も多か
		ったので、「あぁ、ここからあのガラスが出たのか。」と、感慨もひとしおだった。我々が丹後へ行こうと決めたらこういう企画展が
		催されるというのは、あの博物館との間には何か妙な因縁のようなモノを感じてしまう。


		このホームペ−ジは、我々が巡った丹後半島の遺跡・博物館を、その歴史をひもときながら順に紹介している。「鳥浜貝塚」や「中国
		・河姆渡(かぼと)遺跡」などのように数年前に訪問した遺跡もあるのだが、丹後を含む日本海との一連の繋がりの中で、ここで再度
		紹介している。しかし通常これらのページは別コーナーに収録されているので、ここへ戻るにはベラウザの「戻る」ボタンで戻って来
		て欲しいと思う。また私以外にもメンバーの写した写真が徐々に集まってくると思うが、入手でき次第追加していくつもりである。
		それでは、偉大な古代の「丹後半島」に想いをはせてください。ごゆっくりどうぞ。



		
		丹後半島の歴史

		■先史・縄文時代
		丹後半島にも先史時代から人々が住み着いていたことは明らかであるが、確認されている遺跡としては縄文時代の草創期からである。
		舞鶴湾の小さな入り江に「浦入(うらにゅう)遺跡」がある。入り江には 5000 年前の縄文海進でできた砂嘴が沖に伸びている。砂嘴
		の起点近くで、5300年前の丸木船が発見された。スギ材をくり貫いて作られており、全長8mと推測できる。近くからイカリと思われ
		る石と杭が見つかり、日本で最古の「船着き場」と話題を呼んだ。日本の船と港の歴史上、画期的な発見だった。

		最古の丸木船という言い方は、福井県小浜市の「鳥浜貝塚」から出土した丸木舟に対してもしばしば形容される。いずれも縄文前期
		と判定されただけで、「XX 年製造」と書いてあるわけではないので、いずれが最古かは断じられないが、両遺跡とも、ほぼ同じような
		状況にあったことは容易に想像できる。

		浦入遺跡からは、各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。またここから発
		見された「快状耳飾」と呼ばれる大型の土製耳飾りは、直径6.5cmもあり我が国最古級のもので、これは中国江南の、「中国・河
		姆渡(かぼと)遺跡」から出土したモノに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性も取りざたされている。

		沖あいを対馬海流が流れる丹後半島では、相当早くから大陸と密接な交流があったことが考えられる。今日この地方は、近代日本の発
		展からは置いて行かれたような鄙びた半島というイメージが強いが、弥生・古墳時代の遺跡を通じて見られる「鉄」と「ガラス」製品
		の夥しい数、およびそれらの製造に関する先進性は、この地方が大和政権に完全に組み込まれるまで、独自の文化を持ち、大陸・半島
		と相当密度の濃い交流をしていたことが考えられる。或いは、これらの技術をもたらしたのは、対馬海流に乗って、大陸・半島から渡
		来してきた人々そのものである可能性もあるのだ。峰山町「途中ヶ丘遺跡」出土の有舌尖頭器は、縄文時代の草創期に人々が狩りに明
		け暮れていたことを示しているし、網野町「浜詰遺跡」から出土した動物の骨を見ると、クジラなど共同作業でしか穫れないような獲
		物も多い。久美浜の「函石浜遺跡」は縄文時代の居住跡であるが、約2千年前の中国の貨幣「貨泉」が出土していて(「新」、西暦8
		〜23年)、弥生時代に入ってからも大陸との交流が行われていたことを示している。


		■弥生時代
		丹後地方や丹波地方では、弥生時代の集落の跡、さまざまの土器、弥生時代の人の顔をありありと伝える人面土器、王の巨大な墓と副
		葬品、鏡、剣、銅鐸などが出土する。
		昭和56年11月21日の新聞に、「日本最古の高地性周濠遺跡」として峰山町の「扇谷遺跡」の記事が掲載された。平野から30〜
		40mの高さにある、竹野川流域を一望する丘陵に営まれた大環濠遺跡である。弥生前期末から中期にかけて(1世紀末〜2世紀初頭)
		、の高地性集落で、二重の環濠が巡らされ、V字形の内濠は延長1km、最大幅6m、深さ4mという巨大な環濠であった。まさしく
		環濠とは防御の為の施設であることを証明しているような遺跡で、自力では這い上がれないような深さである。
		この環濠から、鉄滓(てっさい)、ガラス滓、紡錘車、玉造関連の遺物などが出土した。これらの遺物から、当時すでに製糸や鉄器、
		ガラスの製造が行われていたことが判明した。これらはその後、弥生の丹後の「特産品」とも言える地位を確立する。この時期、鉄製
		品やガラス玉生産は、近畿の他の地域では全く行われていない。

		弥栄町の弥生中期後葉の「奈具岡遺跡」は、日本で一番古い水晶玉作りの工房跡である。2世紀後半の遺跡で、弥生時代中期の大規模
		な玉作り工房跡として有名である。この遺跡からは、水晶をはじめとする玉製品の生産工程の各段階を示す未製品や、加工に使われた
		工具類などが多数出土した。生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉で、ここでは、原石から製品までの一貫した玉
		作りが行われており、国内有数の規模と古さを誇る。しかしこの遺跡が衝撃的だったのは、鉄器生産の遺跡としてのその規模である。
		小さな谷に面した建物跡から8sをこえる鉄片が出土したのだ。同時期の遺跡の中では、日本で最大の量である。谷の斜面につくられ
		た建物の半分は流失しているから、元々遺跡全体に残されていた鉄の量はこの2倍程度だったのではと推測される。水晶玉に孔を開け
		るための鉄錐も製造していたようだ。

		観光地として有名な天橋立(あまのはしだて)がある京都府岩滝町。宮津湾はこの天橋立で、内海の阿蘇海とに分断されている。その
		阿蘇海の西側に「大風呂南遺跡群」がある。弥生時代後期後半の遺跡で、携帯電話の中継アンテナ塔を建設するための工事中に発見さ
		れた。尾根上に築かれた1号墓の巨大な墓壙(ぼこう:7.3m X 4,3m X 2m)から、98年9月、これまで我が国では出土例がないガラ
		スの釧(くしろ:腕輪)が出土した。透き通るようなブルーの鮮やかさと、断面が5角形のコンパクトな腕輪で、たちまち全国的な話
		題になった。他にも勾玉、青銅の鉤付き釧、11本の鉄剣などが出土したが、鉄剣はうち9本が初めから柄が付けられておらず、これ
		は剣ではなく、何か他の鉄製品を作るための材料、即ち鉄塊だったのではないかという意見もある。

		また、我々が訪れている間にも発掘調査が続いていた赤坂今井墳丘墓も、弥生後期のやや特異な墳丘墓として注目を集めている。

		



		弥生時代、丹後半島一帯が日本海鉄器文化の主要拠点の1つであった事がほぼ判明した。その丹後を起点にするかのように、鉄器文化
		の遺跡が日本海沿岸を東西へ伸びている事も指摘されている。

		西へ向けて、兵庫県豊岡市の妙楽寺墳墓群(弥生後期)−鳥取県青谷町の青谷上寺地遺跡(弥生中・後期)−同県淀江町・大江町の妻
		木晩田遺跡(弥生後期)−島根県安来市の塩津山遺跡群(弥生後期後半)。
		東に向かっては、福井市の林・藤島遺跡(弥生後期後半)−金沢市の塚崎遺跡(同)−富山県魚津市の佐伯遺跡(同)−新潟県上越市
		の裏山遺跡(同)。

		これらの遺跡からは、鉄剣・ヤリガンナ・鉄器・鉄片・鍛冶炉跡・鉄製工具・鍛冶遺構・鍬や鍬の破片等々、弥生後半期の鉄器文化の
		普及を示すさまざまなものが出土している。近畿地方において鉄器の普及を見るのは古墳時代に入ってからなので、日本海沿岸地域に
		おける鉄器の普及は、大きく大和に先駆けていた事になる。また、時期を同じくして日本海沿岸のみならず、「鉄の道」は信濃を経由
		して南関東にも達し、また近江を経由して東海地方にも影響を与えていたことがわかっている。つまり、弥生時代後半においては、近
		畿圏は日本海沿岸に端を発する「鉄のネットワーク」からは完全にはずれていたのである。この事は、大和地方が権力を保持し、やが
		てこの国を中央集権国家としていく基礎を築いたのは、弥生時代以降すなわち古墳時代になってから、と言うことを強く示唆している。



		■古墳時代
		古墳時代になると、丹後半島には数多くの古墳がつくられるようになる。中でも、4世紀末ごろ築かれたと推定される日本海側最大の
		2つの前方後円墳、網野銚子山古墳(網野町)神明山古墳(丹後町)は、相当大きな勢力をもっていた一群が当時この地方に存在し
		ていたことを証明しているし、蛭子山古墳・作山古墳が所在する加悦町には、総数644もの古墳がひしめいている(加悦町教育委員
		会)。丹後はまさに古墳の宝庫と言ってよく、丹後半島全体の古墳の数は約6000基である。その上位3つは、

		・網野町の銚子山古墳(全長198mの前方後円墳)−日本海沿岸部で最大の古墳
		・丹後町の神明山古墳(全長190mの前方後円墳)−丹後町古代の里資料館の側
		・加悦町の蛭子山古墳(全長145mの前方後円墳)−加悦町古墳公園内

		であるが、他にも著名な古墳として黒部銚子山など大型の前方後円墳がある。丹後の遺跡の多くが、竹野川に沿っている。この川は、
		1927年の大地震を起こした郷村断層に沿って流れ、大宮町と峰山町の間で断層を離れて丹後町へ向かう。

		弥栄町と峰山町との境にある太田南古墳群の一つである「5号墳」からは、「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土している。青龍三年
		は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。この年号の鏡は、あと大阪府高槻市の安満宮山古墳から
		1面が出土しているだけで、年代的に、卑弥呼の使いが魏から貰ってきた銅鏡100枚の内の1枚ではないかと騒がれた。今年(2002)
		6月になって、東京国立博物館の鑑定により、個人蔵の鏡に同年号のあることが確認され、全国で青龍三年銘の鏡は3面となった。
		
		鉄とガラス。この2つの出土物は、丹後地域の古代遺跡を語るとき、今や不可欠の要素である。1990年代以降の発掘調査の結果か
		ら、丹後地域は弥生中期後葉から後期(前1世紀〜後2世紀)にかけて、日本列島のなかでもこれら大陸の先進素材を北九州と並んで、
		最も早く、最も多く集積した地域であることが明らかになった。弥生時代に製鉄が行われていたかどうかについては議論の分かれる所
		であるが、弥生時代を通じて行われた「鉄」の生産は古墳時代になっても続けられている。

		奈良時代に隆盛を見た、最古の製鉄コンビナート遺跡である弥栄町の遠所遺跡(5世紀後半〜6世紀後半と8世紀後半の一大製鉄遺跡
		が出土した。)。最古の玉造り工房跡である同じく弥栄町の奈具岡遺跡や、久美浜町の湯舟坂2号墳から出土した、明らかに権力者が
		所有していたと考えられる黄金の環頭大刀(重要文化財。6世紀後半〜7世紀前半)など、古代丹後地方が大きな勢力をもっていたこ
		とを物語る遺物が数多く発見されている。

		これらの事実から、最近いわゆる古代「丹後王国」の存在についての議論が盛んである。大陸や半島、北九州や他の日本海地域との交
		流などを窺わせる豊富な副葬品や、鉄とガラスの他地域に先駆けての先進性などを考えると確かに「王国」の存在を窺わせるに足る十
		分な条件を備えているように思える、しかし、私がその存在を強く予感するのは「墓制」の違いである。日本海側に、「四隅突出型墳
		墓」と言われる特殊な形をした墳墓が多いのは、歴史に詳しい方々なら既にご存知だろうと思う。主に日本海側に限って、広島県、鳥
		取県、京都府、福井県、石川県、そして富山・新潟県にまで分布する、四角形に盛り土した墳墓の四隅だけが長く伸びて、突出してい
		る墳墓の事である。この形式の墳墓がなぜ日本海側だけに存在しているのかについてはまた別の議論があるが、問題はこの形式が丹後
		地方には全く見られない事である。紀元前後、墳丘斜面を石で飾った丹後特有の方形貼石墓が出現するのだ。他の日本海側と同じく、
		渡来系の人々が日本海側に多く住み着いたのは容易に想像できるが、この丹後地方に上陸した人々は、四隅突出型墳墓を築く習慣を持
		たない集団だったと考えられる。そして「鉄やガラス」の製造技術に長けた集団だったのではないだろうか。門外不出のこれらの技術
		で製造した鉄製品、ガラス製品を主な交易品として、広く日本海側や畿内地方にその覇を広げていったと考えられる。



四隅突出型墳墓



 

		
		一方で、丹後地方には、古事記・日本書紀や万葉集・丹後国風土記などの文献上の記事と符合した伝説・伝承が多く残っている事でも
		知られる。はっきりした文献上の記事としてみえるのは、「記紀」に、9代開化天皇の妃に「竹野比売」という名前がみえる事である。
		古事記には、「此天皇旦波大県主名由碁理女竹野比売娶産御子比古由牟須美命」とあって、この竹野比売(たけのひめ)は、丹後町の
		神明山古墳のある地名「竹野」と関係があるものと思われる。「日本書紀」垂仁天皇5年の条に、崇神天皇が派遣した四道将軍「丹波
		道主命」(たにはのみちぬしのみこと)の5人の娘が垂仁天皇の后になるという記事がみえ、同15年の条にも同じ内容の記事がでて
		いる。ちなみに、前方後円墳である網野町の「網野銚子山古墳」、弥栄町の「黒部銚子山古墳」はいずれも、この丹波道主命の墓であ
		るという伝承が残っている。
		さらに同天皇87年の条には、丹波の国に甕襲(みかそ)という人物が居て、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を献上したとある。
		他に丹後(波)が記紀に現れる記事としては、雄略期22年の条に「浦嶋子伝説」が見え、23年にも征新羅将軍吉備臣尾代(きびの
		おみおしろ)の記事があって、ここに丹波(後)という地名があらわれている。更に、世継ぎの無かった清寧天皇が、雄略天皇に殺さ
		れた市辺押磐皇子(いちべのおしいわのおうじ)の遺児、二人のオケ王(顕宗・仁賢)を探し出したとき、最初に二人が逃げて行った
		先が、丹波国の余社(よさ)郡である。これは丹後半島の入り口に位置する、今日の与謝郡であろうとされている。

		これらの記事からは、この地方の豪族が大和朝廷の成立期において、大王家と姻戚関係を結べるほどに強大であった事が窺える。
		大和朝廷がいつ頃成立したのかは勿論さだかではなく、従ってこれらの天皇の御代の記事がいったいいつ頃の事なのかははっきりしな
		いが、和銅6年(713)には明らかに大和の勢力下に組み込まれている事を考えると、その考古学的知見、文献的記録からみて、おそら
		く5世紀から6世紀にかけてこの地方は、その繁栄の頂点にあったことがみてとれるのである。

		さらに、丹後町間人(たいざ)には、第31代用明天皇の皇后穴穂部間人が、蘇我・物部の争いから逃れるため幼い聖徳太子を連れて
		間人の地へ上陸したと言う伝承が残っている。大江町には元伊勢内宮と外宮があり、伊勢神宮に天照大神が鎮座するまではここに祀ら
		れていたという。

		また、浦嶋伝説・羽衣(天女)伝説等の伝承に基づく考察、さらには元伊勢神社と呼ばれる「籠神社」(このじんじゃ)に残る「海部
		家系図」なども非常に興味深い歴史的事実を秘めていると思われるが、今回の旅では訪れなかったので、ここで言及するのは止めてお
		く。丹後半島を採訪する事があれば、これらの地も是非訪れてみたいと思っている。


		繁栄を誇ったと考えられる「丹後王国」も、やがて大和を中心とした日本統一を目指す勢力がこの地方にも及んできた時、その勢力下
		に組み込まれる事になる。古墳時代後半、大和政権の勢力を背景に海上交通を掌握するほどの栄華を見せた丹後の勢力も和銅6年、丹
		波の国から北部5郡が分割され丹後国が発足して、国分寺や国府が置かれるようになると衰退の道をたどることになるのである。
		(和銅6年(713)、丹波の国を分割して「始めて丹後の国を置く」という記述が「続日本紀」にある。)

		丹後地方に強大な勢力をもつ古代「丹後王国」が、実際に存在していたかどうかについては立証されているわけではないが、少なくと
		も大和朝廷の勢力が及ぶ以前に、この地方に文化度の高い先進的な一団がいたことは間違いないし、地域独自の王権と支配体制を備え
		た国家が竹野川流域を中心にあった可能性は高いと言える。その王国は4世紀中頃から末頃に創設され、5世紀代に最盛期を迎え、6
		世紀終わり頃には大和の支配に入ったのだ。 




		■中世以降
		中世になると京都から丹波・丹後へ向かう山陰道も整備され、街道沿いには「市」がつくられ、行き交う人々で賑わっていたものと思
		われる。地元で生産された絹織物も地方へ運ばれていった事だろう。有力寺社の荘園も多く分布し、また、足利氏と縁故が深い丹波の
		安国寺や、丹後地方の文殊信仰の中心であった智恩寺などの寺院を中心とする庶民信仰も広がった。14世紀から一色氏が守護として
		勢力を持っていたが、16世紀末細川氏が織田信長の命により丹後を平定し、城下町を開いた。 
		
		近世(江戸時代)になって、経済が発展するにともなって、街道や河川などの交通網が発達した。宮津藩や福知山藩の産物も、由良川
		を利用して京都、大坂へと運ばれていた。経済の中心は織物や農業で、特に丹後の絹織物は、18世紀に入ってからは、京都西陣から
		新しい技術を導入し、丹後を代表する特産品である「丹後ちりめん」が誕生した。江戸時代には、日本海を航行する船は宮津には必ず
		立ち寄ったと言われるほど、丹後半島の玄関口に当たる宮津界隈を中心に賑わった。丹後は、細川氏以後多くの藩主が入れ替わり、最
		終的に本荘氏が幕末まで続く。

		現在、行政的には京都府に統合されてはいるが、京都と丹波・丹後地域は、人的には江戸時代と同じように隔絶したままである。地理
		的には明治22年、京都と丹波・丹後を結ぶ車道が竣工し、地域の経済や人々の暮らしを支える動脈となった。また現在では大阪方面
		から「舞鶴自動車道」を経由すれば、1時間半ほどで舞鶴まで着いてしまう。しかしこの高速道路を走っている車は僅かだ。近畿圏の
		高速道路で、常時ガラガラなのはおそらくこの丹後への道くらいのものだろう。丹後ちりめんの生産地としては名高いが、他にさした
		る産業もない丹後半島が、「古代丹後王国」の隆盛を取り戻す日々は果たして再び訪れるのだろうか。


		今、丹後半島の各行政では、半島の活性化のために様々な施策を模索している。なかでも力を入れているのが「歴史街道計画」である。
		大江町・加悦町・野田川町・大宮町・峰山町からなる中丹後地区は、「丹後・丹波伝説の旅ルート」として、平成10年度、歴史街道
		モデル事業区に選定された。3つのゾーンを設定し、それぞれ観光ルートの整備、物産販売所の設置、文化財・旧跡の案内板・説明板
		の設置、ちりめん街道の歩道・町並整備とちりめんのPPR活動などに努めている。

		・姫伝説ゾーン      小野小町伝説、羽衣伝説にまつわる施設の整備と2つの伝説を結ぶ観光ルートを整備。
		・ちりめん街道ゾーン   伝説をめぐる観光ルートなどを整備。羽衣伝説。
		・鬼伝説ゾーン      「鬼の博物館」鬼にまつわる観光資源と大江山の風景から、鬼伝説が息づくイメージを創造。
 
		また、峰山町・大宮町・網野町・丹後町・弥栄町・久美浜町の各行政は、合併協議会を設立させて新しい丹後地区の行政のありかたを
		模索している。6町を合計した人口は平成13年3月31日現在、67,163名となっている。
		ちなみに、丹後地域全体は2市11町(舞鶴市・宮津市、大江町・加悦町・岩滝町・伊根町・野田川町・峰山町・大宮町・網野町・
		丹後町・弥栄町・久美浜町)からなり、面積1、182平方キロ、人口約 22万3、000人となっている(1998年)。

		1994年に丹後地域(2市11町)を訪れた観光客数は662万人(うち宿泊客142万人)だそうだ。5年前(1989)に比べる
		と5年間で19.6%の増だそうで、京都府全体の伸び率と比較しても一人気を吐いているようである。基幹産業の繊維産丹後ちり
		めん)が低迷し過疎化が進んでいく中、風光明媚な自然景観や海の幸を活かして、歴史・文化・伝説などを主体にした新しい「丹後
		王国」が出現する事を祈りたいものである。




		このHPの「丹後の旅」シリーズで使用している写真・一部の図版は、私が撮影したデジカメの写真以外は、特に但し書きがない限り、
		「大阪府立弥生文化博物館」発行の「平成14年春特別展 −青いガラスの燦き−」(2002年4月13日発行)から転載した。記して謝意
		を表明したいと思う。また、参考にした文献は以下に一覧表とした。あわせて謝意を表したい。





「丹後の旅」参考文献

	・「青いガラスの燦(きらめ)き −丹後王国が見えてきた−」 大阪府立弥生文化博物館図録24 2002年4月13日大阪府立弥生文化博物館発行
	・「丹後発掘」 特別展図録30 1999年10月1日 京都府立丹後郷土資料館発行
	・「史蹟蛭子山・作山古墳整備事業報告書」 加悦町文化財調査報告第15集 1992年3月 加悦町教育委員会発行
	・「空から見た古墳」2000年5月20日 監修:森浩一 株式会社学生社発行
	・「京都 丹後へ行こう」2001年7月20日 京都新聞出版センター発行
	・「季刊 考古学 第31号」 特集環濠集落とクニのおこり 1990年5月1日 雄山閣出版株式会社発行
	・「日本古代史と遺跡の旅・総解説」 1998年6月10日 株式会社自由国民社発行
	・「写真と図解 日本の古墳・古代遺跡」 1999年11月10日 株式会社西東社発行
	・「全国訪ねてみたい 古代遺跡100」 2002年2月20日 成美堂出版発行


	  今回参考にしたのは以上のような出版物であるが、丹後半島の遺跡に関しては、他にも以下のような発掘調査報告書がある。
	  これらは各機関へ問い合わせれば資料が入手できるかどうか答えてくれる。
	  但し発掘調査から年数の経っている報告書については、各行政機関にも保存用しか残っていない事が多い。




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