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大風呂南遺跡群 2002.6.30 京都府岩滝町








	太田南遺跡群は、日本海を眼下に見下ろす小高い丘に築造され、古代丹後の王墓とみられている。それは、一躍有名になった
	コバルト・ブルーに燦(きら)めくガラスの釧(くしろ:腕輪)もさることながら、13点の銅製の腕輪や、鉄剣が「王」の
	墳墓にふさわしいと思われているからだ。この墓には、11本の鉄剣も収められ、同時代の墳墓に副葬されたものでは最多を
	誇る。丹後の王の勢力の基盤は、このような鉄製品にあったとみられるのだ。
	しかし墳墓そのものは、尾根道の突端の薄暗い崖のようなところにへばりつくようにして築かれている。「こんな辺鄙なとこ
	ろになぁ、なんでやろ。」という話も出ていたが、誰かが、「古代はこの道(遺跡の脇に府道が走る。)もなくて、木々も生
	えてなかったとしたら、めちゃ見晴らしええで。」と言った。そうなのだ。今の情景は全て忘れて、古代がどういう地形であ
	ったのかを考えないと古代人の心はわからない。日本海を見下ろして、君臨した村々に睨みを利かせてここに葬られたとすれ
	ば、十分「王墓」の可能性がある。





ガラスの釧が出土した「大風呂南1号墳」は、今は盛り土されて埋め戻されている(下)。側には現代の王「携帯天皇」の鉄塔が君臨する。



	河原さんは現役、栗本さんはかっての社員、東江さんは元出向していた、と9人の内3人もが携帯電話会社に関わっていただ
	けに、この鉄塔の話で盛り上がった。河原さんが、「今度アンテナ建てててこんな遺跡にぶち当たったら、私の所に話がくる
	はずだからいの一番に見に行こう。」と言えば、「そんときは儂も連れてってや。」とみんながせがむ。「この横の道は、も
	しかしたら昔掘ってたときも何かでたんちゃうかねぇ。そこ(1号墳)とここの間やもんね。」「可能性ありますね。ガラス
	の釧はもう1,2個あったかもしれまへんで。」

 






	きらめく青いガラスの腕輪は体の中央部から検出されている。どちらかの腕にはめていたもののようである。
	従来、ガラス腕輪は丹後の大宮町1点と福岡県2点と、ともに破片が見つかっていたが、このように完全な形では初出土だ。    




	この墓に葬られた丹後の王の、頭の上方に13点の銅製の腕輪がかためておかれていた。
	貝をかたどったこの種の銅製の腕輪は多く出土しているが、突出部の先端がとがっていないものは、この墓のものと、愛知県
	の三王山遺跡にだけ出土している。


■貝をかたどった銅製の腕輪
(岩滝町 大風呂南1号墓、弥生時代後期後葉 長さ約11cm、岩滝町教育委員会蔵、重要文化財)






	ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった大風呂南遺跡だが、実は「鉄」の遺跡としても非常に貴重な存在なのだ。
	全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るための素材だった可
	能性もある。」と岩滝町教育委員会文化財調査員の白数(しらす)真也氏は語る。

	そして岩滝町とは峠道で結ばれている大宮町の三坂神社・左坂両墳墓群(弥生後期)にも鉄刀が副葬されていたし、さらにそ
	こから北へ10kmほど行った弥栄町の奈具岡遺跡(弥生中期)や、北西側の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡(弥生前期末)・
	途中(とちゅう)が丘遺跡(弥生時代前期末〜後期)等々の鉄材や鉄器加工の痕跡などを見ると、弥生時代を通じてこの丹後
	半島のほぼ中央地域一帯に、鉄器文化のネットワークができあがっていたと見ることができる。

	扇谷遺跡から北西2.6kmのところにある赤坂今井墳丘墓(弥生後期末)は、最大の方形墳丘を持つ遺跡だったが、ここから
	もヤリガンナなど多量の鉄製品の出土を見ている。日本海沿岸から丹後半島の中心部に至る交通路の要衝に位置し、鉄の交易
	を背景に君臨した強大な首長の存在を窺わせる、長さ14m、幅9mという巨大な墓壙も確認されている。


■王を飾った青いガラス製の腕輪
(岩滝町 大風呂南1号墓、弥生時代後期後葉 外径9.7cm、岩滝町教育委員会蔵、重要文化財)



	■与謝郡岩滝町大風呂南墳墓の副葬鉄器と東方交流■

	ここで主流派となる竹野川・福田川流域の台状墓とは異なり、野田川下流域に立地した与謝郡岩滝町大風呂南墳墓群の鉄器に
	注目したい。出土した鉄鏃のなかには、鏃身中央の鎬(しのぎ)や柳葉式にみられる独特の関の曲線的造形はないものの、定
	角式あるいは柳葉式と呼ばれる前期古墳副葬鉄鏃に類似するものがある。類品は北部九州から瀬戸内海に多いものである。

	また、漁労具小型の組み合わせヤスは、前期古墳でもその出現期から採用される副葬品目に類似する。しかしその一方で、大
	風呂南1号墓第一主体部にみられた鉄剣には、前期古墳副葬鉄剣には継承されない形制のものがある。墓壙北西側(被葬者頭
	部側)、2組にまとまって出土した丸振りの鉄剣は、短い茎部に目釘孔一孔と角関をもち、刃関部分に双孔を穿つものである。
	丹後地域の特例としては、竹野郡弥栄町古天王5号墓出土鉄剣のみであり、後期後葉の時期、鉄剣副葬がよく見られる丹後地
	域でも少数派である。このような短茎刃関双孔の鉄剣は、近畿地方よりむしろ北部九州やその周辺、或いは東海・関東地方に
	みられるものである(第7図参照)。このほか丹後地域において、東方緒地域との交流を示唆する副葬鉄器として扁平な帯板
	を曲げて環状に造り出した鉄製小型円環がある。丹後・但馬地域では、京都府中郡峰山町金谷1号墓第3主体部・兵庫県豊岡
	市若宮4号墓第4主体部に見られる。この鉄製小型円環がどのような由来の物か考える上で参考となるのは、銅製の鉄製小型
	円環の研究である。

	白居直之氏は、詳細な資料操作によって銅製小型円環が帯状円環形銅釧(第6図の1)の分割・再加工の結果であることを証
	明した。
	白居氏は、帯状円環形銅釧の一カ所を切断し、穿孔して垂飾品(2,3)として使用されるものの他に、円環を断ち切り、熨
	した(4)後に裁断し、再び曲げ輪造りによって小形円環(5)に再生されるものや、さらに帯板状の銅片を条刻の後に縦方
	向の裁断(6)して、幅の減じた円環(7)に造り出されるものあることを例証している。この銅製小形円環の製作過程を敷
	衍してみれば、その断面が扁平となる金谷1号墓や若宮4号墓の鉄製小形円環(10,11)についても帯状螺旋形鉄釧(8)
	の切断、再加工によるものとする余地も見られる。帯状螺旋形鉄釧は中部高地に集中して分布している。鉄製小形円環はその
	南方に分布していることから、中部高地において製作された鉄釧が何らかの要因で切断、再加工され、その南方に供給されて
	いたとも想定できる(第7図参照)。東海地方との交易によって近畿地方北部にもたらされたと推測することも可能ではなか
	ろうか。

	【丹後地域における弥生時代の鉄をめぐって  財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員 野島永 】
	【平成14年4月13日大阪府立弥生文化博物館発行 「青いガラスの燦き −丹後王国が見えてきた−」より】



	この遺跡を見て、宮津市の「京都府立丹後郷土資料館」を見に行った。デジカメの調子が悪くてメモリーに書き込まなくなっ
	て、残念ながら写真がない。資料館の前には「丹後の国国分寺跡」もあって、「国分寺友の会」の皆さん(internetで知り合
	った友人たち。その内の一人とは大阪でオフ会をした。)へ写真を送ってやれたのにと思うと、全くもって残念至極。







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