■遠所(處)遺跡(えんじょいせき:弥栄町) 古墳時代後期から平安時代にかけての複合遺跡で、特に奈良時代における製鉄から精錬・加工までの一貫した生産工場があ ったことがわかる貴重な古代遺跡である。丘陵の尾根に階段状に続く24基の古墳群、鉄生産の始まりを考える上で重要な 資料となる製鉄炉、鍛冶炉とともに、燃料に使う炭を生産する大量の炭窯が住居跡などと一緒に出土し、古代の製鉄コンビ ナートとでもいうべき大製鉄跡であったと考えられている。平成元年(1989)から発掘調査が進められた遠所遺跡は、5世 紀末あるいは6世紀前半の遺跡と思われるが、この遺跡からわが国最古の、砂鉄を原料とした「たたら式」の製鉄炉跡が発 見された。 製鉄関連の遺構が多数見つかったことから、「最古の製鉄遺跡」として一躍有名になった。製鉄炉は8基見つかり、うち2 基は6世紀後半のものだった。鍛冶炉は12基見つかり、すべてが奈良時代に属している。ほかにも炭焼窯や工房跡などが 見つかっており、鉄の生産に関わるすべての遺構がここで確認されている。遺跡の年代は6世紀後半の遺構が確定できる最 古のものであるが、炭窯は5世紀末までにさかのぽるものがあり、我が国最古の製鉄遺跡になる可能性も残されている。丹 後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい) が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている。このため丹後が古代の鉄生産の一つの根拠地として位置 していたのではないかと考えられている。この鉄をめぐる社会的、経済的状況も、丹後が大和政権に支配される大きな要因 になったのではないだろうか。
今回の旅は「鉄とガラスの丹後半島」を訪ねる旅で、ここなどはまさしく「丹後の鉄」を見直すきっかけにもなった遺跡で ある。ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった岩滝町の大風呂南遺跡(弥生後期後半)だが、じつは「鉄」の遺跡 としても非常に貴重な存在なのだ。全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9本は柄が着いておらず、「はじめ から鉄製品を作るための素材だった可能性もある。」と岩滝町教育委員会文化財調査員の白数(しらす)真也氏は語る。 そして岩滝町とは峠道で結ばれている大宮町の三坂神社・左坂両墳墓群(弥生後期)にも鉄刀が副葬されていたし、さらに そこから北へ10kmほど行った弥栄町の奈具岡遺跡(弥生中期)や、北西側の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡(弥生前期末) ・途中(とちゅう)が丘遺跡(弥生時代前期末〜後期)等々の鉄材や鉄器加工の痕跡などを見ると、弥生時代を通じてこの 丹後半島のほぼ中央地域一帯に、鉄器文化のネットワークができあがっていたと見ることができる。 扇谷遺跡から北西2.6kmのところにある赤坂今井墳丘墓(弥生後期末)は、最大の方形墳丘を持つ遺跡だったが、ここか らもヤリガンナなど多量の鉄製品の出土を見ている。日本海沿岸から丹後半島の中心部に至る交通路の要衝に位置し、鉄の 交易を背景に君臨した強大な首長の存在を窺わせる、長さ14m、幅9mという巨大な墓壙も確認されている。
丹後の鉄器文化は古墳時代に入っても継続している。ここ、弥栄町の遠所(處)遺跡は、古墳時代後期の遺跡であるが、砂 鉄を溶かし、鉄製品に仕上げるまでの一貫した大規模な製鉄機構を持っていたのである。弥生時代を通じて、おそらくは大 陸との交易を通じて入手した、潤沢な鉄素材を加工し鉄製品に仕上げると同時に、自ら砂鉄を溶かして製鉄する技術も持っ ていた。そしてそれは奈良時代になっても機能し、主に大和盆地を中心とした近畿一円にその製品を供給し続けていたもの と考えられる。丹後地方の製鉄は、出雲地方より古い可能性がある。 ちなみに、弥生時代鉄製品の出土例は、平成14年初頭現在、丹後からは330点を数えるが、同時期の大和では13点に しかならない。
丹後の古代製鉄は大規模で、一貫生産体制のコンビナートであった。京都府立大学の門脇禎二教授は、遠所遺跡から製鉄遺 構だけでなく、鍛冶遺跡も発掘された事をとらえて、ここを奈良時代の一大製鉄コンビナートともいうべき、驚くべき遺構 だと位置づけている。しかしながら、丹後の古代製鉄の原料である砂鉄は、現在までの調査の結果、丹後地方のものではな いことが判明している。原料の砂鉄はいったいどこから来たのだろうか? この点は、まだ研究者間でも解明されていない。 門脇教授によると、丹後地方には「車部」(くるまべ)という氏族がおり、この「車部」は物品の運搬を司る氏族で、丹後 の古代製鉄の原料である砂鉄や、出来上がった鉄や鉄製品の運搬を担当していたのではないか、と推論しているが、その砂 鉄がどこから来たか、製品はどこへ運ばれたかについては依然謎のままだ。
説明板の立っているあたりから田圃の方(南側?)を見ると、切り立った崖の上部に穴の開いたテラスのような所が見える。 説明にある窯跡である。田圃の縁をぐるっと廻って行かなければならない。みんなは行きそうになかったので、急いで見に 行こうと小走りで田圃の廻りを走っていったが、後で聞くと、その姿を見た西本さんらは、「見てみ、井上さん、興奮しと るで。」と話していたそうである。 下右の写真の陸橋を渡って行くと、弥栄町が力を入れている「あじわいの里」という農場公園へ行く事ができる。河原さん は昨年奥さんと来たことがあるそうだ。ハムやらソーセージを作っている工房などを見学したり、野菜園や牧場などを開放 して、農業に親しんで貰おうという施設らしい。イギリスの貴族の屋敷のなかにも同じようなものがあった。
窯跡。何の保存処理もされていないらしくボロボロである。「このまま放っといたらこりゃのうなるで。」「何とかせんな らんのちゃう。」とみんな心配する。ここに窯があったという事は、この崖の上に煙突があって、なにか関連の設備もあっ たのかもしれないと想像されたが、上には登れなかった。それにこの上に乗ったら窯跡が潰れそうである。何とか整備して もらいたいものだ。実験農場も大事だが、このような国中に誇れる古代遺跡も、弥栄町の先祖が残してくれた価値ある文化 遺産である。
弥生時代に製鉄はなかった、というのが現在の定説である。しかしここ(遠所遺跡)の多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビ ナートの形成を考えると、少なくとも5世紀には製鉄が始まっていたと考えられる。弥生時代の確実な製鉄遺跡はまだ発見 されていないが、(現在のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半の広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県 今佐屋山遺跡など)5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたことや、6世紀の遠所遺跡の 隆盛ぶりを思うと、その萌芽は弥生時代にあったのではないかという想いを強くする。実際、弥生時代に製鉄はあったとす る根強い意見もある。それは、製鉄炉の発見はないものの、 (1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。 (2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。 (3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた。 (4)弥生時代後期(2〜3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、日本は東アジアでも屈指の優れた冶金技術をもっていた。 というような事実から類推されるのである。広島県三原市の小丸遺跡は、3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではな いかと、最近マスコミに騒がれたし、同じく広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)などは弥生時代か ら古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれている。今まで、弥生時代の鉄原料はそのすべてを朝鮮半島に依存してい たという説が主流だったが、これらの遺跡の発見と今後の研究の進展により、いままで謎とされてきた「弥生時代後半の鉄 器大普及」の謎が解き明かされる事になるもしれない。
市町村ID 種別 1 名称(漢字) 遠所遺跡 名称(かな) えんじょいせき 所在地コード 26503 所在地 京都府竹野郡弥栄町鳥取・木橋 主な時代 40/51/52 緯度 354030 経度 1350400 時代・遺跡種別 4008/4011/5108/5111/5212 遺構概要 府センター報21(古墳-製鉄炉・炭窯・流路・住居、奈良-鍛冶炉・炭窯・流路・住居・須恵器窯) 遺物概要 府センター報21(古墳-鉄滓・木炭・木製品・須恵器・土師器、奈良-鍛冶剥片・鍛冶滓・木炭・木製品・ 須恵器・土師器、平安-緑釉陶器・須恵器・石器) 発掘概要 国営農地造成 その他概要 府センター報21-1997.3 【奈文研(奈良文化財研究所)遺跡データベースより】