Music: 台湾情歌



台湾の旅 2010年1月17日 国立台湾博物館







	国立台湾博物館	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆。(以下、青字部分は全て)

	国立台湾博物館(こくりつたいわんはくぶつかん)は台湾台北市中正区の228和平公園内にある日本統治時代の1908年に台湾
	総督府の博物館として設立された台湾最古の博物館である。
	1913年、第4代台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平を記念するため、現在地に建築された。1915年、現在の建物が完成
	し、「児玉総督後藤民政長官記念館」と命名された。戦後の1849年に「台湾省立博物館」と改称し、更に1999年に現在の名
	称となった。1998年、新古典主義建築の建物が台湾の国定史跡に 指定された。
	常設展示は、台湾の歴史と自然を主題とし、歴史と諸民族、地質史と鉱物、生物の多様性、台湾の生物、台湾の先住民に分けられて
	いる。この他にケナガマンモス標本がある。
	台湾地域の歴史は、
		先史時代 → オランダ統治時代 → 鄭氏政権時代 → 清朝統治時代 → 日本統治時代 → 中華民国統治時代(現代)
	と変遷した。










	博物館の廻りには、出土したり収拾された古代の遺物が展示されている。日本ならガラスケースの中に収まって展示されているよう
	な遺物だと思うが、もしかしたらレプリカかもしれない。










	中国本土においては、毛沢東のとった「文化大革命」という愚作のおかげで、もう自国民ですら自分の国の歴史を学ぶ事が困難なほ
	ど、漢字が本来の書体では無くなってしまっている。あと数十年、或いは百年ほど経って、中国国民はそのことに思いいたるのだろ
	う。
	翻ってここ台湾では、日本と同様に昔からの漢字の用法・字体が残っている。韓国も7割が漢字を読めないと言うし、今や漢字本来
	の形が残っているのは、台湾と日本だけなのだ。おかげでこの解説も、じっと見ていると何となく意味が分かってしまう。これは非
	常にありがたかった。











これは展示室のガラスにディスプレィが貼り付けてあったもの(だと思う)。





左、児玉源太郎、右後藤新平像。

	台湾総督府	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督府)は、日清戦争の結果清国から割譲された台湾を統治するために設置された
	日本の出先官庁。台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、現在でも中華民国の総統府として使用されている。

	台湾総督府は、明治28年 (1895) の馬関条約締結から昭和20年 (1945) の日本降伏まで台湾を統治した。台湾総督は「土皇帝」と呼
	ばれるほど台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持った。後に軍事権が台湾軍司令官に移管された
	ことにより、文官の総督就任が可能となった。
	ただし台湾総督は内閣総理大臣の、さらにのちには内務大臣や拓務大臣などの指揮監督を受けることになっており、宮中席次でも朝
	鮮総督が第6位なのに対して台湾総督は親任官として第11位と、陸海軍大将や枢密顧問官よりも地位が低かった。
	初代総督は樺山資紀で当初は陸海軍の将官が総督を務めた。児玉源太郎総督の下で1898年に民政長官に就任した後藤新平は、土地改
	革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育
	成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いる
	ことで統治体制を確立した。

	明治28年 (1895) に台湾総督府が設置されてから昭和20年 (1945) にこれが廃止されるまで、19名の台湾総督が任命されている。在
	任の最長は佐久間左馬太の9年1ヵ月、最短は南弘の2ヵ月で、在任の平均はおよそ2年半となっている。これらの総督は一般にその出
	身母体から、前期武官総督、文官総督時代、後期武官総督の三種類に分類されている。

	<前期武官総督の時代>
	初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督
	には行政権と司法権、そして台湾軍の指揮権はもとより、六三法によって特別立法権までもが付与されており、この統治四権を一手
	に握る総督の権限は絶大なものだった。
	こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎、佐久間左馬太、安東貞美、明石元二郎
	の7名はいずれも現役の大将または中将で、しかも初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。
	そうした中で、4代総督の児玉の頃から統治政策に変化があらわれる。いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針がそれである。
	6代総督の安東と7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、
	台湾に墓地が建立された唯一の総督でもある。




	<文官総督の時代>
	その明石が総督のとき、総督の下にあった台湾軍の指揮権を台湾軍司令官に移譲したため、以後台湾では文官でも総督になること
	が可能になった。
	文官総督時代には、田健治郎、内田嘉吉、伊沢多喜男、上山満之進、川村竹治、石塚英蔵、太田政弘、南弘、中川健蔵の9名が総
	督に任命されている。いずれも内務省、逓信省、農商務省などの高級官僚や外地の民政担当官を経て貴族院議員に勅任された勅選
	議員で、その時々に政権を担当していた政党の推薦を受けて任命された。
	台湾の統治方式を抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。

	<後期武官総督の時代>
	二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものだったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入するこ
	とになった。この貧乏くじを引いたのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総
	督にしたのは当時の新聞が「異例中の異例人事」評するほどの驚愕人事だった。小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推
	進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷
	川清海軍大将がこれに決まった。この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢だったが、台湾の軍事拠点化を推進
	するという建前もあって現役のまま総督に就任、ここに武官総督が復活することになった。ただし台湾軍の指揮権は依然として台
	湾軍司令官のもとに、後にはこれを改編した第10方面軍司令官のもとにあり、長谷川は武官総督といってもその性格は前期のそれ
	とは大きく様相を異にするものだった。

	ところが太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった昭和19年 (1944) 暮、台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、
	第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将に台湾総督を「兼任」させるという本末転倒の人事がなると、ここに後期総督も前期総督と
	同等の強大な権限を持つに至った。しかしそれも束の間、翌年日本が無条件降伏すると台湾総督府も解体されることになり、昭和
	20年 (1945) 10月25日、安藤は陳儀中華民国台湾省長官との間に降伏文書を交わす。ここに半世紀にわたった台湾総督府の歴史に
	幕が下りた。




	これを見ても、台湾では大旨日本人は嫌われてはいない。少なくとも、町中に排日の気運が満ちあふれているという中国本土の雰
	囲気はない。児玉源太郎、後藤新平による台湾統治は、一部のやり過ぎはあったが、大旨台湾人にも好意的に受け止められていた
	という話はよく聞く。台湾が今の民主制を採用できたのも、かっての日本人が行った教育制度のおかげであるという台湾人も多い。
	もし悪徳為政者として日本人が捉えられていたとすれば、こういう国立の博物館に二人の像を再展示したりはしない。しかもそれ
	は全く台湾人の手によって行われているのだ。

	これは中国(中華人民共和国)とはエラい違いである。南京で起きた小さな事件を「南京大虐殺」事件に仕立て上げ、つい最近、
	南京にその記念館を建てているが、その展示品の9割方は捏造である。日本人女性教師が中国人数名の男たちに乱暴されている写
	真が、「日本人に犯される中国婦人」として堂々と飾ってあるのだ。(櫻井よしこ著:異形の大国・中国)

	先の228事件といい、戦後一貫して続いている排日運動といい、中国本土の漢民族は、台湾の漢民族とは違う民族のようである。
	いかに日本の統治が良かったとしても、わずか50年ほどの教育の成果がこうも違って現れるものだろうか。もし教育の成果だと
	すれば、まだ本土の中国人たちにも未来はある。そうでないとすれば・・・・・。

	思うに中国本土の、特に共産党がこうまで日本を嫌う原点はどこにあるのだろうか。私の見るところ、それは日本人に対する恐れ
	であり、コンプレックスだろうと思う。かっては文字を発明し、火薬を発明し、活字を発明して世界中の文化を席巻していたよう
	な古代中国が、いつの間にやら隣の小国にリードされ、日清戦争、アヘン戦争と諸外国に蹂躙されるにいたって、あらゆる国に対
	する反発を強め、とくに同根同種である日本人に対しては激しい怒りを向けているのだ。アヘン戦争で大英帝国が「清」に対して
	おこなった暴虐は南京事件どころの騒ぎではないが、中国が「アヘン戦争記念館」を建てて排英運動を行っているという話しは聞
	いたことがない。中国は、かっては自分の国に朝貢していた東アジアの東端に在る国が、漢民族より優位にある点が許せないのだ。
	ジェラシーとコンプレックス以外の何者でも無い。

	世界第二位となったGDPの2割を軍事費に回して、現代中国は「中華思想」を復活させようとしているが、台湾人が受けたよう
	な「まともな」教育を受ければ、この地球上にそんなものは存在し得ないことがすぐわかるのだが。かって日本が陥った、「帝国
	主義」の幻影を、「共産主義」というオブラートで包んで地球制覇を目論んでいるのが、今の中国である。チベットをウイグルを
	モンゴルを武力で制圧し、インドネシアやタイの島々を占拠しては「本来ここは中国のもの」と開きなおる。こういう国には理屈
	は通用しない。まさしく異形の国家なのである。
	それに反して、何とか「まともな」国家であろうとし続けている台湾。我々はこの台湾の民主制度は、何としても支援しなければ
	なるまい。






	台湾の歴史	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	先史時代
	オランダ統治時代 (1624-1662)
	鄭氏政権 (1662-1683)
	清朝統治時代 (1683-1895)
	台湾民主国 (1895)
	日本統治時代 (1895-1945)
	中華民国統治時代 (1945-現在) 

	<目次>

	1 概略 
	1.1 先史時代 (1624年以前)
	1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)
	1.3 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)
	1.4 清朝統治時代(1683年 - 1895年)
	1.5 日本統治時代(1895年 - 1945年)
	1.6 中華民国統治時代(1945年 - 現在) 
	1.6.1 南京国民政府(1945年 - 1949年)
	1.6.2 台湾国民政府(1949年 - 1996年)
	1.6.3 総統民選期(1996年 - 現在)
	2 関連項目
	3 脚注
	4 文献情報


	1.概略

	1.1 先史時代 (1624年以前) 「先史時代 (台湾)」および「台湾原住民」も参照

	左鎮人想像図

	地質学の研究によれば今から300万年から1万年前の更新世氷河期の時代、台湾は中国大陸と地続きであり、大陸から人類が台湾に移住
	し、居住していたと考えられている。現在台湾で確認されているもっとも古い人類は台南県左鎮郷一体で発見された左鎮人であるが、
	その生活文化がどのようなものであったのかについては具体的な考古学の成果が上がっていない。

	また考古学により旧石器時代晩期(5万年−1万年前)には人類の居住が開始されていたことが確認されている。現在確認されている
	台湾最初の文化は長浜文化(台東県長浜郷の八仙洞遺跡などが代表例)であり、大量の打製石器及び骨角器が発掘されている。長浜文
	化は中国南部の文化とある程度の類似性を有しているが、現在の考古学の成果からは台湾の旧石器時代の民族系統については確定する
	に至っていない。

	<旧石器時代>
	台東区の長浜郷の八仙洞で五万年から三万年前ぐらいの遺跡・石器が発見されている。一万数千年前はまだ氷河期で、台湾と大陸は陸
	続きだった。この文化は5千年前に姿を消している。台南では3万年ほど前の左鎮人の歯と頭蓋骨が発見されている。

	<新石器時代初期>
	約7千万年前から八里で『大■坑文化』が現れた。この大■坑文化は中国華南から台湾までおよんでいる。おそらく船で華南から渡っ
	てきたのだろう。縄紋の陶器の文化である。狩猟や漁撈が主だが、原始的な農業も始まっていたらしい。

	<新石器時代中期>
	4500〜3500年前。北部の芝山岩文化・南部の墾丁文化で、稲作が始まる。しかし、原住民の農場は「アワや芋」のほうが主流
	だった。黒陶も見つかる。これは大陸の文化が伝わった形跡である。

	<新石器時代末期>
	3500〜2000年前には、台湾全土で農耕が広まり、家畜が飼育され始め、定住型集落が形成された。また、死者を埋葬し、埋葬
	品が発見された。すでに原始宗教的な信仰があったとみられる。 

	台東の『卑南文化』は出土品の種類も多く、洗練されている。石柱、石棺、石臼。ほか陶器や玉もある。ちなみに、卑南文化と先住民
	族の卑南(ピュマ)族とは関係はない。今のところ、卑南文化が何族の祖先であるかについては、まだ学者や専門家の間で証明されて
	いない。阿美族の先祖の説が有力か?

	台湾での新石器時代及び金属器時代の文化は旧石器時代の文化との関連性は高くない。この時期は発掘された遺跡により台北県八里郷
	の大■(分の下に土)坑文化及び十三行文化、台北盆地の円山文化及び植物園文化、台東県の卑南文化等が存在しているが、出土品の
	中に中国大陸からの貨幣なども含まれており、台湾以外との外部交渉が行われていた傍証となっている。
	現在定説となっているのは新石器時代以降の先史文化は台湾南島語系民族によるものであり、現在の原住民が台湾に定住する以前に、
	別の族群が台湾に居住していた可能性を示している。

	日本人学者移川子之蔵は台湾の先史時代より20以上の先住民族が居住していた可能性を指摘し、また一部は現在の原住民の祖先(十三
	行文化人のガダガラン族祖先説)であるとも考えられている。しかし考古学の発掘は未だ新石器文化と台湾原住民との間を具体的な継
	承関係を確定できていない。

	台湾原住民はオーストロネシア語族に属し、古くは中国大陸南部に居住していたと考えられている。その後北方漢民族などの圧力を受
	けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力である。しかし一度台湾から出て行った種族が、再び
	台湾に戻ってくるなど、その移動は複雑で未だ不明な点が多い。

	<金属器時代>
	1600〜400年前。台湾には青銅器時代はない。金属は主に『鉄』、または『銅』。しかし、まだ石器文化も残っている。  
	有名なところでは、北部の八里「十三行文化」、中部の大甲「番仔園文化」、台南の「蔦松文化」、台東の「静浦文化」(アミ族
	の先祖)がある。また静浦文化は台湾では珍しいガラス器がある。 

	台湾は、東海(東シナ海)上にある島として古くから中国人にその存在を認識されていた。『三国志・呉志』、『隋書・流求伝』及び
	『文献通考』などに台湾を記録したとも考えられる記録があり、『隋書・流求伝』では「流求国在海中、当建安郡東、水行五日而至
	(流求国は海中に在り、建安群の東に当たり、水行こと五日にして至る)」と記載され、中華人民共和国の歴史学者は中国大陸と台湾
	との間の交渉の論拠としている[1]、しかしこの記述が台湾を記録したものか不明であるとし[2]、流求とは琉球群島であるという反論
	もなされている[3]。
	現在台湾を記録したことが確実視される史料としては 『元史・瑠求伝』がある。台湾が何時の時代に中国の版図に編入されたかについ
	ては諸説があるが、澎湖諸島と台湾本島を区分して記述すれば、澎湖諸島は元代に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したというの
	が確実な記録であり、台湾本島は近域を航行する船舶の一時的な寄港地、あるいは倭寇の根拠地としての位置づけが明代まで続き、清
	代になり正式に中国版図に組み入れられたと見なす傾向が台湾での主流である。

	<元の時代>
	元は「瑠求(台湾)」へ派兵した。そのとき数人の南方系言語の通訳を連れていったそうで、その中の一人が台湾原住民と会話が
	できたというが、そのときの派兵では台湾を制服できなかった、当時台湾には国家がなく、小さな部落が各地にあるだけであった。
	小さな部落を制服しても、先に進むと、すぐ違う部落が現れる。そこを占拠し奥に進んでもまた他の部落と続く。きりがなく元軍
	は引き返したが、もしその時統一国家が存在していれば、台湾は元に征服されていた事だろう。


	1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年) 詳細は「オランダ統治時代 (台湾)」を参照

	『熱蘭遮城及び長官官邸鳥瞰図』1635年頃オランダハイヤ国立公文書館所蔵台湾が本格的に開発されるようになったのは16世紀の明朝
	時代になってからである。倭寇の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族、
	日本人が恒久的に居住し始めるまでに至った。また、この時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航す
	るようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点とし
	ていった。その為に、日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。

	なお、ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して
	「 Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosa(フォルモサ、中国語では美麗島)」が誕生し
	たとされている。
	また、その頃日本にも、台湾に対して領土的な興味を持つ勢力が幾つか存在した。豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、
	原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。実質的には存在せず朝貢の目的は果
	たせなかった)。また1608年には有馬晴信が、1616 年には長崎代官 村山等安が、いずれも成功はしなかったものの台湾へ軍勢を派遣
	した。
	台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有
	下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。なお、同時期の
	1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイ
	ン勢力を台湾から追放する事に成功している。

	<オランダ語と新港語併記のマタイ福音書>
	オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進
	めさせることでプランテーションの経営に乗り出そうとした。その際に台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で来訪者の意)
	と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もある。だが、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の
	旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落した為に、進出開始から37年で台湾
	から全て駆逐されていった。

	<国際競争時期>(漢人 日本人 オランダ人 スペイン人)
 
	・漢人の活動  原住民だけの土地に、外来の民族が居座る。15世紀ごろ、台湾は海賊や漁民たちの住処になっていた。林道乾、
	        林鳳、倭寇などの海賊が台湾、澎湖島で活動していた。
 
	・ポルトガル人の活動はほとんどない。 台湾には美麗島という別称があるが、それは台湾を始めて見たポルトガル人船員がその
	        美しさに感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承に基づいている。   
  
	・日本人の活動	倭寇以外にも台湾での日本人の活動はあった。■籠(基隆)や打狗(高雄)を拠点として、黄金や硫鉛の貿易を
			営んでいた。1636年日本が鎖国するまで続いた。
			1593 豊臣秀吉、台湾に入貢を促す。
			1626 濱田彌兵衛
			オランダは外国船から10%の関税を取り立てようとした。中国商人はこれを受け入れるが、日本の商人
			は拒否した。もともとオランダが来る前から、日本はここで貿易をしていたにもかかわらず、後から来たオラン
			ダが税金を取ることに納得できなかったのだろう。その中に、長崎代官末次平蔵が派遣した商船があった。その
			船長が、濱田彌兵衛であった。オランダは、ピーテル・ノイツを台湾長官に任命し、日本に派遣し幕府と交渉す
			ることにした。
			1627年7月、ノイツが浜田弥兵衛ら現場の人間を無視したことに怒った弥兵衛らは、先住民14人を連れて、
			ノイツのあとを追って平戸に入り、先住民に台湾全土を将軍へ献上すると言わしめた。末次平蔵は、先住民一行
			を台湾からの朝貢使に仕立てて江戸へ送った。そのため江戸では、ノイツらを正式な使節として認めず、将軍と
			の謁見も拒否され、台湾へ帰らざるを得なくなった。一方先住民の一行は、将軍に謁見した。
			これに怒ったノイツは翌1628年、台湾に戻ってきた彌兵衛らに対し、武器を没収し、船員と先住民らを拘束
			し、また将軍からの賜品も没収した。そこで今度は彌兵衛が、6月29日、約170人の手勢で長官府を襲撃し
			て占領、ノイツら5人を拘束した。その後お互い人質を5人ずつ出して、長崎で双方解放することで合意した。
			もちろん、没収されていた品や先住民も解放させた。 

	・オランダ人の活動	1604年、澎湖島を占領、明朝の沈有容が赴き、明の領土を主張。その過程で台湾なら占領してもかまわ
			ないと約束した。明は台湾を自国領土と認めていなかったことになる。1622年 オランダ人は再び、澎湖島を占
			領。二年後に台湾に移る。

	<オランダ時代(1624−1661) >
	1624  オランダ、台湾を占領。現在の台南にゼーランジャ城(現在安平古堡)、プロビンシャ城(現在赤?樓)を造る。オラ
	ンダ人は、シラヤ語やファボラン語をローマ字で表記する方法を開発し、聖書などのキリスト教布教用の現地語文書を作成し、こ
	れを原住民に教えた。このローマ字による書字法は、土地契約文書(新港文書)においても使用されるなど、清代においては、実
	用的な役目も果たした。当時シラヤ族の80%が聖書を読めたという。
	1626 スペイン、基隆(キールン)を占領。サン・サルバドル要塞を造る。 
	1628 スペイン、淡水(タンスイ)を占領。サン・ドミンゴ要塞を造る。 
	1642 オランダ、台湾北部からスペインを追放。 
	1652 オランダに抵抗する郭懐一の蜂起。オランダ人は漢人の生産活動に介入し、重税を課し、蔗糖業の不振もあり漢人に不
	満が増大、郭懐一はオランダに対する叛乱を計画した。しかし郭懐一の叛乱計画は事前に密告によりオランダ側に知られる。郭懐
	一は 1652年9月7日、普羅民遮城(Provintia)を攻撃した。しかし郭懐一は同日に戦死し、叛乱軍は全滅、この叛乱により殺害さ
	れた漢人は数千人に及んだ。
 
	・スペイン人の活動 
	1624年にオランダが台湾を占領したことは、マニラのスペイン人にとって脅威だった。1626年マニラのスペイン人は大型
	船二艘、他小型船十二艘三百名を台湾に向かわせた。五月五日フィリピンを出発。台湾東海岸を北上、十二日■籠(基隆)に到着
	した。十六日、■籠港内社寮島(現在の和平島)で占領式を行った。セント・サルバドール城(San Salvador)」を築城した。
	もちろんそれはすぐにオランダの知るところとなる。明朝や日本との貿易に支障が出ると考え、1628年にオランダは台湾北部
	の淡水に侵攻した。当時すでにスペインは淡水を占拠、セント・ドミンゴ城(Santo Domingo)(現在の紅毛城)を建設していた。
	1629年、オランダは淡水のスペイン人に攻撃するも、失敗に終わった。
	スペインは、オランダ人に学び、宣教活動の一環で、賽夏の言葉をローマ字表記した「淡水辞彙」を制作した。またスペインは台
	北近郊の北投における硫黄の採掘や布教医療としてのマラリア治療を通して西洋医学の知識などを広めたが、占領要員の多くが先
	住民の襲撃、マラリアなどの風土病に遭いスペインの占領態勢の弱体化につながった。
	その間にもオランダはスペインのことをつぶさに偵察し、スペインの弱体化を見た1642年、鶏籠に艦隊を派遣しスペイン人勢
	力を攻撃、3ヶ月の攻防により台湾北部からスペインを追放した。スペインの16年間に渡る台湾北部の占領が幕を閉じた。


	1.3 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)

	1644年、李自成の反乱によって明朝が滅亡し、混乱状況にあった中国に満州族の王朝である清が進出して来た。これに対し、明朝の皇
	族・遺臣達は、「反清復明」を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返したが、力及ばず1661年に滅亡させられた。その為に、
	「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ・東インド会社を攻撃し、
	1662年に東インド会社を台湾から駆逐する事に成功した。台湾の漢民族政権による統治は、この鄭成功の政権が史上初めてである。

	東インド会社を駆逐した鄭成功は台湾を「東都」と改名し、現在の台南市周辺を根拠地としながら台湾島の開発に乗り出すことで、台
	湾を「反清復明」の拠点化を目指したが1662年中に病気で死去した。その為に、彼の息子である鄭経たちが父の跡を継いで台湾の「反
	清復明」の拠点化を進めたが、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて1683年に降伏し、鄭氏一族による台湾統治は3代 実質21〜
	23年間[4]で終了した。
	歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かった。だが、鄭成功
	は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の精神的支柱(開
	発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。

	なお鄭成功は清との戦いに際し、たびたび徳川幕府へ軍事的な支援を申し入れていたが、当時の情勢から鄭成功の勝利が難しいもので
	あると幕府側に判断され支援は実現しなかった。しかしこの戦いの経緯は日本にもよく知られ、後に近松門左衛門によって国性爺合戦
	として人形浄瑠璃化された。


	 
	鄭成功

	<海賊出身の鄭成功による政権(1661-83年)>

	鄭成功	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	
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	鄭 成功(てい せいこう、ピン音:Zheng Chengg?ng、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦十六年5月8日
	(1662 年6月23日))は中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続
	け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。台湾・中国では民族的英雄として描かれる。鉄人(鉄の甲冑を着込んでい
	たための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。
 
	日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳の時
	に父の故郷福建につれてこられる。鄭芝竜の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との
	抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県の生員になった。明の陪都・南京で東林党の銭
	謙益に師事。
	1644年、李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命
	政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集
	めの順が精悍な清の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆
	武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった。
	そんななか、ある日鄭森は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に
	皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、
	森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」
	は「老人」を意味するのではなく、「御大」「旦那」といった親近感を伴う敬称)と呼ばれるようになる。

	隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降す
	るのを成功は泣いて止めたが、芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。
	その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じ
	て、抵抗運動を続ける。そのためにまずアモイ島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
	1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は17万5千[要出典]の北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん
	農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。
	意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に会い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に
	再度進軍を始めた。鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。

	台湾占拠
	安平古堡の鄭成功像鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び
	天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とする。しかし翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き
	継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。
	国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており、中華民
	国海軍のフリゲートには成功級という型式名がつけられている(1号艦名が「成功」)。
	歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功
	は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の
	支柱・象徴(開発始祖あるいは「ピルグリム・ファーザーズ」)として社会的に極めて高い地位を占めている。


	1.4 清朝統治時代(1683年 - 1895年)  詳細は「清朝統治時代 (台湾)」を参照

	建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清朝は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧し
	て鄭氏政権を滅ぼすことに成功した。だが、清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する
	事に消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台
	湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし清朝は、台湾を「化外(けがい)の地」(「皇帝の
	支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)としてさほど重要視していなかった為に統治には永らく消極的であり続
	け、特に台湾原住民については「化外(けがい)の民」(「皇帝の支配する民ではない」、「中華文明に属さない民」の意)として放
	置し続けてきた。その結果、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華
	人民共和国は、台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも清朝の主権が及んでいたと主張している。

	清朝編入後、台湾へは対岸に位置する中国大陸の福建省、広東省から相次いで多くの漢民族が移住し、開発地を拡大していった。その
	為に、現在の台湾に居住する本省系漢民族の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。漢民族の大量移住に
	伴い、台南付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると台北付近が本格的
	に開発されるまでになった。
	この間、台湾は主に農業と中国大陸との貿易によって発展していったが、清朝の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い海賊や食い
	はぐれた貧窮民が多く、更にはマラリア、デング熱などの熱帯病や原住民との葛藤、台風などの水害が激しかった為、台湾では内乱が
	相次いだ。
	なお、清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。その
	ために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原
	住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。

	19世紀半ばにヨーロッパ列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになった。即ち、1858年にアロー
	戦争に敗れた清が天津条約を締結したことにより、台湾でも台南・安平(アンピン)港や基隆港が欧州列強に開港されることとなった。
	1871年宮古島島民遭難事件が起こり、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難
	し、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は
	「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために1874年には日本による台湾出兵(牡丹社事件)が行なわれ、
	1884〜85年の清仏戦争の際にはフランスの艦隊が台湾北部への攻略を謀った。
	これに伴い、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化の為に知事
	に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、1885年に台湾を福建省から分離して台湾省を新設した。台湾省設置後の清朝は、それま
	での消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになり、例えば1887年に基隆―台北間に鉄道を敷設するなど近代化政策を
	各地で採り始めた。だが、1894年に清朝が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北した為、翌1895年に締結された下関条約(馬關條約)に
	基づいて台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止された。これ以降、台湾は大
	日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれる事となる。


	1.5 日本統治時代(1895年 - 1945年)  詳細は「日本統治時代 (台湾)」を参照  「台湾民主国」も参照

	1895年、大日本帝国への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐した日本軍との交戦に発展した。日本軍の圧倒
	的に優勢な兵力の前に政権基盤が確立していなかった台湾民主国は間もなく崩壊、1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする
	日本の統治体制が確立した。
	工業を内地、農業を台湾と分担することを目的に台湾での農業振興政策が採用され、各種産業保護政策や、鉄道を初めとする交通網の
	整備大規模水利事業などを実施し製糖業や蓬莱米の生産を飛躍的に向上させることに成功している。また経済面では専売制度を採用し、
	台湾内での過当競争を防止するとともに、台湾財政の独立化を実現している。
	また初期段階の抗日武装運動に対しては、武力鎮圧で対応していた。その後近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教
	育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実
	業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。

	台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり帝国臣民になるかを選択させた。1895年に台湾が大日本帝
	国に編入された時、併合に反対する台湾住民は、「匪徒刑罰法」によって処刑された。その数は3000人に達した。抗日運動は、1915年
	の西来庵事件(タパニ事件)で頂点に達した。
	また当時の台湾に多かったアヘン常習者への対策として、アヘン常習者には免罪符を与えて免罪符を持たない者のアヘン使用を禁止と
	した。
	当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると
	死ぬ」とまで言われていた。そこで後藤新平が近代的な上下水道を完成させた。また、台湾南部の乾燥と塩害対策として、八田與一が
	烏山頭ダムと用水路を建設した。この八田の功績に対して、烏山頭ダムの湖畔には地元住民によって建設された八田の銅像があり、現
	在でも八田の命日には毎年地元住民による感謝と慰霊が行われている。また、この地方出身である陳水扁総統も感謝の弁を述べている。

	太平洋戦争が勃発すると、台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる。軍需に対応すべく台湾の工業
	化が図られ、水力発電所を初めとするインフラ整備もこの時期に積極的に行われた。しかし戦争末期にはアメリカ軍の空襲を受けるな
	ど台湾も爆撃などを受け、目標としていた工業生産を達成することなく終戦を迎えることとなった。

	社会面では当初は植民地としての地位にあった台湾であるが、日本国内で大正デモクラシーが勃興する時期に台湾でも地方自治要求が
	提出され、台湾人としての権利の主張が行われている。これらは台湾議会開設請願運動となって展開された。しかし、これが実った時
	期は、日本統治時代末期の1935年であった。この1935年に地方選挙制度が施行されるようになり、台湾においても地方選挙が行われ地
	方議会が開かれることとなった[5]。
	1944年9月には台湾でも徴兵制度が施行されているが、併合地籍徴集兵は、戦争終結のため実際の戦闘に投入されることはなかった。
	陸軍志願兵への倍率は、1942年から始まった応募受付第一回で倍率426倍、第二回で601倍を記録した。徴用は、戦争当初から行われて
	いた。詳しくは、台湾人日本兵参照のこと。


	1.6 中華民国統治時代(1945年 - 現在)  詳細は「中華民国」を参照


	1.6.1 南京国民政府(1945年 - 1949年)
	1945年の第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が台湾に上陸して
	来た。南京国民政府は、1945年10月25日の日本軍の降伏式典後に、台湾の「光復」(日本からの解放)を祝う式典を行い、台湾を中華
	民国の領土に編入すると同時に、台湾を統治する機関・台湾行政公所を設置した。だが、行政公所の要職は新来の外省人が独占し、更
	には公所と政府軍の腐敗が激しかった事から、それまで台湾にいた本省人(台湾人)が公所と政府軍に反発し、1947 年2月28日に本省
	人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。
	その際に、蒋介石は事件を徹底的に弾圧して台湾に恐怖政治を敷き、中国国民党の政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した
	上で、1947年に台湾省政府による台湾統治を開始した。二・二八事件以降、国民政府は台湾人の抵抗意識を奪う為に、知識階層・共産
	主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている(二・二八事件 もしくは 2・28 白色テロ)。こうした台湾人に対する弾圧は蒋経
	国の時代になっても続けられた。国民党が当時の資料の公開を拒み続けているため、正確な犠牲者数は不明で、犠牲者数には諸説ある。
	だが、1949年に蒋介石が国共内戦で敗れた兵隊、崩壊状態にあった南京国民政府を引き連れて台湾に移住してきた為、これ以降は事実
	上蒋介石・国民政府による台湾の直接統治が行なわれることとなった。こうして、1945年に大日本帝国から中華民国に明け渡された台
	湾は、1947年の二・二八事件により、「犬が去って、豚が来た」と評された。つまり、天皇による絶対君主制(犬)が終わったら、国
	民党による一党独裁(豚)が始まったのである。この例は、第二次世界大戦が終わった途端に東欧各地で、「ファシズム的君主制が終
	わったら、共産党による一党独裁が始まった」様相と同じ現象である。

	なお、日本国は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)や日華平和条約において台湾の領有権を放棄したものの、両条約で
	はいずれも台湾の中華民国への返還(割譲)が明記されていない。その為に現在では、台湾は中華民国によって占領されているだけで
	あり、最終的な帰属国家は未定であるというとの解釈(台湾地位未定論)も存在する。


	1.6.2 台湾国民政府(1949年 - 1996年)
	戒厳令を敷き、知識分子・不穏分子を弾圧した蒋介石は開発独裁を行う。大陸から台湾に逃れた数十万の軍人を養うためにも、大規模
	開発は必須だった。鉄道の北廻線や蘇奥港開発など、十大建設が実施され、台湾経済は軽工業から重工業へ発展していく。
	一方大陸を完全に掌握した共産党は、台湾攻略を目標とした金門島攻撃に着手した(台湾海峡危機を参照)。しかし海軍及び空軍兵力
	に劣る人民解放軍は有力な制海・制空権を掌握できず、要塞に立てこもる国民党軍や、台湾海峡を航行するアメリカ第七艦隊を打破す
	ることはできず、共産党も金門侵攻を放棄した。

	共産勢力に対抗するためにアメリカは台湾を防衛する意志を固め、蒋介石に種々の援助−美援(美国援助=米国援助)を与えた。ベト
	ナム戦争が勃発すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として外貨であるドルが大量に台湾経済に流入したことで、
	台湾経済は高度成長期に突入することになる。

	植民地統治の影響から、台湾は日本との経済的繋がりが強かったが、この頃から台湾経済はアメリカ経済との関係を親密化させていく。
	多数の台湾人がアメリカに留学、そのままアメリカに在住し台湾とのビジネスを始めるなど、太平洋横断的なネットワークが構築され、
	中でも台湾人が多く住んだカリフォルニアの影響を受けて電子産業が育ち、Acerなどの国際メーカーが誕生した。

	政治的には国民党独裁が続き、台湾の民主化運動は日本、後にアメリカに移住した台湾人を中心に展開されることとなった。しかし
	1970年代に入ると美麗島事件が発生し、その裁判で被告らを弁護した陳水扁、謝長廷らを中心に台湾内で民主化運動が盛んになる(党
	外運動)。蒋親子の死後、国民党主席についた李登輝は台湾の民主化を推し進め、1996年には台湾初の総統民選を実施、そこで総統に
	選出された。
	社会的には蒋介石とともに大陸から移住して来た外省人と、それ以前から台湾に住んでいた本省人との対立、さらに本省人内でも福老
	人と客家人の対立があったが、国民党はそれを強引に押さえつけ、普通語教育、中華文化の推奨などを通して台湾の中華化を目指した。

	国際的にはアメリカの庇護下で、韓国・日本・フィリピンとともに共産圏封じ込め政策の一端を担っていたが、ベトナム戦争の行き詰
	まりから米中が国交を樹立すると、台湾は国連から追放され、日本からも断交されるに至った。しかしアメリカは自由陣営保持の観点
	から台湾関係法を制定し台湾防衛を外交テーゼとしている。


	1.6.3 総統民選期(1996年 - 現在)  「総統民選期の中華民国」を参照

	李登輝は永年議員の引退など台湾の民主化政策を推進したが高齢のため2000年の総統選には出馬せず、代わって民進党の陳水扁が総統
	に選出され、台湾史上初の政権交代が実現した。陳水扁は台湾の独立路線を採用したため統一派の国民党とたびたび衝突し、政局は混
	迷を続けた。
	2004年の総統選では国民・民進両党の支持率は拮抗していたが、僅差で陳水扁が再選を果たした。混迷の原因の一つは中国問題で、中
	国は陳水扁を敵視し、国民党を支持することで台湾政界を牽制しているが、その過度な干渉となると台湾ナショナリズムを刺激し、反
	中国勢力が台頭するという中国にとっても難しい問題となっている。

	一方の当事者であるアメリカ自身、中国に対する脅威論、友好論が錯綜し一定の方針が定まっていないため、対台政策も一貫せず、台
	湾は独自性を強めざるを得ないとの見方もある。そのために日本を対中包囲網の一環に組み込もうとする遠謀も、李登輝などの親日政
	治家には見られるとされる。

	一方で台湾は中国との経済的関係を強化しつつあり、今や中国経済を抜きに台湾経済が成り立たない情況となっている。基幹産業であ
	った電子産業も中国への工場進出による産業の空洞化が進み、台湾政府は新竹や台南にサイエンスパークを設置して、バイオテクノロ
	ジーなどの先端産業の育成を図っているが、欧米との競争もあって情況は楽観できない。

	また経済の知的集約化、サービス化の進展により台北への人口集中が進み地方との格差問題も顕在化している。景気低迷による格差拡
	大、出生率低下による高齢化、東アジア随一の離婚率の高さなど、社会の成熟による問題も噴出している。

	文化的には日本、韓国、中国、欧米の影響を強く受けていたが、ナショナリズムの高揚に連動するかのように、台湾独自の文化も勃興
	している。とりわけ映画界では侯孝賢などのニューシネマが有名である。


	2.関連項目 

	3.脚注
	  [1]. 『台湾省地図冊』 中国地図出版社 1ページ、『台湾簡史』 1996年10月 ISBN 7-5031-0391-4
	  [2].  台湾古代名称
	  [3]. 柏楊 『中国人史綱』(中)同心出版社 170ページ ISBN 7-80716-121-3
	  [4]. 厳密な統治開始終了月(日)が不明なため これだけ差異が生じえる
	  [5]. 戦間期台湾地方選挙に関する考察 台湾研究フォーラム

	4.文献情報
	戴国フェイ『台湾―人間・歴史・心性―』(岩波書店、1988年)
	伊藤潔『台湾―四百年の歴史と展望―』(中央公論社、1993年)
	若林正丈『台湾―変容し躊躇するアイデンティティ―』(筑摩書房、2001年)
	周婉窈(濱島敦俊・石川豪・中西美貴訳)『図説 台湾の歴史』(平凡社、2007年)


































	台湾の東部は、海洋プレート(フィリピンプレート)と大陸プレート(ユーラシアプレート)がクロスし、その間に挟まった地質
	構造を持つので、地形の変化は激しく土地は川や山に切断されている。その様相は、西部とは大きく異なる。そのため、太古、東
	アジア各地から台湾東部へ渡ってきた人々は、それぞれの土地環境で自分たちにあった生活領域を設定し、そこで文化を維持・発
	展させ、やがて、台湾の東部を豊富で複雑な一大紀元前文化圏に造り上げた。台湾東部海岸の東側、太平洋に面した細長の海岸地
	帯には、多くの先史時代遺跡が分布している。現在発見されている紀元前史跡だけでも、およそ300ヵ所に達している。未発掘
	のものも含めてまだ数百ヵ所はあるとされる。台湾先史文化の宝庫である。

	遺跡のほとんどは浜地のテラスにあり、長期的な考古学調査によると、東部海岸の先史文化は約5万年前から始まって、今から2
	−3百年前まで続いていたという。旧石器時代晩期、新石器時代、及び鉄器時代などいくつの段階があって、それぞれの時代に大
	量かつ形式の異なる遺跡が残っていて、台湾の先史文化に豊富な研究資料を残してくれている。

	時代区分では、

	長濱文化(Changpin Culture)、
	縄文陶器文化(Cord-marked Pottery Culture)、
	麒麟文化(Chilin Culture)、
	卑南文化(Peinan Culture)、
	アミ文化(Amis Culture)

	などの段階があった。  (註)長濱、麒麟、卑南は台湾の東部にある地名で、アミは台湾原住民の民族名。

	国宝級第一級古跡に指定されるプヌン遺跡は、その勢力範囲がたいへん広く、今から約3万年前にできたといわれる八仙洞遺跡は、
	台湾で初めて発掘された旧石器時代の遺跡で、ここは現在知られている限りの、台湾最古の人類居住地である。都蘭遺跡も範囲が
	広く、縄文赤石器、麒麟文化、プヌン文化などの3つの時代にまたがる文化の堆積といえる。

   ・長濱文化は約1万年以上前の文化だとされ、代表的な遺跡が二つあり、一つは長濱郡の八仙洞( Pahsientung)、もう一つは成功
	郡の小馬(Xiao-Ma)洞窟である。1964年、台東区の長浜郷の八仙洞で五万年から三万年前(旧石器時代)ぐらいの遺跡・石器が発見
	された。八仙洞は長濱郡樟原村( Zhangyuan)の南部から約2キロを離れている。そこには十数個の高さが違う海食洞窟があって、
	先史時代人たちの洞窟住居跡である。民国57−59年(1968−1970年)の間、台湾大學考古人類学部の教授と学生たちの発掘によっ
	て、大量の文化遺産が発見された。

	

	小馬洞窟は東河北岸の約400mにあって、洞窟は石灰岩山の下にある。民国77年(1988年)に台湾大學考古チームは地下1メー
	トルのところに、石器及び一つの墓を発見した。その墓に埋葬された人物は結跏趺坐か正座の姿をしていた。それまで台湾で発見
	された最古の墓であった。長濱文化は旧石器文化を受け継いで、人々は漁、獵、採集で暮らしていた。農業はしていなかったし、
	陶器も作れていなかった。全て打製石器で、磨製石器がなかった。この文化は5千年前に姿を消している。

 
   ・縄文陶器文化は新石器時代の早期文化で、約4千年前、或いはそれ以前に隆盛したと予測されている。この文化は東海岸だけでは
	なく、西海岸にも及んでいた。台湾の花蓮と、台東地区から卑南(Pei-Nan)、老番社(Laofanshe)、志航(Jhihhang)、富山
	(Fushan)、漁橋(Yuciao)、豐濱(Fengbin)、鹽寮(Yanliao)、大坑(Dakeng)などで遺跡が発見された。
	縄文のある紅い陶器はその文化の特徴であり、縄文は縄を使用し、表面を叩く或いは回転させて模様を付けた。線の太さは、太い
	ライン、細いラインと様々である。陶器の形としては、缶(?)、鉢、瓶、豆(?)等、そのほかに、紡錘と陶製腕輪があった。
	道具類には打製石斧、磨製石斧、ちょうな、のみ、矛、杵、鏃、錐等があった。これらの資料から見ると、当時、既に農業が発展
	していたと考えられる。




   ・約3千−4千年前に、東海岸に巨石群を保有する麒麟文化が出てきて、或いは巨石文化とも呼ばれている。
	麒麟文化の遺跡は多く、花東縱谷に少し、太平洋に面した海岸のテラスに数多く分布している。主な遺跡は芳寮(Fangliao)、
	新社(Sinshe)、豐濱(Fengbin)、忠勇(Zhongyong)、麒麟(Qilin)、東河(Donghe)、泰源(Taiyuan)、都蘭(Doulan)などである。
	その中の「麒麟遺跡」は、成功郡の南麒麟部落北西部の山の上にあって、民国57年(1968年)に計画的に発掘されて、多数の巨石
	及び陶・石器が出てきた。この文化の特徴は、述べたように人力で彫られた巨石が群がっている事である。
	ほかにも肩或いは溝の石、石輪、人像、岩棺、石壁、列石などがあり、石群は列石(サークル)を形成しており、宗教的な行事の
	ためか、あるいは大きな建物群の一部分だったかもしれないと推測されている。




卑南文化の耳付き瓶
	卑南文化は約2千−4千年前に栄え、台湾東部の新石器時代文化である。海岸に分布した地域は麒麟文化より南にあったが、重な
	った場所もあった。卑南(Pei-Nan)、老番社(Laofanshe)、鯉魚山(Liyushan)、漁場南(Yuchangnan)、東河(Donghe)、
	泰源(Taiyuan)などが重要な遺跡である。もっとも重要な遺跡とされる卑南遺跡は、卑南大河の南岸、台東三角州平原にあった。
	民国69年(1981年)からの何回かの発掘調査をへて、大量な遺物、石板棺及び建物の遺跡が出土し、広大かつ遺物の豊富な遺跡で
	ある。卑南文化特徴の一つは石板棺であって、卑南遺址で千個以上発見されており、棺内に大量の副葬品があった。
	種類の多い陶器と石器のほかに、大量な玉石、石製アクセサリー、腕輪、玉石の腕輪、ネクレス及び玉石の彫刻など、ほとんどが
	石棺から発見された副葬品である。












	十三行文化

	台湾北部の海岸と台北盆地に分布。約2300年前に出現。金属器時代の文化で、鉄器などを使っている。淡水河の南岸八里区に
	位置する十三行遺跡は、民国46年(1957年)第二級国家遺跡として認定された。考古学研究によると、いまを去る1800
	年前から500年前の台湾史前の鉄器時代文化を留めており、平埔族に属するケタガラン族と関係があるとされている。




	陶器、鉄器、煉鉄炉、埋葬品などがつぎつぎと発見されているほか、墓跡や村落の遺跡も残されている。このような十三行遺跡の
	出土品から、その時代の住民たちが、鉄をつくる知識や能力を持っていたことが証明される。




	また銀、銅を原料とした、銅碗、銀器や銅幣も遺跡中から発見されたが、これらは、ほかの種族との物々交換による経済活動のあ
	ったことが推測できる。




	民国87年(1998年)中華民国政府は十三行遺跡の保存と「十三行博物館」の建設を決定した。館内には先住民の遺跡を展示
	して、貴重な史前遺跡を観客に理解してもらうようにしている。














	「十三行博物館」	所在地	新北市(旧台北縣)八里區博物館路200號

	【開放時間】 火-金、祝日9:30-17:00 土日9:30-18:00
	【入館料金】 無料
	【電話番号】 02-2619-1313

	十三行博物館の名前の由来は中国の清朝時代の伝説から来ており、13のお店がここに集まり十三行庄と呼ばれていたため、十三
	行庄で発見された遺跡は十三行遺跡と名付けられました。博物館はこの文化を記念して建設されたものです。
	博物館内には数多くの文物が展示されています。1957年(民国46年)に遺跡が発見されて以降、考古学者が積極的に発掘を行い、
	陶器・鉄器・墓など様々な遺物が出土されました。後の研究により、十三行人は今から1800〜500年前に生活していたそうで、台
	湾の歴史では鉄器時代の時期とされています。また、現在のところ唯一製鉄技術を持つ先史住民であるということもわかっていま
	す。館内では当時の生活状況が模型などで再現されており、音声効果を使った劇場演出もあり、子供達にも当時の人々の衣食住や
	文化が学びやすいよう工夫されています。館内には体験型の設備が多々設置されており、現代風に自分で体験しながら、知識を深
	めることができます。










	圓山文化

	台北市中山区の圓山という丘で発見された。約今から4500年前から2000年前の遺跡。後期(約2700年前から2000年前)台北市植物
	園遺跡は「植物園文化」ともよばれる。








	大■坑文化

	新石器時代初期、約7000万年前から4700年前の遺跡。1964年に八里発見された。この大■坑文化は中国華南から台湾までおよん
	でいる。縄紋の陶器の文化。狩猟や漁撈が主だが、原始的な農業も始まっていたらしい。
 


















	左鎮人
	台南県左鎮で発掘された。ホモサピエンス。「長濱文化」は左鎮人の文化だと思われる。年代は約三万年前。台南では3万年ほど前
	の左鎮人の歯と頭蓋骨が発見されているが、最近、アマチュア化石愛好家が収蔵する二つの臼歯の化石が、これより古いものであ
	る可能性が出てきた。














	台湾島は、東シナ海上にある島として古くから中国人にその存在が認識されていた。『漢書地理志』の中に「会稽海外有東治人、分
	為二十余国、以歳時来献見・・・・」との記載があり、一部の学者は「東治」とは台湾を指す名称であると主張している。しかし漢
	代の中心地は中原と呼ばれる、長安及び洛陽を中心とする地域であり、福建省や広東省の沿岸地帯に至ることは非常に稀であり、そ
	の東岸にある島嶼を正確に記録したとは考えにくく、東治とは海上の島嶼群を漠然と示した名称であると考えられ、台湾の呼称と即
	断することは困難である。東治の中に台湾も包括されていたと考えるべきであろう。

	時代は下り三国時代の『臨海水土志』の中に「夷州在浙江臨海郡的東南、離郡二千里、土地無霜雪、草木不枯、四面皆山、衆山夷所
	居。山頂有越王射的正白、乃是石也。」及び「部落間互不相属、各号為王、分割土地・・・」という記載があり、この場合の夷州は
	台湾を指すものと考えられる。しかし孫権伝説の中に、「夷州亶州在海中、長老伝言、秦始皇遣方士徐福将男童女数千人入海、求蓬
	莱及仙薬・・・」いう記載もあり、地名としての夷州が台湾を指す言葉として確定してはいなかったとも思われる。しかし、『臨海
	水土志』には別に、
	「夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆■髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。
	有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息。共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚
	肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴」
	という記述もあり、このような土地はあらゆる意味で台湾島の特徴に合致し、またそれ以外でこのような地域を中国南部の沿岸の島
	嶼に見い出すことは困難であり、台湾が少なくともこの時代には中国文明の認識する範囲に含まれていたことは明らかであると言え
	る。

	隋王朝の603年に書かれた文献には、台湾への探検の記録が記載されている。だが、当時の中国の文献において、台湾は琉球、留
	仇、流■、琉求、瑠球と呼ばれていた。その後隋末から宋までの600年間、中国の文献の中で台湾の記事が出現しない空白期間を
	迎える。
	元代になると再び記録に台湾が出現するようになる。明代の記録である『東西洋考』、『?書』、『世法録』では台湾を東蕃、と呼ん
	でいる。周嬰在が表した『東蕃記』では台員、何喬遠が表した『■書島夷誌』では大員、張燮の『東西洋考』では大円、何喬遠の
	『鏡山全集』では台湾、沈鉄的奏折の中では大湾のように様々な呼称が与えられている。また福建沿岸の民衆は台湾南部を■舍耶、
	中原の漢族は台湾北部を小琉球と呼んでいる。

	明王朝の太祖・朱元璋の時代になると、琉球という呼称は沖縄・台湾双方を指す語として使われ続けたため、両者の区別に混乱が生
	じ、沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ばれるようになるが、その後名称に混乱が生じ、小東島、小琉球、■籠、北港、東番のような
	名称が与えられていた。明末に鄭成功が台湾に建てた鄭氏政権時代になると、鄭氏政権は台湾を「東都」、「東寧」などと呼ぶよう
	になった。
	なお、「台湾」の呼称が用いられるようになると、いつしか台湾近くにある琉球嶼(屏東県琉球郷)を指して「小琉球」と呼ばれる
	ようになり、台湾と琉球嶼との間で両者の区別に混乱が生じている例もある。

	島夷  	『尚書・禹貢篇』に出てくる台湾かもしれない島。
	瀛洲(えいしゅう) 『史記』に書かれている、東海の島。始皇帝の時代東海に蓬莱・方丈・瀛洲という三神山があって仙人が住んで
		いるといわれた。
 	夷洲  『三国志・孫権伝』(後漢・三国時代(25-280))に孫権が派兵したと言われる台湾と思われる島。
	流求国 『隋書』に登場する、台湾と思われる島。

	このような名称の変遷を経て、台湾が台湾と呼称されるようになったのは清朝が台湾を統治し始めてからのことである。ただし、台
	湾の語源は不明確で、原住民の言語の「Tayouan(タイユアン)」(来訪者の意)という言葉の音訳とも、また、「海に近い土地」と
	いう意味の「Tai-Vaong」や「牛皮の土地」という意味の「Tai-oan」などの言葉に由来するとも言われる。大員(現・台南)がタイ
	オワンと呼ばれており、そこにオランダ人が最初に入植したためとも見られている。いずれにしても原住民の言葉が起源と見られ、
	漢語には由来していない。
	台湾島には、フォルモサ (Formosa) という別称が存在し、欧米諸国を中心に今日も使用される場合がある。これは、「美しい」とい
	う意味のポルトガル語が原義であり、16世紀半ばに初めて台湾沖を通航したポルトガル船のオランダ人航海士が、その美しさに感
	動して「Ilha Formosa(美しい島)」と呼んだことに由来するといわれている。なお、フォルモサの中国語意訳である美麗(之)島
	や音訳である福爾摩沙を台湾の別称として用いることもある。

	ちなみに、日本では高山国(こうざんこく)または高砂(たかさご)、高砂国(たかさごこく)と呼んだ。高山国や高砂などは「タ
	カサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の「打狗」(現・高雄)がなまったものと思われる。正式の使節では
	ないが、タイオワン事件に関して、原住民が「高山国からの使節」として江戸幕府三代将軍徳川家光に拝謁したこともある。











台湾原住民・卑南族の、月の形状をした石柱。1896年頃・鳥居龍蔵撮影。


	卑南文化公園

	台東市南王村の北側にあり、当時は面積が300,000m2を超える大型集落であったと考えられている。これまで台湾で発掘された集落
	の中では最も大きく、最も完全な姿で残っている。
	1980年南回り線の台東新駅後方を工事中に、地下から墓石棺群数千体が発見された。これは卑南文化遺跡の地下に眠っていたものが
	世に出たことを意味する。政府はこれを高く評価し、台東の卑南文化遺跡に国家博物館を設立させた。卑南遺跡の主な見どころは、
	今から2、3千年前の卑南新石器文化時期の墓や住宅、各種生活用品など。これまで発掘された大量の「墓石棺群」は環太平洋地区で
	は最大のもので、これと同時に台湾有史以前の人類の住居も発掘された。また精細で形も豊富な手工品なども見つかり、当時の人々
	が死後厚く葬られたことがうかがえる。



























	南島語族(オーストロネシア語族)

	台湾原住民の言語が古い形を保っている。南島語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、さらにはインド洋を
	越えマダガスカル島に達した。また東の南太平洋の島々にも拡散したとされる。台湾原住民の多くは南島語族と見られている。
	言語・文化・習俗によって細分化されており、その分類の仕方はまちまちである。大きく分けて「平埔族(平地に住み漢化した)」と
	「高山族(漢化が進んでいない)」である。日本統治時代は高山族を「高砂族」と呼んだ。

	<高山族>
	必ずしも山に住んでいるというわけではない。漢化が進んでいない部族である。九部族といわれていたが、最近11部族に細分化された。

	タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 
	サイシャット族(賽夏族)
	アミ族(阿美族) 
	ツオウ族(鄒族) 
	ブヌン族(布農族) 
	プユマ族(卑南族) 
	ルカイ族(魯凱族) 
	パイワン族(排湾族) 
	タオ族(ヤミ族)(達梧族、雅美族とも)

	サオ族(邵族) 
	タロコ族(太魯閣族、セデック族とも)  
	タイヤル族(泰雅族) 最も広範囲に分布している。南投、新竹、烏来にもすんでいる。現在でもタイヤル語で話している人がいる。
	サイシャット族(賽夏族)   小人伝説。2年に1回(旧暦の10月)巴斯達隘(パスタアイ)を、そして10年に1回の大祭を行う。 
	アミ族(阿美族) 住民族のなかでもっとも人口が多い。花蓮から台東にかけて暮らしている。
	ツオウ族(鄒族) 南投県、嘉義県、高雄県に住む。現在人口6000人ほど。厳格な父系氏族社会     
    





	平埔族

	平埔族は清の時代から漢化が始まった。現在ではその人口は定かではない。ただ台湾人の中には原住民の血統が混じっていると思われ
	る人が多い。肌が黒く、顔の彫が深い。ただ本人たちもよく知らないようで、原住民の血統は混じってないという。最近、遺伝子学会
	は「台湾人は実は漢民族と全く異なる南アジア・越族の子孫である」との研究結果を発表した。
	シラヤ(西拉雅族)は最も早く鄭成功の時代のころから漢化が進んで消失している。習慣も漢民族風に変えられ、苗字も漢の姓に変え
	た。多く『潘』という姓を名乗っている。多くは母系社会で、女子がその家や財産を嗣ぎ、多くは入り婿をとる。
	平埔族は八部族に分類できる(12部族ともいう)。また壺信仰もある。狩猟や漁撈をし、またタロイモ、粟などの栽培も営んでいた。
	清の時代、教化を受け、漢民族の生活スタイルに変っていった。苗字も中国人の姓に変えた。多く「潘」という姓に変えた。


	<平埔族>
	ケタガラン(凱達格蘭族) 

                                                 l---  バサイ(馬賽族) 
                                                 l---  ルイラン族(雷朗)
	 ケタガラン(凱達格蘭族)        --------l---  トルビアワン族(??美遠)
                                                 l---  クーロン(亀崙族)

	クーロン(亀崙族) 
	バサイ(馬賽族) 
	クバラン(葛瑪蘭族) 
	トルビアワン(??美遠族) 
	タオカス(道?斯族) 
	パゼッヘ(拍宰海族) 
	パポラ(拍暴拉族) 
	バブザ(巴布薩族) 
	ホアニヤ(洪雅族) 

	 ホアニヤ(洪雅族)      -------------l---  アリクン族(阿里坤)
                                               l---  ロッア族(羅亞)

	アリクン(阿立昆族) 
	ロア(羅亞族) 
	シラヤ(西拉雅族)(最も早くに漢化) 

                                                l--- タガブラン族
	 シラヤ(西拉雅族)  	   -------------l--- タイボアン族(大満)
                                    l--- マカタオ(馬?道族) 

	マカタオ(馬?道族)  
	タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも)   
	サイシャット族(賽夏族)  
	アミ族(阿美族)   
	ツオウ族(鄒族)   
	ブヌン族(布農族)  
	プユマ族(卑南族)   
	ルカイ族(魯凱族)   
	パイワン族(排湾族)   
	タオ族(ヤミ族)(達梧族、雅美族とも)   
	サオ族(邵族)   
	タロコ族(太魯閣族、セデック族とも)  































































1階のエントランスで子供達がなにやら寸劇のようなものに興じていた。



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