Music: 台湾情歌



台湾の旅 2010年1月17日 九 イ分






	
	狭い商店街の中を、傘を差したまま通り抜けて行く。「大阪で言えば、石切のようなトコやね。」と橋本さん。大阪の人ならそれだ
	けでイメージが掴めるかもしれないが、他の地域の人にはちょっと解りにくいかもしれない。
	食料品や食料品や食料品の店が立ち並ぶ中を、少しづつ雨に濡れながら歩いていく。ガイドの呉さんが、立ち止まってはそれらの店
	を説明してくれる。





骨董品屋らしき店もあったが、ゆっくり見ている暇はないし、wifeはじっくり見られて買いでもしたらエラい事だとせき立てる。



いろんな食料品を売っているが、餅や団子の類が多い。wifeも2個だけ買っている。





店の軒先で作っている。これをそのまま店先に並べてるんだろうね。それともどっかへ卸してるのかな。





	
	九フン	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	本来の表記は「九イ分」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 
 
	九分(きゅうふん、ジォウフェン)は、台湾北部の港町基隆の近郊、新北市瑞芳区に位置する山あいの町である。九分という地名の
	由来はいくつかあり、一般的に台湾語で「開墾した土地の持分を9人で分けたもの」の意。または、清朝初期に9世帯しかなく物を買
	うときにいつも「9つ分」と言っていたことから、ともいう。 台湾語ではカウフン、あるいはカウフナ、中国語ではジォウフェンと
	いう。
	日本統治時代の1920年10月1日より九分(きゅうふん、台北州基隆郡瑞芳庄所属)大字があったが、1933年12月16日金瓜石に改称。

	その昔、九分は台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始されたことに伴い徐々に町が発展し、日本統治時代に藤
	田組によりその最盛期を迎えた。九分の街並みは日本統治時代の面影を色濃くとどめており、当時の酒家(料理店)などの建物が多
	数残されている。しかし第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘
	れ去られた存在となっていた。
	1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画「悲情城市(A City of 
	Sadness)」(侯孝賢監督)のロケ地となったことで九分は再び脚光を浴びるようになる。映画を通じノスタルジックな風景に魅せ
	られた若者を中心に多数の人々が九分を訪れ、また他のメディアにも取り上げられるなど、台湾では90年代初頭に一時九分ブームが
	起こった。
	ブームを受け、町おこしとして観光化に取り組んだ結果、現在では街路(基山街など)に「悲情城市」の名前を付けたレトロ調で洒
	落た喫茶店や茶藝館(ちゃげいかん)、みやげ物屋などが建ち並び、週末には台北などから訪れる多くの人々で賑わっている。
	日本では、九分が2001年に公開された映画「千と千尋の神隠し」のモデルになった町として紹介されたため一般の観光客への知名度
	が一躍高まった。日本で出版されている台湾旅行ガイドブックの多くにはこの逸話が紹介されている。映画を観て九分に興味を持ち
	訪れる者も多い。九分にはホテル(中国語で飯店、旅社)がなく、宿泊施設は主に民宿である。
	現在、九分は世界の旅行ガイドブック(台北付近)にも多数紹介されており、今や台湾を代表する観光地のひとつとして定着した感
	がある。
	2008年11月末、経済部の中小企業処は「(民國)97年度革新科学技術の応用群聚計画」を実施し、九分地区に群聚のウェブサイト、
	無料の無線Wi-Fi(利用範囲:基山街と豎崎路の人気があるスポット、約90%含む)、ネット商店、リアルタイム映像システム(九分
	風景と人潮及び天気が見られる)、QRCodeシステム(商店と商品の紹介)などの関連技術を導入し、古い町の九分でも現代的なデジ
	タル技術を活用出来るようになっている。
	2007年秋に林雅行監督・脚本のドキュメンタリー映画「風を聴く〜台湾・九分物語〜」が公開された。同作のナレーションを担当す
	る一青妙と挿入歌として楽曲「大家(ダージャー)」を提供とした歌手一青窈の父親は九分の元金鉱主であり、一青姉妹にとって九
	分は亡き父の故郷に当たる。「大家」は亡くなった父親への想いを歌った曲である。




	九分が全盛だった頃の鉱山の跡も残っている。日本統治時代に藤田組が金を掘っていたとは。
	
	藤田組(ふじたぐみ)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	1869年に藤田伝三郎が設立した非鉄金属精錬等を主力とする会社。後の藤田財閥。現在のDOWAホールディングス、藤田観光の前身。 

	藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年3月30日)は、明治期の関西財界の重鎮で、藤田財
	閥の創立者である。建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞、などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を
	築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。藤田組の創始者。
	男爵(民間人で初めての男爵)。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士。

	伝三郎が集めた美術品は「藤田コレクション」として名高い。大阪市都島区綱島町の旧藤田邸跡にある藤田美術館には、伝三郎とそ
	の子藤田平太郎が集めた国宝九点、重要文化財45点を含む5000点が収納されている。伝三郎の大阪本邸は太閤園、東京別邸は椿山荘、
	箱根別邸は箱根小涌園、京都別邸はホテルフジタ京都に衣替えし、藤田観光が経営する。
	美術品蒐集だけでなく、伝三郎は、慈善事業や学校教育のための寄付に励んだ。自身は兼ねがね、徒手空拳から大富豪になったので、
	「富者の楽しみ」と「貧困の味」をよく知っていると語っていた。また日本女子大学の化学館、慶應義塾大学の旧図書館の建設や、
	早稲田大学の理工学部の創設などには、伝三郎からの多額の寄付があてられた。











	
	商店街を抜けると、やがて大きな広場のような所へ出る。その前が「阿妹茶楼」と言う茶店である。「千と千尋の神隠し」で「湯婆
	婆の屋敷」のモデルになった所だという。大きな中国式喫茶店と言った感じの店で、此処で全員中国茶を頂く。勿論、気に入った人
	はここでそのお茶を買っていくのである。そのためのツアーなのだから。





















お茶を呑む前に、急須や湯飲みにザブザブ湯を掛けるのは本土と一緒やね。その辺りの作法は日本へは伝わらなかったようだ。


	喫茶の歴史・日本	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	茶がいつ日本に伝わったのかははっきりしていない。
	茶は薬用として禅宗の修行に用いられていることから僧侶が関わっているとみられる。かつては栄西によってもたらされたのが最初
	と考えられていたが、最近の研究によればすでに奈良朝の頃伝来していた可能性が強い。ただし、古代に伝わった茶は纏茶(てんち
	ゃ)であったと考えられる。 『日本後紀』では、弘仁6年(815年)の嵯峨天皇の近江行幸の際、唐から帰朝した梵釈寺(滋賀県大
	津市)の僧永忠が茶を煎じて献上したと記されている。だが、平安時代に入って文化が、純和風に変わりつつあったと同時に、茶も
	次第に廃れていった。

	茶の栽培は栄西が中国から茶の苗木を持ち帰ったのが最初と考えられていたが(そこから日本に喫茶の習慣を広めたとされた)、空
	海( 806年に唐から種子を持ち帰り製法を伝えた)や最澄も持ち帰り栽培したという記録がある。当初は薬としての用法が主であっ
	た(戦場で、現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていた、等)が、栽培が普及すると共に嗜好品として、再び飲まれ
	るようになった。
	一時(貴族社会の平安時代の遊びとして)中国のように闘茶が行われることもあったが、日本茶道の祖・南浦紹明により、中国より
	茶道具などと共に当時、径山寺などで盛んに行われていた茶会などの作法が伝わり、次第に場の華やかさより主人と客の精神的交流
	を重視した独自の茶の湯へと発展した。当初は武士など支配階級で行われた茶の湯だが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせる
	ようになる。煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期である。茶の湯は明治時代に茶道と改称され、ついには女性の礼儀作法
	の嗜みとなるまでに一般化した。
	茶は江戸時代前期では贅沢品として、慶安御触書でも戒められていたが、やがて有利な現金作物として生産が増えて大いに普及した。
	生産者にとっては現金収入となる一方で、金肥といわれた干鰯や油粕のような高窒素肥料を購入しなければならなかったので、生産
	地では農村への貨幣経済浸透を促した。
	明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が持込まれて徐々に普及していくこととなる。昭和期に芸能マスコ
	ミの話題(ピンク・レディーが「減量のためにウーロン茶を飲んでいる」と言ったこと)からウーロン茶が注目を集め、缶入りウー
	ロン茶が発売されると一般的な飲み物として定着した。また、この流行のため中国では半発酵茶が主であるかのようなイメージが広
	がった。缶入りウーロン茶の好評を受けて飲料メーカーは缶・ペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、ひとつの市場を形成する
	に至った。その苦しい礼儀作法が敬遠される傾向が強まり、茶道は一般的な嗜みから、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつある。



	
	茶房の屋上へ出ると、周囲を見渡せる素晴らしい展望が開けている。ここからは英□湾が一望出来る。小雨に煙る台湾の海を、山の
	上の街、九分から眺める。河内さんによれば、あの湾の根元に基隆市の海軍基地があるらしい。晴れて居れば素晴らしい眺望だった
	ろうに雨で残念だ。













このあたりが、「日本統治時代の面影を色濃くとどめており」という所だろう。上右の映画館などは昔懐かしい気がする。



ひとしきり茶を飲んだ後、付近の店を眺めたりして、台北へ戻る。


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