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歴博・崩壊する炭素14年代論

またもや捏造するか 国立歴史民俗博物館

	学会発表前の、国立歴史民俗博物館による新聞発表


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	奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定 2009年5月29日3時5分 asahi.com

	
	卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳=奈良県桜井市、朝日新聞社ヘリから、寺脇毅撮影

	
	箸墓古墳の付近で出土した土器(写真手前の2点)。これらの付着物で年代が測定された=奈良県桜井市立埋蔵文化財センター
  
	 古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240〜260年という研究を国立歴史民俗
	博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。
	畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。 
	 「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末〜3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在
	の日本)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」な
	ど多くの品々を贈られたとされる。

	

	 全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な
	政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大き
	さが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。 
	 考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した土
	器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようにな
	っていた。 
	 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土
	器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。 
	31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。 

	

	歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのよう
	にしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」と話している。
	(渡辺延志)
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	卑弥呼の墓か、築造期一致 歴博研究グループ調査 2009.5.29 09:38	産経ニュ−ス
 
	邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)の築造時期が、土
	器などの科学的分析で240〜260年と推定されることが、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で分かっ
	た。中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は248年ごろに死亡したとされる。研究グループの春成秀爾同館名誉教授(考
	古学)は「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」と指摘。畿内説と九州説に2分される邪馬台国の所在地論争に
	影響を与えそうだ。
	 研究グループは「放射性炭素年代測定法」と呼ばれる手法を使い、箸墓古墳の周濠(しゅうごう)から出土した築造時とみられる
	土器10点に付着した炭化物を分析、測定値を年輪年代測定法の年代で換算した。この手法には、精度や測定データ処理に対し、慎
	重な見方をする研究者もいる。
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	邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳 2009年5月29日(産経新聞・関西版) 

	 「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もあり、
	大和か九州かで揺れる邪馬台国の所在地論争もからんで、被葬者は古代史最大の謎ともされる。その築造年代を「放射性炭素年代測
	定」は西暦240〜260年とはじき出した。これは、中国の歴史書に記された卑弥呼の没年とほぼ合致。科学分析は邪馬台国畿内
	説に“軍配”をあげた形になった。しかし、測定法の精度を疑問視する見方もあり“謎解き”はまだ続きそうだ。 
	 「卑弥呼が魏に朝貢(239年)。2代目女王・壱与(いよ)朝貢(266年ごろ)」。中国の歴史書「魏志倭人伝」は、3世紀
	の日本について年代順に細かく記述している。 

	 年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器など数千点の放射性炭素年代を調査。箸墓
	古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200〜300年代の測定結果が出され
	たが、これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したことなどから、「布留0式」を240〜
	260年に絞り込むことができたという。 
	研究チームの小林謙一・中央大学准教授は「かなり精度の高いデータが得られた」と強調する。 

	 一方で、考古学者を中心に慎重な見方が多いのも事実だ。かつて箸墓古墳を発掘した奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企
	画部長は「研究途上の炭素年代測定によって、10年単位まで絞り込むことができるのか疑問がある。これで箸墓古墳の築造時期が
	決まったとはとても思えない」と指摘する。 
	箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデー
	タが不足している」と慎重な立場だ。被葬者像については「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったと
	される臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」と話した。
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	■奈良・桜井の箸墓古墳、卑弥呼の墓か…死亡時期と一致 (読売新聞 - 05月29日 11:19) 

	「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造時期について、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研
	究グループが240〜260年とする調査結果をまとめた。 31日開かれる日本考古学協会の総会で発表する。 
	 この年代は、魏志倭人伝に「卑弥呼以て死す、大いに冢(ちょう)を作る」と記載された247年頃と時期が一致し、倭の女王・卑
	弥呼がいた邪馬台国の位置論争にも影響を与えそうだ。同グループの春成秀爾・同博物館名誉教授は「これで箸墓古墳が卑弥呼の墓
	であることは間違いなくなった。生前から墓を作り始めていたのだろう」と話している。 
	 年代は、同古墳から出土した「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器に付着した炭化物など約20点を放射性炭素(C14)年代測定
	した結果、導き出された。 
	 この年代について、寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所部長は「今回測定された土器の試料のうち、築造時のものは少なく、誤差
	を考慮すれば、まだ結論を出すわけにはいかない」と慎重な姿勢をみせている。 
	 箸墓古墳は全長280メートルで、最初に築かれた巨大前方後円墳。邪馬台国論争の鍵を握る古墳として注目されている。 
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	◎卑弥呼の墓か、築造期一致 歴博研究グループ調査  産経新聞 2009.5.29
	邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)の築造時期が、土
	器などの科学的分析で240〜260年と推定されることが、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で分かっ
	た。 
	 中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は248年ごろに死亡したとされる。研究グループの春成秀爾同館名誉教授(考古
	学)は「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」と指摘。畿内説と九州説に2分される邪馬台国の所在地論争に影
	響を与えそうだ。 
	 研究グループは「放射性炭素年代測定法」と呼ばれる手法を使い、箸墓古墳の周濠(しゅうごう)から出土した築造時とみられる
	土器10点に付着した炭化物を分析、測定値を年輪年代測定法の年代で換算した。この手法には、精度や測定データ処理に対し、慎
	重な見方をする研究者もいる。 

	◎土器の炭素年代が卑弥呼と一致 奈良・箸墓古墳 	2009.5.29 11:07 
	 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲か
	ら出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240〜260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗
	博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代
	と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。 
	 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定。
	「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240〜260年
	の範囲に相当したという。 
	 測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられる。発掘状況から土器は、箸墓古墳の完成間もない時期に廃棄
	されたとみられ、築造時期に近いとしている。 
	 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志
	倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もあった。 
	 放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チ
	ームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことか
	ら、「分析結果の精度は高い」としている。 

	◎「被葬者は卑弥呼だろう」福永伸哉大阪大教授(考古学) 	2009.5.29 11:11 
	福永伸哉大阪大教授(考古学)の話 
	箸墓古墳の築造時期は、ほぼ同じころとみられる古墳で出土した銅鏡の研究から、250年前後と主張してきた。魏志倭人伝など、
	当時を知り得る資料から言えば、これだけの巨大な古墳に埋葬されたのは卑弥呼だろう。ただ、放射性炭素年代測定法は万全とは考
	えていない。他の方法での実証や検証を積み上げて年代を決めるべきだ。 



	次のコーナーは、千葉県のあるPCサークルの求めに応じて寄稿したものです。サークルのHPに掲載してくれています。今回この
	問題を取り上げましたので、ここに転載しました。


	第三回コラム 「歴史学界の現状」

												2009年7月10日 井上筑前

	1.はじめに

	 私は学者ではありませんし、学問の世界に身を置いているわけではありません。また、いわゆる「先生」が身内に居るわけでもな
	いのですが、最近「歴史」を通じて大学の先生達とは接触する機会が多々あり、わずかながら学界の雰囲気もぼんやりと見えてきた
	ような気がするので、今回はその辺りをお話して見たいと思います。

	 と、思いましたが、よく考えてみると、やはりその業界の人間ではない私には、「学界の内情」という事で想像は出来ても、語る
	資格はないのかもしれないと思います。そこで今回は、最近話題になった「炭素14年代法による年代の測定」という問題を取り上げ
	て論評に代えたいと思います。この問題を見ていくことで、少しは現在の「歴史学界」というものが垣間見えるのではないかと思い
	ます。しかしながら、一般の人にとっては「炭素14年代法」などと言っても何のことかわからないかもしれませんので、この問題の
	背景に付いて簡単に解説しておきましょう。


	2.予備知識 「放射性炭素年代測定法」

	放射性炭素年代測定(ほうしゃせいたんそねんだいそくてい; radiocarbon dating)は、生物遺骸の炭素化合物中の炭素に1兆分の
	1程度以下含まれる放射性同位体である炭素14の崩壊率から年代を推定することをいいます。C14年代測定(シーじゅうよんねん
	だいそくてい、シーフォーティーンねんだいそくてい)とも呼ばれます。単に炭素年代測定、炭素14法、C14法などともいます。
	炭素14は、約5730年の半減期で減じていく性質をもっているため、これを利用して、簡単に言えば、残った炭素14の量から
	もともとあった炭素14の量を推し量ったり、その資料(被検査物)が生体としての活動をやめて(死亡して)から、どのくらい年
	月が経ったかを炭素14の残存量から調べる方法です。一見この方法は科学的には見えますが、いろんな点で完全とは言えません。
	この方法を用いて、最近千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」が、日本列島における稲作の起源を解明しようとしたり、奈良県桜
	井市の箸墓古墳の年代を調べたりと、積極的にこの方法を歴史学に活かせないかと模索していますが、その方法を巡って学界に賛否
	両論の種を蒔いているのです。


	3.東京・早稲田大学「日本考古学協会」の研究発表会要旨 2009年05月31日

	(38)古墳出現の炭素14年代 		春成秀爾・小林謙一・坂本 稔・今村峯雄 ・尾嵜大真・藤尾慎一郎・西本豊弘 

	はじめに 

	 古墳の出現年代は,これまで魏志倭人伝の記述,三角縁神獣鏡の型式変遷と紀年銘,墳丘形態の変遷,土器や器台形埴輪の型式編
	年,年輪年代などから追究されてきた。本研究は,炭素14年代測定法にもとづいて古墳出現の問題に取り組む。今回は,奈良県田
	原本町唐古・鍵造跡,桜井市纒向遺跡,纒向石塚,矢塚,東田大塚墳丘墓,箸墓古墳からの出土物の測定結果と,日本産樹木年輪の
	炭素14年代の測定結果との関係にもとづいてそれぞれの実年代を推定する。土器型式及び古墳の年代については,遺構との関係
	(墓の築造中・直後・後)による先後関係と,日本産樹木年輪による位置づけによって検討する。試料には土器付着物,木材,種子
	を用いた。測定試料数は( )内に記し,炭素14年代は平均値を記載する。土器型式名と認定は,調査担当の藤田三郎,寺澤薫,
	橋本輝彦の各氏による。 

	1).弥生後期〜古墳前期の年代測定結果の解析 
	 奈良盆地の弥生後期の年代は,唐古・鍵遺跡の大和V-1様式(3)が2000_14CBPである。日本産樹木の年輪に合せてみると,中期
	末のIV期は紀元前1世紀であるから,その後の後1世紀頃と考える。大和VI-2様式(2)は1970_14CBP,Y-3様式(1)は1960_14CBP
	で,日本産樹木年輪の紀元後1世紀後半にあたる。 
	 纒向遣跡群の土器付着物では,庄内0式期(大和VI-4)(6)は1920_14CBPで,日本産樹木年輪の2世紀初めの傾斜部分に比定され
	る。
	庄内1式期(4)は1920_14CBPで2世紀であろう。庄内3式期(2)は1880_14CBPで,200年頃の曲線の肩部に当たる。 
	 墳丘墓の出土物については,纒向石塚の周壕下層の木材・種実(4)は1880_14CBPで3世紀前半の傾斜に当たるだろう。矢塚では
	庄内3式の甕の煤(1)が1820_14CBP,東田大塚では墳丘築造中の井戸などに廃棄され墳丘の完成より古い出土状況を示す布留0式
	の甕の煤(2)が,1800_14CBP,共伴した種子(2)が1790_14CBP,築造時のカゴの破片(2)が1750_14CBPで築造は3世紀前半で
	あろう。より新しい布留1式の周壕下層出土の木材(3)は1690_14CBPと3世紀後半に比定されるので,布留0式はそれ以前である
	可能性を示す。 
	 箸墓古墳では,築造前の木材は縄文時代以前の年代であった。土取穴 SX01遣構出土の布留0式甕の煤(8)は1800_14CBPが中心,
	築造直後の周壕最下層の腐食物層下の布留0式甕の煤(1)及び小枝(1)は1800_14CBP頃,壕が埋没後やや時間が経過した周壕下
	層腐食物層堆積後(布留1式)の木材(3)は1700_14CBP台である。 
	 唐古・鍵遣跡の布留1式甕の付着物(5)は1780_14CBP,大阪府瓜生堂遺跡の布留2式は1790_14CBPで3世紀の数値であるが,布
	留1式を東田大塚埋没後と考えると,布留2式は3世紀後半以降となる。箸墓古墳の布留0式は,纒向石塚の庄内3式と布留1式に
	挟み込まれる240〜260年代と捉えるのが合理的である。 

	2).古墳出現の年代 
	 箸墓古墳の周壕の「築造直後」の布留0式土器の年代を240〜260年代と推定した。 
	 魏志倭人伝は正始8(247)年の出来事として,帯方郡太守の王?の赴任から,倭が狗奴国と戦い,卑弥呼が死んだので大いに冢を作
	り,男王を立てたが国中服せず,台与を立てて国中が定まり,台与が魏に使いを派遣し生口30人を献上したことを記述している。 
	 卑弥呼が死亡した247年は,箸墓古墳の炭素14年代を較正した240〜260年代のなかに入っている。247年に13歳であった台与は泰始
	2(266)年に西晋に貢献している可能性がつよいので,彼女の「冢」がこの年代幅のなかに入ることはないだろう。このことは,
	箸墓古墳の被葬者が卑弥呼であった可能性が大きいことを示している。全畏280mに迷する前方後円墳,箸墓の築造には10年な
	いしそれ以上の年数が必要であったろう。倭人伝の記述のとおり,彼女が死亡後ただちに殉葬者を伴って埋葬されたのであれば,箸
	墓は卑弥呼が在世中に大部分を築いた寿陵であった可能性がつよい。箸墓古墳の炭素14年代は,前方後円墳の出現とその後につづく
	築造の意義についても,あらためて多方面からの検討を迫るものである。


	4.この報告に関する各種新聞記事

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	<箸墓古墳>歴博が「卑弥呼の墓」説 	築造時期などから (毎日新聞 -2009年05月31日 20:02) 
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	国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井
	市)は240〜260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。247年ごろとされる
	邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定結果によって箸墓を卑
	弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。 
	 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を
	求める異例の要請を行った。 
	 歴博グループは、放射性炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。箸墓でも、築造時の土器
	とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の出土品の測定結果も総合して240〜
	260年を導いた。 
	 発表者の春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓が確定的になった」と述べた。しか
	し、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。 
	 中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場か
	らはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。【伊藤和史】 
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	箸墓古墳、卑弥呼の生前に築造開始か 歴博が研究発表 	2009年5月31日20時36分(朝日新聞) 
	====================== ================================ ====
	奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の築造年代が西暦240〜260年ごろとする国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究成
	果が31日、東京・早稲田大で開かれた日本考古学協会の研究発表会で報告された。春成秀爾(はるなり・ひでじ)・同館名誉教授
	は「箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した墓の可能性が強まった」との見解を示した。 
	 同館は箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素年代を測定し、築造時期を絞り込んだ。春成名誉教授は中国の史
	書「魏志倭人伝」の記述から、卑弥呼が247年に死去したと推定。「全長280メートルの古墳を築造するには10年前後かかっ
	たとみられ、今回分かった年代から、卑弥呼が生前に自分の墓の築造を始め、死亡時に大部分は完成していたとも考えられる。卑弥
	呼自身が箸墓古墳を築造していた可能性が高い」と報告した。 
	 会場となった教室は400人の聴衆で満員に。「付着物の年代が土器より古い可能性もあるのでは」という質問も出たが、春成名
	誉教授は「同時に出土した植物の種も測定したが、ほぼ同様の年代が出ている」と応じていた。 
	========= ============================================= ====
	【主張】卑弥呼の墓 歴史と科学のよき関係を  2009.5.31 02:36(産経新聞) 
	====================== ================================ ====
	 「卑弥呼(ひみこ)の墓」との説もある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳が、「放射性炭素年代測定法」という自然科学的手
	法によって、西暦250年前後に築かれた可能性が高いとのデータが国立歴史民俗博物館を中心としたグループによってまとめられ
	た。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の伝える女王・卑弥呼の没年に近く、江戸時代以来の邪馬台国論争に決着がつく成果だとい
	う。放射性炭素年代測定法は、炭素を含む生物が死滅すると同時に、同位体元素の「C14」がベータ線を出して崩壊を始める原理
	を利用して、その量から年代を割り出す方法である。研究グループは6年前、「弥生時代の始まりが500年近く古くなる」という
	調査結果を発表して学界に衝撃を与えた。箸墓は「最古の大型前方後円墳」とされており、今度は古墳の始まりに科学的なデータを
	与えたことになる。 
	 地中の遺物や遺構を発掘調査する考古学だが、年代の決定には困難がつきまとう。土器や金属器の形式によって前後関係を決め、
	基準となる遺物との比較で、おおまかな年代を推定するしかない。 
	 しかし最近では、放射性炭素法のほか、年輪によって材木が切り出された年を判定する「年輪年代法」などの科学的手法により、
	かなりの精度で絶対年代に迫れるようになった。今回の発表も、そうした成果の一つである。 
	 邪馬台国の所在地論争に決着がつくなら、専門家ならずとも大きな話題だが、ここは「少し冷静に」と呼びかけたい。科学的なデ
	ータは百パーセント正しいとは限らないからだ。サンプルの取り方や、測定方法によって誤差が生じることもある。さらなる蓄積を
	待ち、専門家がじっくりと議論して結論を出しても遅くはない。 
	 というのも、考古学の世界では9年前、前期・中期旧石器の遺跡と遺物が捏造(ねつぞう)された苦い経験がある。教科書は書き
	直され、国の史跡は解除された。人為的な事件だったが、互いに検証することを怠り、捏造を見抜けなかった関係者の責任は小さく
	ない。考古学に自然科学の「目」を持ち込むことは有意義だ。だが、先端科学と考古学はもともとなじみにくい部分を持った学問で
	ある。科学的データに対し、考古学者は口をさしはさみにくい雰囲気もある。互いに議論を尽くし、2つの学問の「よき関係」を作
	り上げる努力をすべきである。 
	========= ============================================= ====


	5.おわりに

	 研究チームは、同古墳前方部近くの周濠から発掘された「布留(ふる)0式」と呼ばれる土器の表面に付着した炭化物を測定し、
	「放射性炭素年代測定法」は経年による炭素の減少具合で、土器の年代を割り出す科学的な手法で、測定の結果、240〜260年
	の範囲に相当したといっています。測定した炭化物は、食べ物の煮炊きの際に土器に付着したとみられ、発掘状況から土器は、箸墓
	古墳の完成間もない時期に廃棄されたとみられ、築造時期に近いとしています。
	箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭
	人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もありました。
	放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強いのですが、
	研究チームは出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、同様の年代が出たことから、
	「分析結果の精度は高い」としています。しかしながら、ニュースにもあるように、第三者が検証に用いることの出来る形でのデー
	タはまだ公表されていません。正式な学術発表より前にマスコミで話題を煽ることで「新説」を既成事実化しつつあるわけで、今の
	ところはこの報道内容に対しては慎重に考えた方がよさそうです。 以下は、私がこの問題に関してある掲示板に投稿した内容です。
	これを以て、私のコラムを終了したいと思います。

	「炭素14年代法そのものは充分に科学的な年代測定法です。前述のように放射性元素の減少期間を測定して、残留放射性元素の数
	から、その検査対象がもともとはいつ頃のものかを調べる方法がC14法ですが、これは各方面で言われるように非常にバラつきが
	あります。同じ方法で、同じ試料を用いても、検査機関によって50年から100年、ひどいときには300年以上のばらつきがあ
	ります。
	紀元前1万年か1万5千年かを調べる方法としては有効ですが、50年程度の違いはこの方法では確定出来ないという前提がまずあり
	ます。それでも何とか分からないかと模索しているのですが、今回の発表でも、たとえば北海道埋蔵文化財センター、あるいは九州
	大学の測定値と、国立民俗学博物館の測定値は異なっています。私は理科系ではないので、専門的な内容はよくわからないのですが、
	そのデータの取り扱いや測定方法に対して、これらの機関が歴博に質問した内容に対して、歴博は全く答えていません。その内容は、
	「季刊邪馬台国101号」で詳細に特集してあります。土器に付着していた試料というのは、相当古い年代を示すというデータがあ
	るにもかかわらず、それを是正していないのはなぜか? 内陸部と海岸部でもC14の値は相当異なるのにその補正値を考慮してい
	ないのはなぜか、等々。
	つまり、研究者、研究機関によっては全く異なる値を示すような測定方法で得られた値を、そのデータや測定法を学会に図ることも
	せずに、まずマスコミに流した後で、学会発表するという方法が、とても学者のする事では無いという意味で「科学的」ではないの
	です。

	一連の新聞記事では、C14法など知らない人々はあの方法が充分「科学的」と思うはずです。そしてそれこそが、歴博の、或いは
	春成秀爾という教授の狙いだと思えるのです。「春成秀爾という人物は、一たい何が目的なのだろう」と書いたのはそういう意味合
	いです。弥生時代が500−700年遡るという発表をしたのもこの教授です。それもマスコミにまず流して、それから学会で発表
	していますが、学界ではその方法論、データを巡って総スカンをくらい、あの測定値は学界では認められていません、しかし新聞だ
	けを読んだ人の中には、「弥生時代は紀元前1000年からだ。」と思い込んだ人がいるかもしれません。
	最近の歴博は、もと館長の白石太一郎以降、こういうマスコミ操作に長けた学者が多くなっています。そしてそれは近畿圏の学者に
	ほぼ共通した性行なのです。同志社の森浩一名誉教授などは、こういう傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難しています。

	橿原考古学研究所に関川尚功という学者がいます。この人は近畿圏で活躍している学者であるにもかかわらず、「どうやったら箸墓
	古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。
	3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」と言っています。
	また、魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、卑弥呼時
	代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、「近畿圏では鉄は溶けやすいので、
	残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。春成秀爾はこの佐原真の弟子です。
	この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?

	私はなにも、「邪馬台国=九州」説を支持する余り、それに反する見解にはことごとく反対を表明しているわけではありません。ど
	ころか、邪馬台国は奈良にあってもいいのです。しかし一連の、近畿圏の一部の学者達の考えには到底くみし得ないものを感じるの
	です。公表されたデータに基づき、極力客観的に判断したいと常々願っていますが、最近の学界の進んでいく方向に、背筋の寒くな
	る思いをしています。
	先述の、「季刊邪馬台国101号」は、まるまる1冊が「歴博・炭素14年代論の大崩壊」という特集です。是非、紀伊国屋かジュンク堂
	あたりへ行ってよんでみて下さい。 

	今回の歴博の発表についてはケンケンがくがくで、先日早稲田で行われた日本考古学会では、この(春成グループの)発表後、事務
	局から「この報告は学会で承認されたモノではありません。」という異例のコメントがあったようです。つまり学会も、マスコミに
	先に漏らす報告など報告とは認めないぞ、という意志が表明されているような気がします。しかもそれが、異論が山ほどある方法と
	きては、なにをか況んやです。この騒動は、そのうちHPに纏めたいと思っています。私見では、この歴博の一連のマスコミ操作は、
	歴史学者が捏造する「歴史」として歴史に残ると思います。」
                            							   (了)



	またもや捏造するか 国立歴史民俗博物館 春成秀爾グループ

	旧石器問題で懲りたのではないのか考古学界!



	見ていただいた、国立歴史民俗博物館の「炭素14年代法を用いた年代の推定論」はすでに崩壊していることは明白である。福岡市
	の「梓書院」から発行されている、季刊「邪馬台国」101号(2009年4月号)は、この号で総力特集を組み「歴博・炭素14
	年代論の大崩壊」としてその欺瞞性を暴いている。詳細は以下の諸論考を参照頂きたいが、5月に宇佐神宮の「全国邪馬台国大論争
	大会」で一緒だった東京の鷲崎さんも、この問題に関して鋭い論考を寄せている。
	(巻末に、私の私淑する編集長安本美典氏の近影とその特集号の一部を掲示。)

	

	前項で、「この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?」と書いたが、実はその目的ははっきりしている。
	「邪馬台国は近畿にあった。卑弥呼の墓は箸墓古墳である。」ということを証明したいのである。しかし見てきたように全く証
	明になっていないどころか、その「確信犯的捏造度」を疑われてさえいる。つまり、これを発表した春成教授以下のメンバーたちは、
	おそらくそれを知っているのではないかと思う。このデータは捏造か、或いは捏造に近いということを知りながら発表しているので
	はないか。だが、一体なぜ?という疑問は残る。
	藤村新一によるあれだけの捏造事件を体験しながら、また、春成教授は曲がりなりにも国立歴史民俗博物館から「名誉教授」という
	肩書きまで貰っている身分でありながら、その「名誉」を全く捨て去ってしまうような行動に何故かられるのであろうか?
	普通の人ならまず誰もがこういう疑問を抱くことだろう。だがしかし、近畿圏の、妄信的な「郷土史家的」歴史学者・考古学者に接
	したことのある人であれば、それは、必ずしも理解できない事ではない。彼等はまさしく「妄信的な郷土史家」だからである。

	私はこういうHPを造ってはいるが、それはあくまでも趣味の一環である。私の人生を左右するような大きな問題でもないし、これ
	を解明しなければ明日から生きていけないような命題でもない。現在は「九州説」の方が分があるなとは思っているが、もし邪馬台
	国が近畿にあったとしても、納得する理由があればそれはそれで良い。
	ほんとは近畿圏の学者連中もそのはずなのだ。学者としての自分の研究テーマがあるだろうし、邪馬台国問題は、大きな歴史の流れ
	の中の一つのトピックスと考えれば、わざわざ捏造へ走る理由などさらさら無いはずである。
	しかし近畿圏には、古くからの学者達による「郷土史家」の伝統がある。邪馬台国は近畿でなければならないのだ。箸墓には卑弥呼
	が眠っていなければならないのである。そのため過去、近畿説を唱える学者達は多くの詭弁を労しその証明に邁進してきた。その歴
	史を見てみると、

	第1段階 遺跡・人口論

	古くは(大正、昭和初期の頃)、近畿説学者達は九州にさしたる遺跡が無く、人口も7万戸を擁するような地方はないと指摘してき
	た。公的文化財調査機関を多数抱えて、日々発掘が行われていた近畿に比べると、高校の史学部が細々と発掘していた九州では、当
	時さしたる遺跡が無かったのも事実であった。小林行雄などは「九州には考古学上の遺跡が少ない。特に三種の神器の一つである鏡
	は近畿地方から多く出土し、九州からはほんの数枚しか出ていない。倭人伝には、卑弥呼は魏から銅鏡百枚を貰ったとあるが、その
	多くは大和を中心にして広く畿内に分布したものと見るべきである。」と言っていたし、肥後和男は「ヤマトは元々大和地方の呼び
	方であって、古くから奈良を中心に栄えてきたのである。歴史的に文化的にも大和が日本の中心として栄えてきたのであって、九州
	地方には3世紀当時、7万戸を擁するような場所は無い。山門郡にしても宇佐にしても狭小な所で、とても邪馬台国があった所とは
	認めがたい。」などと唱えていた。
	しかし、その後の学問的成果は周知の通りである。昭和後半あたりからの発掘ラッシュによって、遺跡は近畿圏にもその規模に例を
	見ないような「吉野ヶ里」や「原の辻」や「平塚川添」などが続々と出現した。また古地質学・古地形学や人口問題の研究によって、
	弥生期の人口は、いまでは筑後平野の方が、奈良盆地を遙かに上回る人口であった事がほぼ確定的となっている。

	
	第2段階 魏鏡論

	「三角縁神獣鏡は魏鏡であって、これこそ卑弥呼が魏から貰った鏡であり、これが広範に分布する近畿にこそ邪馬台国があった。」
	という神話は、長い間近畿説学者達のよりどころであった。時代が合わないという批判に対して、前出の小林行男などは「伝世鏡」
	などという奇想天外な説を持ち出して、弥生時代の鏡が百年間伝世されて古墳に副葬されたと唱え、不思議なことに、これに疑義を
	挟む学者は近畿圏に殆ど居なかったのである。同志社の森浩一教授が「三角縁神獣鏡は和鏡である」と唱えてからは、これが和鏡か
	魏鏡かを巡って大論争が続いていたが、現代ではもう三角縁神獣鏡を魏鏡と主張する学者はわずかである。ごく一部の「妄信的郷土
	史家」的学者を除いて、これは日本で製造された和鏡であるという所に落ち着いている。


	第3段階 年代論

	次に、主として近畿圏の「妄信的郷土史家」的学者たちが取り組んだのは、古代の時代区分を古く古く遡らせる事であった。稲作の
	起源が紀元前10世紀に遡るという説も、ひいてはこの遠大な計画の一環とみなすことも出来る。彼等はまず古墳の築造年代を見直
	した。何十年も前に発掘された古墳を再調査し、新たに見つかった土器のかけらや出土物を元に、「これは考えられていた年代より
	百年は古い」とか、「この古墳の築造は4世紀初頭とされていたが、再調査の結果3世紀中葉に築造されたものと考えられる」など
	と発表しだし、近畿圏の古墳の年代は軒並みその築造年代が遡った。
	春成教授とその一派にとって、卑弥呼の墓である箸墓の築造年代を、卑弥呼が死んだ弥生時代に持ってくることはいわば悲願である
	といってよい。そのことだけが、あまりにも念頭にある余り、いわば手段を選んでいないのが、今回の炭素14年代論論争である。
	初めに結論がまずあるのである。その為にはありとあらゆる手段をもちいる。年輪年代法、炭素14年代法など、一見科学的と思え
	る手法を駆使して、箸墓の築造年代を卑弥呼の死亡時期に併せようとやっきである。その姿が、アマチュアの歴史マニアから見れば
	藤村新一とダブって見えてしまうのだ。
	箸墓古墳の築造年代や、布留式土器の初現の時期を古く古く見つもる見解は、近畿圏の一部の学者たちを中心に今でも唱えられてい
	るが、それも確たる証拠をもっているわけではなく、むしろあまり古く見積もり過ぎて、遺跡・遺物が連続せず途中で空白を生じた
	り、無理な説明におちいっているようにみえる。自ら墓穴を掘っているのである。


	邪馬台国近畿説論者たちは、あまりにも焦りすぎるように見える。第1、第2の段階で近畿説が地にまみれたとは言っても、それは
	九州説やその他の説が有利になったわけではないのだ。今の段階では、邪馬台国をここだと決定づける最終的な要因はまだ無いと言
	ってよい。ひらたく言えば、現時点では邪馬台国がどこかは分からないのである。
	文献の解釈は一通り済んでいるし、重箱の隅をつつくような議論はまだ続いてはいるものの、何か論争の方向を大きく左右するよう
	な新発見でも無い限り、論争は今の所膠着状態である。
	我々の世代でわからなければ、解決は次代へ先送りしてもいいのである。解釈をねじ曲げて、無理矢理論を立てても、やがて誰かが
	その誤謬を暴き出す。データを捏造して、世論を操作できたと思っても、それが正しかったかどうかはやがて歴史が明らかにする。

	不正な手段の上に成り立っている論などは、その論者個人の名誉が地に落ちるだけではない。「名誉」教授が「不名誉」教授になる
	だけではすまないのだ。彼を取り囲む機関や学界をも巻き込んで、全ての学究の営みが、全く無に帰してしまう危険性を孕んでいる
	のである。藤村新一は、身を以てそのことを我々に教えてくれたのでは無かったか。



	次のコーナーは、mixiに投稿されたオモイカネさんの文章である。当日「日本考古学協会」の研究発表会に参加された模様を報告さ
	れていたので、ご了解を得てこのコーナーに転載した。当日の雰囲気が良く分かるのではないかと思う。

	「mixi」:SNS【ソーシャルネットワーキングサービス】の一つ。
	SNSとは、人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型のWebサイト。日本では、日本最初のSNSと言われる「GREE」や、
	会員数500万人を超え社会現象ともなった「mixi」が有名。


	「日本考古学協会」の研究発表会に参加して

	2009年06月01日 18:28 オモイカネさん	<mixiにおける「偽史学博士」さんの日記への投稿>

	--------------------------------------------------
	オモイカネ 	2009年06月01日 18:28 

	> 偽史学博士さん 

	邪馬台国コミュに、考古学協会での歴博チームの発表要旨をUPしておきました(PDF→OCR読み込み) 
	発表は第3会場(古墳時代)のトリとなっており、15:00頃から徐々に人が集まりはじめ、16:20過ぎの開始時刻頃には満席−立ち見
	状態でした。 
	最初に春成秀爾さんが「最古の古墳の定義」を説明し、定型化した前方後円墳として、箸墓と同時代の古墳には権現山51号、西求女
	塚、雪野山などが上げられるとし、この時期の古墳には紀年銘を持った三角縁神獣鏡などの銅鏡が副葬されていることを特徴とされ
	ていました。 
	箸墓が古い理由は 
	バチ型の前方部墳丘、都月型円筒埴輪と宮山型特殊器台の存在(この辺まではこれまでの前期古墳研究の成果をなぞったオーソドッ
	クスな内容です)。 

	AMS年代測定については小林謙一さんが代わって説明し、今回の重要な成果は日本産樹木で計測したこと。IntCalとのズレがあり…
	理由は検討中とのことでした。 対象とした試料は、纒向遺跡の墳丘墓群と唐古・鍵遺跡から出た土器など約80点。 
	
	個別試料の年代説明は、発表要旨を読んでいただくとして、ポイントを説明すると、 
	・庄内式の始まり(庄内0式)はまだ不明としながらも、庄内期=ほぼ2世紀〜3世紀前半となり、弥生後期(大和V・VI様式)は1世
	 紀の100年間だけとなってしまう。 
	・箸墓の年代を決めた土器は、築造直後=周壕が埋まりはじめた頃の土器=布留0式で、庄内3式と布留1式から挟み込んで年代を
	 240〜260年代に絞り込んだ。 
	・ただしグラフを見ていただくとわかると思いますが、ちょうど2世紀頃はグラフの傾きが寝ていて、3世紀は谷状の急激な落ち込み
	 があり、AMSの較正曲線が乱れている(急傾斜・水平・バウンド部と呼ぶ) …グラフの乱れの原因は太陽活動の影響などいろいろ
	 言われていますが、この時期は最も測定値の年代推定が難しい箇所でもあるわけです。 

	春成さんは、箸墓の築造に10年以上かかるので、寿陵とすると卑弥呼の没年から逆算して239年頃〜築造が開始されたとし 卑弥呼が
	60歳いや50歳の時に造られはじめたと話しておられました。
	(春成先生は卑弥呼が何歳で死んだかご存じのようです…さすが春成先生!?) そして、箸墓は、同時代の東アジアの中で「最大」
	の古墳だと強調されていました。 

	詳しくは下記の本を読んで欲しいとのことでしたが、 
	『弥生農耕の起源と東アジア−炭素年代測定による高精度編年体系の構築−研究成果報告書』 
	(研究グループ代表・西本豊弘)2009年3月 
	この報告書は科研費の研究のようなので、一般の方々は入手が困難(ほぼ無理)です。下記の本がほぼ同じ内容のようです
	(5年間の研究成果、一般公開の最終巻となっていますので)。 
	西本豊弘編 2009.3 『弥生農耕のはじまりとその年代』(雄山閣) 

	--------------------------------------------------	
	オモイカネ 	2009年06月01日 18:32 (つづきです) 

	発表時間は16:45までだったがちょっとオーバーして、その後、質疑となったのですが、最初の質問は、福岡市埋文センターの久住
	猛雄さんからで 
	Q: 「土器付着炭化物の由来は燃料の薪であり、土器の年代より古い年代にならないか?」 
	  「古墳祭祀に伴うような木製品の方が試料として適切ではないか?」 
	A:薪でも大丈夫、大きな誤差はない 

	次の質問者の方はお名前がわかりませんが、 のっけから激昂されており、 
	Q: 「ホケノ山はいつ頃なんだ?」 
	A:3世紀前半、橿考研の木棺片の炭素年代測定データから 
	Q: 「3世紀前半?…それじゃあ、お話にならない」 
	「ホケノ山からは銅鏃が出ているんだ!銅鏃(の年代)はどうなるんだ?」 
	A:…… 

	二番目の質問者の方がしつこく食い下がる中、 事務局の北條芳隆さん(東海大)が「質疑は測定年代のグラフのみにしてください」
	と制止して 三番目の方が質問をはじめ… 

	Q: 
	「昨年のデータでも指摘したが、較正年代のグラフがかなり太い帯状である」 	「箸墓の辺りは急激に谷状になっている」 
	「ピンポイントで年代は決められないのではないか?」 
	A:大丈夫 

	このあと、協会事務局を代表して北條さんが新聞記者を牽制・注意し、「考古学協会は捏造事件を経験していることを充分ご理解い
	ただきたい」 と話されていたのが印象的でした。 今回のスクープ事件は、またも朝日が(約束破って)すっぱ抜いたことによるよ
	うです。この新聞社はどうしようもないですね(私も以前被害に遭いました)。 

	こうして、少々混乱の内に、箸墓の炭素14年代の研究発表は17:00過ぎに閉会となりました。 

	岡安光彦さんもブログ(考える野帖)にお書きになっていますが、 
	「さて箸墓の築造年代に関する問題の発表は、例によってAMSの結果をかなり恣意的に使っていて、危うい感じがした。脂肪酸分析の
	二の舞にならなければいいけれど。何か決定的なものが出土して、物語が崩壊する可能性もある。「出したい結果」が見え見え。も
	う少し「野心」を押さえたほうがよい」 

	物語が崩壊する可能性…会場にいた多くの方々が同じものを感じたと思われます



	次のコーナーは、この発表会で事務方を務められていた東海大の北條芳隆さんが、これまた投稿されたブログから転載させて頂い
	た。ご本人も書かれているように、北條さんは、箸墓=卑弥呼の墓、邪馬台国=纏向遺跡との立場を取る研究者であり、今回の歴
	博の発表はいわば有利なはずなのだが、そのお方にして、春成グループの主張はおかしいという警鐘である。こういう近畿説論者
	も居るところをみると、やはり春成グループとそれに繋がる一部の近畿説学者達は、「妄信的な郷土史家」であるという意を益々
	強くする。


	季刊『邪馬台国』101号を拝読して

	傑作(1)	2009/6/22(月) 午後 5:53	<最新考古学から −考古学の話題練習用ブログ−から転載>

	 
	東海大学文学部歴史学科考古学専攻 北條芳隆(ほうじよう よしたか) 

	季刊『邪馬台国』の主宰者である安本美典氏から、本日 100号と101号をご恵贈いただきました。100号については以前、藪田紘一
	郎氏から個人的にいただいていたのですが、あきらめかけていた101号を思わぬ形で入手できたことは誠に幸いでした。
	というのも、歴博グループの研究がきわめておかしいものであることを実感させられた先の日本考古学協会を終えて、怒りにまか
	せ、批判文を当ブログで書き出したのですが、101号 の特集記事を是非読め、と幾人かの友人に勧められたものの、既にネット上
	の販売でも売り切れ状態でした。あわてて神奈川県西部界隈の書店を探してはみましたが、入手不可能だったからです。あらため
	て安本氏には感謝しなければなりません。
	そして、本書では現在の日本における年輪年代測定法が抱え込んでいる問題点が新井宏氏や鷲崎弘朋氏によって具体的に、かつ丁
	寧に解説されていることを確認いたしました。私が掴んでいた個別の問題点などよりはるかに詳細な指摘がなされています。敬服
	いたしました。
	そしてこのような論文や記事を拝読していますと、忸怩たる思いに駆られたことを告白せざるをえません。職業的考古学者の集団
	からは、私を含めこうした「ブラックボックス」状態となっている研究への批判文を活字にする方々が登場しないことを、です。
	私でさえ自分の個別専門領域外で起きている問題に口を差し挟むことは憚られます。
	その意味では私達プロを自任する学者集団もまた、アカデミズムに名を借りた同じ利権団体としての縛りを、自発的であれ結果的
	にであれ作動させている、と外の世界から批判されても反論のすべがないのかもしれません。

	ところで考古学的な手法の問題については、本書を概観してみても、なお詳細に点検すべき問題が残されているように思われまし
	た。先に東田大塚古墳にまつわる問題を取り上げましたが、箸墓古墳とホケノ山古墳の既往の調査結果を含めてです。

	もちろん私自身は、箸墓古墳が『日本書紀』に記載されたヤマトトトビモモソヒメの墓であり、それは『魏志倭人伝』に記載され
	た卑弥呼の墓である可能性は依然濃厚である、との立場をとっています。いうまでもなく邪馬台国は纏向遺跡である可能性が高い
	ものと考えています。その根拠は、笠井新也にまでさかのぼる学史上の経緯と、吉備地域で生まれた特殊器台・特殊器台形埴輪が
	樹立された最古の巨大前方後円墳であること、そして舶載三角縁神獣鏡が特殊器台形埴輪の成立とともに古墳へ副葬され始めるこ
	とに求めています。各地の弥生墓制の集約性と再構造化および新たな要素の付加が、この古墳の築造を起点に始まることを重視し
	ています。
	こうした主張をおこなっている私自身からみても、今回の歴博グループの発表は、とくに春成秀爾先生の被葬者云々の主張は聞く
	に耐えない「戯言」にしか映りません。それを放置することは、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性を論じてきた日本考古学史に
	汚点しか残さない。そう考えてもいます。

	放射性炭素年代測定の結果を虚心坦懐に見つめ、個別遺構や特定の土器様式との共伴関係をもつ資料群同士の相対年代(どちらが
	より古く、どちらがより新しく出る傾向があるのか)を再整理し相互比較をおこなうならば、もう少し生産的な議論は可能である
	はずだし、ことさら箸墓古墳に限定せずとも、古墳の出現年代を再考する方向へと議論はいざなわれたはずなのです。
	言いかえますと、日本における年輪年代測定法が実質上は瓦解していたとしても、それを棚上げにしてでさえ、今回の放射性炭素
	年代測定結果を有効活用することは充分に可能であったはずです。そのような議論の展開こそを、私は期待しておりました(ある
	いは年輪年代測定法に歴博が独自に着手する、という研究戦略だってありえたはずなのです)。しかし、そうした生産的な方向と
	は真逆の方向を歴博グループは押し進めてしまいました。

	春成先生が件の被葬者論(自家撞着型循環論の典型であり、論証過程を戯画化したそれ)を展開するにあたって依拠する年代上の
	根拠が、実質的には小林謙一氏による放射性炭素年代測定結果の操作であることは明らかです。だから、当面はその根拠となった
	操作や所見の妥当性にたいし考古学的な立場からの批判を加えようと思っています。この根拠が失われれば、春成先生の主張は無
	価値になるからです。もちろん、ブログを通じて、ですからアングラな小さな声にしかなりません。しかし学術雑誌や学会という
	舞台でさえ、目下批判の声は届いていないようですから、どこでおこなっても彼らにとっては無価値という名の等価値です。

	邪馬台国畿内説にまとめられてしまう私のような一私学の(春成先生の著書によれば、官学アカデミズムから疎外されやすく、そ
	うした権威への反発を自己アイデンティティーの拠り所ともすることの多い在野の研究者で、往々にして邪馬台国九州説や神武東
	征説を主張しがちな)教員からも今回の発表には異を唱えざるをえない。そのような悩ましさと混乱を生んだ21世紀初頭の日本考
	古学界の現状を、『考古学者はどう生きたか』の執筆者でもあるご当人は、どう受け止めるのでしょうか。

	今度お会いすることがあればお聞きしてみようと思います。



	<プロフィール>
	性別 男性 血液型 O型 
	自己紹介 
		関東地方の片隅で前方後円墳を研究しながら、日々学生諸君と奮闘中です
		1960年長野県生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。東海大学教授。日本考古学協会会員。
	主な論文・著書等
		「古墳時代像を見なおす・成立過程と社会変革」 北条芳隆 他 出版:青木書店/ 発行年月:2000.8/ 
		考古資料大観 9 石器・石製品・骨角器    北條 芳隆/ 出版:小学館/ 発行年月:2002.12/ 
		徳島県の歴史 県史 36    石躍 胤央 ほか/ 出版:山川出版社/ 発行年月:2007.6/ 
		死の機能 前方後円墳とは何か    小路田 泰直 ほか/ 出版:岩田書院/ 発行年月:2009.3/ 
		「讃岐型前方後円墳の提唱」(『国家形成期の考古学』大阪大学考古学10周年記念論集)
		「古墳成立期における地域間の相互作用」(『考古学研究』37-2)
		「腕輪形石製品の成立」(『待兼山論叢』24)、「鍬形石の型式学的研究」(『考古学雑誌』79-4)
		「環頭形石製品の再評価」(『日本考古学』11) 
	現在の専門分野 日本考古学 
	現在の研究課題 前方後円墳出現期の政治史的研究	古墳時代石製品の研究	古代における赤色顔料の機能と用途の研究 
	研究内容 
		前方後円墳の起源や成立過程の解明に取り組んでいます。倭王権の形成過程や権力構造について考古学から追求すると、
		列島各地の諸勢力の協調という側面が強く現れてきますので、こうした特徴と整合する権力構造や社会組織のありようを
		復元しつつあります。また、古墳の副葬品のうち、特に石製品の研究に携わりながら、倭王権と列島各地との「支配」を
		めぐる相互作用を解明しようと努力しています。これらの方法によって、古墳時代の政治史、社会史の再構成をめざして
		います。 
	所属学会 日本考古学協会 考古学研究会 日本考古学会



	『前方後円墳と倭王権』北條芳隆
	(「古墳時代像を見なおす 成立過程と社会変革」青木書店所収)より抜粋
	
	●前方後円墳の伝播震源地は奈良ではない 

	 しかし「纏向型前方後円墳」として一括された諸資料を単一の様式のもとに把握できるかどうかについては否定的な証拠があま
	りにそろいすぎている。前方部の長さや形態には多様性が顕著で、指標として提示された後円部径の半分の長さになるものは一部
	にかぎられる。また立地の志向性や築成についても、近畿以東では平野部の立地を基本とし、方形周溝墓との共通性が顕著に見ら
	れるいっぽう近畿以西では丘陵上に立地することが基本で、墳丘の裾部に列石をめぐらす事例が多く、なかには積石塚も認められ
	るなど、多様である。埋葬施設についても、木棺直葬あり、竪穴式石槨ありといったありさまで、とうていひとまとめにはできな
	い。(中略)	
	 さらに、「纏向型前方後円墳」の各地への波及が畿内地域を震源地とするという一般的な評価についても、それを積極的に支持
	する物的証拠はみあたらないというのが実状である。(中略)纏向石塚古墳の築造年代が箸墓古墳と同時代と指摘されるにいたっ
	た現状や、東部瀬戸内地域の事例には年代的にもっとも先行するものが複数確認されている事例をみれば、この点は疑う余地がな
	い。むしろ震源地は中部および東部瀬戸内南北両岸地域に比定するほうが整合的である。
	-------------------------------
	(中略)
	-------------------------------
	 (纏向型前方後円墳を含むこれらの資料を総括すると)それは巨大前方後円墳の誕生に一部先行しつつ各地に築かれた前方後円
	墳および前方後方墳で、地域ごとに弥生墓の伝統をさまざまな要素において保持するために、立地や墳丘構築法、埋葬施設や副葬
	品の組成には多様性が認められ、巨大前方後円墳の誕生以後も一定期間継続し、個別地域内部で様式化することもある墳丘墓の総
	称であると。
	 ここで強調しておきたいのは、これらの資料群が箸墓古墳を起点とする巨大前方後円墳の系列上には位置しない点である。
	(中略)
	要するにこれらの事例は、箸墓古墳の築造を起点とした影響の授受関係では把握しえないことが考古学的に証明されつつある資料
	群だと理解される。
	-------------------------------
	●纏向型前方後円墳の今日的評価 

	このように過去、小林行雄、佐原真、都出比呂志たちが熱心に説いてきた「畿内中心主義」という誤った古い、呪縛を受けてきた
	アンチ考古学的恣意的論説のすべては今、見直しを迫られている。邪馬台国論争にしても、三角縁神獣鏡の呪縛から解き放たれね
	ば正当の科学的考察は無理なのである。われわれはウソで固められた前世紀の理論の渦の中に放り出された推理作家に過ぎなかっ
	た。九州の考古学者がいくらその独自性を説いても、頑迷な大和論者と、それに迎合するマスコミ、歴史好事家たちはまったく耳
	を傾けようとしなかったツケが、これから徐々に逆転してゆくことになるだろう。
	後漢鏡がどう考えても卑弥呼の時代に合致する副葬物であるにもかかわらず、彼らは無視し、どうしても「先に大和あり」の固定
	観念から逃れようとせず、誤った理論を読者に提示し続けてきたのである。

	箸墓が前方後円墳にとって画期的建造物であることは否定できない。しかし、だからといって、すでにホケノ山などの、箸墓と同
	年代、あるいはともすればそれよりももっと古い瀬戸内の同型古墳の可能性が言われている現代、箸墓からすべてが始まる的論理
	になんの価値もない。大和地方の前方後円墳は確かに箸墓を契機として大きく変化しただろう。ところが地方においては、そのよ
	うなものは長期的になんの影響もなく、過去の様式のママ続けられたのである。
	そして箸墓の外観からは、九州〜吉備〜河内の「古い」呪術広場的構成が持ち込まれ、その労働力は東国から持ち込まれ、要する
	に大和にとって「捨て置けなかった」強力な地方豪族たちの集合と合体を、「むしろ大和の方が受け入れざるを得なかった」とい
	うのが真実なのである。
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	●すなわち今やらねばならないことは古墳考古学を問い直す ということ

	 以上のように概観してみると、大和や畿内勢力の主導性を前提として議論を展開すること自体を問いなおすことが、じつは最大
	の懸案であることに気がつく。すなわち、いま問われているのは、前方後円墳成立以後の展開過程によって、それ以前を遡及的に
	類推するといった基本的視座に蓋然性があるのかどうかである。完成形が畿内の圧倒的優位を示しているのだから、そのような優
	位性は弥生文化の段階で確立されていたに違いない。北部九州勢力が一見優位にみえることはあっても、実際は畿内勢力が優位で
	あったことの裏返しの現象にあったに違いないとの想定から出発し、資料的な裏づけを求めて検索を続けてきた結果、それがたど
	れないという情勢があきらかになった現在では、こうした基本認識を克服すべき時期にきていると結論づけるのが妥当である。
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	(中略)
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	したがって、巨大前方後円墳の築造という事実からは、大和勢力の主導という結論を導けないのはもちろん、背後に大和勢力の政
	治的優位があったとの命題も類推不可能である。同様に北部九州勢力東遷説も吉備勢力の東遷説も、いずれも成立する余地はない。
	 このような資料的状況において、大和の優位性を認める根拠はどこにあるのだろうか。余分な固定観念を除いてみれば、否定的
	ないし判断不能な要素しか存在しないというのが実状である。
	
	また鏡の問題についても(中略)ここから(三角縁神獣鏡の分配)弥生時代における大和勢力の主導性や優位性を導くためには、
	最低限の必要条件として、畿内地域における鏡の副葬行為の先行性が立証されなければならない。畿内地域の弥生墳丘墓において
	鏡の副葬配置や鏡種のとりあつかいが確立し、近隣地帯にまず配布され、埋葬祭で共有されたというたぐいの事実が確認された時
	点で、それは果たされることになるであろうが、実際はそうなっていない。近畿地方において鏡の副葬行為が確認できるのは弥生
	終末期の庄内式期であり、東部瀬戸内地域よりも遅れるのである。
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	(中略)
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	まして遺骸の頭部から胸部にかけての上半身を複数面の鏡で囲む配置形態であるとか。頭部上方と足部下方に鏡を置き分けるとい
	った鏡の配置原則は、北部九州地域の甕棺墓における鏡の配列や福岡県平原方形周溝墓との類似性を仮に無視するとしても、畿内
	地域では前方後円墳の成立をまってはじめて現れ、広域運動的にひろがる現象である。
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	●すべての説は白紙に戻れ 

	このように弥生時代には大和の優位性などみじんも考えられない。古墳時代直前になって初めて、にわかに、そうなるのである。
	これはつまり、大和の外からの「強制的」あるいは「歓迎的」招聘があって、各地の文化を「大和が受け入れて」初めて可能にな
	ると考えてさしつかえない例証である。突如として大和が富国強兵したというような証拠も一切ないのであるし、そんなことは不
	可能であろう。





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