Music:Here come the sun

高松塚古墳






− 高松塚古墳発掘・30周年記念講演会 − 2002.3.24 於:関西大学100周年記念会館




	
	関西大学卒業ながら、100周年記念会館なんかしらんと言う河内さんと、昔高松塚へ一緒に行った河原さんを誘ってこの
	講演会を聴きに来た。私の家からはすぐで、関大博物館を見て講演会へ向かった。その途中の構内で河内さんに出会ったが、
	なんと河内さんは、学生時代、博物館にも来たことがないそうである。全くどんな学生時代を送っていたものやら。

 

	
	上右は本日のレジュメで、写真入り図入りの新聞大の大きさだった。左は昭和47年5月20日発行の「関西大学通信」の
	復刻版である。第29号特集号で、高松塚発掘の経緯や作業に従事した学生達の座談会の模様などが収録されている。勿論、
	壁画の写真もふんだんで、この2つをあわせた資料代に千円取られたのも納得。故末永雅雄博士が、冒頭で古墳調査の意義
	について語っている。

 

	
	【高松塚古墳概要】
	昭和47年(1972)3月26日、明日香村の村史編纂事業の一環として、高松塚古墳の発掘調査依頼を受けた橿原考古学研
	究所の発掘調査により、「日本考古学界 戦後最大の発見」といわれた「彩色壁画」の存在が明らかになった。

	高松塚古墳は千数百年の眠りから覚め、極彩色の壁画をはじめ、副葬品など数々の貴重な資料が出土、その卓越した文化性
	は全国に「高松塚」ブームを巻き起こした。現在壁画は国宝に、特別史跡に指定された古墳は再び密閉され、温度湿度等を
	完全に機械でコントロールされて永久保管が図られている。飛鳥保存財団は、高松塚古墳を恒久的に広く紹介するため、古
	墳とその周辺の公園化、そして壁画をそっくり模写して展示した壁画館を建設した。壁画館は昭和52年3月より一般公開
	を開始、館内には、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模写、墳丘の築造状態、棺を納めていた石槨の原寸模
	型、副葬されていた太刀飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡などの模造品を展示し、高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現して
	いる。


	・7世紀末から8世紀初めに造られた終末期古墳で、直径18m、高さ5mの円墳。
	・石室天井に星宿(星座)、周囲の壁面には日、月、四神と従者の壁画がある。(国宝)
	・金具で飾った漆塗の木簡、海獣葡萄鏡、金銅刀飾金具などの副葬品が出土。(重要文化財)
	・石槨−長さ2.65m、幅1.03m、高さ1.13m。凝灰岩の切石。漆喰が塗られ、壁画を描く。
	・出土の乾漆棺片は、長さ1.94m。
	・数十点の人骨と大臼歯により、被葬者は50歳前後の偉丈夫の男性と推測される。



 



	
	【発掘までに】
	高取山から伸びた細長い尾根の先端、その南斜面に高松塚古墳は位置している。削り出した斜面が背後に迫り、風水思想を
	反映したといわれる典型的な終末期古墳。今はもちろん、調査のメスが入った昭和47年当時もいちめんの竹やぶに覆われ
	ていた。高松塚古墳は江戸時代の元禄期から明治時代まで、文武天皇陵に治定されていた。一帯は渡来人とつながりの深い
	桧隈(ひのくま)の地である。

	壁画発見の10年ほど前、明日香村村民の一人が高松塚墳丘南側に、直径60センチほどの芋やショウガの貯蔵穴を掘って
	いた。そのとき穴の底で、凝灰岩の四角い切り石が見つかった。凝灰岩は花こう岩に比べて加工しやすく、高松塚古墳のよ
	うな横口式石槨(せっかく)や石棺、宮殿の石材として用いられている。その後、高松塚古墳の切り石は、貯蔵穴から顔を
	のぞかせたまま、10年近くの時を過ごしたのである。
		
 

	
	昭和45年になって、高松塚古墳の近くに遊歩道を通す話が持ち上がり、村観光課の職員が、地元の住民から切り石の話を
	聞いた。村観光課の山本課長は、住民から聞いた話を網干氏や橿原考古学研究所の関係者に伝えた。「これは大変なことか
	もしれない…」。網干氏は直感的にそう思ったと言う。その足で現地へ向かった。

 

	
	「竹やぶは手入れされておらず、小さな穴を探すのは大変だった。ようやく見つけた穴の中には確かに凝灰岩の切り石が顔
	をのぞかせていた」と振り返る。「何とかしなければならない」という強い思いがわき起こった。同年10月、関西大の学生
	数人を連れた網干氏の手によって高松塚古墳の実測調査が行われた。高松塚古墳の発掘が始まったころ、県内の市町村に専
	門技師はいなかった。橿考研にもようやく常勤職員が置かれたばかり。限られた予算の中、学生たちの学問的な興味と情熱
	が壁画発見の原動力となったのである。

  





	「講演:海獣葡萄鏡と壁画 蓋(きぬがさ)」

	【勝部明生(かつべあきお)】
	龍谷大学教授。文学博士(関西大学)。考古学専攻。関西大学にて故末永雅雄関西大学名誉教授に師事。関西大学大学院文
	学研究科日本史学専攻考古学専修終了。隠岐島総合調査、古市古墳群の盾塚・鞍塚・珠金塚などを発掘調査。古墳時代につ
	いて多くの論考があるが、有職故実についても詳しい。
	大阪市立博物館を経て奈良県立橿原考古学研究所、同付属博物館館長を退任後、現職。著書に「海獣葡萄鏡の研究」「古代
	の技−藤ノ木古墳の馬具は語る−」など。



	
		【T】 海獣葡萄鏡について

			(1).同型海獣葡萄鏡との出会い
			(2).海獣葡萄鏡の種類と形式変換
			(3).高松塚鏡の調査

		【U】 壁画蓋について

			(1).壁画蓋と神宮神宝
			(2).「儀制令」に記された蓋

		【V】 高松塚古墳の被葬者像を求めて

			(1).古墳の立地
			(2).人骨の鑑定
			(3).海獣葡萄鏡・壁画蓋は語る。


 

	
	【海獣葡萄鏡】
	7,8世紀に盛行した中国鏡。その名は、葡萄唐草文(からくさもんと)と禽獣(きんじゅう)からなる鏡背(きょうはい)
	の図像文様による。
	鏡背中央の鈕(ちゅう)は多くが獣形をとり、周縁との間は突出した狭い文様帯で内外区にわけられている。内区には、4
	〜8匹のやや大型の禽獣と葡萄唐草文を置き、外区にも小型の禽獣が見え隠れする葡萄唐草文を巡らす。禽獣は、獅子(し
	し)、豹(ひょう)、羊、天馬(てんま)、孔雀(くじゃく)など、あるいは小鳥類だが、いわゆる海獣と確定しうるもの
	はない。正倉院蔵の優品をはじめ、わが国の社寺に伝世されたものが少なくなく、法隆寺五重塔心礎埋納物あるいは高松塚
	古墳副葬品に含まれていることでも有名である。わが国では、8,9世紀に中国製品を踏み返して模造した粗製の傍製(ぼ
	うせい)品も多い。


	【蓋:きぬがさ】
	古い絵巻などに、貴族が外出する際お供の人が頭上から傘を差し掛けている様子がしばしば描かれている。これが蓋(きぬ
	がさ)で、強い日差しから貴人の身を守るだけでなく、むしろ権威の象徴としての意味合いが強いものである。
	木製の骨に布(絹など)を張ったもので、開閉はできない。「日本書紀」には、清寧天皇の3年の春、二人の皇子を摂津の
	国にお連れしたとき、「多くの臣下が剣をかざし、青い蓋の車で宮殿にお迎えした」という記述がある。考古学的遺物では、
	古墳時代の埴輪には大型で豪華な蓋をかたどったものがあり、西暦4世紀にはすでに豪族のシンボルとなっていたと考えら
	れる。



	「講演:高松塚古墳発掘とその意義」

	【網干善教(あぼしよしのり)】
	昭和2年、奈良県明日香村生まれ。龍谷大学講師などを経て昭和44年関西大学助教授に就任。同大学で教授、博物館長を
	務め、現在名誉教授。中学校時代から県立橿原考古学研究所に通い、所長の末永雅雄氏が講師を務めていた龍谷大で考古学
	を学んだ。龍谷大、関西大の教壇を末永氏から受け継ぎ、後進の育成に力を注いだ。末永氏との出会いは幼少のころに行わ
	れた石舞台古墳の調査で、父に連れられて毎日のように現場を見学していたという。高松塚古墳のほか飛鳥京跡や牽牛子塚
	古墳(明日香村)などの調査を担当。キトラ古墳の撮影調査にも参加した。県立橿原考古学研究所指導研究員。昭和58年
	からインド・祗園精舎遺跡の共同発掘調査も指揮した。平成14年4月、奈良県御所市で発見された「条ウル神古墳」の調
	査団長でもある。


 

	
	【発見の経緯】
	橿原考古学研究所の当時の所長は初代末長雅雄博士で、調査には関西大学、龍谷大学の学生達も参加していた。そしてその
	学生達の指揮をしていたのが末永雅雄氏の後継者として、関西大の助教授に就任していた網干善教氏であった。明日香村出
	身で、地元の中学校教諭や青年団長も務めた網干氏と住民の間には、今も強いつながりがある。

	調査団の発掘調査は同年3月1日から始まった。調査団はまず現場で古墳の慰霊祭をすませた後、慎重に作業を進めていっ
	た。古い記録や、古墳の上に窪みがあることから、この古墳は古くに盗掘されている事が想像された。掘り進んでいく内に
	石室の一部に到達したが、実際、南側の部分に盗掘者が石室内に入るため打ち欠いた穴があることが確認された。
	作業を始めてから3週間目の3月21日。午前中に前夜の雨でしめった泥を取り除いていた作業員達は昼食に行き、現場に
	は網干氏と学生3人が残って監視にあたっていた。盗掘孔から石室内を覗いていた網干氏は、内部の壁に青いカビのような
	ものを見つけた。
	木の根のようにもヒモのようにも見える。不思議だな、と思って見ているとやがて太陽が雲間から現れ明るくなった。「壁
	画だ!人の絵だ!」網干氏は自分の見たものがすぐには信じられず、学生の一人を呼んで中を見るように言った。「ありま
	す、先生!絵です。人物の絵です。」現場は大騒ぎになった。



	
	この日末永博士は会議のため東京へ出張中だった。第一報を聞いた博士から網干氏に対して、次のような指示が飛んできた。

		・すぐ警察に連絡して厳重な警戒を依頼すること。
		・今夜から寝ずの番をして監視に当たること。
		・直ちに写真班の手配をすること。
		・明日からの調査に当たっては、壁画の保護を第一にしてすすめること。

	こうして翌22日からは調査と写真撮影が平行して行われた。石室の内部は高さ1.13m、幅1.03m、奥行き2.65
	mという狭さで、壁画に触れないようにしながら、作業は連日徹夜に及びながらも順調に進んだ。25日にはほぼ調査が終
	わり、末永博士が壁画発見と、全ての調査結果を報道陣に発表したのは26日午後だった。記者会見の後、末永博士はただ
	ちに古墳の密閉を命じた。このような処置に対して、「末永博士は壁画を独り占めにしている」と非難した週刊誌もあった。
	だが、網干氏は言う。
	


	
	「末永博士は、批判を覚悟の上で石室を閉鎖し見学を禁止したのです。なぜなら、1000数百年のあいだ暗い中におかれてい
	た壁画は、石室が開かれ外部の光や空気が入り込んだ場合、どのような影響を受けるかが全く不明だったのです。多くの見
	学者が訪れて石室内を覗き込んだとき、壁画がどうなるのか、誰にもわかりませんでした。末永博士の行った密閉は、壁画
	の保護を第一に考えた行動だったのです。」
	事実、マスコミがこのニュースを流した後、明日香村には連日人々が押し掛け、狭い村はたちまち銀座並みの大渋滞が続い
	たのである。
	続いて4月6日、文化庁が派遣した「高松塚古墳応急保存対策調査会」のメンバーが現地に到着すると、末永氏は今後高松
	塚の調査と保護作業は、明日香村と調査団から切り離し、その一切を文化庁にゆだねるように言い渡した。これを聞いた発
	掘団の女子学生の中には大声で泣き出す者もあった。それに対して末永氏は、「このような壁画は国の宝である。どんなこ
	とがあっても護らなければならない。いち明日香村や研究所や考古学者のものであってはいけないのだ。文化庁なら、国の
	宝として完全な保護対策を取ってくれると私は信じている。」と言って説き伏せた。「まさしく英断でした。」と網干氏は
	当時を振り返る。




網干教授が、毎日放送の長寿紀行番組「真珠の小箱」(提供:近鉄)に出演した時
(発掘30周年で最近放映された。)の映像も披露された。

 



	
	【発見された壁画とその他の副葬品】
	古墳内部の石壁に白虎、青竜や男女像などが極彩色で描かれていた。壁画としては法隆寺の壁画に匹敵する。絵の技工など
	から同古墳は日本最高の装飾古墳とみられ、画材には中国や朝鮮半島の影響が強く、古墳時代文化史の貴重な資料である。
	同古墳は直径約18m、高さ約5mの小円墳。石室内の三方の壁と天井に描かれた絵が発見された。石槨は幅1.035m、
	長さ2.655m、高さ1.134mの長方形。凝灰岩で組み立てられ、南面は盗掘のためこわされていた。石壁の表面には
	約5ミリの漆喰(しっくい)が塗られ、絵は7色以上を使った豪華なものである。

	壁画は、男・女の人物群像、四神、日、月、星宿である。男・女の群像は、それぞれ4人一組で、東西の壁に、男子像が南
	寄りに、女子像が北寄りに描かれている。四神は、南壁を除く各壁の中央部に描かれている。北面は玄武、東面中央には青
	竜と蓬莱山、雲、太陽が、また西面には白虎と蓬莱山、雲、月が向かい合っている。白虎、青竜の両わきには各4人ずつの
	婦人像、男子像が描かれている。
	人物像の足の位置は、龍・虎の脚先とほぼ一線をなし、人物像の高さは、およそ40cmである。太陽は金ぱく、月は銀ぱく
	を使い、天井には金ぱくの星を朱線でつないだ星座が広がる。直径0.7cmの円形に金箔をはって星をあらわし、整然と配
	置された星と星との間が赤い線で結ばれていた。南壁の扉石の内側には、朱雀が予想されるが、漆喰が剥離しており、その
	所在は判明していない。



	
	壁画は、長い年月や盗掘によって、傷つけられていた。例えば壁の漆喰に亀裂を生ずるほか、西壁上部などでは、これが原
	因となって漆喰が剥落している。また、天井と側壁の接合部分の一部から鉄分を含んだ水が滲みでたため、そこから下辺に
	かけて、赤褐色に汚れている。このため、東西両壁の男子群像と青龍の一部が、著しく不鮮明になっている。盗掘穴から流
	れ込んだ土砂によって埋もれた個所の漆喰は、汚れ、剥落している。また、顔料の剥落が著しい個所は、東壁女子群像の頭
	部と腹部、西壁男子群像の一部、青龍の尾の周辺、日輪の下辺などにみられる。このほか、玄武には、意識的に掻き落とし
	たとみられる側壁材にまで達する打痕があり、日輪、月輪の中心部にも、金箔や銀箔を意識的に掻き取った形跡が認められ
	る。

	副葬品は、盗掘を受けているため殆どが持ち去られてたものと思われ、盗掘の時期は鎌倉時代末期と推測されている。しか
	し、それでも盗掘者が取り忘れた、或いは取りこぼしたものも数点残っていた。第一は海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょ
	う)と呼ばれる中国製の鏡である。この白銅鏡は、中国の長安(今の西安)郊外で発見された鏡と同じ鋳型で製造されてい
	た。高松塚古墳の年代を推定する上で重要な手がかりとなった。
	また、刀身こそなかったが、太刀の飾り金具も見つかった。銀製で見事な装飾が施されていた。ほかにガラスやコハクで作
	った玉類も数点発見されている。さらに石室内に、厚さ2cmのスギ材を組んで、上に布を貼り、更に漆を塗った後全体を金
	箔で覆った豪華な木棺が残っていた。千年を超える年月のため崩れてはいたが、すこぶる豪華なものであった。また、棺の
	飾り金具も金銅製で、美しく彫刻されていた。

	この高松塚古墳に葬られていたのは一体、誰なのだろうか。さかんに論議されたが未だに結論は出ていない。壁画と言い、
	豪華な副葬品といい相当な身分の人物だったのは容易に推測できる。文化財保護審議会は同古墳一帯を国の史跡に指定、
	1974年には国宝に指定された。現在高松塚古墳は厳重な管理の元、科学的な観察が続けられている。合成樹脂などを使
	った化学処置がとられ、石槨内はコンピューター制御の保存施設で発掘前の状態に保たれているが、それでも壁画の劣化は
	確実に進んでいると言う。   
 







奈良県高市郡明日香村 99.9.26 歴史倶楽部第24回例会 高松塚古墳


	飛鳥を一躍有名にし、今日の古代史ブームのきっかけをつくったとも言えるのがこの高松塚古墳だ。地元の人が作物貯蔵用
	にと掘った穴が壁画発掘の端緒となった。穴に凝灰岩の切石が発見され、昭和47年3月から橿原考古学研究所の手によっ
	て調査が開始され、我が国屈指の壁画をもつ横穴式古墳である事が確認された。四神(青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、
	玄武(北))、日像、月像、男子群像、女子群像などが描かれた石室内部の壁画は、どの像も筆致で細部まで細かく描写さ
	れていた。男子群像、女子群像に描かれた衣装、装具などは当時の生活・風俗を表したものとして資料価値も高く、その後
	壁画は国宝の指定を受けた。後にキトラ古墳で有名になる星宿図(星座)も天井に描かれていた。




	
	【空調施設断面模型】
	壁画は石室の内面に塗った漆喰の上に描かれている。高松塚古墳の石槨は、内壁と天井、床の全面にしっくい(厚さ2〜7ミ
	リ)が塗られていた。しっくいは石灰に粘土などを練り合わせた塗料。飛鳥地域では、キトラ古墳のほか、昭和52〜53年に
	かけて明日香村などが調査したマルコ山古墳でも同様の使用例が確認されている。マルコ山古墳には壁画がなく、高松塚古
	墳との違いが論議を呼んだ。中尾山古墳や岩尾山古墳では、石材の間に詰めるなどして密閉度を高めている。天皇や大和政
	権中枢部を担った豪族の墓に使用例が多く、高松塚古墳の中間報告書は「支配者層の墳墓の造営が、共通する各種の技術者
	集団によって行われていたことを示す」と指摘している。
	しっくいの様子や、顔料の成分などを詳しく調べたあと、壁画がいたんだ部分は剥げ落ちるのを防ぐため合成樹脂をしみこ
	ませた。閉じられた石室の内側は一年を通じて気温11゜〜17゜湿度95%以上と一定した状態で、これが壁画の保存に
	は一番望ましいとされ、常にこの状態を保つために図のような空気調整施設がつくられた。正確な記録を残すために前田青
	邨を代表者とする日本画家のチームによる精巧な模写も作られた。この作業には、平山邦夫など著名な日本画家が多数参加
	している。



 

壁画は原寸・原色で再現され、前田青邨、平山郁夫、守屋多々志等、30名余の画家や科学者達が2年半を費やして完成した。



発見当時の石槨を忠実に復元してある。当時の盗掘穴から内壁の壁画状況を眺める事が出来る。

 











	
	石槨内から出土したものは、海獣葡萄鏡、太刀の外装具、玉・ガラス類、棺留め具等、いずれも美術工芸上貴重な資料であ
	る。太刀が金具のみなのは、おそらく盗掘にあって刀は持ち去られたものと考えられる。出土品は、国立奈良文化財研究所
	の飛鳥資料館に展示されており、ここにはレプリカが置いてある。資料館は、ここから歩いて30分ほどの明日香村北東部に
	ある。












高松塚古墳からの出土物。(飛鳥の「国立奈良文化財研究所・飛鳥資料館」より転載。)





 



高松塚古墳の現在の断面模型。すごい設備によって保護されているのがよくわかる。







   邪馬台国大研究・ホームページ / 学ぶ邪馬台国 /高松塚古墳発掘・30周年記念講演会