Music: Yellow Submarine






	
	歴史クラブの面々(東江・河原・平・服部)を誘って、私の地元である吹田市立博物館での講演会に行った。定員120名の
	参加費無料だったがアッという間に満員になった。近所のオッサン・オバサンばかりでなくずいぶん遠くからも来ているよう
	だった。おそらく、加茂岩倉の銅鐸の話というのが人気を呼んだのに違いないが、酒井教授の話は銅鐸の話より、考古学会
	の暴露話のような内容で、学術的な内容を期待して来た向きにはさぞかし期待はずれだったに違いない。都合3時間ほどの講
	演が終わった後、博物館を出ると小雨が降っていた。講演会の後、すぐ近くの梅林の桜(?)の下でスキヤキ・パーティーを
	する予定だったのだが、これでは無理なので私の自宅で行なった。一人ゴルフに行っていた東江氏も到着して、時ならぬ歴史
	クラブの総会と相成った。


吹田市立博物館     古代馬具を装着したロビーの馬
 




	
	1.唐式鏡の展開 −五反島(ごたんじま)遺跡出土の鏡をめぐって−
	
	西本氏の話は、酒井教授と違って学術そのものだった。吹田市五反島遺跡出土の瑞花鳳凰麒麟さん猊文鏡の話を枕に、
	まず唐鏡・唐式鏡の種類に始まり、用途、鋳造方法から形式分類と、まるで大学の授業を受けている様だった。
	
	(1).初めに
	鏡は紀元前13世紀から中国で生産。殷(いん)時代。漢、三国時代とその製法は受け継がれ、その頃の鏡は日本でも大量に
	発見される。
	鋳型も各地で発見されているので、後漢もしくは三国時代には日本でも製造していた、と思われる。日本の奈良時代になって
	唐の鏡が、遣唐使などを通じて日本にも入ってきている。吹田の五反島遺跡から出た鏡もこの唐鏡である。

	(2).唐鏡・唐式鏡について

	@種類
	・四神文鏡、獣文鏡   ・・・・・・・初期唐
	・海獣葡萄文鏡     ・・・・・・・初唐〜盛唐期
	・宝飾鏡(貼ちょう)銀鍍(と)金、金銀平脱(へいだつ)、螺鈿(らでん)、七宝(しっぽう))
	・宝相華(ほうそうげ)文鏡、花枝(かし)文鏡、唐花(とうか)文鏡
	・高士弾琴(こうしだんきん)文(伯牙(はくが)弾琴文)鏡
	・双獣文鏡、双鳥文鏡(上下・左右対称の構図)   ・・・・・盛唐期以降
	A用途
	・舎利具、鎮壇具(法隆寺、興福寺など)
	・仏像・仏殿の荘厳(東大寺など)
	・神祇祭祀(八十嶋祭など)
	・古墳副葬品(高松塚古墳など)
	B鋳造法
	 青銅・・・銅85%、錫10%、鉛5%
	 白銅・・・銅80%、錫20%
	・惣型(真土(まね)型)・・・海獣葡萄文鏡のような肉厚の文様には不向き。
	・鑞(ろう)型・・・肉厚な文様に向く。蜜鑞が高価。『東大寺鋳鏡用度文案』
	(鑞で型をとり粘土で囲み、それを焼いて溶けた鑞の部分に銅を入れる。)
	
	・踏返し・・・簡易に大量生産可能。しかし、文様が鮮明でなくなる。経が小さくなる。

	(3).鳳凰麒麟さん猊文系鏡について

	@鳳凰麒麟さん猊文系鏡の展開
	(型式分類)A型式、B型式、C1型式、C2型式、D1・D2・D3型式
	(型式変遷)
	A鳳凰麒麟さん猊文系鏡に意義

	(4).その後の展開
	・和鏡・・・・・日本で作られた、日本型意匠を持つ鏡。式の花鳥などを絵画的に鋳出。平安時代後期〜江戸時代。
	・和鏡の用途・・化粧用具、信仰に関わるもの
	(経塚埋納(朝熊経塚郡)、水中投入(羽黒鏡など)、社寺奉納供養(法隆寺西円堂など。))


話をする西本氏
	
	2.楽しく学ぶ銅鐸講座 −加茂岩倉遺跡銅鐸を中心にして−
	
	酒井教授の話は、銅鐸に関する学術報告とはとても言いがたい。どちらかと言えば考古学よもやま話といったところか。

	
	(1).まえおき

	・最近は古代史ファンも増え、考古学が人気を集めていてまことに喜ばしい。こうやって講演に呼ばれて話が出来たりする
	 ので大変助かる。
	・日本には考古学者と呼ばれる人達が、行政で7,000人、学者・研究者で10,000人位いる。彼らがそれぞれ専門を決めて研
	 究しているのだから、人と変わったことをしないとなかなか目立たず認められない。
	・考古学者はみな、文化系の出身なのでなかなか科学的な分析などが出来ない。現代考古学の主要な仕事は形式学である。
	 つまり、遺物の集成と分類である。
	・最近は、銅鐸一つ博物館が買ったりすると1個約1億円である。(一同、ヒェーッの声)
	
	(2).加茂岩倉遺跡銅鐸15の謎 −何が真実か?−

	@なぜ、加茂岩倉の銅鐸は山の中腹などという不便な場所に埋めたのか?
	A何のために。39個も大量に埋めたのか?
	Bいったい銅鐸は何をするものなのか?
	C銅鐸に描かれたトンボやシカの絵は、何を意味するのか?
	D加茂岩倉の銅鐸はいつ頃のものなのか?
	Eこの銅鐸は、誰が、どのようにして作ったのか?
	F「入れ子」にしたのはなぜか?
	Gなぜ出雲ばかりに青銅器がたくさん出るのか?
	H銅剣が大量に埋められていた荒神谷遺跡と関係はあるのか?
	I銅鐸に刻まれた「X印」は何を意味するのか?
	J出雲国から大量の銅鐸が出土したことは、出雲の権力が強力だった証拠といえるか?
	K『出雲の国風土記』にこの銅鐸について書かれているのか?
	L岩倉という地名に何か意味があるのか?
	Mなぜ、その後銅鐸は作られなくなるのか?
	N加茂岩倉銅鐸は、出雲でつくられたのか?

	(3).加茂岩倉遺跡出土の銅鐸

	(4).『発掘川柳』



司会者の紹介を受ける酒井教授





銅鐸の謎

	
	銅鐸もまた謎の多い青銅器である。以前は近畿地方を中心に出土し九州からは出土例がなかった為、北九州地方の銅矛銅剣
	文化圏と対比されて論評されてきた。私が子供の頃は、教科書にも大きな円で囲んだ文化圏の対比表が載っていた。今でも
	そう記載してある書物もある。しかし近年、近畿以西の地域からも銅鐸やその鋳型が出土し、銅鐸は必ずしも近畿圏に特有
	の青銅器ではない事が分かってきた。学界では、祭祀に用いられた器具であろうという意見にはおおかたが賛意をしめして
	いるが、鏡や玉や剣のように、墓の副葬品として出土する訳ではない。何もない山中や、周りには遺跡も何もない山腹から
	出現したりするのである。近畿地方では銅鐸文化が滅んだあと古墳時代が始まっている事から、紀元300年頃、九州勢力
	の一部が東征して銅鐸文化を滅ぼして古墳時代を始めたと考えられ、記紀に記載された神武東征は、この時のことがモデル
	になったのではないかというような意見もある。あわてて隠したためそのような場所から出土するのだ、というわけである。

	ではこの「銅鐸」なる代物は、一体誰が、どこで、何の為に製造したものであろうか? 酒井教授の講演の標題にあるよう
	な疑問は、今日解明されているのであろうか。残念ながら教授の話は「発掘川柳」が中心で、こういう素朴な疑問点には殆
	どまともな解答が無かったような気がする。


	(1). 銅鐸の起源
			  
	昭和初期に東大の哲学者・和辻哲郎が、九州を「銅剣・銅矛文化圏」、近畿地方を「銅鐸文化圏」と区分して以来、弥生時
	代はこの二つの地方で文化が対立していたように思われてきた。実際私も、九州の銅鐸などというものは教科書にも載って
	いなかったし、学校でも習った記憶がない。しかし近年、各地で考古学の発掘調査が進行すると、その図式は必ずしも当て
	はまらない事例がいくつも出現しだしたのである。しかし学問的には、昭和4(1929)年、九州帝国大学の中山平次郎は、
	「九州に於ける銅鐸」という論文で、九州出土の可能性がある銅鐸3点を紹介している。しかもその内の一つには、漢字の
	銘文があるという。今日ではこの銘のある銅鐸も含めて二つの銅鐸は九州出土ではないと考えられており、残る九大病院出
	土の銅鐸は現在行方不明である。また、昭和20年代後半、九州でも銅鐸形の土製品や小銅鐸が出土し、中でも春日市大南
	遺跡出土の小銅鐸は銅鐸の祖形ではないかと注目された。また大分県宇佐市別府遺跡では、朝鮮半島製の小銅鐸が出土し、
	近畿地方の銅鐸も朝鮮半島の銅鐸を起源として、九州経由で生まれたのではないかという説が現れた。これら九州の銅鐸
	土の状況から、銅鐸の出現時期を巡って、九州と近畿の学者間で激しい論争が巻き起こった。

	話は変わるが、私の会社に出入りしている某通信会社の営業が、銅鐸を知らないと言った事があった。ちゃんとした一応名
	前の通った大学を出ているのだが、「どうたく? 何ですかそれ。」と言った時には目が点になってしまった。日本の歴史
	教育の荒廃はここまで来たかと嘆いたものだが、そもそも銅鐸なるものは、「鈕(ちゅう)」と呼ばれる取っ手を上部に有
	し、内側に「舌(ぜつ)」という振り子を吊り下げた青銅製の鐘である。その源流は朝鮮式小銅鐸だが、そのまた源流は中
	央アジアの動物の首にぶら下げた呼び鈴であろう。馬に付けるものは特に馬鈴と呼ばれるが、その鈴は、中国・朝鮮に入っ
	てきて「鐸(たく)」と呼ばれる小さな鐘になる。この鐸が倭国に入ってくると鏡や剣・矛と同様に次第に大型になり、様
	々な文様を有し、大きな鰭(ひれ)を持つようになる。弥生時代に近畿地方を中心に発達したと思われており、これまで5
	百個あまりが見つかっている。当初の機能はおそらくうち鳴らして、時や合図を告げる鐘だったのが、大型化とともにやが
	て祭器としての性格が強調されていき、最終的には1mを越すものまで出現する。
	鐘としての機能は失い、祭祀用具にしてもあまりにも巨大で、権威を示す大型の鎮具としての意味合いをもってくる。最近
	は、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へというフレーズが流行である。


	
	昭和55(1980)年、佐賀県鳥栖市安永田遺跡で、九州で初めての銅鐸鋳型が発見され、九州でも銅鐸が鋳造されていたこ
	とが明らかになった。その為、他の青銅器同様銅鐸も、まず九州に伝わり、ここで鋳造され、それから近畿圏へ移っていっ
	たものと考えられた。
	しかし、この鋳型で作られる銅鐸は、主に山陽・山陰地方で出土するものと共通する特徴を持ちながら、銅鐸そのものは出
	土しなかったため、山陽・山陰地方への搬出用に鋳造したものだろうという意見も出た。続けて、福岡市赤穂の浦遺跡から
	も鋳型が発見された。
	しかしその後の青銅器研究で、九州・近畿の双方で、弥生時代初期後半〜中期前半には青銅器の生産が始まっている事が確
	認され、近畿でもその時期の銅鐸の鋳型が発見されたため、銅鐸を巡る起源論争には決着が着いていない。

	平成10(1998)年、弥生時代の大規模環濠遺跡として名高い吉野ケ里遺跡から、鈕(ちゅう)を下に向け、逆立ちした形
	で埋められた銅鐸が出土した。これはそれまでに発見されていた鋳型と文様などの特徴が同じで、ここで製作だけでなく祭
	祀も行われていた可能性が強くなった。また製作技法についても、九州と近畿で同時期に同様の技法が用いられている事例
	も出現し、数は少ないが九州にも銅鐸があったことが明らかになった。現在、九州における銅鐸出土例は近畿地方に比べて
	圧倒的に少ないが、このような事例が出現したことで、和辻説が見直しを迫られている事は間違いない。

九州初出土の銅鐸(佐賀県吉野ヶ里)

 

  

 

	
	平成10年11月、吉野ヶ里遺跡、大曲一の坪地区の発掘調査現場から小さな穴に逆さに埋められた銅鐸が発見された。
	それは九州ではこれまで発見されていない、高さ28cmの銅鐸だった。この写真はその銅鐸の表面である。九州では銅鐸
	の鋳型が出土しているので、銅鐸を生産していたことはわかっていたが、銅鐸そのものの出土例は知られていなかった銅鐸
	は、近畿地方を中心に、祭りで使われていた道具である。九州では初めての銅鐸が、吉野ヶ里遺跡で発見された。これによ
	り、九州でも祭祀の場で銅鐸が使われていたことが裏付けられ、弥生時代の青銅器を用いた祭祀を考える上で重要な発見と
	なった。吉野ヶ里遺跡の銅鐸は、高さ28cmで、未の部分は綾杉文、鈕(吊り手)や鰭の部分は複合鋸歯文で飾られてい
	る。銅鐸は紐を下にした状態で小さな穴に埋められていた。埋められた時期は弥生時代終末(3世紀)が上限と推定される。
	吉野ヶ里遺跡で出土した銅鐸は、その大きさや文様の特徴から、中国地方で4例見つかっている「福田型銅鐸」でありその
	うち、島根県で出土したといわれている「木幡家所有銅鐸」と同じ鋳型で作られた兄弟銅鐸であることが判明した。福田型
	銅鐸の鋳型は佐賀県や福岡県で見つかっており、九州で作られた銅鐸が中国地方まで運ばれたと考えられる。
	【出典:IPA「教育用画像素材集サイト」 http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/ 】

 



	
	(2). 銅鐸の構造と名称

	鈕:  銅鐸上部に付属する取っ手状の吊り下げ部の事。これがある為、銅鐸は紐(ヒモ)で吊るして鳴らしていたと考え
		られる。殆どの銅鐸が鈕と鈕孔をもつ。銅鐸の鈕は初め厚身で実用的だったが、祭器の要素が強くなり大型化する
		と、鈕は扁平化し実用性を失い、単なる装飾と化した。後期の大型銅鐸になると、この部分が異常に肥大化し鈕孔
		はごく小さなものになっていく。

	鰭:  銅鐸の、身の側面を覆う薄いでっぱり部分の事。元々は製造時のバリだったとも思われるものが、日本へ入ってき
		て構造に組み込まれ肥大化する。

	舌:  銅鐸の内部に吊し、揺り動かして音を出すのに用いる棒。銅鐸の口中にあるので舌(ぜつ)という。

	舞:  銅鐸の身の上面を指す名称。多くはほぼ水平面をなし鈕孔付近に型持孔を持つ。ほとんど無文だが、稀に有文のも
		のもある。

	飾耳: 銅鐸における装飾の一部。初期の銅鐸にはなく、装飾性が強くなる菱環鈕2式あたりから見られる。鰭や鈕の外周
		に、しばしば左右対称につけられている。(かざりみみ/しょくじ)

	内面突帯: 身の内部の下部に巡らされた突帯。ここに舌が当たると音が鳴る仕組み。無いものもある。

	型持孔:「型持」とは、鋳型に融解金属を流し込む時、鋳型の外側と内側の隙間を適正に保つために両者の間に挿入される
		もの。「かたもたせ」とも言う。金属製の型持ならそのまま製品にも残り、石や砂製の型持なら、完成後の製品に
		その部分が「型持孔」として残る。銅鐸の場合は後者で、身の片面に4孔ずつ(両面で8孔)、舞に2孔の計10
		孔の型持孔を持つ場合が多い。






	(3). 銅鐸の文様

	小型銅鐸には殆ど文様の付いていないものが多いが、大型化していくにつれ複雑な文様が施される。身の部分を区画に区切
	り、その中にトンボやカエルや人などの絵を描いたものもある。区画数はほとんどが4区か6区である。銅鐸の研究につい
	ては、先人の業績が多く残っているのでそちらを参照して貰えば、細かい編年や形式区分などが示されている。今年物故し
	た佐原真氏は、銅鐸研究の第一人者、などと呼ばれていた。銅鐸に描かれた絵についても以下のような著作があり、これに
	は現時点で知られている全ての銅鐸の絵が記載されている。

	書 名: 銅鐸の絵を読み解く
	著 者: 佐原 真
	出版社: 小学館
	発行年: 1997年 初版  定価:2400円

	鋸歯文(きょしもん)とは、直線を折り曲げて描いたジグザグ文様で、鋸(ノコギリ)の歯に見立てる所からこの名がある。
	鈕、鰭に鋸歯文、複合鋸歯文が多い。身の部分には、横帯文、流水文、袈裟襷(けさだすき)文といった文様の他、前述の
	絵画が描かれた例も多い。流水文とは、直線と弧線を連結した流水形の構図で、弥生前・中期の土器・木器・銅鐸に見られる。
	袈裟襷文とは、横帯と縦帯を交差させて身を区画している文様で、坊主が着る袈裟に見立てている。縦横帯が交差して井の
	字型になる例は少なく、多くは縦帯が横帯に重ならずに連結する形態をとっている。


	銅鐸に描かれている絵に関してもいろんな解釈による区分がある。(上記「銅鐸の絵を読み解く」による)

	(A)日常生活派
	   弥生時代の日常生活・環境を風物史的にあらわしたもの。
	(B1)秋説
	   収穫の秋を描いたもの。
	(B2)初夏・秋説
	   田植えの5月と収穫の秋をあらわし、新嘗、つまり収穫祭の感謝の祝い事を込めているもの。
	(B3)四季説
	   四季をあらわすとみて,年中行事的画題や季節感を示すと考え、「亀、ヘビなどは冬眠からさめて動き出す初春を象
	   徴し、鋤踊りは水稲耕作に入る予祝の行事を示し、臼つきは秋の収穫と新米の祝いの行事を示し、水鳥は晩秋の渡り
	   鳥の来る季節を示し、鹿や猪の狩猟は、冬の狩りの行事を意味したもの。
	(B4)初夏説
	   田植えの頃の水田に揃う動物を描いたもの。
	(C1)主題+風物詩説
	   狩猟図・脱穀図・倉庫図こそが主題で、これに加えて主題を多彩に彩るための風物詩的な絵を添えた。
	(C2)水の輪廻説
	   流水紋・渦巻き紋を水の表現としてとらえ、水の輪廻として解釈する。
	(C3)農耕讃歌説
	   生きとし生けるもの弱者を殺して生き、人も狩りの生活を送ってきた。しかし神の教えで稲作を識り、秋毎に実りが
	   倉に満ちていることを神に感謝する物語として解釈する。
	(C4)豊かな水と秋の豊作を願う説
	   トンボ・カマキリ・カエル・トカゲは,農作物の害虫をとらえて食べるもの、亀とサギは水の豊かさの象徴、鹿・猪
	   は害獣をとらえる。こうして害虫・害獣も駆除されて、水も豊かに注いで秋に豊作がもたらされることを祈って呪術
	   的に描いたと解釈する。












	(3). 銅鐸の用途

	銅鐸は、本来は鈴としての用途を持っていたと思われるが、倭国に入ってきて大型化してからの使用目的は未だ謎に包まれ
	ていると言っていいだろう。農業の豊作を願った祭祀器具説や、打ち鳴らして音を聞く楽器や観賞用器具という説、禍事を
	排除する祭事の後埋めるために、初めからそれを想定して造られた人形(ひとがた)であるという説、等々。変わったとこ
	ろでは、銅鐸湯沸器説などもあった。これは「銅鐸内部で小枝などを燃やして加熱し、水をためた穴に沈めて、「湯浴み」
	用の湯を沸かすための道具である」とする説であるが、これを唱えたのがお茶などを販売する食品会社の社長と聞いては
	「あんぐり」と言う感じである。
	最近の流行フレーズ、「聞く銅鐸から見る銅鐸へ」という言葉は、銅鐸は最初「音を聞く」ものとされ、次第に「見る置物」
	と変わっていったという考えが支配的なようである。どこの博物館に言っても最近はこのフレーズを見る。いずれにしても、
	当時貴重な財産であった(はずの)銅を用いて鋳造しているので、単なる置物などではなく、何かムラを挙げての一大行事
	に用いられたものであるのは間違いないし、個人の墓や住居跡からは全く出土しないので、個人的な所有物でも無いことは
	明らかだ。

	現在では銅鐸の用途については、ムラを挙げての農業祭祀に用いられたものという考えがほぼ一般的であるが、それにして
	もなぜ集落内で発見されないのかという疑問は残る。祭祀なら通常集落内で行われるのが常識であろうし、拝んでおく置物
	なら当然集落内のどこかに配置しておくのが自然だろう。これまで出土した銅鐸のほとんどは、集落の外、それもムラの祭
	祀や守り神的な場所とは関係ない場所から、偶然発見されている。これがその用途についての考察を一層困難にしているよ
	うである。



日本で一番大きい銅鐸。三遠式。滋賀県夜須町銅鐸博物館蔵。




	(4). 銅鐸の分布

	従来、一箇所から出土した銅鐸の数としては、滋賀県野洲町大岩山遺跡のものが最多であった。しかし出雲の加茂岩倉遺跡
	から出土した39個の銅鐸は、今のところ一カ所からの出土数としては全国最多である。全国で約470個出土している銅
	鐸のうち、合計50個もの銅鐸が出雲から出土している。これは古代出雲の解明に大きな手がかりとなった。和歌山県も全
	国的に銅鐸発見例の多い地域であり、現在20数ケ所の出土地を見ることができる。他に多い出土地として摂津などもある
	が、以下の表をよく眺めていると、出雲を除けば、四国から紀伊半島を抜け、滋賀から濃尾平野を通ったあたりまでに色濃
	く分布しているのが見て取れる。その他は殆ど1,2個の出土である。





	ちなみに九州における銅鐸の出土例は現在1個であるが、小銅鐸、鋳型、鐸形土製品などは、以下のようなものが出土して
	いる。これを見ても、銅鐸もその発生の源は北九州にあるもののような気がしてくる。

	銅鐸鋳型   福岡県赤穂の浦遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵(館保管) 
	銅鐸鋳型   佐賀県安永田遺跡 館蔵 
	銅鐸     佐賀県吉野ケ里遺跡 佐賀県教育委員会所蔵 
	鋳型     (小銅鐸もしくは銅鐸)    福岡県勝浦高原(かつうらたかはら)遺跡 津屋崎町教育委員会所蔵 
	鋳型     (小銅鐸もしくは銅矛)    福岡県松本遺跡 北九州市教育委員会所蔵 
	小銅鐸    福岡県大南遺跡 九州大学考古学研究室所蔵 
	小銅鐸    福岡県浦志(うらし)遺跡 前原市教育委員会所蔵 
	小銅鐸    大分県多武尾(たぶお)遺跡 大分市教育委員会所蔵 
	小銅鐸    福岡県板付遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
	小銅鐸    福岡県今宿五郎江遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
	小銅鐸	   大分県別府遺跡 館蔵 
	小銅鐸中子 2点 福岡県須玖坂本(すぐさかもと)遺跡 春日市教育委員会保管(国所蔵) 
	小銅鐸中子    福岡県雀居(ささい)遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
	小銅鐸鋳型    福岡県大谷遺跡 春日市教育委員会保管(国所蔵) 
	小銅鐸鋳型 3点 福岡県須玖坂本、須玖岡本、須玖永田(えいだ)遺跡 春日市、国所蔵 
	鐸形土製品    九州大学春日キャンパス内遺跡 九州大学埋蔵文化財調査室所蔵 
	鐸形土製品    佐賀県川寄吉原(かわよりよしわら)遺跡 佐賀県立博物館所蔵 
	鐸形土製品 2点 佐賀県川寄若宮(わかみや)遺跡 佐賀県立博物館所蔵 
	鐸形土製品 2点 佐賀県託田西分(たくたにしぶん)遺跡 千代田町教育委員会所蔵 
	鐸形土製品 5点 佐賀県原古賀三本谷、西寒水(にしそうず)一本柳遺跡 中原町教育委員会所蔵 
	鐸形土製品    福岡県駿河(するが)遺跡 春日市教育委員会所蔵 
	鐸形土製品 3点 福岡県鷹取五反田(たかとりごたんだ)、貝元(かいもと)遺跡 福岡県教育委員会所蔵 
	鐸形土製品    福岡県北方(きたかた)遺跡 北九州市教育委員会所蔵 
	鐸形土製品    福岡県長野小西田(ながのこにしだ)遺跡 北九州市埋蔵文化財事業団所蔵 
	鐸形土製品    福岡県井尻(いじり)B遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 
	鐸形土製品 2点 福岡県琴(こと)の宮(みや)、東小田峯(ひがしおだみね)遺跡 夜須町教育委員会 
	馬鐸      福岡県雀居遺跡 福岡市埋蔵文化財センター所蔵 






	(5). 銅鐸の終焉

	銅鐸は大きな鐘のような形状をしており、祭祀器具の一種であったと考えられている。弥生時代を特徴づける青銅器で、お
	そらく農耕祭祀に用いられたものと思われるが、その出土地は、ムラや墓地とは離れた丘陵の斜面などが多い。ほとんどの
	場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。そのため祭祀遺跡という見方に疑問を唱える人も少
	なくない。「普段は土中に埋めておき、祭りの時だけ掘り出して使用し、祭りが廃止されると共に土中に置き去りにされた」
	という説や、「集落で何か一大事が起きた時、厄よけの祭りを行い、わざと集落から離れた場所へ銅鐸を埋納した。」とい
	う説、「外部勢力による征服が行われ、銅鐸祭祀を早急に廃止し、銅鐸を山中に一斉に埋めなければならないような事情が
	生じた。」などという説が唱えられているが、勿論どの意見も確証は無い。畿内の銅鐸は、2,3世紀の弥生文化の隆盛時
	にもっとも盛大となり、そして古墳時代の幕開けと同時に、突然その習慣を絶っているのである。 
	また、我が国の最古の史書である記紀には、銅鐸についての記事は全く登場しない。弥生時代に近畿地方であれほど隆盛を
	極めるのであるから、もし銅鐸を信奉していた人々がそのまま古墳時代を通じても近畿に居続け、やがて大和朝廷へ繋がる
	のだとすれば、記紀に全く記載がないのは奇異である。古伝承もない。これは一体何を意味しているのであろうか?

	この、記紀に銅鐸の記載がないという事実は、記紀が銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内の事についての記録ではないよう
	にも思える。ひいては、銅鐸をもつ大和の先住民が、3世紀後半に九州からきた神武天皇に象徴される一群によって減ぼさ
	れたのであろうとする考えを生む。「続日本紀」に、713年大和の長岡野で銅鐸が発見された時、人々はこれをあやしみ、
	「その制(形)は、常と異なる」と記録されている。これは、当時大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなかったこ
	とを示しており、上記解釈をうらづけるものといえる。もし銅鐸信奉民族が、そのまま近畿で一大勢力となり、倭国統一の
	礎となったのならば、むしろ、国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを温存させてよいように思われ
	る。(安本美典氏)。

	銅鐸文化の消滅の意味するもの、それが銅鐸における最大の「謎」であろうと思われる。




	
	尚、銅鐸は、1個1億円という酒井教授の話にもあるように売買される値段が高い為、昔から贋作が多い。街の古物商等々
	で売りに出ているものは殆どが贋作らしい。芦屋の辰馬考古館は銅鐸の収集で有名だが、ここに行くと贋作は贋作としてそ
	の理由とともに展示されていて、これはこれでなかなかおもしろい。



	
	民間研究機関「ニッテクリサーチ」の有馬良士氏らは、古代の工人がなぜ薄い銅鐸を作ることができたのかを探るため、加
	茂岩倉遺跡(島根県加茂町)の1号鐸をモデルにした復元銅鐸を分析。元素別の分布状況を調べるマイクロアナライザーや
	顕微鏡、エックス線透過検査の結果を報告した。
							・・・(中略)・・・

	鉛をできるだけ均一に分散させるためには、鋳造の際の冷却速度を上げることが重要で、有馬氏は「銅鐸の肉厚が薄いこと
	が有効に働いた。古代人は現代の金属学的知識を経験的に知っていて、それを利用した」と指摘した。(山陰中央新報(平成
	10年5月26日)

	
	平成10(1998)年5月25日、国際金属歴史会議しまね(同会議実行委員会、日本金属学会主催)は、島根県内外の研究者
	を集めての県民参加プログラム「銅シンポジウム」を開催。荒神谷銅剣の×(ばつ)印が埋納直前に付けられたとする最新の
	研究成果や、考古、冶金などの各分野の研究者が現代技術でも実現が難しい銅鐸(どうたく)の薄さに迫る分析結果を報告。
	科学技術を駆使して古代青銅器文化の実像に迫った。 この会議に「株式会社ニッテクリサーチ(姫路市広畑区正門通4丁目
	10番地)」の研究者が、「古代工人は薄肉の銅鐸をどのように鋳造したか」と題してその分析結果を発表した。発表者の有
	馬氏が最後にまとめた内容は以下のようなものである。現代の科学者の目から見ても、古代の技術がすごかったのだという
	事がわかる。
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	(今回の発表内容は)まだ、ほんの一部の研究結果に過ぎませんが、「古代技術者達の優れた知恵と経験に敬服せざるを得
	ない」というのが実感です。今後、さらに精度の高い再現実験と、徹底的な解剖調査が必要であり、そのことが、限界のあ
	る文化財調査の間隙を埋める意味で極めて大切であると考えます。また、文化財についても、「保存一辺倒にならぬよう」、
	一歩進んだ解明の道が開かれることを願って止みません。ご静聴ありがとうございました。
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