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		1.朝鮮半島の歴史

		


	朝鮮半島は大陸と陸続きであるため、常に中国や北方民族など周辺諸国の侵入を受けてきた。隣国の日本ですら海
	を越えて朝鮮半島へ侵入している。古代史の分野において朝鮮とは、現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の
	領域を言うが、歴史の過程においては、中国の遼寧省・吉林省などを含む場合もある。朝鮮の地名が初めて現れる
	のは中国の戦国時代末期(紀元前3世紀)からである。
	日本に「古事記」「日本書紀」があるように、朝鮮半島にも独自の歴史書がある。アジア史に出現する最古の記録
	としては、中国の史書、司馬遷の『史記』の中に、「殷」滅亡時、東国に逃れた殷の王族の箕子(きし)が「箕氏
	朝鮮」を建国した話が載っているが、これはいわゆる伝説王朝としての扱いであり、史実としての信憑性は薄いと
	考えられる。朝鮮人自身が書き残した、最古のまとまった朝鮮古代史として、高麗朝(1280年代)に書かれた
	「三国遺事」(僧一然が編纂)という書物がある。これが、朝鮮人自身が自国を朝鮮と呼んだ最初だという事にな
	っている。それ以前は、三韓・海東などと呼んでいた。「三国遺事」によれば、朝鮮最古の王朝は「檀君王倹」が
	開いたと言うことになっている。
	
	『天王桓因は、王子桓雄に、風伯と雨師、そして雲師の三神を従わせて地上に使わし、人間界を支配させた。
	(日本の天孫降臨に似ている)
	ある時、桓雄と同じ洞窟に住んでいた一頭の熊と虎が、桓雄に自分達を人間にするよう頼む。桓雄は願いを聞き入
	れ、藻草(もぐさ)1束と大蒜(にんにく)20個を与え、「これを食べ、100日間日の光を避け籠(こ)もり
	をしなさい。そうすれば人間になれるだろう。」と告げる。
	虎はその試練に耐えきれずに逃げ出してしまうが、耐えた熊は21日目に人間の女になることができた。人間にな
	った熊女はさらに桓雄に、「誰も夫になってくれないので、子供を産むことができない」と訴える。その願いを聞
	いた桓雄は女と情を交わし、やがて男の子が産まれる。その子は、長じて檀君王倹となのり、平壌(ピョンヤン)
	に都を定めて、「檀君朝鮮王国」を作った。』という。

	「三国遺事」によれば、後に中国・周の「武王」年間に、殷の王族であった箕氏が朝鮮に封じられると、檀君は王
	位を譲って山神になったと記されている。このとき、檀君は享年1908歳。「記紀」の100歳、200歳どこ
	ろではない。我が国「記紀」の欠史八代と同様に、この檀君神話については正統性を疑う意見も多いようである。
	しかし、三国時代の各国の建国神話には、朝鮮民族特有のある種の共通点が認められ、そこには何かの母体となる
	故事があったと想像できることから、この檀君神話も何らかの歴史的史実を含んでいるのではないかと言う意見も
	根強い。一方、殷の王族が檀君から譲り受けて建国したという「箕氏朝鮮」は、『史記』の伝説が輸入された後、
	朝鮮側で脚色されたものという見方が強いようである。

	これら古代朝鮮を神話時代とするならば、次の「衛氏朝鮮」は間違いなく歴史上実在した王朝であろうとされる。
	『史記』によれば、燕の武将「衛満」が朝鮮に入って「箕子朝鮮」に仕え、前190年頃にその国を奪って建国し
	たといわれる。これが「衛氏朝鮮」である。当時の正式な国名は伝わっておらず、「衛氏朝鮮」の国名は後に漢の
	朝鮮四郡ができてから追記されたものである。衛氏朝鮮の建国以前、すでにこの地方では初期国家が出現していた
	が、衛氏は遼東郡の支援を得て次第にこれらを併合し、領土は朝鮮北部にまで達していたと考えられる。
	しかしやがて「衛氏朝鮮」は、前漢の武帝が命じた遠征によって前108年に滅ぼされ、武帝は、朝鮮半島に楽浪
	(らくろう)郡・真番(りんとん)郡・臨屯(しんぱん)郡・玄菟(げんと)郡の直轄領4郡を設置した。これが
	朝鮮四郡とよばれるものである。この時から、行政上でも正式な地名として朝鮮が使われることになる。

	「漢」が侵入すると同時期に、朝鮮半島には楽浪郡を挟んで二つの文化圏が成立する。すなわち、北方の「高句麗」
	が支配する地域と、南方の「三韓」(馬韓・辰韓・弁韓)と呼ばれる地域である。このうち、国家の成立のもっと
	も早かったと考えられるのが、北方の高句麗である。高句麗(?〜668)は、ツングース系(中国東北地方、東
	シベリアで狩猟・牧畜を主業としていた民族)の「夫余(扶余)族」が、紀元前後の頃に中国東北地方に建てた国
	である。

	高句麗は、後漢末に、当時遼東半島で自立した「公孫氏」の討伐を受けて、鴨緑江中流域の北に移り(209)、丸
	都城(がんとじょう)を築いた。さらに公孫氏を滅ぼした「魏」(220〜265)の遠征軍に丸都城を奪われ(2
	44)、国王は東方に逃れた。その後立ち直り、中国の混乱期に乗じて313年に楽浪郡を滅ぼし朝鮮北部を領有
	し、漢民族の朝鮮半島支配を終了させた。そして高句麗は第19代の王、広開土王(好太王391〜412)、長
	寿王(412〜491)、文咨(ぶんし)王(491〜519)の3代の時に最盛期を迎え、半島の大半と遼東を
	領有する強国となった。広開土王は、396年以来4度にわたって朝鮮半島南部に遠征し百済を攻め、百済救援に
	北上した日本軍を破った。このことが有名な好太王(広開土王)碑文に書かれていて、倭(大和政権)が朝鮮半島
	に進出していたことを裏付ける史料とされてきたが、近年この碑文を巡っては、その真贋を巡っての論争も多い。






	朝鮮半島南部では、3世紀頃、韓族の馬韓(南西部)・辰韓(南東部)・弁韓(南部)が分立し、総称して三韓と
	呼ばれていた。三韓のなかはさらに多数の小国に分かれていて、「楽浪郡・帯方郡」の間接的支配を受けていた。
	3世紀頃には56の国に分かれていた馬韓は4世紀中頃統一され、百済(4世紀中頃〜660)が成立した。3世
	紀頃12国に分かれていた辰韓は4世紀中頃に統一され、新羅(しらぎ、4世紀中頃〜935)となる。
	弁韓は、同時期12の国に分かれていたが、4世紀中頃日本が進出し、任那(みまな)(加羅(から)、伽耶(か
	や)とも呼ばれる。)を支配下に置いた。4世紀から7世紀にかけての朝鮮は、「高句麗・新羅・百済」の三国が分
	立し対立していたので、「三国時代」と呼ばれている。








	7世紀の後半に、唐(618〜907)と新羅の連合軍が百済を、続いて高句麗を滅ぼしたが、まもなく新羅は唐
	の勢力を排除し、676年には朝鮮半島の部分を支配した。新羅は唐の文化を移入する政策をとり、仏教文化を中
	心にして唐の文化が花開いた。新羅では骨品制と呼ばれる氏族制的な身分制度が採用され貴族の力が強かったが、
	やがて王室内の争いがたびたび勃発し、国力は衰えた。
	高句麗の一族「大祚栄」は、東北地方に698年、「震国」(後に「渤海」と改称:〜926)を建国した。10
	世紀になると「王権」が「高麗」(918〜1392)を建国して半島を統一し、「開城」を都とした。高麗では
	唐の制度を採用して栄えたが、1259年には中国大陸を中心に覇権を著しく拡大した「元」に征服される。高麗
	では仏教が国家保護により盛んになり、製陶の技術がすすんで高麗青磁が作られ、世界最古の金属活字による活版
	印刷も行われた。14世紀になると「元」の勢力は衰え、次第に「明」に北方へ追いやられる。1392年、「李成桂」
	は、高麗を倒し李氏朝鮮(1392〜1910)を建国し、李朝の太祖となって都を漢陽(現ソウル)においた。
	李氏朝鮮では朱子学を国学とし、明の制度を取り入れて官僚国家の体制を整えた。また銅活字による印刷が普及し
	多くの書物が印刷された。世宗は1446年に朝鮮固有の文字である訓民正音を公布し、文化の発達と普及に役立
	った。これは後にハングル文字として流布し、現在でも使われている。以後李氏朝鮮王朝は、儒教をベースにした
	文治国家として500年以上にわたる長期政権をしくことになる。

	李朝政治を動かしていたのは、両班(ヤンパン)という特権身分の官僚であるが、この両班は、王位を巡る争いに
	も加わるようになり、儒学上の学派の争いとも結びついて党争を繰り返し、必然的に政治の乱れを引き起こした。
	しかも16世紀後半には豊臣秀吉の朝鮮出兵を受けて国土の大部分は荒れ果てた。秀吉の朝鮮攻撃は、明の援軍や
	水軍を率いて戦った「李舜臣」がはねのけたが、1637年に「清」の攻撃を受けてこれに服属した。











	その後日本は明治維新を迎え、李氏朝鮮に対して開国を迫ったが、摂政の大院君に拒否され、1875年に起きた江
	華島事件を機にして1876年には日朝修好条規(江華島条約)と呼ばれる不平等条約を結び、釜山を開港させる。
	この条約を機にして宗主国の立場をとる「清」と日本との間で1894年に「日清戦争」が勃発する。1897年、
	李氏朝鮮は国号を「大韓」、王を皇帝と改めたが、日本は3次(1904、1905、1907)にわたる日韓協約
	により韓国への干渉を強化したため、朝鮮半島各地で反日闘争が繰り返される。しかし、1910年に韓国は日本に
	武力で併合される事になる。以後、日本が第二次世界大戦で敗北(1945)するまで、朝鮮半島は日本の統治下に入る。
	朝鮮総督府による武頭政治下で1919年3月1日、ロシア革命やウィルソンの14箇条などの影響で日本からの独
	立運動が起こるが、日本軍部により鎮圧された(3・1運動)。

	第二次大戦後、カイロ宣言により独立を認められた朝鮮半島であったが、それでも大国の御都合に翻弄される運命は
	同じであった。アメリカとソ連による勢力争いを受けて、朝鮮半島は北緯38度線で分割された。1948年、南部朝
	鮮半島に「李承晩」を大統領とする「大韓民国」が成立、北部では金日成を首相(1972年以降は主席)とする
	「朝鮮民主主義人民共和国」が設立された。

	その後南北2国は東西両陣営の影響を受け対立を続け、1950年6月に起こった武力衝突を機にして北朝鮮軍は韓
	国領内に侵入し、わずか3日間で首都ソウルは陥落した。いわゆる「朝鮮戦争」の勃発である。これに対し、アメリ
	カを中心とした国連軍は韓国に進駐し、一時は朝鮮全土を制圧したが、百万人とも言われる中国義勇軍の派兵により
	38度線まで押し戻され、1951年6月のソ連による休戦提案によって翌月、3年に及ぶ朝鮮戦争は終結した。
	私は1950年12月24日という、朝鮮戦争まっただ中に生まれたのであるが、私の生まれた日の朝日新聞第一面
	のトップ記事は「ウォーカー中将戦死」である。
	以後朝鮮半島は、南北の分断国家として50年に及び対立するが、ソ連の崩壊、東西ドイツの融合などを経て、20
	01年現在、ようやく各所で統合の動きが見え始めている。2,000年に及ぶ朝鮮民族の悲願である、真の統一と
	独立がやっと実現しそうなところまであと一歩と迫っている。






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