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歴史講演会 −人とナウマン象の道−
2001.3.18 吹田市博物館





	まだ肌寒いが、しかし確実に春を予感できるような季節になった。梅の花満開のポカポカ日曜日に、家から歩いて5分の吹
	田博物館に、歴史講演を聞きに行った。吹田市が年1回「歴史講座」として開催している講演会だ。今年は旧石器時代であ
	る。この研究分野はこの前の「ねつ造事件」以来、そのうさんくささが広く世間に知れ渡ったので、研究者はやりにくかろ
	うと思う。地道に続けていくしかない。
	我が「千里」にも旧石器時代があったのかという興味で参加した。歴史倶楽部のみなさんにも声をかけていたが誰も来なか
	った。終わってから、西本さんが途中からきたと言って、仕事の帰りに顔を見せていた。





−吹田市平成12年度発掘調査報告会−

 


	吹田市内に遺跡はさ程多くはない。しかし、一応一通りのものはある。弥生時代の低地集落跡である「垂水遺跡」や「垂水
	南遺跡」、市内では殆ど唯一と行っていい古墳の「芦屋古墳」、弥生から古墳時代にかけての堤防の跡である「五反島遺跡」
	等々。それに今日話を聞いた旧石器時代の「垂水遺跡」「吉志部遺跡」もある。しかし何と言っても有名なのは窯跡である。
	聖武天皇の御代、難波宮の造営のための瓦を焼いた「七尾窯跡遺跡」や、初期須恵器の窯跡である「吉志部窯跡」など、多
	くの窯跡が市内に点在する。現在までに判明している窯跡としては、市内に総数56ケ所の窯跡があり、中でも朝日町にある
	32号窯は、日本でも有数の最古の朝鮮式土器(初期須恵器)の窯跡として著名である。






	「吉志部窯跡」は吹田市立博物館のすぐ裏手の紫金山公園内にあり、そもそもこの遺跡があるから博物館もここに建ったよ
	うなのだ。そのため博物館では、ほぼ毎年のように窯跡の発掘調査を行っている。少しずつではあるが、その度に新たな発
	見が幾つかあり、次第に全貌が明らかに成りつつある。今回の調査では、緑釉瓦(りょくゆうがわら)の破片なども出土し
	ている。古代瓦の中でも高級瓦として知られており、結構高度な技術を持っていたらしい。また前回(昭和61年度)の発掘
	時に柱跡とされていたものが、今回の調査では「ろくろ台」ではないかと見られる事などを、博物館の賀納学芸員は熱っぽ
	く語っていた。




	吹田市街にある「高城遺跡」「高城B遺跡」は、今回新しくビル建設が行われるのに伴って発掘調査が行われたようである。
	高城遺跡は弥生・古墳時代の、高城B遺跡は弥生から室町にかけての集落跡であることが判明したという。いずれも、弥生
	土器や韓式土器瓶に混じって多くの須恵器が出土している。







−人とナウマン象の道−

 


	千里丘陵にも旧石器遺跡があった! 何回も博物館に足を運び、発掘された石器も展示してあったのに、まるでその事を知
	らなかった。何たる事! 垂水遺跡と吉志部遺跡から、下のような旧石器が出土していたのだ。




	下の黒い下敷きに乗っているのが、上の図に描かれた石器である。どこかのオッサンは「こんなん何処にでもありそうやで」
	とか言っていた。






	下の新聞記事によれば、大阪市にも10万年前ナウマン象が歩いていた。瀬戸内海からは、漁師の網に今でも化石化したナウ
	マン象の骨がかかると言うし、明石には、「明石原人」の骨出土地の近くに、「明石象出土地」の標識も立っている。
	第13図にあるように、大阪湾、瀬戸内海、紀州海道は大きな一つながりの陸地だったのである。









	山口氏の話によれば、下図で色の付いた部分が丘陵地である。黒い点が、現在旧石器(30,000−10,000年前)が発見された
	場所として知られる遺跡である。これを見ると、丘陵地の端に遺跡が点在している。
	泉北・二上山あたりと、千里山・高槻あたりの間がぽっかりと空いている(灰色の部分)が、縄文末期から弥生・古墳時代
	にかけてはこの辺りは「河内湖」或いは「河内潟」と呼ばれる内海・沼地だった所である。

	「Q&A」の時間に、ここは旧石器時代から海だったのではないか、と質問したら、「いや、その時代には完全に陸地です。
	海面は今から100mほど下がっていたので、第13図のように、全部が陸地だったと考えられます。」という返事だった。更に、
	「この地域(後世の河内湖)からも旧石器は出土しています。」との事なので、やはり陸地だったのだ。地質学的には沖積
	地と呼び、長い時間に淀川が運んできた土砂で、現在は広大な原野のようになっているが、数万年前は、淀川の水が廻りを
	浸食し続けていた深い谷だっただろうと、山口氏は言う。
	そして、様々な動物達がこの谷を通り、その事を旧石器人たちも知っていた。どの季節に何処へ行けばどの動物が獲れると
	知っていた旧石器人(新人)たちは、谷を観察できる一番都合のいい丘陵地の端に居住(定住ではない)を構えたのだろう、
	と言うのが山口氏の説である。吹田市の「垂水遺跡」や「吉志部遺跡」、さらには高槻市の辺りに点在する旧石器時代遺跡
	は、近畿平野における旧石器遺跡の北限だろうとの話であった。





	山口氏達(旧石器時代研究者は(考古学))は、関西国際空港が出来ると聞いて、工事前に掘らせてくれないかとその筋に
	頼み込んだそうだが、そんな余裕はないと突っぱねられたそうである。



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