Music: A Taste of Honney


	
	私は「歴史倶楽部」の他に、(財)大阪府文化財調査センター(坪井清足理事長)が主宰する「郷土の文化財を見学する会」
	と言うのにも会員登録している。これは文字通り大阪府下の文化財を訪ねて歩くもので、月に1度学芸員が引率して4,50名
	の考古学・歴史学ファンが参加して行われる。4月からのスタートで、2000年度の第1回目が「難波宮を歩く」というものだ
	った。「歴史倶楽部」の連中にも声をかけたのだが、年会費3,000円と聞いて「あ、やーめた。」、「井上さんが出て、儂ら
	に教えてや。」というけしからん事に相成った。全く。

	とは言いながら、もともと一人でも参加しようと思っていたのでそれなりに楽しい。ちゃんとした発掘従事者や専門の研究
	者が説明してくれるので、資料を片手に「あっちや、こっちや」とかけずり廻らなくてすむ。それに本には載っていない話
	が聞けてなかなか面白い。そんなわけで、その会に参加した成果を「歴史倶楽部」の連中に伝授する事になった。以下の写
	真の枠で囲んだ分が「歴史倶楽部」の連中で行った時のものである。

	こちらは団体ではないので好き勝手にコースを決められて、これはこれで面白かった。「文化財・・・」の方で行かなかっ
	た所(古代舟なみはや、高床式建物)も廻ったし、難波宮跡から大阪市立博物館へ廻って、実際に発掘されて出土した遺物
	や、難波宮関係の資料も沢山見た。博物館には何回も行ったが、やはり遺跡を見てすぐその遺物を見るというのは実に感慨
	深い。「あぁ、これがあそこから・・」とすぐ現場が頭に浮かぶ。やはり資料館は遺跡の側にあるのがよい。



 

どっちの会も「谷町3丁目」の交差点付近からスタートした。上の記念碑は何かの学校跡だ。
大阪における薬学研究が開始された所かなんかだった。




 

NHKと抱き合わせの「新大阪市立博物館」。外観はすっかり出来上がってきた。
今から内装設備で、開館までにはまだしばらく掛かる事だろう。


 


復元「高床式建物」と古代船「なみはや」


「文化財・・・」で訪れた時は公開日ではなく「なみはや」は見れなかったが、
歴史倶楽部で訪問したときは連休の初日だったので全面公開していた。






 

 



 




	「この舟では安定が悪くて進まんね。」と話したら、説明のおばちゃんに「詳しいですね。研究者の方々ですか。」と言わ
	れてしまった。「まぁ、一応研究はしてるけどね。」「何の研究やら!」「ほっとけ!」たちまち漫才になってしまう。

 




難波宮関連「役所跡」





	仕事でこの脇は何度も歩いているのだが、単なる小さな公園だと思っていた。まさか難波宮時代の役所の跡だったとは。石
	碑にそう書いてあるのだが、ろくろく読んでいないのだ。ベンチだと思っていた柱は、古代建物の柱を再現してあるものだ
	った。難波宮の跡は、
	現代ではもう既に沢山の建物が廻りを取り囲んでいて、立て替えの隙間をぬって発掘し、終わったら僅かのスペースを確保
	してそこに記念碑を建てさせてもらうのである。難波宮の廻りにはそんなところがゴマンとある。
	文化財保護の苦労が偲ばれる。

 

 


難波宮内裏東方遺跡


 




	ここも、いかにして史跡を保存するかに腐心した後が見られる。マンションの駐車場の一角、通路の一角を史跡として保存
	してある。これなどは、マンションの住人の理解がなければ到底実現しないような保存法である。しかし理解が得られれば
	こういう風にできると言う例でもある。


 

 

 


難波宮第一次発掘地点


 


大極殿跡


	
	【難 波 宮】
	
	大化改新(645年)後、孝徳天皇は都を大阪難波の地に定めた。中大兄皇子も一族郎党、藤原鎌足以下の重臣達を引き連れて 
	難波へ移転してきたのである。以来8世紀末まで約150年間、難波宮は日本の首都あるいは副都として存在していた。   
	昭和29年以降、40余年におよぶ発掘調査により、前期・後期二つの時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地にひろがって
	いることが明らかになり、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)」はそのうち「前期難波宮」と呼ば
	れる部分ではないかと考えられている。「後期難波宮」とよぶもう一つの宮殿は、聖武天皇が難波復興の中心事業として、
	神亀3年(726年)から造営を行った難波宮であることがほぼ確定している。
	現在、内裏・朝堂院部分など90,677uが国の史跡に指定され、広い史跡公園となって市民の憩いの場となっている。

 


	石壇は後期難波宮の大極殿の基壇を、発掘調査の結果をもとにして復元してある。大極殿とは、国家のいろいろな公式行事
	をおこなう際に天皇が使う建物で、宮殿のなかで最も中心となる。基壇の周囲をめぐる一段高く表示した回廊で囲まれた範
	囲が、大極殿院とよばれる宮殿内で最も主要な所である。この遺構では、後期難波宮をまず地表面よりも一段高くし、石造
	りで基壇を示している。そして前期難波宮の遺構を、逆に一段低くして赤いタイルを敷き、同じく赤い御影石で柱位置を示
	し、まわりに山茶花の生け垣をめぐらせている。


	「難波長柄豊碕宮」と考えられる「前期難波宮」をめぐっては、今なお多くの学者達によって問題提起がなされている。
	「日本書紀」の孝徳紀の記事には、天皇が「行宮・離宮」を繰り返した事が記されているが、それは一体いかなる理由から
	か。そもそも孝徳天皇は何故都を難波に移したのか。白雉4年に皇太子の中大兄皇子が「飛鳥へ還りましょう」と願い出た
	のに、「天皇、許さず」とあり、中大兄は皇祖母尊・間人皇后・皇弟を率いて「倭飛鳥河辺行宮」へ還ってしまい、孝徳帝
	は難波に一人取り残されるのであるが、これはどういうことなのか。大国「唐」との対外関係が「難波宮」を造営せしめた
	のか、等々。

	「歴史」を学ぶ事の醍醐味は「想像力」にある。想像し、推定し、仮説を立てる。そしてその仮説の証明を試みる。1つで
	も矛盾があれば又仮説を立て直す。この繰り返しである。何一つ矛盾無く説明できて万民がそれに納得すれば、その仮説は
	「定説」となる。あらゆる発想の源は「想像力」だ。そして、その「想像力」を駆使して脳内に「古代世界」のイメージを
	構築していく過程が、歴史ファンとか歴史マニアと呼ばれる人々にとっては、まさに「至福」の時なのである。


 

 


八角堂跡


 

 


	大極殿の西側に、赤い柱の八角形の藤棚が見える。前期難波宮のみに建っていた建物で、八角堂とか八角殿と呼ばれている。
	当時の具体的な形や大きさを推定して復元してある。これは、前期難波宮の外観上の最も大きな特徴で、建物は掘立柱形式
	で、屋根に瓦を用いないという日本古来の建築様式によるものである。大極殿を挟んで東西二カ所に、八角形の楼閣建築が
	そびえ建っていた。これは他の宮殿には例のない建物配置で、宮殿の中心部を引き立たせる目的でつくられたものと考えら
	れている。

	政務や国家の重要な儀式などをおこなう朝堂院の面積が、他の宮殿と比較して非常に広く、その内部に14棟以上の建物が配
	置されていることも、他の宮殿にはみられない特徴である。前期難波宮こそ、後に続く藤原宮や平城宮といった宮殿のスタ
	ートとなるものであることがわかる。

 

 

 

この2つの会の催しは2週間ほどしか間があいてないのだが、
たった2週間で枯れたような藤の木枝に葉がおい茂っている。

 

 


	大極殿院の南側に目を移すと広場が見える。この広場は朝堂院といい、日常の執務のほか国家の公式行事や儀式などがおこ
	なわれていた。中央が広場になり、その両側に朝堂とよぶ建物が配置されていた。この建物に役人が役職に応じて並び、執
	務に励んでいたと考えられる。内側に、後期の朝堂とそれを取り囲む回廊が見える。その外側に、前期の朝堂とその回りの
	回廊を示す山茶花の生け垣が目に入る。朝堂院は、後期よりも前期のほうが大きかったことがわかる。


 


	下左は、(財)大阪市文化財協会の新しくなった建物である。以前は旧兵舎の中にあったがそれは取り壊されて、きれいな
	2階建ての建物になっている。この中で未だに、難波宮跡からの発掘品の整理などが行われている。全て整理し終わるには
	まだ何十年かかかる。

 

 

マンションの入り口植え込みの中に、むりやり南門の柱の跡を残している。歴史が好きな住民は楽しいかも知れない。

 

 


	上左は学校のグラウンドである。ここに朱雀門があった。上右の建物の下、下左の建物の下にも難波宮の遺構があった。今
	はビルやマンションになっている建物の下にも沢山遺構があって、断片的に難波宮の様子がつかめてきたが、まだ全体像の
	解明には至っていない。


 


	博物館を見学した後、近くの松田さんの事務所に寄った。「INTERNETがつながらないから見てくれ。」と言われて事務所へ
	行ったら、モデムのランプが点いていない。ジャックの差込が緩かったのだ。素人はこれだから。
	さんざん恩をきせて事務所で酒盛りとなる。
	しこたま飲んで、「あ−あ、お中元で貰ったビール・酒が無くなってしまった。」と松田さんはボヤいていた。「いぃじゃ
	ないの、パソコンつながったんだから、こんな酒の1本や2本!」  「トホホホ・・」 げに、無知ほど高い物はない、
	という教訓。






邪馬台国大研究・ホームページ /学ぶ邪馬台国/大阪難波宮めぐり