千葉の「加曽利貝塚」を見に行ったら隣接する博物館で、偶然「長崎県の貝塚展」をやっていた。おもしろか ったし、沢山の展示品だったので別コーナーにした。それにしても、千葉県に来て長崎県の貝塚展が見れるな んてLucky!
考えて見れば、長崎県は九州の中でも一番島が多いし海岸線も入り組んでいるから、昔から海産物の漁場とし ては豊かな所だったのだろう。それに地理的にも大陸に近いし(江南から横切れば)、東南アジアからの海流 も長崎辺りに届きそうだ。幕末を待たずとも、結構古代から外国と交流があったのかも知れない。それにして も海岸線の長さが全国一なんて知らなかったなぁ。 【長崎県の貝塚展資料(加曽利貝塚博物館発行)より:以下青字部分同じ】 福岡市と佐賀市をむすんだ線の西側は、古い火山活動で生じた玄武岩層などが浸食されて複雑な谷を造り、 その後、全体的に地盤が沈下し、溺れ谷となった沈水リアス式海岸となっている。そして、長崎県の面積は全 国で37番目だが、島の数および海岸線の長さではともに日本一となっている。これを、単位面積あたりの海岸 線の長さで見るとより明らかになる。1kuのなかに約1kmの海岸を持つ計算になり、2位の北海道の約30倍の 長さである。いかに長崎県の海岸線が複雑であるかを物語っている。 長崎県の沖合には世界有数の漁場である東シナ海・黄海があって、長崎県は全国1,2位の漁獲高を争っている。 これは、大陸棚上の沿海で、台湾島の東を抜けて東シナ海を北東方向に流れる世界規模の暖流である黒潮と南 西諸島沖でわかれて北上する対馬海流、そして中国大陸からの大量の流入水(長江・黄河)によって養われて いる。この豊かな漁場は五島列島の西側にも広がっている。 急峻な山に囲まれ平野に恵まれない地勢の為、人々の生活の場は、海岸の入り江とその奥に続く狭い谷の間の ごく限られた範囲に集中することになる。この為縄文・弥生の遺跡は、現在の住宅地や畑の中から発見される 事が多い。
【茶園遺跡:五島列島・福江島岐宿町】 福江島の北部、鰐川の河口付近の標高約10mの溶岩台地上に立地している。この台地の奥には小さな湧き水が あって、小さな谷が木の枝状に入っていて、湿地帯になっている。遺跡は起伏の高い部分からこの浅い谷に続 く暖斜面に展開している。遺跡の主体は今から約11,000年前で、この頃の海岸線は、縄文海進との関係で見る と、現在の位置より14km前後沖合に前進していて、当時の人々の生活領域が広かったと考えられる。遺跡の年 代は旧石器時代〜縄文時代早期で、注目すべきものとしては第W層から出土した草創期の土器と石器群が挙げ られる。この石器群の中には「神子柴型」と呼ばれる石斧と石槍が含まれていて、これは本州中央部から東北 ・北海道に分布の中心を持っていて、九州でも近年発見例が増加しているもの。
『遺跡保存方法の検討−水中遺跡−』文化庁 平成12年 より -------------------------------------------------------------------------------- 【鷹島海底遺跡の既往の調査】 昭和55年度(1980)〜昭和57年度(1982) 文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」のうち「水中考古学に関する基礎 的研究」による調査 茂在寅男「水中遺構・遺物の探査並びに保存に関する研究」(1984年) ※音響測探機による海底探査やダイバーによる遺物の引き揚げ作業を行った。また、海底上の砂泥を吸い上げ るエアーリフトを試作し、使用実験を行った、 昭和58年度(1983)7月25日〜9月23日 床浪地区港湾事業(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(460u) 鷹島町教育委員会・床浪海底遺跡調査団『床浪海底遺跡』(1984年) 平成元年度(1989)6月8日〜8月6日 床浪地区港湾事業(埋立て・浚渫)にともなう緊急発掘調査(1400u) 試掘調査1988年9月1日〜20日 鷹島町教育委員令『鷹島海底遺跡』(1992年) ※海底のシルト層をエアーリフトにより吸い上げる排土作業をともなった、初めての本格的な海底発掘調 査となった。 平成元年度(1989)〜平成3年度(1991) 文化庁による調査研究事業「遺跡保存方法の検討」による調査 平成元年度(1989)〜平成3年度(1991) 文部省科学研究費補助金(総合研究A)「鷹島海底における元寇関係遺跡の調査・研究・保存方法に関する 基礎的研究」(研究代表者西谷正九州大学文学部教授)による調査 『平成元年〜三年度科学研究費(総合研究A)研究成果報告書』(1992年) 平成4年度(1992)7月20日…9月5日 床浪地区港湾事業(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(2400u)『鷹島海底遺跡U』(鷹島町文化財 調査報告書)第1集(1993) ※水深25mの位置から縄文時代早期の遺跡を発掘調査した。 平成6年度(1994)10月11日〜12月12日 平成7年度(1995)7月17日〜9月7日 神崎港改修工事(防波堤建設)にともなう緊急発掘調査(2400u)『鷹島海底遺跡V』(鷹島町文化財調 査報告書)第2集(1996)
江湖貝塚は日本でも類のない満潮には海底に沈む貝塚で、縄文後期のものといわれる。 昭和43年、江湖近 くの瀬小川川床より縄文中期の阿高式土器と共に椿の実、貝殻、松毬などが発見され、これをきっかけに、海 底貝塚の発見となった。 昭和44年、3月、発掘調査され、曽畑式土器その他、縄文前期に属する多数の土 器、石器、貝製品、人骨頭部が出土した。
縄文人の顔・かたちには地域差が認められない。北海道の縄文人も九州・沖縄の縄文人も同じように、骨質が 硬(かた)く、鼻骨が付け根から高く隆起し、ホリの深い「縄文的」容貌や体格をしている。ところが、弥生 時代になると、顔・かたちに地域差がみられるようになる。地域によって弥生人の顔・かたちが違っているの である。北九州を中心とした人骨のタイプを分類すると、 (1).北部九州・山口タイプ: 顔が長く(高く)、鼻が低くて、ホリの浅い容貌をしており、身長が高い。男性で162cm〜164cm、女性で 約150cm程度である。佐賀県や福岡県の平野部の甕棺から出土する弥生人骨と山口県西部の響灘沿岸から 出土する弥生人骨の特徴である。佐賀県の吉野ヶ里遺跡、二塚山遺跡、朝日北遺跡、三津永田遺跡、福 岡県の金隈遺跡、横隈狐塚遺跡、山口県の土井ヶ浜遺跡などから出土する弥生人骨が主な例である。 (2).西北九州タイプ: 顔が短く(低く)、鼻が高くて、ホリが深い容貌をしており、身長が低い。男性で158cm、女性は148cm程 度である。長崎県の海浜部や離島および天草などから出土する弥生人骨の特徴である。風習的抜歯がみ られる。長崎県の深堀遺跡、出津(しつ)遺跡、根獅子(ねしこ)遺跡、宇久松原遺跡、浜郷遺跡 や天草の沖の原遺跡から出土する弥生人骨がこのタイプに属する。 (3).南九州・南西諸島タイプ: 頭や顔が小さく(低・広顔)、頭を上からみた形が限りなく円に近い短頭型を示し、身長がかなり低く、 男性は155cm程度、女性は143cm程度である。鹿児島県の南端やその離島に種子島や南西諸島(琉球列島) の海浜部から出土する弥生人骨の特徴である。鹿児島県の成川遺跡、広田遺跡、沖縄県の木綿原(もめ んばる)遺跡、真志喜安座間(ましきあざまばる)遺跡から出土する弥生人骨が主な例である。 この3タイプのうち西北九州タイプの弥生人の特徴は、じつは縄文人の特徴なのである。だから、西北九州タ イプの弥生人は縄文直系弥生人と考えて差し支えないことになる。しかし、吉野ヶ里弥生人や土井ヶ浜弥生人 などの北部九州・山口タイプの弥生人には縄文人的特徴がみられないので、彼らは大陸からの渡来人か、その 影響を強く受けた人々と考えられている。
頭ケ島白浜遺跡は友住郷の内、頭ケ島白浜602番地にある。そこは砂採取場となっており、昭和42年4月 ごろ作業中に人骨20体が発掘されることがきっかけになった。 白浜は海岸線200mあまりが砂丘になっ ており、海岸より向って左側20mがまだ砂丘として残っており、そこを発掘した。 第一層が白色砂層60 cm、第二層は赤みがかかった砂層の包含層、次が黒みがかった砂層であることが判明し、二層の包含層から 土器と土器片が採集され、正式に昭和42年、8月5日発掘調査が行われた。 この調査で発見されたものは人骨二体、石器数点、土器十一種(曽畑式、轟式−縄文前期)(並木式−阿高式、 南福寺式−縄文中期)(出水式、鐘ケ崎式、富江−縄文後期)(黒川式、夜臼式−縄文晩期)(須恵器−古墳 時代)で、縄文前期(約六千年前)から晩期(約二千五百年前)まで、縄文人がこの地に生活を営んでいたこ とがわかった。面白いことに須恵器の発見があり、弥生遺物がないことは、縄文人の集団移住が考えられてい る。 下崎山白浜貝塚は昭和54年5、7、8月に行われた発掘によって縄文後期から弥生前期にわたる貴重な遺跡 であることが判明した。 出土遺物は土器約八万点、石器約七千点、自然遺物は獣骨魚骨を含めて五万点を超 した。縄文前期、中期のものとは土器片として七千点位であるが、後期では鐘ケ崎式土器が北久根式、市来式 土器を上回っており、晩期のものは晩期三式である夜臼式土器を中心としたものであった。 また、弥生式土器は板付U式を中心に出土し、粗製甕(かめ)形土器が多く壷形の土器もあった。 石製装身 具は七点、石質は瑪瑠(めのう)であった。 骨角器、貝器で面白いのは鯨の骨で作ったアワビおこしであろ う。長さは33cmもあった。また、鎌の代用に使用されたアワビも多数出土した。特筆すべきは保存良好の 合葬骨が出土したことである。一体は壮年の男性骨で、一体は1歳半位の幼児骨であった。 男性骨の埋葬姿 勢は抑臥屈葬で、男性が右腕で幼児を抱いていたものと考えられ、縄文人の特徴をよく表しており、幼児には 加工したタママキガイが伴っていた。
宮下遺跡は縄文中期(約五千年前)から縄文後期(約三千年前)にわたる遺跡で多数の土器、骨角器の他に人 骨(中期のもの一体、後期のもの七体)が出土した。その内訳は成人5体、子供2体、幼児1体で縄文人とし ては比較的背が高く161センチ以上で、当時のきびしい生活を物語るように椎骨(ついこつ)に老化現象が 著しかった。また、この宮下からは新型式の九州縄文土器としては、まとまった報告例のない富江式土器を出 土している。
外海町は、長崎県西彼杵半島の南西部に位置している。町の南は長崎市に隣接し、北は瀬戸町、東は琴海町に 境を接している。西は角力を挟んで五島灘に面し、海上7kmに石炭の島、池島があり、周辺には、大蟇島、小 蟇島、母子島、大角刀、小角刀などの大小の島が点在している。外海町にも太古から人が住んでおり、出津遺 跡や宮田古墳群などの先史遺跡が残っている。出津遺跡(砂丘遺跡)の縄文時代の出土物には、土器、石器、貝 塚からの魚貝類、獣骨などがあり、弥生時代の遺物としては、土器、石器、石棺墓、貝輪などが出土している。
年 代 時 代 記 事 約2万年前頃 旧石器時代 ●五島に人が住み着いた。城ガ岳遺跡(宇久島)、オオサコ遺跡、玉石鼻遺跡(小値賀島) 約1万2千年前頃 縄文時代草創期 約9千年前頃 同 早期 ●ハモギ遺跡、目崎遺跡(小値賀島) 約7千年前頃 同 前期 ●大板部島洞窟遺跡、江湖貝塚、堂崎遺跡(福江市)、頭ガ島遺跡(有川町) 約5千年前頃 同 中期 ●鰐川遺跡(岐宿町)、殿崎遺跡(小値賀町)、頭ガ島遺跡(有川町) 約4千年前頃 同 後期 ●鰐川遺跡(岐宿町)、殿崎遺跡(小値賀町)、白浜遺跡(福江市)、宮下貝塚(富江町) 約3千年前頃 同 晩期 ●白浜貝塚、水の窪遺跡、中島遺跡(以上福江市) 約2300年前頃 弥生時代前期 ●白浜貝塚(福江市)、寄神貝塚(岐宿町)、浜郷遺跡(有川町)、殿寺遺跡(小値賀町) 約2100年前頃 同 中期 ●大浜遺跡(福江市)、寄神貝塚(岐宿町)、神の崎遺跡(小値賀町) 約1900年前頃 同 後期 ●大浜遺跡(福江市)、神の崎遺跡(小値賀町)