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近畿朝倉会
第二回古代史勉強会
邪馬台国大研究主宰 井上筑前







		近畿朝倉会 第2回古代史勉強会

		平成20年4月20日 13:00-16:00 新大阪丸ビル新館500号室

		【スケジュール】
		1.13:00-13:10 近畿朝倉会羽野会長 あいさつ
		2.13:15-14:15 DVD鑑賞「邪馬台国論争 −近畿説と九州説−」
		3.14;15-15:15 講演 「魏志倭人伝を読む」
		4.15:15-16:00 解説 「山の辺の道」 5月18日山の辺の道散策に向けて
		5.閉会のあいさつ

		【講師紹介】
		<井上修一(筑前)>
		・1950(昭和25年)朝倉市長谷山生まれ 
		・秋月小学校、秋月中学校、朝倉高校(21回)、西南学院大学(73期)卒
		・日立系情報処理会社(5年)、商社系IT会社(28年)に勤務、現在NTT系エンジニアリング会社
		 に勤務
		・10年ほど前から有志にて「大阪本町・歴史倶楽部」を結成。現在会員30名。
		 月1回の例会で「遺跡・旧蹟めぐり」を開催、現在130回を数える。
		・同時に、邪馬台国紹介のHP「邪馬台国大研究」を立ち上げ、現在アクセス数110万人を数える。
		・現在、そのHPが、雑誌「季刊 邪馬台国」(福岡梓書院発行)に連載中。

		「邪馬台国大研究HPアドレス」(URL)
		  http://www.inoues.net












	三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人  (魏志倭人伝) 読み下し
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	倭人は帯方東南大海の中に在り、山島によりて國邑をなす。もと百余國。漢の時に朝見する者あり。今使訳通ずる所三十國。郡より倭に
	至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、その北岸狗邪韓國に到る。七千余里にしてはじめて一
	海を度る。千余里にして対海【馬】國に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。居する所絶島にして、方四百余里ばかり。
	土地山険にして、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。
	また南に一海を渡ること千余里(名を瀚海という)にして一大國に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。
	竹木叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地ありて、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。
	また一海を渡ること千余里にして末廬國に至る。四千余戸あり。山海に浜いて居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。よく魚鰒を捕え、
	水深浅となく、皆沈没してこれを取る。
	東南、陸行五百里にして、伊都國に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚柄渠觚という。千余戸あり。世に王ありて、皆女王國に統属す。
	郡使の往来常に駐まる所なり。東南、奴國に至るには百里。官を馬觚といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。
	東行して不弥國に至るには百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家あり。南、投馬國に至るには水行二十日。官を彌彌とい
	い、副を彌彌那利という。五万余戸ばかり。南、邪馬壹【臺】國(女王の都する所なり)に至るには水行十日、陸行一月。官に伊支馬あ
	り、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳という。七万余戸ばかり。女王國より以北はその戸数・道里を略載し得べきも、
	その余の旁國は遠絶にして詳かにするを得ず。
	次に斯馬國あり、次に已百支國あり、次に伊邪國あり、次に郡支國あり、次に彌奴國あり、次に好古都國あり、次に不呼國あり、次に姐
	奴國あり、次に対蘇國あり、次に蘇奴國あり、次に呼邑國あり、次に華奴蘇奴國あり、次に鬼國あり、次に爲吾國あり、次に鬼奴國あり、
	次に邪馬國あり、次に躬臣國あり、次に巴利國あり、次に支惟國あり、次に烏奴國あり、次に奴國あり。これ女王の境界の尽くる所なり。
	その南に狗奴國あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。郡より女王國に至るには万二千余里。
	男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中國にいたるや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪
	文身し、もって蛟竜の害を避く。今、倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾
	りとなす。諸國の文身各々異り、あるいは左にあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。
	その道里を計るに、まさに会稽東治【冶】の東にあり。その風俗淫ならず。男子は皆露し、木緜を以て頭に招ぐ。その衣は横幅にして、
	ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪屈し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれをきる。
	禾稲・紵麻をうえ、蚕桑緝績し、細紵緜をいだす。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短
	く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有する所、擔耳・朱崖と同じくは無し。
	倭の地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆徒跣。屋室ありて、父母兄弟、臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用う
	るが如きなり。食飲には豆を用い手食す。その死には棺あるも槨なく土を封じて冢を作る。はじめ死するや喪に停まること十余日、時に
	あたりて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。すでに葬れば、挙家水中に詣りて澡浴し、もって練沐の如くす。
	その行来、渡海して中國に詣るには、つねに一人をして頭梳らず蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせし
	む。これを名づけて持衰と爲す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便ちこれを殺さん
	と欲す。その持衰謹まずといえばなり。
	真珠・青玉をいだす。その山に丹あり。その木には・杼・予樟・・櫪・投・橿・烏号・楓香あり。その竹には篠・・桃支。薑・橘・椒・
	荷あるも、以て滋味となすを知らず。猴・黒雉あり。
	その俗、挙事行来に云爲する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く火を視て
	兆を占う。その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人の寿
	考、あるいは百年、あるいは八・九十年。その俗、國の大人は皆四・五婦、下戸もあるいは二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗竊せず、
	諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各ヽ差序あり、相臣服するに足る。
	租賦を収むるに邸閣あり。國國市ありて有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検
	察せしむ。(諸國)これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。
	王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國にいたり、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遣の物を伝送して女王に
	いたらしめ、差錯するを得ず。下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、
	両手は地に據り、これが恭敬を爲す。対応の声を噫(/)という、比するに然諾の如し。
	その國、本また男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、すなわちともに一女子を立てて王と
	なす。名を卑弥呼(bei1.mi2.hu1/pi.mi.ho)という。鬼道につかえ、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たす
	けて國を治む。王となりしより以来、見る者少なく有り、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に
	出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
	女王國の東、渡海千余里にしてまた國あるも、皆倭種なり。また侏儒國あり、その南にありて人の長三、四尺、女王を去ること四千余里。
	また裸國・黒歯國あり、またその東南にありて船行一年にして至るべし。
	倭の地を參問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋五千余里ばかりなり。景初二年六月、倭の女王、大夫
	難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏将を遣わし送りて京都に詣らしむ。その年十二月、詔書し
	て倭の女王に報じていわく、
	「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人
	・班布二匹二丈を奉りもって到る。汝がある所はるかに遠きも、すなわち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ。
	今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が
	来使難升米・牛利、遠きをわたり、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労
	賜し遣わし還す。今、絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文
	錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二ロ・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各ヽ五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還
	り到らば悉く録受し、もって汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝によきものを賜うなり」と。
	正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦・刀・
	鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩に謝す。
	その四年、倭王、また使の大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青・緜衣・帛布・丹・木・短弓矢を上献す。掖邪狗等、
	率善中郎将の印綬を壱拝す。その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。その八年、太守王官に到る。倭の女王
	卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹史張政等を遣わし、因
	って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を爲してこれを告喩す。
	卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更に相誅殺し、当時千余人
	を殺す。また卑弥呼の宗女壹【臺】與年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。壹【臺】與、倭の
	大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二
	枚・異文雑錦二十匹を貢す。




	三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人  (魏志倭人伝) (筑前訳)
	--------------------------------------------------------------------------------
	倭人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。もともと、百余国に分かれて
	いた。漢時代に朝見する者があり、現在、(魏の)使者が通じている所は三十国である。帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、
	韓国(馬韓?)を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸(?)狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。始めて大海
	をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)という。
	この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多く、道路は獣道のようである。千
	戸あまりの人口。良い田がなく、海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北九州?)にのりだし交易を行っている。また大海を渡ると千
	余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。官を(対馬と)同じく卑狗といい、副官を卑奴毋離という。
	周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。少し田畑があるが、これだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北
	九州と交易している。 
	 さらに大海を渡る事千里余りで末盧国(今の佐賀県唐津市・東松浦郡)に到達する。四千余戸あり、山際や海岸に沿って家が建っている。
	草木が生い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。好んで魚貝類を捕え、海の浅い所深い所関係無しに、潜水してこれらを捕ら
	える。東南へ陸を行く事五百里で伊都国(今の福岡県糸島郡)に到る。長官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々
	が住んでおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。 帯方郡の使者が常駐している所である。
	そこから東南の方角へ行くと奴国(今の博多)に至る。距離は百里である。長官をジ馬觚といい、副官を卑奴毋離という。二万余戸がある。
	東の方角へ行くと、不弥国に至る。百里である。長官を多模といい、副官を卑奴毋離という。千余戸がある。南へ行くと、投馬国に至る。
	水行(一海を渡ると区別している事から、この表現は川を行くものだ、との説がある。)で二十日かかる。長官を弥弥といい、副官を弥弥
	那利という。五万余戸ばかりの人口である。

	南へ行くと、邪馬台国に到達する。女王の都がある所である、水行十日(と/又はの二説あり。)陸行一月である。長官を伊支馬といい、
	次官を弥馬升といい、次官を弥馬獲支といい、次官を奴佳タイという。七万余戸ばかりの人口である。女王国より北の方角についてはその
	戸数・道里は記載できるが、その他の周辺の國は遠くて交渉が無く、詳細は不明である。
	次に斯馬国があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、次に姐
	奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、
	次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。これが女王の(権力の)尽きる所
	である。
	その南に狗奴国があり(今の熊本か?)、男子の王がいる。その長官は狗古智卑狗であり、(この國は)女王國に隷属していない。
	帯方郡より女王国に至るまでは一万二千余里である。男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。昔から、この國の使者が中国
	に詣で来た時、皆自ら大夫と称している。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪入れ墨を以て蛟竜(こうりゅう:サメの類)の害を避けた
	と言うが、今倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える。その時入れ墨が大魚・水禽を寄せ付けないまじないとなっていたが、今では飾りと
	なってしまっている。国々によって各々入れ墨が異っている。
	色々な職種、大人・子供の間で、尊卑の差がある。(倭の)方角・方向を言うならば、ちょうど会稽の東治(とうや)の東にあたる。その
	風俗は淫らではない。男子は皆裸同然で、木緜(もめん)を頭にかけ、衣はひもで結んで縛り縫っていない。婦人は髪を束ね、衣は単被
	(中国の衣服?)のようで、真ん中の穴をあけ頭から被ってこれを着ている。禾稲(かとう:稲)・紵麻(ちょま:麻)を種(う)え、蚕
	桑(蚕)を育てて糸を紡ぎ、細紵(さいちょ:?)・ケン緜(けんめん:絹?)を産出している。この地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カ
	ササギ)はいない。兵は矛・楯・木弓を用いている。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢の先は鉄鏃(てつぞく)だったり骨鏃である。
	國の様子は、タン耳(たんじ)・朱崖と同じである。倭の地は温暖、年中生野菜を食べている。皆裸足である。住居には部屋があり、父母
	兄弟、寝室が別である。朱丹をその身体に塗っているのは、中国で粉を(体に)塗るのと同じである。食事は器を用い手で食べる。
	人の死は、お棺におさめるが槨(かく)はなく、土に埋めて冢(つか)を作る。人が死ぬと十余日喪に服す、喪中の間肉を食べず、喪主は
	哭泣して、他人は歌い舞い踊って飲酒する。葬った後は、家の者は水中で澡浴(もくよく)し、練沐(れんもく:みそぎ)のようにする。
	海を渡って中国に詣でる時は、いつも一人の人間が、頭をとかず、蚤虱をとらず、衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪
	中の人のようにする。これを名づけて持衰(じさい)と言う。もし先行きがよければこの者の行いが善であって財物を与える。もし疾病や
	暴風雨にでも遭えば、すなわちこれを殺す。その持衰が謹まなかったから、と言うのである。
	(この地では)真珠・青玉を生産する。山には丹がある。植物はダン・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・ボウ・櫪・投・橿(きょう)・烏
	号(うごう)・楓香がある。竹は篠・カン・桃支がある。薑(きょう)・橘・山椒・茗荷はあるが、食べておいしいのを知らない。大猿・
	黒雉がいる。各行事で心配事があれば、骨を灼いて占いその吉凶を求める。先ず占う事柄を口に出して唱える。そのやり方は令亀の法のよ
	うで、焼けたヒビの入り具合を見て運勢を占う。会合の場では父子男女別なし。人々は酒を嗜(たしな)む。
	大人を敬う時のやりかたは、柏手をうって踞(うずくま)り拝む。人の寿命長く、百年、或いは八、九十年である。大人は皆四人か五人の
	妻を持ち、下戸も二、三人持っている。婦人は淫行を行わず、嫉妬せず盗みもしないので訴訟は少ない。法を犯した者は、軽い者はその妻
	子を没収し、重い者はその一族も皆殺してしまう。
	高貴な者も一般の者もそれぞれ身分差がある。臣は主に服従している。租税を徴収し、貯蔵庫(邸閣)がある。国々には市が立っている。
	色々な物を交易しており、大倭という役人(役所?)がこれを監督している。女王國より北の地方は、特別に一大率(いちだいそつ)を置
	いて、諸国を検察させている。諸国では、これを畏れている。常に伊都国にいて統率している。国中に警備の者達がいる。女王が使いを使
	わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時、又郡(帯方郡)の使いが倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて
	(女王の所へ)届けさせる。
	身分が低い者(下戸)が高い人(大人)と道路で出会ったとき、後ずさりして脇によけ蹲(うずくま)ったり、あるいは跪(ひざまず)い
	て、恭順の意を表す。応対には、噫(あい:はい:おう?)と言う。わかりました、という意味のようである。 
	この国は元々男性の王がいたが、7〜80年の間に倭国は乱れ、数年間争いを繰り返していた。そこで国々は共同で一女子を王として擁立
	した。名づけて卑弥呼という。鬼道(呪術?)にたけており、大衆を幻惑している。(能く衆を惑わす。)齢はとっているか、夫はおらず、
	弟がいる。(卑弥呼を)佐(たす)けて国を治めている。王となってからは、その姿を見た者は少なく、婢千人が身の回りの世話をしてい
	る。男が一人いて、(卑弥呼の)給仕をし、言葉を取り次ぐため居処に出入りしている。(ここには)宮室・楼観・城柵が設けられていて、
	常に警備の者が守っている。
	女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。この國は皆身長が三、四
	尺(90cm 〜120cm)である。女王国を去る事、四千余里である。またその東南に裸国・黒歯国があるが、船行一 年で到達する。倭の地は、
	海の中に島として存在しており、地続きだったり島になったりいる。周囲は五千余里程である。
	景初二年(238年)六月に、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を遣わして帯方郡に到来し、天子に詣うでて朝献したいと要請した。太
	守劉夏は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。その年(238年?)の12月、以下の文書を倭の女王に送った。「親魏倭
	王卑弥呼に申し伝える。帯方郡の太守劉夏は使いを使わし貴方の大夫難升米・次使都市牛利を送らせ、貴方の献上した男生口四人・女生口
	六人・班布(はんぷ)二匹二丈を奉って到着した。貴方がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは貴方の忠孝の
	表れであり、うれしく思う。今貴方を親魏倭王としてたたえ、金印紫綬(しじゅ)を授け、封印した後帯方郡の大守に授けさせる。貴方は、
	それを人々に示し、人民を服従させなさい。貴方の使者難升米・牛利は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた。今、難升米を率善中郎将と
	し、牛利を率善校尉として、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい(倭へ)帰す事にする。今、絳地(こうち)、交竜錦五匹〔臣の松之
	(しょうし)は,絳地は絳テイの誤りと言う。漢の文帝は皀衣(そ うい)を著(き)ている、これを弋テイ(よくてい)と言う、これであ
	る。この字(テイ)は、魏朝の失(あやま)ちではなく、おそらく写した者の誤りであろう〕

	絳地スウ粟ケイ(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張、茜絳(せんこう:茜色の紡ぎ)五十匹、紺青五十匹を以て、汝が献じた贈り物に答
	える。また特に汝に紺地の句文錦三匹、細班華ケイ(さいはんかけい:模様を細かく斑に表した織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の
	刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を授け、全て装封して難升米・牛利に託してある。(彼らが)還ってきたら目録と照らし会わせ、
	全てを貴方の国中の人に示して、国家(魏)が貴方に好印象(哀れ)をもっている事を知らしめなさい。だから、(魏は)鄭重に貴方に好
	物を授けるのである」と。
	元始元年(240年)、(魏は)太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を派遣して、詔書・印綬を捧げ持って、倭国を訪問し、倭王に
	拝謁し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を授けた。倭王は、使に答えて上表し謝意を示した。その四年(24
	3年)、倭王も使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を(魏へ)派遣し、生口・倭錦(わきん)・絳青ケン(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛
	布・丹・木フ・短弓矢を献上した。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を授かった(壱拝す)。その六年(245年)、倭の難升米が黄幢(こう
	どう)を賜わり、(帯方)郡経由で仮授した。その八年(247年)、太守王キ官に到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王
	卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってなかった。
	倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。(魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣して、詔
	書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為(つ く)って戦いを激励した(告喩す)。
	卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人。程なく男王を擁立したが、国中の混乱は
	治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族の意味か?)壹与(いよ)年十三才を擁立して女王となし、国中
	が遂に治まった。政等は、檄文を以て壹与を激励した。壹与は、倭の大夫率善中郎掖邪狗等二十人を派遣して、政等が(魏へ)還るのを見
	送らせた。そして、臺(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を献上し
	た。































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