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森ノ宮ピロティホール遺跡展示室 2012.12.16 大阪市中央区



	森ノ宮ピロティホール  出典:ウィキペディア

	森ノ宮ピロティホール(もりのみや - )とは、大阪市中央区森ノ宮中央にある多目的ホール。1979年に大阪市によって建てられた。
	当時存在した日生球場の東に位置している。改築に伴い2008年に一旦閉館され、その後2010年に再オープンした。
	敷地の周辺一帯にある「森ノ宮遺跡」の保存のために、特殊梁による高床式(ピロティ)構造を採用した珍しい建築様式である。
	森ノ宮遺跡からの出土品を展示した遺跡展示室が存在する。
 
	所在地  大阪市中央区森ノ宮中央1-17-5 最寄駅はJR大阪環状線・大阪市営地下鉄中央線 森ノ宮駅。




	全員集合して、地下にある「森ノ宮遺跡」の展示室を見学に行く。今日はシンポジウムに合わせて、特別開館している。昔は常時
	オープンしていたが、今は限定して開けているようだ。小さな展示室で、展示室というのもちょっと気が引けるくらいだ。だから
	いつもは閉めているのかな。森ノ宮ピロティホール地下には、西日本を代表する縄文〜弥生時代の貝塚が残されており、森の宮貝
	塚とも呼ばれている。




















	<マガキとシジミ>
	マガキは縄文時代に森の宮が海に面していた頃の物。シジミは弥生時代以降に河内湾が河内潟へと淡水化が進んだ頃のもの。
	森の宮の貝塚は、南北200m東西50m厚さ2mにも達する西日本最大規模の貝塚です――案内文より。



上左は森の宮遺跡の場所を示す地図。青い部分が、かつて海だった部分で、地図の黄色の半島状の場所が上町台地にあたる場所。





発掘時の貝塚の断面。釣り針や縄文土器、その他おびただしい遺物が出土している。


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	森之宮遺跡 出典:ウィキペディア、他、に加筆

	縄文時代中期から近世にかけての長期にわたる複合遺跡である森の宮遺跡が発掘されていることから、森之宮地域には縄文時代から
	人が居住していたと考えられる。森の宮遺跡から貝塚が発見されていることから、古代のこの地は水辺の環境だったと考えられる。
	森の宮遺跡の貝塚の分析を通じて、縄文時代には海水性の貝、弥生時代には淡水性の貝が食されていたことが判明している。このこ
	とにより、上町台地東側に広がっていた海(河内湾)が淡水化して河内潟・河内湖へと変化し、その後土砂が堆積して大阪平野が形
	成されていく過程をうかがい知ることができる。森之宮遺跡の貝塚は、西日本最大の貝塚である。

	森之宮遺跡は上町台地の東斜面に位置し、過去4度に渡る発掘調査によって、縄文時代中期から近世に及ぶ複合遺跡であることが判
	明している。東西45m、南北100m の範囲に、縄文時代中期から弥生時代中期に至る貝塚が形成されていて、西日本では数少ない大
	規模な貝塚遺跡であることも判明した。森之宮貝塚を築いた人々は、土器に絶えず異なった要素が流入していたこともあり、各地か
	ら直接往来したか、若しくは各地の影響のもとで作られた土器を用いていた。森之宮遺跡から出土する遺物を見ると、南西へ約60`
	も離れた岬町以南に生息するアワビやサザエが出土していることを考える時、これをわざわざ採りに行ったと考えるより、交流によ
	って手に入れたと考える方が妥当である。又、貝塚のマガキ層の断面を見ると、かなりの厚さの堆積であり、貝を採取して肉を取り
	出した後、一度に投棄していた可能性がある。マガキは塩分の少ない内湾の汽水域を好み、潮間帯や何らかの構築物などに付着して
	生息するとされていることから、河内潟へと移り変わる自然環境の変遷を立証することになった。

	<縄文人について>

	大阪府下で縄文時代の人骨が見つかった例は少ない。森之宮遺跡は18体の人骨が見つかった貴重な遺跡であり、いわば大阪域で最も
	古い住人の人骨という事になる。最初に発見された人骨は、『大阪市民第一号』と名づけられた。これらの人骨は肘、腰、膝の関節
	を折り曲げて葬る屈葬が行なわれていた。身長の推定可能な人骨が三体あり、一体は30歳前後の男子で157〜162cm、次の一体は老年
	の男子で145〜158cm、最後の一体は20歳台の男子で157〜163cmと推定されている。埋葬人骨のうち、抜歯が行われているものが2体
	あるほか、女子の下顎を研磨したものがあった。
	縄文時代の習俗の中で普遍的に見られる抜歯はあるが、森之宮遺跡では東北地方にも見られるような、上顎の左右犬歯だけが抜歯の
	対象となっているものもあって、どのような影響下に生まれたかは疑問である。和泉市の仏並遺跡からは土製の面が出土しているが、
	面に表現された両眉には縦に二状の切り込みが施されていて、眉に縦の入墨を施した表現ではないかとされている。これらの遺物は
	大阪府下においては資料不足ということもあって、他地方との比較検討に等は今後の課題となる。櫛も出土しているが、資料では朱
	塗りかどうかははっきりしない。

	<太古の時代は海だった河内平野>

	森ノ宮ピロティホールを建設する際に行われた発掘調査では、縄文人や弥生人たちが食べた貝の殻に加え、狩猟や漁撈(ぎょろう)
	の道具、煮炊きに使用した土器、耳飾のようなアクセサリーといった数千年前の生活を彷彿とさせる考古遺物が見つかっている。
	大量に出土した貝殻が、海水に生息するマガキから淡水に棲むセタシジミへ移り変わることから、河内平野が海から湖へと変遷する
	過程を窺うことができる。埋葬された縄文時代の人骨も多数発見され、そのうち1体を屈葬という体を折り曲げる当時の埋葬方式の
	まま地層から切り取って展示している。また、展示室の場所は大坂城跡の範囲内にもあたり、発掘された中世〜近世の軒瓦なども見
	学できる。

	江戸時代になると、現在の中央区森ノ宮中央から玉造の一帯には、大坂城玉造口の警護を担当する玉造口定番の与力・同心屋敷が建
	ち並んだ。またなにわの伝統野菜「玉造黒門越瓜」の栽培地ともなっていた。
	明治時代になり、現在の大阪城公園の場所に大阪砲兵工廠が、法円坂住宅の場所に大阪陸軍被服支廠が設置された。森之宮・玉造界
	隈は、砲兵工廠や被服支廠に勤める人たちの町として発展した。1932年には国鉄城東線(現在の大阪環状線)の森ノ宮駅が開業して
	いる。また現在の城東区森之宮にあたる一帯には陸軍の城東練兵場があったが、その後1940年に大阪砲兵工廠の拡張用地として転用
	されている。
	第二次世界大戦期には、米軍から数回にわたる爆撃を受けたため、町は甚大な被害が出た。現在のアピオ大阪の場所にあった森之宮
	国民学校(現在の大阪市立森之宮小学校とは別の学校)は、戦災被害のために終戦直後に玉造小学校に統合されている。
	1960年代には城東練兵場・大阪砲兵工廠跡に日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)森之宮団地が建設され、1967年8月に
	入居が開始された。公団森之宮団地は、広大な土地にまとまった数の住宅と生活関連施設を計画的に建設する「面開発」住宅の第1号
	とされている。






	<発掘された人骨>

	縄文時代後期〜晩期の屈葬された人骨。貝塚のアルカリ成分のお陰で4,000年後もほぼ完形のまま残った。模型ではなく本物の人骨で
	ある。骨が光ったように見えるのは、保護のため塗った塗装のせいだそうだ。現在でも、大阪府下で一番古い人骨である。


















































豊臣時代の四角い金箔瓦。「棟飾り」。金色の桐文と菊文が描かれている。金箔貼りの飾り瓦として使用された。











シンポジウムは午後からなので、腹ごしらえに有名なカレー屋に入る。私はこの前は何度も歩いたが、この店には入ったことが無かった。





昔懐かしいカレーの味で旨かった。ロースカツのカレーと中ジョッキを一緒に頼んでも1,100円で、めちゃ安い。



この通りにはもう一軒カレー屋があるのだが、こっちの方がダントツ旨いそうである。私以外はみんなここを知っていた。



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