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戸籍記した、日本最古の木簡 2012年6月13日 News


	太宰府で日本最古の木簡が発見されたという記事が、先週の水曜日(6月13日)の新聞に載った。なぜ日付までよく覚え
	ているかというと、その日が我が歴史倶楽部の、月に一度の勉強会(飲み会)の日だったからだ。誰かが「木簡が出ました
	なぁ」と、少し話題になっていた。木簡は、戸籍の内容やその変遷を記録したものだと言い、「戸籍を書いた最古の木簡」
	というので考古学的なNews性が高いのだろう。木簡を束ねて、それにまた木簡が付いていたというのは新発見だった。
	以下の新聞記事に見られるような「戸籍」の内容は別段新しい発見ではない。記事にもあるように、正倉院から紙に書かれ
	た詳しい戸籍は出現している。それは702年に書かれたものだが、今回の木簡戸籍は、それから15、6年ほど前のもの
	かもしれないのと、木簡に書かれていたという点がNewsなのである。

	このHPでは、新聞記事にもある、正倉院に残っていた「筑前国嶋郡川邊里(かわべり)戸籍」の内容を見ていくことにす
	る。この戸籍の内容を見ていくことで、古代の家族制度のあり方や社会の生活状況を知ることができる。




	上下の記事は内容が全く一緒である。上は産経新聞、下は日経新聞だ。枝葉の記事は違うが本文の主体部は一言一句同じで
	ある。これはいったいどういうことなのだろうか。市の発表記事をそのまま載せたのなら、記事の内容は市の担当者が新聞
	記者の立場になって書いたことになるし、市の発表を元にどっちかが書いたものを、片方がそのままコピーしたのだろうか。
	可能性としてはよく海外Newsなどにあるように、[共同]とコメントが入って、この記事は共同通信社からの配信ですよ、と
	いう場合だが、この記事にはどちらにも配信を示すコメントはない。
	産経新聞と日経新聞が兄弟会社、あるいは親子関係だということは聞かないし、同じ「経済」新聞社同士という事でときど
	きこうやって記事を交換し合っているのだろうか。それとも、どちらかが他方から記事を買っているのかな?
	この2つの記事はどう見ても一人の人物が書いたものである。この「奇怪な」記事について、産経か日経の方、あるいは事
	情がわかる方、教えてください。他の新聞、朝日とか毎日とかを購読されている方はいかがでしょうか?










筑前国嶋郡川邊里 戸籍

	そもそも戸籍とは、戸と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成された公文書である。現代の日本では、戸籍法
	で定められているが、この制度は中国、日本、朝鮮半島などの漢文化圏特有の制度で、西欧にはない。また、国民総背番号
	制度やアメリカの社会保障番号などとは違って、その戸の出自や、旧身分制度の記録があったりするので、近年人権上から
	もこの制度の廃止を望む声もある。


	「戸籍」の概要	出典:ウィキペディア
 
	古代以来の中国の華北社会では戸(こ)と呼ばれる形態の緊密な小家族が成立し、これが社会構造の最小単位として機能し
	ていた。そのため政権が社会を把握するためには個々の戸の把握が効果的であり、支配下の民の把握を個人単位、あるいは
	族的広域共同体単位ではなく、戸単位で行った。この戸単位の住民把握のために作成された文書が戸籍である。中華王朝や
	漢民族世界が華北から拡大しても、政権の民衆把握は戸籍を基礎として行われ、さらには中華文明から政治的、文化的影響
	を受けつつ国家形成を行った日本、朝鮮半島国家など周辺地域の国家でも戸籍の制度は踏襲された。
	日本では律令制を制定して戸籍制度を導入した当時、在地社会の構造は華北のように戸に相当する緊密な小家族集団を基礎
	としたものではなかった。平安時代になって律令制衰退後、朝廷による中央政府が戸籍によって全人民を把握しようとする
	体制は放棄され、日本の在地社会の実情とは合致しなかった戸籍制度は、事実上消滅した。地域社会の統治は現地赴任国司
	筆頭者(受領)に大幅に権限委譲、さらに受領に指揮される国衙では資本力のある有力百姓のみを公田経営の請負契約など
	を通じて把握し、彼らを田堵・負名とし、民衆支配はもっぱら彼ら有力百姓によって行われるようになった。その後、上は
	貴族から下は庶民に至るまで、家(いえ)という拡大家族的な共同体が広範に形成されていき、支配者が被支配者を把握し
	ようとするとき、この自然成立的な「家」こそが把握の基礎単位となった。
	全国的な安定統治が達成された徳川時代の幕藩体制下でも、住民把握の基礎となった人別帳は、血縁家族以外に遠縁の者や
	使用人なども包括した「家」単位に編纂された。明治時代になると、中央集権的国民国家体制を目指すため、「家」間の主
	従関係、支配被支配関係の解体は急務であった。戸籍を復活させて「家」単位ではなく「戸」単位の国民把握体制を確立し、
	「家」共同体は封建的体制下の公的存在から国家体制とは関係のない私的共同体とされ、「家」を通さずに国家が個別個人
	支配を行うことが可能となった。このように戸籍制度の復活は封建的な主従関係、支配被支配関係から国民を解放するもの
	であったが、完全に個人単位の国民登録制度ではないため、婚外子、非嫡出子問題などの「戸」に拘束された社会問題もま
	た存在する。そのため、国民主権時代の現代では、より個人が開放された制度を目指して、戸籍制度を見直す議論も存在す
	る。
	現在では世界的に戸籍制度のような家族単位の国民登録制度を持つ国は少数派であり、先進国地域では日本、中華民国(台
	湾)、香港のみである。戦後に家制度は廃止されたが、戸籍制度は残ったために、地方自治体にも国民にも、住民登録との
	重複業務となっている部分もある。戸籍を調査して被差別部落民かどうかを探り出すためにこの戸籍が用いられようとした
	件もあり、民主党の戸籍法を考える議員連盟など戸籍の廃止を含めた見直しも議論されている。


	それでは、「筑前国嶋郡川邊里」戸籍について見ていくことにしよう。

	筑前国嶋郡川邊里とはどこだろうか。筑前国は今で言う福岡県である。では嶋郡とは。これは古代の志摩郡であり、怡土
	(いと)、志摩(しま)の志摩である。かってはこの二つが一緒になって、福岡県北西部に糸島郡(いとしまぐん)があっ
	た。律令制下では怡土郡と志摩郡に分かれていたが、1896年4月1日、郡制に基づき両郡を合併させて糸島郡となった。その
	郡名は合併前の両郡の名前をつなげて別の字を宛てたものである。旧郡名の由来についてははっきりしないが、怡土につい
	ては、弥生時代にその存在が魏志倭人伝に記述される「伊都国」との類似性が、地理上と音韻上の両面から指摘されており、
	志摩についても、島との音韻上の一致が指摘されている。さらにこれらを裏付けるように、旧怡土郡地区からは大量の副葬
	品を伴う「平原遺跡」などの弥生時代の遺跡が何ヶ所か発見されており、同じ弥生時代に旧志摩郡地区からも、多くの遺跡
	が出現している。ごく一部を除いて、旧志摩郡と旧怡土郡地区とは、船越湾から今津湾にいたる水道によって陸地が分離さ
	れた状態であったと考えられている。



	糸島郡には志摩町(しままち)と二丈町(にじょうまち)の二つの町を含んでいたが、2010年1月1日に、志摩町と二丈町、
	前原市(旧糸島郡前原町)が合併して糸島市が誕生し、これに伴い、糸島郡は消滅した。上の表記はまだ旧表記を含んでい
	るが、この地図の中央部が「嶋郡川邊里」である。現在の、糸島市(旧志摩町)の馬場、松隈、津和崎、(旧前原市の)由
	比、泊、福岡市西区の元岡の一部にあたる。すぐ隣に九州大学の移転予定地があるが、2012年の段階ではすでに工学部が全
	面移転してきているし、今後もこの地へ徐々に移転してくる予定である。ここはやがて一大学園都市になろうとしている。


	古代の縁起を有する六所神社。律令時代、この神社のある付近が川邊里の中心だったようだ。近世に志摩郡の総鎮守として
	あがめられ、境内にはクスの巨木がそびえる。糸島市(旧志摩町)大字馬場字長谷。




	
	大化の改新で発令された「公地公民」は、全国の土地を国有とし、その国有地を領民に分け与えその代わりに領民から税を
	取り立てるというもので、その為に律令(=法律)を定めた。それが律令制度の根幹である。その制度の下で、「班田収授
	法」に基づき、6歳以上の公民の男子には2反(600坪)、同じく女子にはその3分の2(400坪)の水田(口分田)
	が支給された。また奴婢(奴隷)にも、それぞれ3分の1が支給された。そのために、各村々における労働力の正確な把握
	が必要だったが、役人が出向いて調査するという所までは至っていないようだ。各戸長の申告を元に、里長や郡役人がチェ
	ックし、国司が編成したようである。
	そのチェック項目には、@.戸主と家族の関係、A.官位官職、B.年齢、C.病気の有無、D.課税・非課税の別、E.
	口分田の総額、などがある。国家の基盤となる課税の情報だから、情報は結構詳細である。たとえば「病気の有無」につい
	ては、残疾(ざんしつ)=手足の指無し、禿げ髪無し、下重(げじゅう)=陰嚢が腫れて歩行困難、大?種(だいようしゅ)
	=首や足に大きな腫れ物、廃疾(はいしつ)=侏儒(しゅじゅ:こびと)、腰骨折、一支廃者=手足を一本失った者、篤疾
	(とくしつ)=悪疾(ライ病)、癲狂(てんきょう)=気狂い、二支廃、両目盲、などの表記が見られる。

	太宰府政庁跡から出土した木簡の数々。@.貢進物の荷札、A.緑の布の支給の付け札、B.筑前国の紫草の貢進物荷札、
	C.休暇届の文書


	下が「筑前国嶋郡川邊里」戸籍である。この戸籍は大宝二年(702)に作成され、正倉院文書の中に奇跡的に紛れ込んで
	いたのが後年発見された。この文書は、古代の大家族制度の中身を具体的に窺い知る事のできる極めて貴重な資料である。
	そもそも当時の戸籍は、6年ごとに作成され30年間保管とされていたので、殆ど残っていない。しかし、幾つかが奇跡的
	に正倉院文書に紛れ込んだ。
	どうして正倉院に残っていたのかについては諸説あり判然としないが、有力な説としては、太宰府にあったものが国司受領
	の平城京帰還時に奈良へ運ばれた、あるいは太宰府からの情報をもとに奈良の役所で清書し保管された、そしてそれらが、
	何らかの理由で東大寺に下げ渡された、というものだ。
	この戸籍は上質の和紙に書かれている。新聞記事にもあるように、当時の戸籍はほとんどが木簡に書かれていたと推測でき
	る。それが上質紙に書かれていたため、当時貴重品であった紙が再利用されたものである可能性が強い。役所では記録や報
	告書作成のために大量の紙や木簡を必要としていた。
	この頃金光明寺(後の東大寺)では、聖武天皇の号令の元、仏教を盛んにして国を治めようと、盛んに写経活動が行われて
	いた。写経所でも紙が必要だったのだ。裏の部分を再利用すると言うことで、金光明寺へ大量に払い下げられた可能性が大
	である。この戸籍の裏面は、東大寺大仏建立に関連した文書として使われたようなので、造東大寺司(東大寺建立の為に作
	られた役所)に払い下げられて、聖武天皇関連文書として正倉院行きとなった可能性が大である。幸運にも生き残った戸籍
	なのだ。


	今回の木簡が発見されるまで、現存する日本最古の戸籍だった「筑前国嶋郡川邊里」戸籍。8世紀初頭、旧志摩町を中心に
	存在した川邊里の28戸(438人)分の戸籍が奇跡的に残っていた。これから古代豪族の様相が窺え、実に貴重な文献である。
	(正倉院文書)

	「筑前国嶋郡川邊里 大宝二年」という1行から始まるこの戸籍は、縦27cm、横64.5cmの和紙に、縦書きで28
	家族438人、一人一行ずつで記されている。戸主から始まり、姓名、年齢、税の区分、続柄が記され、配列は血縁順であ
	る。書類の全面にほぼ隙間なく「筑前国印」の朱印が押されている。



	
	旧志摩郡には志摩七郷があった。郷とは郷戸(ごうこ)とも言い、人家50戸が単位である。この郷を、大化の改新時に
	「50戸を以て1里(さと)となす」と定めた。「国郡里制」の里である。これが行政上の最小単位で、現代の市町村のよ
	うなものである。いわゆる○○村だ。つまり川邊里=川辺村である。時代は下って後世(935年頃)の「和名類聚抄(わ
	みょうるいじょうしゅう)」には「川辺郷」の記述が見える。
	川邊里には50戸の村があったようだが、現在戸籍で確認できるのは前述したように28戸(438人)分である。一戸平
	均にすれば25人という現在では考えられないような大家族だが、詳細にみてゆくとかなりバラつきがあり、小は5人から
	最大124人の家族までさまざまである。124人というのも又驚くべき数字だが、もちろん一軒の家には収まらないので、
	ひとつの集落がそっくり一家族だったりしたのだろう。





	右から1行目「戸主追正八位上勲十等 肥君猪手 年伍拾参歳 正丁 大領 課戸」と読める。2行目は「庶母 宅蘇吉志須
	弥豆賣 年陸拾伍歳 老女」とある。




	上の戸籍が川邊里最大の家族で、「肥君猪手(ひのきみのいで)」を戸主とする、124人の家族である。口分田は全体で
	13町6反120歩(約14ヘクタール)で、さらに郡長官(大領)の身分に対し6町(6ヘクタール)が支給されている。
	この「肥君(ひのきみ)」というのは在地の歴代の権力者で、おそらく熊本の「火の君」の流れを汲むのではないかと推測
	される。筑前にあっては屈指の豪族という事になる。また「正八位上勲十等」という位を受けており、地方においては相当
	な高官である。それ故嶋郡を治める長官である「大領」に任命されたのだろう。また「正丁」とは21歳以上60歳以下の
	男子で、「課戸」というのは課税対象者で納税の義務がある。

	2行目は「庶母 宅蘇吉志須弥豆賣(やかそのきしすみずめ) 年陸拾伍歳 老女」となっている。「庶母」とは実の母で
	はなく義母を言うが、妻の母か、あるいは父の後添えかもしれない。

	3行目は「妻 泊ス奈賣(かたなめ) 年伍拾貳(ごじゅうに)歳 丁妻」とあり、52歳の正妻と思われる。姓がないの
	で、おそらくは2行目の庶母、須弥豆賣と同じく宅蘇吉志(やかそのきし)ではないかと思われる。この時代、奴婢(奴隷)
	には性がないが、妻が奴婢とは考えられないので、おそらく庶母と同姓だろう

	4行目。「妾 宅蘇吉志橘賣(たちばなめ) 年肆拾?(しじゅうしち)歳 丁妾」。妾が登場した。47歳。

	5行目。「妾 黒賣(くろめ) 年42歳」。二人目の妾。
	6行目。「妾 刀自賣(とじめ) 年35歳」。三人目の妾。

	黒賣も刀自賣も姓がないが、これも橘賣と同じく宅蘇吉志だろうと思われる。実はこのほかにもう一人妾がいたようである。
	妾の名は戸籍にないが、その妾の子が記録されているので妾本人はおそらく早死にしたものだろうと思われる。
	ここで整理してみると、

	庶母 宅蘇吉志の須弥豆賣 65歳
	妻    〃  泊ス奈賣 52歳
	妾  宅蘇吉志の橘賣   47歳
	妾    〃  黒賣   42歳
	妾    〃  刀自賣  35歳

	となり、ここから見てとれるのは、5人の女性がいずれも宅蘇吉志(やかそのきし)の出身であり、彼女らの年齢構成から
	類推して姉妹ではなかったか、という事である。5女の年齢構成の戸籍表記法からみて、以下の幾つかのケースが考えられ
	る。

	@.庶母と正妻が姉妹であり、妾3人は別の姉妹。しかし姓が一緒なので親戚筋か。
	A.年齢的には庶母と正妻が親子とは考えにくいので、正妻と妾3人が4姉妹。
	B.戸主である肥君猪手も53歳だし、庶母が産んだとは考えにくいので、庶母の須弥豆賣は父の妾であった可能性もある。

	少なくとも、肥君家は親子2代に渡って宅蘇吉志家と婚姻関係にあったことは確かなようである。姉妹を妾にするというの
	は、書紀によれば古代にはよくある。天武天皇は兄天智天皇の娘4人を妻にしている。しかし古代の天皇家における婚姻関
	係の複雑さは、多分に書紀編纂者たちの脚色が入っているのではないかと多少疑っていたが、この戸籍の例を見ても決して
	あり得ない事ではないのがわかる。地方の長官でさえこれなら、聖徳太子のあの入り組んだ複雑な姻戚関係は事実である可
	能性が高い。





	肥君猪手の戸籍は、第7行目から「子」「子の妻」「孫」へと移っていく。それから戸主の「弟」「妹」へ、男から女へと
	記述される。第7行は長男の「肥君興呂志(よろし) 29歳 嫡子」とあり、正妻との間の長男であることがわかる。
	しかし第8行目には「勲十等 肥君泥麻呂(ひじまろ) 27歳 妾橘賣男」とあって、妾の子が勲十等という位を与えら
	れている。妾の子の泥麻呂の方が、嫡子である興呂志よりも偉いのだろうか。それとも何か武勲でもたてたか。このあたり
	はどうもよくわからない。この泥麻呂は18歳の妻との間に男女2人の子供を持つ。
	結局、戸籍に書かれた肥君猪手の家族関係は、正妻が2男1女を、第一妾が5男2女を、第二妾が1男を持ち、第三妾には
	子供がない。また、それぞれの子が結婚して子を持っている。肥君猪手からみれば、子が12人、孫が10人である。
	
	この家族構成はもちろん今日では考えられないが、古代にあってはそう珍しい事ではないのかもしれない。また家族はこの
	構成単位くらいまでは、おそらく一つの屋内に同居していたのだろうと思われる。しかしこの戸籍には、加えて以下のよう
	な古代特有の家族形態がある。

	■ 寄口(きこう)

	  古代戸籍の親族呼称は「いとこ」までで、それより遠い親類や縁者を寄口(きこう:よりく、とも呼ぶ)と称し、一族
	  として参集する労働力の担い手だった。肥君家には3家族14人が記録されている。

	■ 奴婢(ぬひ)

	  古代の奴隷である。奴(やっこ)は男、婢(めやっこ)は女である。現代と違って古代には奴婢は相当数いたものと思
	  われ、牛馬同様主人の持ち物であったから、売買、贈与などの対象物として扱われた。3世紀の卑弥呼も、魏へしばし
	  ば生口(せいこう)と呼ばれる奴婢を送っている。

	川邊里の戸籍に見られる8世紀初頭でも、奴隷制度は厳然としてあり、大化改新で「公民」は宣言されたが奴婢は解放され
	なかった。当時奴婢がどのくらいいたかについては、現在の研究では人口の5%程度とみられている。奈良時代の人口はお
	およそ500万人と推測されるので、全国で約25万人程度の奴隷がいた勘定になる。官庁は彼らを公奴婢として、貴族や
	地方の族長は私奴婢として所有した。寺や神社も奴婢をもっていた。彼らは「無姓」であり、主人から解放されない限り、
	その身分は世襲である。彼らは普段黒い衣(?衣:そうい)を着せられ、最高位天皇の白衣の対極にあって、最下位の身分
	である事が一目でわかるようになっていた。ちなみに百姓は黄衣である。
	奴婢の間で子をもうけることもあったが、公民のように家族は持てず、生まれた子が男なら男親に、女なら女親に引き取ら
	れた。しかしその生まれた子も結局は主人の所有物であった。これらの奴婢は、争いの捕虜や飢饉の際売られた者、借金の
	片にとられた者などさまざまである。

	今回の肥君猪手の場合には、「戸主奴婢」10人、「戸主母奴婢」8人、「戸主私奴婢」18人、所属不明1人、計37人
	人となっている。「戸主奴婢」と「「戸主私奴婢」はどう違うのか。「戸主奴婢」は一族共有の奴隷であり、「戸主私奴婢」
	は戸主個人の所有物と考えられ、「戸主母奴婢」は庶母ではなく、(今は無き)実母が嫁入りに際し持参した奴隷のようで
	ある。
	この肥君家が所有する37人の奴婢の年齢構成は、上は63歳女性の大豊賣(おおとよめ)から、下は1歳女児の若津賣(
	わかつめ)、2歳男子の意富麻呂(いとまろ)まで、老若男女さまざまであった。妙齢の女性はその「性」も主家から自由
	にされた。万葉集には次のような歌がある。

		稲春(ま)けば  皸(かか)る我(あ)が手を  今宵もか  殿の稚子(わかご)が  取りて嘆かむ	    

	「皸(かか)る」とは、手があかぎれてひび割れた様を言い、労働と隷従を強いられた日々であった。

	奴婢が3世紀の卑弥呼の時代にもいたことは周知の通りだが、日本にいつ頃から奴隷制度が根付いたものかははっきりしな
	い。エジプトなどでは遥か紀元前15世紀くらいにも奴隷がいたので、日本でも、あるいは縄文時代にもいたかもしれない。


青木和夫編 『日本の歴史5』古代豪族より(系図は井出正子氏製作)


	魏志倭人伝には「大人(たいじん)は皆4−5婦、下戸(げこ)も2−3婦を持ち、婦人は淫せず、嫉妬(?忌(とき))
	せず。」とある。律令時代にもこの因習は続き、大化改新では一夫一婦制を採用し重婚は罰せられたが、妾ということにす
	れば男は何人でも配偶者を持てたのである。この伝統は長く続き、江戸時代、庶民の間では金持ちの家へ貧しい家の娘が入
	る「妾奉公」が日常茶飯事であったし、武家社会でも「お家断絶」になることを恐れて正妻以外に数人の妾がいた。江戸時
	代の川柳で、庶民はそのあたりのことを実に面白く揶揄している。

		大名の 借りる道具は 腹ばかり

	明治天皇にも妾はいた。大正天皇は皇后の子ではなく、皇后付き女官が産んだ子である。明治期の「新律綱領」は大宝律令
	を下敷きにしていたので、戸籍にも妾は「夫の二等親」と定められていた。二等親=妻である。これはキリスト教を母体と
	した西欧社会の猛反発をかい、明治政府は明治15年に「妾公認」を撤廃した。なお妾の存在は、社会的に隠されるもので
	はなく公表されるもので、妻も承知しているものである。この点、妻に秘密にする不倫とは大きく違う。
	日本の大正・昭和時代の政治家であった三木武吉は、複数の妾を囲っていることに対する批判を逆手に取って当選したエピ
	ソードで知られる。実業家だった渋沢栄一は、大蔵省時代には自宅に妾と同居していたし、西武グループ創業者の堤康次郎
	も、女性関係が相当派手だったようで、女中、社員、華族の娘、部下や息子の妻を妾として子供を生ませたことで知られ、
	堤清二、堤義明らはいわゆる妾腹の子である。

	妾制度はこのように近年まで存続したが、奴婢制度は平安中期には衰退した。8世紀半ばには奴婢の逃亡が始まり、8世紀
	終わりには良民と奴婢との間の子は良民と定められ、奴隷制度は実質崩壊した。
	一方で戸籍制度も平安中期には実質を失った。重い課税から逃れるため、成年男子の疾病や廃疾が増え、どの戸籍にも女子
	の数が増加した。ミエミエの記載で、戸籍は意味をなさなくなったのである。その兆候は、実は早くも大宝2年(702)
	の川邊里の戸籍にも現れている。肥君猪手の一族124人のうち、課(納税者)は15人なのに、不課(免税者)は109
	人なのである。
	鎌倉−室町期は「無戸籍の時代」だった。江戸期には家康の肝いりで「宗門人別帳」が作られ、これが戸籍の役割を果たす
	事になる。近代的な全国規模の戸籍ができたのは明治になってからである。


	日本の奴婢制度 出典:ウィキペディア
 
	日本における奴婢制度は、隋・唐の律令制を日本式に改良して導入したものである。律令制の崩壊とともに消滅した。中世
	に現れる穢多・非人との間に連続性はない。
	奴婢自体は、三国志魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなったとき 100人以上の奴婢を一緒に殉葬したと言う記述や、生口と呼ばれ
	る奴隷(または捕虜。異説もある)を魏に朝貢したと言う記述が見られるように、少なくとも邪馬台国の時代には既に奴婢
	は存在していた。これらの古代から存在していた奴婢を、律令制を取り入れるときに整理しなおしたものが、日本の奴婢制
	度だと思われる。なお、律令法においては良民を奴婢とすることは賊盗律によって禁じられていたが、債務返済に関しては
	役身折酬と呼ばれる返済方法が認められており、多額の負債を背負わされて奴婢同様に使役される者もいた。
	律令制における賤民は、五色の賎(ごしきのせん)と呼ばれ五段階のランクに分けられていた。その中で最下級に置かれた
	のが奴婢である。奴婢は、大きく、公奴婢(くぬひ)と私奴婢に分けることが出来た。日本の律令制下における奴婢の割合
	は、人口の5%前後だと言われている。
	公奴婢は朝廷に仕え、雑務に従事していた。66を過ぎると官戸に組み込まれ、76を越えると良民として解放されたようであ
	る。私奴婢は地方の豪族が所有した奴婢であり、代々相続することが可能であった。私奴婢には、口分田として良民の1/3
	が支給された。
	日本の奴婢制度は、律令制の崩壊と共に消滅し、900 年代には既に奴婢制度の廃止令が出ている様である。奴隷としての賤
	民は早い時代に消滅したが、被差別階級としての賤民(いわゆる“穢多”“非人”)が中世の頃から顕著に見られ始め、近
	世を通じて存続し、明治4年(1871年)の解放令まで残っていた。





	見てきたように、わずかに残っている古代の戸籍は、他にもいろいろな情報を含んでいる。たとえば夫婦別姓」である。
	21世紀の今日、民法で真剣に論じられている課題が、すでに8世紀では当たり前の事だった。肥君猪手の妻は肥君を名乗
	らず実家の姓を名乗る。生まれた子は夫の姓を名乗っている。

	氏姓(うじかばね)制度について、公民は氏と姓を持っていた。肥君猪手の場合は「肥」が氏で「君」が姓である。かばね
	は今日では全く廃れたが、昔は天皇から与えられた銘柄だった。「君」とは天皇家ゆかりの血筋であり大変な格式を示して
	いる。「肥君」は6世紀、九州に覇を唱えた「筑紫火の君」の流れを汲み、九州各地に盤踞した一族であろうと思われる。
		
	川邊里戸籍には、「肥君」以外にも「卜部(うらべ)」「物部」「葛野部(かどのべ)」などが多く見られ、それらは中央
	豪族に連なる「中臣」「物部」の一族であり、各地の有力者たちと中央の結びつきが窺える。この時代、大和朝廷と筑前国
	とは密接な「支配=被支配」の関係が成り立っていたことがよくわかるのである。




モデルは我が歴史倶楽部の西本さんと乾さん。よく似合ってますなぁ。




日本最古の木簡 追加考察


	前項の「戸籍」の紹介に加えて、実は考察しておかねばならない事項がもう一つあった。それはこの戸籍に記載された
	「肥君猪手」の庶母、そして妻、妾たちの氏族「宅蘇吉志(やかそのきし)」という氏族についてである。呼び名は
	(たこそのきし)(たくそのきし)など諸説ある。この宅蘇という名前は渡来人の名前である。元宮崎公立大学の教授
	で「東アジアの古代を考える会」の会長である奥野正男氏は、「いまの高祖(たかす)という地名は、古文献の「高杜
	(たかこそ)」「宅蘇(たくそ)」「卓素(たくそ)」に通じている。つまり『古事記』に出てくる渡来製鉄工人「韓
	鍛・卓素」が最初に定住した地に、その氏の名をとった「卓素・宅蘇」の地名が付き、やがて「宅蘇」氏が渡来氏族だ
	ったので名字の下に「吉士」が付き、律令の戸籍に引き継がれたのではないか。」と述べている。
	宅蘇吉志は渡来系の氏族で、製鉄に関係していたというのだ。宅蘇は「たかそ」が元で高句麗経由の氏族で、「高祖」
	→「鷹栖」「高須」「多胡」などのルーツとも考えられるという。宅蘇とは『応神記』に見える韓鍛宅素のことだとい
	うのである。(巻末参照の事)
	事実、九州大学の糸島市への移転に伴って実施された福岡市による発掘調査の結果、この地に古代の鍛冶場跡遺構が数
	多く発見されており、新たな木簡も多数出土しているので、やがてそのあたりの実態も次第に判明してくる事だろう。
	また九州大学の服部英雄氏も、「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」という論文の中
	で(Kyushu University Institutional Repository (QIR))、肥君猪手、宅蘇吉志に言及している。

	さて「吉志」についてみてみよう。この「吉志」とは元々新羅で使われていた呼称で、記紀には吉志の姓(かばね)と
	して数多く登場する。吉士、吉師、企師、吉などとも表記するが、新羅では吉士、吉次、吉之などと書かれている。
	飛鳥時代以前の人名一覧(ウィキペディア)によると、以下のような吉志名が文献にみえるが、時代境界があいまいな
	ため、古墳時代とおそらくは弥生時代の人物も含まれていると思われる。

	吉士(吉志・吉師)氏

	 吉士赤鳩
	 吉士磐金
	 吉士雄成
	 吉士老
	 吉士金
	 吉士倉下
	 吉士駒
	 吉士長丹

	吉志一族は、6世紀頃日本に帰化し、朝廷の役人となって、外国使節の接待、通訳など主に外交に携わった。白村江の
	戦いの折にも、日本軍の道案内をつとめたようである。
	記紀には「難波吉志」という記載が多くある。吉志一族は大阪を本拠とし、その後九州の磐井の乱、朝鮮半島の動乱に
	伴う緊張などで、中央から北部九州に派遣されたものと思われる。中央のエリート官僚が地方自治体へ出向したような
	ものだろう。それが在地の「宅蘇」と結びついて、やがて「肥君」とも結びついた。そのような中から、今回の戸籍に
	かかれた「肥君猪手」も登場してくる。

	私が現在住んでいる吹田市に「吉志部神社」がある。我が家から4,5分の所にあって毎年初詣に行くが、ここも朝鮮
	からの渡来人「吉志」一族が建てた神社である。創建時のことはほとんどわかっていない。社伝では、応神天皇の時代
	に大和国の瑞籬(しきみずがき)より奉遷して祀ったとされている。おそらくは平安時代にはあったと思われる。応仁
	の乱以降の戦国の時に壊滅的に焼失したが、朝鮮から渡来してきた吉志一族の末裔によって江戸時代に再建された。



	「宅蘇吉志」の居住地について、前出の奥野氏は旧前原市の「高祖神社」のあるあたりだろうと推測しているが、「宅」
	に注目して、筑前国那珂郡の田来郷(和名抄)という研究者もいる。現在の福岡市南区曰佐(おさ)から春日市(かす
	がし)にかけての一帯である。ちなみに、曰佐という地名は訳語(おさ)すなわち通訳の意味で、朝鮮からの帰化人曰
	佐氏が住んでいた所である。
	蛇足ながら、現在でも佐賀県には「井出」「井手」という名前が多い。「井手」は日本で佐賀県に最も多い名前である。
	「肥君猪手」との関わりを思い起こさせる。猪手を「いで」と読み、井出姓ルーツを肥前あるいは筑前嶋郡と見るので
	ある。

	 正倉院文書にはこの川邊里戸籍の他にも、豊前国上三毛(かみみけ)郡塔里(とうのさと:福岡県大平村)、仲津郡丁
	里(よぼぼろのさと:大分県中津市)の戸籍も残っているが、塔里の戸籍には秦部(はたべ)、塔勝(とうのすぐり)、
	丁勝(よぼろのすぐり)などの氏姓を持つ者が多い。秦部は有名な渡来人だし、塔、丁の系脈ははっきりしないが、勝
	(すぐり)は帰化人に与えられたカバネである。
	北部九州は大陸・半島との窓口にあたるので、糸島、筑前から豊前にかけての一帯に、まとまって帰化人の集団が住ん
	でいた村があったことが、正倉院の戸籍からうかがい知ることができる。




参 考

	古代製鉄の研究

	筑前の古代製鉄と韓鍛(からかぬち)・卓素(たくそ)(宅蘇(たくそ)吉士(きし))のこと

													奥野正男
	元岡遺跡群

	九州大学工学部の移転地 (福岡市西区元岡)で発見された元岡遺跡群の製鉄遺跡は、奥行き200メートルほどの狭い谷の
	緩斜面に、等高線上に配列したように二十八基の製鉄炉がほぼ一線上に並んでいた。一種の連続操業を想定できる、このよ
	うな製鉄炉群をもつ遺跡は、日本でも始めての発見であった。しかもここで使われていた鉄の原料は、近くの大原(おおば
	る)海岸で採れるチタン分の低い良質の海岸砂鉄であった。日本の古代製鉄の原料は、古墳時代後期以降、鉄鉱石を使用し
	てきたというのが、戦後の冶金学会の通説だった。したがって日本の古代製鉄では、何時、何処で砂鉄を原料にした製鉄が
	始まったのかが重要な研究課題になっていた。江戸時代のたたら製鉄で有名な出雲地方でも、このような大規模な古代製鉄
	遺跡はまだ見つかっていないのである。

	たたら製鉄の源流

	元岡製鉄遺跡の遺物は、数十dにのぼる鉄滓や炉壁、フイゴ羽口(土製送風管)などである。炉の形はすべて箱形炉という
	定型化したタイプに統一されており、出雲で著名な砂鉄を用いた「たたら製鉄」の源流に位置付けられるものである。とく
	にこの遺跡からは「壬辰年韓鐵□□」という木簡が出土した。「壬辰年」は西暦752年に当たり、この年、難波・博多か
	ら藤原清河らの第十回遣唐使が出発、奈良の都では東大寺で廬舎那仏(るしゃなぶつ)の開眼供養が行なわれた年だった。
	元岡製鉄遺跡の年代がわかったことにより、製鉄技術史のうえで、箱形炉に定型化した時期に砂鉄を原料にしたという一つ
	の定点があたえられることになった。この意義はきわめて大きい。

	渡来系の製鉄工人

	「壬辰年韓鐵□□」という木簡の意義は、先にのべた炉の年代上の問題にとどまるものではない。「韓鐵□□」は「からか
	ね」と解読した文献史学者もいたが、律令期の鉄を上納した備前の木簡では、上納品の「鐵」は「鐵」であって、特に「韓
	鐵」とは書いていない。私は□□の断簡から「韓鐵師(からかなじ)」・「韓(から)鍛治(かぬち)」なる古語を連想する。
	また「韓鐵」といえば、『古事記』応神天皇段に、馬を連れてきた阿智吉師、論語十巻と千字文をもたらした和邇吉士師の
	渡来をのべたあとに、「また手人韓鍛(からかぬち)、名は卓素(たくそ)、呉服(くれはとり)・西素(さいそ)二人を奉りき」
	とある。『古事記』は渡来系製鉄工人のことを「韓鍛(からかぬち)」と呼んでいたのである。また元岡製鉄遺跡から出土し
	た別な木簡には「嶋郡」の文字のあるものもあった。
	この元岡遺跡のある地域が、律令期の筑前国嶋郡に入ることは、大宝二年(701)の「筑前国嶋郡川辺里(かわなべのさ
	と)」戸籍断簡によって知られている。

	九州の古代製鉄学を開拓した大場憲郎氏

	元岡製鉄遺跡の発掘に遡ること約30年、昭和48年ころ、私は博多で古代製鉄の調査と研究をしていた大場憲郎氏の家に
	日参していた。元岡や金屎(かなくそ)池(いけ)(大原海岸の南)の鉄滓出土地に一緒に出かけ、地べたを這い回るようにし
	て鉄滓や土器片・須恵器を拾い集めて、現場で地形をスケッチして遺物の採取地を記入して大場宅に運びこんだものだった。
	大場先生はその前年に、中国湖南省にある前漢時代の大製鉄コンビナートの報告書『鞏県鉄生溝』を翻訳し出版していた。
	先生は私に、日本の古代製鉄を知るには中国漢代の考古と歴史を勉強しなければならぬと言い、中国の雑誌『考古』『文物』
	『考古学報』の購読を勧め、さらにその頃、中国で出た『中国冶金簡史』(北京鋼鉄学院編著)を「・・自分で訳してみた
	ら」といわれた。「・・九州の考古学者はまだ誰も鉄滓に関心を持ってないが・・」といわれた。大場先生のその言葉にう
	ごかされて、私はそれから1年かけて中国語辞典一冊だけで『中国冶金簡史』を読み、2冊のノート稿にまとめた。それは
	間違いだらけの訳文で、人に見せられるものではないが、なぜこれを書くかというと、この中国冶金簡史のなかに、後漢代
	に発明されたという「炒鋼法」(溶融状の鋳鉄の炭素を減らして鋼にする方法)が詳細に記述されていたからである。

	「韓鍛(からかぬち)・卓素(たくそ)の系譜」(注1)

	文献資料を読まない考古学はダメだという大場先生の助言で、私は竹内理三編『寧楽遺文』(上下)などを買い、先述の
	「大宝二年筑前国嶋郡川辺里(かわなべのさと)戸籍」などを調べて、律令期の筑前嶋郡で「韓(から)鍛治(かぬち)」・卓素
	が製鉄をしていたという最初の史論を発表した。(注1)
	この川辺里(かわなべのさと)戸籍に出てくる人物で、戸主「嶋郡大領」「肥君猪手(ひのきみのいのて)」の庶母の氏名は、
	渡来系氏族の尊称である「吉士」を名字の下につけた「宅蘇吉士須彌豆売(たくそきしすみずめ)」という。また正妻のほか
	に三人いる妾(めかけ)のなかにも「宅蘇吉士橘売(たくそきしたちばなめ)」がいる。この「嶋郡大領」の母方と、妾の実家
	が「宅蘇吉士」なのである。「宅蘇吉士」の所在地を知る資料はない。しかし当時の糸島には、嶋郡と怡土郡があり、その
	怡土郡の中心地が現存する怡土城内の高祖神社のある「高祖(たかす)」の地ではないかと思う。いまの高祖(たかす)という
	地名は、古文献の「高杜(たかこそ)」「宅蘇(たくそ)」「卓素(たくそ)」に通じている。つまり『古事記』に出てくる渡来
	製鉄工人「韓鍛・卓素」が最初に定住した地に、その氏の名をとった「卓素・宅蘇」の地名が付き、やがて「宅蘇」氏が渡
	来氏族だったので名字の下に「吉士」が付き、律令の戸籍に引き継がれたのではないか。

	「壬辰年韓鐵□□」の木簡が出土する30年前に、私は、古代の文献資料から、律令期の筑前国怡土郡で「韓(から)鍛治
	(かぬち)」・「宅蘇吉士(卓素)」が製鉄をしていたという論文を書いたのである。

	(注1)金達寿編集『日本のなかの朝鮮文化』24号1974年。

   	遺跡の保存

	低チタン分の砂鉄を使った箱形炉による製鉄技術の解明には、この遺跡のすべての遺構と遺物に対する冶金学的研究が必要
	になってくる。この遺跡の発掘調査は終わり、一時的に土俵で埋め戻されているが、保存のメドがたっているわけでわない。
	技術上の解明はこれからであり、今後、冶金学、金属学、鉱山学など専門家をそろえた研究体制を作っても二、三十年はか
	かるに違いない。世界に冠たる日本刀をつくった、たたら製鉄技術を解明できる遺跡は「世界遺産的価値がある」といって
	も過言ではない。


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	韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡― (抜粋)

													服 部  英 雄 

	1−3 川辺里戸籍

	 正倉院文書・川辺里戸籍は大宝元年、(元岡)桑原木簡の翌年、大宝二年作成の戸籍で同時代である。この戸籍から知ら
	れる氏姓は肥君78名、宅蘇吉志2名、生君2名、卜部84名、物部63名、葛野部43名、大家部25名、建部19名、大神部12名、
	中臣部11名、搗米部10名、己西部(許西部・許世部)9名、額田部6名、生部4名、難波部・秦部・宗形部各2名、出雲部
	・宇治部・吉備部・久米部・宗我部・財部・多米部・平群部各1名となっている。
	川辺里の位置については馬場、元岡など諸説があるが、決定を見ない。戦国時代には川辺村(河名部村)は元岡村とは別に
	書かれているから(天正十九年三月廿三日志摩郡田畠検地帳、朱雀文書『筑前国悟土庄史料』 243)、元岡地域ではあるま
	い。古代川辺村住人は生君・生部であれば、生(壱岐)苗字であって、地位によって君であったり部であったりもした。
	川辺里での多数派は卜部84名であり、それに次ぐのが肥一族で、君が78名いた。さらには物部63名、葛野部43名、大家部25
	名が目立つ。
	肥君には大領となるものがいて(猪手は戸籍に、五百麿は承和八年(841)正月十六日筑前国牒案にみえる)、中臣部氏に
	は少領になるものがいた(加比・『続日本紀』和銅二年(709)六月二十日条)

	 元岡桑原木簡にて、上記戸籍と一致する人名は下記の通りである。

	●葛野部・難波部・大伴部・額田部・久米部・建部・己西部・中臣部・大神部

	*『和名類聚抄』郷名との一致については後述する。

	 墨書土器は大宝木簡が出土した20次調査にて80点が出土、報告書8にあるように、案主(3点)、乙猪(5点)、鳥足
	(島足)、万、鞍手、常石田(2点)、刀山もしくは刀山下(3点)、田□、長山、道作(道も含めて3点)、山、田、関、
	加水作もしくは架作・加木作、字(2点)、作・作善(35は弥□の可能性もある)・善、依、福、日日日日、の、守、桑、
	大口、夫もしくは夷、秦もしくは奈、□四□(50)、少、古、三□と読むことができる。報告書では読みがないが、7次2
	18は昼、287は弖であろう(12,92頁)。刻書土器には廿、申、大、井力がある。
	 刀山下については遺跡地が戸山(外山)谷、西の山が戸山(外山)であるから、当時からトヤマと呼ばれていたようだ。
	すると桑も桑原かもしれない。
	(Kyushu University Institutional Repository (QIR))

	論文の全文を読む(PDFファイルです。)

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	「アイヌ・カラカンチ」と韓鍛冶	1984年3月8日付毎日新聞(夕刊)より転載 

	奥野正男(おくの・まさお:筑紫古代文化研究所代表)

	日本最古の戸籍史料の一つである大宝二年(702)「筑前国嶋郡川辺里」の戸主・「肥?君猪手(ひのきみのいて)」は、
	奴婢37人を私有する郡大領(郡長)で、その庶母、妻妾の出身氏族が「宅蘇吉志(たくそきし)」である。「吉士(志)」
	は、良馬をもたらした「阿知吉士」や論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」(『古事記』)など、渡来
	氏族固有の姓(かばね)あるいは尊称といわれる。『古事記』では、このとき「韓鍛冶・卓素」も渡来したと記している。
	 戸籍断簡の「宅蘇吉志」は、東大寺文書などで、今の前原町高祖(たかす)に本地をおく氏族とみられ、ここにある高祖
	神社につながり深い伊都県主(あがたぬし)は新羅王子・天日桙(あめのひほこ)の末裔という伝承が『風土記』(逸文)
	に残されてもいる。
	 早良平野の郡司層が名前をだす史料は、天平宝字二年(758 )の「観世音寺早良奴婢進?入状」で、これは一種の奴隷売
	買の証文である。内容は、早良郡額田(ぬかた)郷(現野方)の戸主で擬大領の「三家連(みやけのむらじ)豊継」が、観
	世音寺から借り分の稲千二百余束の代りに、自分が所有する奴婢五人を差し出したもので、擬少領(次長)の「早良勝(さ
	わらのすぐり)足嶋」が証人として名を連ねている。この「勝」は「村主(すぐり)」と同義で、やはり渡来氏族の姓であ
	り、大領の「三家=三宅」氏も、『新撰姓氏録』によれば、天日桙の後裔とされる。
	 こうしてみると、八世紀代に糸島や早良地方でさかんに製鉄が行なわれた頃の郡司層は「吉士」や「勝」をなのる渡来系
	豪族であり、しかも彼らはまだ多数の奴婢を私有するなど、前代以来の支配を温存している在地性につよい豪族だったとい
	える。彼らの下には製鉄・製塩などに直接たずさわる工人集団が掌握され、その多くは雑戸といわれる身分に属していたら
	しい。





下総国 葛飾郡大嶋郷・倉麻郡意布郷・■托郡山幡郷 戸籍
			■=金+千



	このHPをupした直後、私もよく投稿している掲示板に、東京のコマツさんから以下の投稿があった。なんとまぁ、寅さん、
	サクラだという。山田洋次監督がまさか古代の戸籍について知っていたとは思えないが、実に面白い符合ではある。

	下総国戸籍 投稿者:コマツ  投稿日:2012年 6月27日(水)14時42分3秒

	木簡の戸籍の話が筑前さんからありましたが、今日の読売新聞に下総国戸籍の記事がありました。早速、市川市の文化セン
	ターで事業報告書を手に入れました。下総国葛飾郡大島郷の嶋保里は、葛飾柴又の川向こうですが、当時からトラさんとい
	う名前が多かったようで、何人も出てきます。刀良と書いたようです。さらにサクラという名前もあります。こちらは佐久
	良買(サクラメ)と書かれています。氏は孔王部(あなほべ)という家が多いようです。日本書紀に出てくる穴穂部に関係
	するのでしょうか。じっくり読むと面白そうです。
	写真は1ページ分のコピーと、刀良と佐久良買の家族の拡大コピーです。トラは10才、サクラは29才と記されています。
	隣の家だったのかしら。





早速コマツさんに連絡して、市川市から購入してもらった。コマツさんありがとうございました。



写真編の最初に載っている戸籍。下はその裏側に書かれた「常疏料紙収納帳」。裏表の透け具合もきれいにわかる。



下3枚はコマツさんがscanして送ってくれたものです。



同じように「下総国印」が全面に押されている。統一した書式があったのだろうか。(解説を読むと統一書式はないらしい。)

 

トラ(刀良)の他にトラメ(刀良賣)というのもいる。      こっちがサクラ(め:佐久良賣)。




柴又の古墳から出土した「寅さん埴輪」。この地はそうとう昔から「トラさん」と縁が深い。



上記2枚の写真は、いずれも「博物館巡り」の「葛飾区郷土と天文の博物館」から転載。


	ご覧いただいたように、葛飾郡大嶋郷の戸籍には「孔王部」(あなほべ)という姓が多い。というか、殆どこれしか載って
	いない。大嶋郷には、甲和里、仲村里、嶋俣里の3つの里があり、総戸数130戸1191人分の戸籍があるが、その殆ど
	は孔王部である。他には、私部(きさいべ)が27人、刑部(おさかべ)が18人、三枝部(さえぐさべ)5人、礒部(いそ
	べ)2人、壬生部(みぶべ)一人、石寸部(いわれべ)一人、小長谷部(こはつせべ)一人、藤原部(ふじわらべ)一人、
	日奉舎人部(ひまつりとねりべ)一人、となっている。残りの1,134人はすべて孔王部であり、実に95%が孔王部なのだ。
	これが倉麻郡意布郷になると、藤原部が圧倒的で、後は占部、土師部、大伴部などが散見されるだけで孔王部は皆無である。
	■(金+千)托郡山幡郷では、戸籍数も少ないが全員壬生部だけで、孔王部も藤原部もいない。これは何を物語るかという
	と、おそらくは同族を中心に郷が形成されているからだろうと思う。
	ちなみに大嶋郷には、トラ(刀良)が4人、サクラ(佐久良賣)が一人いる。また大嶋郷甲和里は現在の江戸川区小岩、大
	嶋郷嶋俣里は葛飾区柴又に比定する説が有力なようだ。

	戸籍の内容は筑前国で見たものとほぼ同じである。戸主、戸主との続柄、官職名、課税非課税の区分、奴婢、などだが、筑
	前国にあって下総国の戸籍にないものは、口分田等耕作地の面積に関する記載である。また妾の数も少ない。130戸の戸
	長のうち妾三人を持っているのが1人、二人持っているのが3人、一人だけ持っているのが6人いる。筑前国の、殆どが妾
	を持っているのに比べると圧倒的に少ない。耕地面積の記載がないことと併せて考えてみると、筑前国の方が経済的には恵
	まれていたと考えられるのではないか。どっちの戸籍も大宝二年(702)に作られているので、全く同じ時期である。


	孔王部	出典:ウィキペディア

	  この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
	  信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。 2011年12月にタグ付け
	  ほとんどまたは完全に一つの出典に頼っています。 2011年12月にタグ付け
	  マークアップをスタイルマニュアルに沿った形に修正する必要があります。 2011年12月にタグ付け

	孔王部 [1](あなほべ)は、安康天皇の御名代部として設置した穴穂部(あなほべ)に始まった御名代部である。第二十代
	安康天皇が近江国穴太村に穴穂宮を建て、そして、自らを穴穂天皇と称した。この穴穂部は、安康天皇の崩御後に第二十一
	代雄略天皇が十九年紀(480)に詔して置いた安康天皇の御名代部である。

	孔王部の支配管掌

	下総国猿島郡伏木村字穴太(あなほ)の孔王部や、葛飾郡大島郷の孔王部を支配管掌したのが下海上国造(しもつうながみ
	のくにのみやっこ)の孔王部直(あなほべのあたい)である。

	所在地

	 「葛飾郡八島郷。同郡大島村ナルベシ。和名抄ニ、傍訓ヤシマトアレド、誤字ニスガリシ訓ニテ、證トハナシ難シ。養老五
	年ノ戸籍ニ、(京師穂井田忠友ヵ所蔵)下総国葛飾郡大島郷河和里云云トアリ。忠友云、和名抄ノ八島ハ、大島ノ誤リナル
	ベシト。(東大寺古記モ大島ニ作レリトゾ)大島村ハ、杉戸宿ノ傍ニテ、養老戸籍ノ河和里、即兵部式ノ河曲ニテ、杉戸駅
	西ニ、上中下川埼、東西大輪等ノ村アリ、其名残ナラン。今ノ杉戸宿ハ、河曲駅ノ移レルナルベシ。」とある。[2]「正倉院
	古文書正集 第二十一巻」に収録された721年作成の「下総国葛飾郡大島郷」の戸籍の大島郷は、上高野村(現、埼玉県幸手
	市)の甲和里、下高野村及び大島村(埼玉県杉戸町)の仲村里、鷲宮村(現、埼玉県久喜市)字穴辺の嶋俣里の地域を指す
	ものと考えられる。[3]

	根拠

	第1に、田数注文の古文書である檪木文書によりますと、葛飾御厨には、嶋俣(しままた)・今井・東一江(ひがしいちの
	え)・・・という地名が登場し、嶋俣(現在は地名喪失)に隣接して今井があった。この嶋俣は柴又とは約7km離れている。
	第2に、下高野村(埼玉県杉戸町)の永福寺龍燈山伝燈記に戸籍の仲村里の里正孔王部堅の伝承がある [4]。ちなみに、そ
	の伝燈記から孔王部堅の系図は「堅は後剃髪授戒し慈航沙弥と号し、天平三辛未年七月十五日示寂す。堅の室は瑞枝売と云
	ふ、大島郷長孔王部醜男の姉也(戸籍の志己夫)、天平勝宝四年十一月十五日逝去し、法名を寂照尼と号す。堅の嫡男を高
	毛野と云ふ、空智沙弥と号し、天平勝宝五年死す。高毛野の子宗麿は信暁沙弥と号し、自宅を捨て梵刹と為し、阿弥陀寺と
	号す、延暦元年死す。宗麿の子貴は智満沙弥と号し、天長五年死す。堅五代の孫高野成房(貴の子)は天安元年死す。高野
	成房の男良康あり。」である。第3に、『義経記』巻二に「下総国高野の領主は陵兵衛(みささぎのひょうえい)と申し候」
	と登場する、高野村豪族陵兵衛は、孔王部の末裔であって、陵戸を支配管理したと考えられる [5]。この陵兵衛は、尊卑分
	脈では、深栖三郎光重の子、堀三郎頼重(諸陵頭)と見え、また、平治物語に深栖三郎光重が子に、陵助重頼といふ不肖の
	身にて候へ供、源家の末葉にて候、と登場する人物である。[6]

	脚注

	[1]. 埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.273 平成16年10月30日発行
	[2]. 下総国旧事考巻七 清宮秀堅穎栗著 p.293
	[3]. 埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.275-276  平成16年10月30日発行
	[4]. 埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.276-277 平成16年10月30日発行
	[5]. 埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.276  平成16年10月30日発行
	[6]. 埼玉苗字辞典 茂木和平著 p.7386  平成16年10月30日発行

	参考文献
	埼玉苗字辞典 茂木和平著 平成16年10月30日発行


	この他解説書には、孔王部と穴穂部(あなほべ)に関する論評、藤原部、大伴部など中央豪族とのつながりに関する考察、
	古代地名と現在地との比定など、多くの情報が載っているが、少々疲れてきたので、残りの考察はまた、後日時間があれば
	追加したいと思う。古代戸籍に気が向いた方は、以下の参考文献ほかで調べてください。古代の風俗も窺い知れて、なかな
	か面白いこと請け合いです。

	<参考文献>

	・『日本の神々1』(白水社)高祖神社:奥野正男)
	・『日本の歴史』5 古代豪族 小学館 青木和夫編
	・郷土歴史シリーズNO.3「川邊里戸籍」さわらび社 岡本顕實著
	・市川市史編さん事業調査報告書「下総国戸籍」平成24年3月9日発行
	・伊都国歴史博物館の「玄界灘を制したもの −伊都国王と宗像君−」パンフレット(抜粋)



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