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平成10年1月10日付けの各紙朝刊は、奈良県天理市にある黒塚古墳から三角縁神獣鏡(さんかくぶち(えん)しん じゅうきょう)が32面出土した事を一斉に報道している。この鏡は、卑弥呼が魏に朝貢した際貰ったとされる鏡(魏 志倭人伝には汝の好物鏡を100枚与える、とある。)であるかどうかを巡って、長い間論争の種となってきた鏡であ る。これを魏の鏡であるとする者は、近畿に多く出土する事から邪馬台国は近畿(大和)にあったとし、九州説論者は 三角縁神獣鏡は国産製品であるとして、これは卑弥呼が貰った鏡ではないと主張してきた。最近大和説論者の中にもこ の鏡を国産であるとする者が出始めているが、それでも伝統的に、大和説論者は三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡とし、九州 説論者は関係ないとしてきたのである。そのような事情で、1月10日の発表は近畿説論者にとって最大の援護射撃と なった。各新聞の見出しもセンセーショナルに邪馬台国は奈良だった!とか、とうとうでた! 卑弥呼の鏡というよう な近畿説を補強する感じのものが多かった。 勿論、九州説論者も反論していたのであるが、32面出土!という勢いにやや押され気味の感は否めない。(1月17 ・18日には、黒塚古墳の現地説明会が行われたが(18日午後は雨のため中止)その模様は10.遺跡・旧跡・博物 館の旅のコーナーの7.大和・天理黒塚古墳でレポートしてある。)
そのような中、1月28日に毎日新聞の主催で緊急報告会が開催された。毎日新聞大阪本社のオーバルホールで、発掘 にあたった奈良橿原考古学研究所の調査研究部長河上邦彦氏による発掘調査の報告と、河上氏と文化財担当記者の討論 という形で、約2時間半に渡る報告会であった。
河上氏は、黒塚古墳はまだ発掘終了直後であり、今から研究が始まるので詳細はなにも分かっていないと前置きしなが らも、個人的な意見を交えて以下のような報告をした。(要旨のみ。) 発掘の状況と成果 三角縁神獣鏡は、木棺の廻りに鏡の面を内側(被葬者側)に向けて立っていた。しかも頭部の廻りを囲むように配置さ れていた。これは、今回と同じように三角縁神獣鏡が32枚出土した、椿井大塚山古墳の発掘時の伝聞と同じである。 椿井大塚山古墳でも鏡が石室の側面に立っていたという。また頭を挟んで両側に鏡が立てられていた例もあり、これは、 使者の魂を守る或いは封じ込めるというような役目を持っていたのではないか。即ち、古墳時代前期の鏡は、ただ副葬 品として埋葬されたのではなく、ある種の葬祭具であった可能性が高い。 今回の発掘の最大の成果は、古墳時代前期前半の、埋葬状況がほぼ完全な形で出土した事である。副葬品の位置なども はっきりした。盗掘を免れた希有な例であった。又鏡は一枚一枚布で覆われていた可能性があるが、これについては現 在分析中である。 三角縁神獣鏡について 三角縁神獣鏡は国産品である。中国から1枚も出土しないという事はもっと重視すべきである。私が中国で調べた鏡の 殆どは、もっと小型で、三角縁神獣鏡のように大きく重いものはない。元来中国での鏡の用法は化粧用具であって、日 本のように祭具に用いていたわけではない。私は他の大和説論者と違って、この鏡は日本人が造った、或いは日本人が 指図して渡来人が造った、と考える。では、卑弥呼の鏡はどれかという事になると、内行花文鏡(ないこうかもんきょ う)、方格規矩鏡(ほうかくくききょ う)等の中国製の鏡がそれだろうと考える。 邪馬台国について 邪馬台国は近畿、それもこの大和古墳群のある天理・桜井地方に違いない。卑弥呼の墓は、前方後円墳の箸墓(はしは か古墳だと思う。魏志に言うところの径百余歩という卑弥呼の墓は、ちょうどこの古墳の円墳部分の直径に匹敵する。 この古墳の前方部分と円墳部分は、築造された年代が違うのではないか。前方部は後から付け足したものであろう。又 下池山古墳の鏡についていた布は、幻の布といわれる倭文(しどり)ではないかと考えられ、卑弥呼が魏へ贈った班布 という布がこれに当たる。これらの点からも、邪馬台国は大和であり九州では有り得ない。 三角縁神獣鏡の畿内分布について かって小林行男氏が、三角縁神獣鏡が近畿に広く分布している事について、大和朝廷が征服した各地の有力者に傘下に 入った証として配布したという説を唱えられたが、これはおかしい。どうして征服した者が征服された側に御下賜を配 る必要があるのか?むしろ反対に、征服された者が服従の証に献上するほうが自然である。そうではなくて、中国の皇 帝が亡くなった部下に葬具一式を配るのを真似て、大和の大王は鏡を葬祭具として地方の有力者に配ったものではない かと考える。その力の有力度において三枚とか五枚とかの差をつけたのではないか。だから各墳墓から出土する鏡の枚 数もまちまちなのであろう。
項目 | 内容 |
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所在地 | 奈良県天理市柳本町 |
調査主体 | 大和古墳群学術調査委員会 |
調査期間 | 1997.8.11〜 |
立地 | 櫛山・行燈山(崇神陵)のある尾根の先端部 |
墳丘 | 前方後円墳 全長 約130m 後円部径 約72m 高さ 約11m 前方部幅 約60m 高さ 約6m |
埴輪 葺石 | なし なし |
石室 | 合掌式の竪穴式石室 長さ約8.3m 小口幅約1.3m〜0.9m 高さ約1.7m 割竹形木棺(長さ約6.2m 直径約1m) |
遺物(棺内) | 画文帯神獣鏡 1面(13.5cm) 刀剣類 3点 水銀朱 |
遺物(棺外) | 三角縁神獣鏡 32面(直径22〜24.5cm) 刀剣20点以上 鉄鏃 一括 工具各種 一括 U字形鉄製品 2点 小札(甲冑) 100点以上 漆塗り製品 |