Music: Please Mr.Postman










	魏志倭人伝には、倭には馬がいないと記されている。しかし縄文時代の貝塚から馬の骨は出土しているので実在は信じられ
	てきた。馬がいなかったはずはない、魏の使者は見逃したのだ、いや倭人が隠したのだ、居たとしても数が非常に少なかっ
	たのでたまたま使者の目にふれなかっただけだとか、馬を巡る論議は昔からさまざまな憶測をうんできた。だが最近の科学
	的な調査(フッ素分析法)によると、どうも馬ではない可能性が高いようである。続く弥生時代の馬に関しても否定的な結
	果が得られている。となると魏志倭人伝は正しかったかもしれないのだ。弥生時代まで、日本には馬が居なかった可能性が
	ある。ただ馬に関する道具(青銅製車馬具)については、その一部が長崎県、山口県の弥生時代の遺跡から数例出土してい
	る。しかしこれを以て馬が居たとは断定できない。明らかに縄文や弥生の地層から馬と断定できる出土例を待つしかないが、
	出土しない可能性のほうが高そうである。






	では一体何時頃日本に馬が入ってきたのだろうか? はっきりと馬そのものの遺骸が確認できるのは5世紀の中頃(西暦450
	年前後)、宮崎県六野原地下式横穴墓群8号墓から出土した馬で、轡(くつわ)を口に装着したままの姿で墓に葬られてい
	た。以降九州では、6世紀の後半までは宮崎県や熊本県を中心に馬を殉葬する例が多く、それ以後は福岡県小郡市周辺で多
	く見られるようになる。
	5世紀後半から6世紀後半にかけては、大阪の東大阪地方、生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡から、馬の骨の出土例が31を数
	えている。
	四条畷(しじょうなわて)市では、5世紀中頃から6世紀中頃と見られる奈良井遺跡から6頭以上の馬の骨が発見され、う
	ち1頭は丁寧に板の上に乗せられており、周辺に馬型土製品やミニチュアの人形などが出土している。この時代、馬を祭祀
	用に葬った事が推定できる。
	又5世紀代の馬の骨は、長野県飯田市を中心とする伊那地方からも多く出土しており、伊那地方にも早くから馬がいた事が
	わかっている。馬具が確認されるのは4世紀末から5世紀初頭にかけてである。九州地方が最も早く、現在の所一番古い馬
	具は福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳や福岡市老司3号石室から出土した轡(くつわ)、鞍金具、ホ具等であろうと言われ
	ている。5世紀初頭と言われるが、学者によっては4世紀中頃或いは末期と言う説もある。

	馬具は馬とともに、大陸から一番近い北部九州にまず伝わり、その後全国へ拡散していった事は想像に難くない。5世紀以
	降は、馬の遺骸とともに各地の古墳から出土するし、又、馬の骨は伴わなくても多くの古墳から馬具は夥しい数で出土する
	ようになる。明らかに馬と馬具は、古墳時代になって同時にドッと日本に出現するのだ。












	各地の古墳から出土する馬具を見ているとその類似性に驚く。又伝播の速度に付いても考えさせられる。古墳時代という期
	間の短さを考えると、モデルの馬具をまねて日本のどこかに馬具を製造する場所があったとしても、その技術が伝播してい
	ったとは考えにくい。宮崎県から埼玉県に至る地域に類似する馬具があるという事実は、馬具が伝播していったと考えるよ
	り、馬具を使用していた人間達が馬とともに日本列島を駆け抜けていったと考えるほうが自然である。つまり、馬を携えて
	大陸から来た渡来人達が、その馬に乗って日本中に拡散し各地に彼らの居城を築き古墳を築いたのだ。江上波夫博士の「騎
	馬民族征服説」はそういう着眼点からの発想であるが、渡来人の急速な日本列島内拡散は認めるが、果たして彼らに日本民
	族が征服されたかについては異論のほうが多く、今のところ、この説は学会では主流ではない。




	【新開古墳】
	
	滋賀県栗太郡栗東町安養寺。5世紀から6世紀にかけて築造された安養寺古墳群の1基。直径36mの円墳もしくは 50-70mの
	前方後円墳で、少なくとも2基の木棺直葬。木棺内から、当時最新の鋲留眉庇付冑、鋲留短甲、皮綴衝角付冑、皮綴短甲な
	どの武具、鉄剣・鉄鏃などの武器、玉類などが納められており、棺外に鉄剣・楯、馬具一式が副葬されていた。馬具として
	は、鉄地金銅透彫鏡板付轡1組、金銅ホ1点、鉄板装木製鞍1点、木芯鉄板被輪鐙2組、青銅製馬鐸2点、青銅製三環鈴2
	点、鉄製辻金具11点、鉄製ホ具12点、十字形蛇行状鉄器1点。馬具と、武具・武器とのセット関係がわかる重要な資料であ
	る。


	【御獅子塚古墳】
	
	大阪府豊中市南桜塚。全長55m、後円部直径35m、高さ4mの、2段築成の前方後円墳。周囲に濠を巡らす。1段目のテラスに
	円筒埴輪と朝顔形埴輪が立てて並べてあり、後円部に2つの木棺があった。第一主体部木棺の棺外に馬具と楯が置かれてい
	た。棺内には獣形鏡、刀剣などの武器、武具としては三角板鋲留短甲、小札鋲留衝角付冑、玉類、鉄製農工具が副葬されて
	おり、第二主体部棺内には、三角板鋲留短甲、鉄地金銅装眉庇付冑の武具と、鉄鏃、鉄鉾、鉄刀などが副葬されていた。









	【珠城山1号墳】
	
	奈良県櫻井市大三輪町穴師。三輪山から北西に伸びる丘陵上にあり、3基の前方後円墳で珠城山古墳群を形成している。
	全長45m、後円部直径22m、高さ5mの前方後円墳。後円部の、組み合わせ式箱式石棺を設置した横穴式石室が埋葬施設となっ
	ている。馬具は石棺の周辺から2セット以上出土し、鉄地金銅張楕円形杏葉1点、剣菱形杏葉5点、前輪・後輪の磯金具1
	組、雲珠・辻金具13点などが確認されている。他にも玉、ガラス玉、武具、武器が出土している。


	【珠城山3号墳】
	
	全長48m、後円部直径25m、高さ5mの前方後円墳。前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室を持ち、後円部の石棺には2基の家
	型石棺が置かれていた。馬具は、鉄地金銅張心葉形鏡板1点、心葉形杏葉1点、辻金具1点、鉄製輪鐙1点、が出土し、金
	銅製ホ具、鉄製ホ具、雲珠、鞍金具などの破片も後円部の玄室から出土した。他には太刀4点、桂甲小札 212片などが残さ
	れていた。











	【狩口台きつね塚古墳】
	
	神戸市垂水区狩口台7丁目。直径約26mの円墳で、直径約52mの周濠を廻りに巡らせている。明石海峡に向かって両袖式の巨
	石横穴式石室が開口し、玄室に家型石棺が設置されていた痕跡が残っていた。馬具は、鉄地金銅張花形鏡板付轡1点、花形
	杏葉3点、辻金具5点、雲珠1点、飾金具9点、鞍金具大小各1点、鉄製素環鏡板付轡1点、が出土。他に刀1点、刀子1
	点、鉄鏃50点、釘6点、および、用途不明なその他の金属製品が若干残っていた。家型石棺はかけらだけが残存しており、
	山田川流域に分布する後期古墳の中でも最下流に位置し、その規模と内容は他の古墳を圧倒している。









	【藤ノ木古墳】
	
	奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目。直径約40m、高さ約8mの円墳。横穴式石室の玄室に家型石棺を用いている。出土品は多
	量で、馬具は特に完成度も高く、美術品としての価値も高い優良品である。鉄鏃809点を初めとする武器、桂甲などの武具、
	鉄製ミニチュア農機具、滑石製臼玉などの副葬品とともに、馬具は3つのセットになって出土した。1のセットは金銅製で、
	心葉形鏡板付轡1点、円形飾金具1点、前輪・後輪の鞍金具、障泥2点、鐙2点、棘葉形杏葉17点、歩揺付尻繋飾金具46点、
	龍文飾金具8点、心葉形飾金具4点、帯先金具10点、革帯飾金具21点、金銅製ホ具10点から構成されている。2,3のセッ
	トは鉄製であるが、数量的にはやや1番目のセットに劣るものの、内容はほぼ変わらぬ馬具類を備えている。しかし特に第
	一のセットは、その装飾から見てシルクロードを彷彿とさせるものがあり、仕上がりも緻密で当時の最先端の技術を駆使し
	て製作されたと推定され、芸術的ですらある。























	
	「日本書紀」の孝徳天皇大化二年三月の条に、「葬儀は簡略にして墓は縮小しろ。」といういわゆる「大化の薄葬令」と呼
	ばれる詔(みことのり)が発せられた話が載っている。

	この中に墓への副葬品を禁じたり、殉死を禁じたりした話と、殉馬も禁止という箇所がある。殉馬という言葉があるのかど
	うかは知らないが、要するに主人の死に殉じて馬を殺す事はやめよ、という事である。という事は、それまでそういう風習
	があって、しかも詔を発してまで禁止しなければならない程、その習慣は世間に蔓延していたという事になる。又「播磨国
	風土記」の中には「自分が死んだら馬も一緒に葬ること」という話が載っている。5世紀、6世紀に古墳から馬の骨が出土
	するのはこの風習によっている。

	現在までの所、古墳から馬の骨が出土するのは宮崎県から青森県まで約 150例が確認されているが、馬が全国的に普及する
	のは6世紀になってからであり、7世紀になっても馬を葬った土抗は発見されている。












































	これまでに発見された馬具は約6000セットとも言われている。しかもその殆どは古墳の副葬品として発見されているのであ
	る。つまり意図的に埋められたものだけしか残っていないのだ。当然埋められなかったものもある事を考えると、古墳時代
	の終末期辺りには相当数の馬が日本にいたと考えられる。弥生時代の終わり頃日本に馬を運んできた渡来人達は、2,300年
	の間に馬を日本中に拡散したに違いない。
	「日本書紀」には、大阪の東大阪一帯に「馬飼」という一団がいて、馬の飼育に従事していた事を窺わせる記事があるし、
	東大阪市歴史資料館に行くと、馬になめさせる為の製塩技術の痕跡や、その一群が渡来人であった事が推定できる韓式の土
	器や竈(かまど)が現存している。又信州地方にも、馬飼の集団がいたであろう事を想像できる遺跡があるし、ずっと後世
	に至るまで信州は馬の有力な産地であった。
	他にも日本中のあちこちに、馬の飼育に従事していた渡来人、或いは渡来人と融合した日本人がいたに違いない。

	初期に、馬や馬具を船に積んで玄界灘を渡って来た渡来人達は、どんな思いで「倭」のクニを目指してきたのであろうか。
	又、どんな船に馬を積んで来たのだろう。何頭くらいの馬がまず日本に到着したか? 馬具はその後日本で作られるように
	なったのだろうか。
	だとすればそれは何時の頃か? 騎馬民族は本当に日本へやってきたのか? 多くの疑問に対してまだ明確な回答は出てい
	ない。しかし、これだけははっきりしている。

	渡来人がもたらした馬たちは、大陸や朝鮮の文化や血脈を日本中に拡散する文字どおり原動力として、日本の「古墳時代」
	を駆け抜けていったのである。









	私は自分の管理する掲示板(おもしろい古代史の掲示板)には殆ど書き込まないのだが、その他の2.3の掲示板では常連
	である。
	東京の久保田さんが主宰する「国分寺友の会」というのがあって、その掲示板で久保田さんから、馬の起源についてのご質
	問があった。以下、その時のやりとりから。

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	馬ですが、 投稿者:筑前  投稿日: 4月18日(日)21時27分21秒 
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	日本にいつ頃から馬が居たかというのは今の所まだはっきりしていません。アジア大陸と陸続きの時代に大陸から渡来した
	ものが野生馬として残ったという説や、もともと日本には馬は居ず、古墳から馬具が発見される事実からもわかるように4
	世紀末−5世紀にかけて騎馬の習慣を持つ民族が半島から馬を連れてきた、という説などがあります。
	記録には応神天皇の4世紀に百済から、6世紀後半の持統天皇や文武天皇の時代にも新羅から馬が持ち込まれていますので、
	贈答品に値する貴重なものだったのは確かなようです。天智天皇の軍馬育成、天武天皇の騎兵の制、朱雀天皇時代の競馬、
	鎌倉時代の乗馬での武技などが記録に見えます。また室町以降には、蒙古馬やアラブ馬を輸入したという記録も在るようで
	すが、今、発掘される古代の馬の骨はほとんどがポニー馬です。大阪で発見された平安時代の馬の骨も、125-140cm
	です。ポニーとは体高147cm以下の馬のことを指す総称で、日本の在来馬である木曽馬や御崎馬などもポニーにあたりま
	す。現在、日本の在来馬といわれているものは、トカラ馬、御崎馬、木曽馬、野間馬、北海道和種馬(ドサンコ)、対州馬、
	与那国馬、宮古馬の8種で、これらは明治になるまで日本の馬の主流を占めていたようで、そのオリジンは蒙古馬にあるよ
	うです。
	勿論、昔の日本人が外来の馬を知らなかった訳ではありません。豊臣秀吉はポルトガル国王からアラブ馬をもらい、秀吉の
	所有する馬が駄馬に見えるくらい、当時の日本にはいない立派な馬だったようですが、その馬は日本馬の改良に利用される
	ことはありませんでした。なぜだと思います?
	思うに日本人の身長と関係しているハズです。当時の日本人には、今見るサラブレットのようなアラブ馬には乗るのも苦労
	したのではないでしょうか。日本人の平均身長(男)が150cmを超えるのは昭和初期で、学者によっては戦後という人
	もいます。
	江戸時代には、馬の改良が各藩独自で進められ、なかでも南部、仙台、三春、薩摩などの藩は馬事振興に熱心だったようで
	す。馬の売買をする馬市は中世に始まり、江戸時代ともなると仙台や盛岡など各地で盛んに開かれるようになっていきます。
	8代将軍、徳川吉宗の時代には馬と共にケイゼルという馬術家も来日しました。彼は馬術の他にも装蹄や去勢の知識を伝え
	てくれたのですが、どういうわけか、この馬術と馬の施策はまったく普及していません。テレビの時代劇を見ると、武士が
	大きなサラブレッドに乗って山野を駆けめぐる光景を見ますが、あれは嘘です、本当はもっともっと小型の在来馬に乗って
	いたのです。幕末になって、15代将軍、徳川慶喜は、ナポレオン3世からアラブ馬26頭を寄贈されています。このころ
	から日本の馬は今の馬に近くなります。
	それは、明治政府が、軍馬としての馬の大型化を指示し、小型の日本在来馬の種付けを制限したのです。徳川慶喜が貰った
	馬のうち、牝馬「高砂」は、現在もアラブ競走馬の主流を成しています。明治時代からは戦争目的から、日本馬の体高向上
	のため馬政第1・第2計画により大型の輸入馬が導入され、短期間に飛躍的な馬体改良が行われて今に至っています。第2
	次大戦後は軍用馬から農耕馬に利用がかわりましたが、ほぼ10年くらいで馬の代わりに機械が導入され、現在では、馬は
	一部肉用のほか競走馬や一部乗馬の利用が一般的となっています。牛は歴史上の殆どで労働力として使われ、現在は食肉と
	乳牛以外には使い道はない状態です。牛は可哀相ですよ。


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	再び、馬について 投稿者:筑前  投稿日: 4月23日(金)13時06分55秒 
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	コマツさん、久保田さん、馬に乗れるんですか。いいですね。私はまだ馬に乗ったことがありません。そういえば、畜産大
	に行っている娘は馬を解剖したと言ってましたね。久保田さん、中国の馬について以下のような記事を見つけました。

	「武帝は、張騫の帰国前の前129年に衛青(?〜前 106)に1万騎の兵を援けて出撃させた。衛青は武帝の2番目の皇后衛氏
	の弟で才能に恵まれ武帝の寵愛を受けた。彼は長城を越えて甘粛省に攻め込み匈奴を破った。前 127年にはオルドス地方を
	奪回し、前 119年までに7度遠征軍を率いて匈奴と戦い、多くの軍功をあげた。衛青と並んで匈奴征討に活躍したのが、彼
	の甥の霍去病(かくきょへい、前140〜前117)である。霍去病は18歳で武帝に仕え、叔父の衛青の匈奴征討に従って軍功を
	あげた。前119年には衛青とともにそれぞれ5万の兵を率いて匈奴の本拠地を襲い、約7万の匈奴兵を斬殺した。敗れた匈
	奴は遠く漠北に去り以後20年の間、漢と匈奴の大規模な衝突はなかった。しかし霍去病は前117年にわずか24歳で病死した。 
	中央アジアの大宛(フェルガナ)は、汗血馬(血の汗を出すまで走る馬の意味、当時の中国の馬に比べて、背が高く大型の
	馬で早く走った)の産地として知られていた。張騫の報告でこのことを知った武帝は匈奴との戦いに必要なこの良馬を獲得
	するために李広利(?〜前90)に大宛遠征を行わせた。李広利は、武帝が寵愛した李夫人の兄で、武帝に重用された。李広
	利は前104年の遠征には失敗したが、前102年の遠征には成功し、目的の多くの汗血馬を得て帰国し武帝を喜ばせた。以後、
	中国の名産の絹と汗血馬を交換する「絹馬貿易」がシルク=ロードを利用して盛んに行われることになる。」

	これから察するに、馬は秘密兵器ですから日本や朝鮮には伝えなかったのでしょうね。門外不出の極秘事項として、国内の
	みで繁殖された事が想像できます。これによれば、紀元頃までは中国でも蒙古馬が主流だったのでしょう。朝鮮や日本に伝
	わった馬は、中国が獲得する前の馬ですね。



	2004.5.15、滋賀県のミホミュージアムで開催されている「長安 陶傭の精華 −汗血馬と美女の系譜をたずねて」
	という春季特別展を見に行った。以下はその時貰ったパンフレットの「馬傭」に関する部分の抜粋である。パンフには英文
	の説明も併記されていたが、容量の関係から英文はカットした。










邪馬台国大研究・ホームページ /学ぶ邪馬台国/古墳時代を駆けた馬