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日向・薩摩・大隅の群像 −南九州の弥生文化−

東アジアの中の広田遺跡 2007年9月29日(日)  講師:大阪府立弥生文化博物館 金関恕館長











	広田遺跡は、鹿児島県種子島の南種子町にある弥生時代後期から古墳時代併行期にかけての集団墓地の遺跡である。広田遺跡では、
	太平洋に面した砂丘に、豊富で多彩な貝製品が副葬された人々が埋葬されていた。調査の結果、90箇所の埋葬遺構と157体の
	人骨,総数4400個に及ぶ貝製品が出土した。出土した貝製品の中には,南海産の貝を素材とした腕輪,首飾り,貝符等がある。
	これらの貝製品の形状や文様は、南島文化との関連性を示唆している、貝製品の中には広田遺跡特有のものも多く、広田遺跡の人
	々は南島文化を取り入れつつ独自の豊かな文化を形成していたと考えられている。






	昭和30年、台風22号によって「広田遺跡」のある砂丘の海側の一部が崩壊し、人骨や貝でつくられた製品が砂浜に転がって
	いるのを、地元の長田茂、坂口喜成氏が発見した。長田氏の通報を受けて、盛園尚孝氏が現地を確認したところ、今までに見た
	ことないような貝の製品を伴う墓地遺跡であることが判明した。発掘調査は、昭和32年に第一次調査を盛園尚孝・国分直一氏
	が中心となって行い、その後昭和33・34年と夏ごとに発掘調査が行われた。3次に及ぶ調査には、金関丈夫・永井昌文・金
	関恕・森貞次郎・佐野一・井関弘太郎・三島格・藤井三男・大森浅吉・林田重幸・山内忠平・大森誠吉・重久十郎・橋口尚武氏
	等が参加している。今日の講師、金関恕氏も、若き日に父とともにこの遺跡を掘っているのである。
	発掘調査は,約230平方メートルに及び,合葬を含む埋葬遺構90箇所、157体分の人骨と、副葬された4万4千点に及ぶ
	貝製品が発見された。その膨大な貝製品の中には、広田遺跡で初めて見つかった、独特の文様を持つ貝の小板である「貝符」や、
	同じく広田遺跡でしか見つかっていない竜ハイ状貝製垂飾と呼ばれる貝のアクセサリー等多種多様で、広田遺跡独特の貝製品が
	数多く含まれている。








	広田遺跡からは、上下2層から150体以上の人骨が発見された。下層は屈葬で,サンゴ塊を周囲に置いたものが多く,巫女らし
	い女性などがていねいに埋葬されていた。上層は集骨再葬墓である。上、下層ともに多量の貝製の副葬品が出土した。上層人骨に
	は、死者に供えるために作られた貝札が、下層人骨には,貝符、貝小玉、貝輪など生前の装身具が主に副葬されていた。素材には
	南海産のゴホウラ、オニニシ、イモガイ、オオツタノハなどが使われている。




	遺跡発見の発端となったのは、昭和30年の台風の襲撃であった。その後の調査で100体を超える人骨や貝輪・貝符をはじめと
	する4万個を超えるたくさんの貝製品などが発見され、弥生時代前期から古墳時代前期に至る貴重な遺跡であることが判明した。
	広田遺跡に見られる弥生文化は、約2300年前の弥生時代前期から古墳時代前期に至る貴重な遺跡であることが判明した。
	南方から伝わったと思われる興味深い埋葬法や古代中国の模様によく似た貝製品など、”南種子弥生人”の文化交流の深さが偲ば
	れる。発見された人骨は成人男性が約154cm,成人女性が約143cmだったということで、小さな古代人たちだったようで
	ある。

	種子島の広田遺跡を中心に、同島の鳥ノ峯遺跡や馬毛島・椎の木遺跡、あるいは奄美大島など南島各地から独特の特徴を持った弥
	生人が発見されている。後頭部が異様な程に扁平で短頭性が強く、顔面は著しく低顔、小顔傾向をみせ、鼻根部周辺は縄文人に似
	てかなり立体的である。身長は男性でも154cm(女性:142.8cm)しかなく、これまで日本で発見された古人骨集団で
	は最も背の低い人々である。一応、縄文人的特徴を強く残した人々とされているが、独特の文様が彫られた貝製副葬品には、大陸
	南部の影響も指摘され、その系統についてはまだ疑問が多い。 













ヤコウガイ容器 鹿児島県南種子町 広田遺跡/弥生後期後半〜古墳前期

	夜光貝は屋久貝とも呼ばれ、南海産の貝である。古代において都では貝匙(さじ:盃)や螺鈿(らでん)の素材として重宝される。
	しかしその流通した経路などは未だに謎である。


















	広田W遺跡は,広田遺跡の立地する砂丘のすぐ後背にある微高地にある遺跡で,畑を作る際にここからは多くの土器の破片が拾
	われている。平成15年度、南種子町教育委員会で調査をした結果,縄文時代後期の市来式土器や一湊式土器、それに中世の青
	磁類が出土した。遺構は確認されなかった。この年の調査では、弥生時代から古墳時代にかけての埋葬址である広田遺跡と直接
	関係する遺物は出土しなかったが、広田周辺には,縄文時代後期から遺跡が形成されていたことがわかった。
	平成16年種子島には非常に多くの台風や大雨があり、その際に平山の広田の海岸砂崖面より人骨が発見された。砂の崖面から
	発見されたので、雨や台風などで崩れる恐れがあるため緊急発掘を行った。
	平成17年度は、広田遺跡の範囲確認調査と、昨年の大雨で崖面が崩れ、新たに見つかった人骨の緊急発掘調査が実施された。
	調査は主に7月〜8月、真夏に行われた。調査の結果,昭和30年代に調査を行った砂丘の南側において,更に西側に墓が広が
	っていることがわかった。砂丘の北の端でも新たに墓が確認され,広田遺跡の墓域がまだ広がることがわかった。17年度の調
	査では,弥生時代から古墳時代にかけての人骨が,8体分見つかった。

	1) 貝殻で作られたのアクセサリーをどのように身につけていたかがわかる人骨
	2) 墓を作った際に,墓標として,墓穴の上を石で覆った,『覆石墓』と呼ばれる遺構
	  ※覆石の上には,南九州の中津野式と呼ばれる土器と,種子島の在地の土器とが一緒に置かれていた。種子島の在地の土器
	   の年代を知る上で,重要な発見である。
	3) 1,2歳の乳幼児が埋葬された墓
	  ※この乳幼児の墓からは,ガラスの小さな玉と貝の小玉で作られたネックレス状のものが見つかっていて,幼くして亡くな
	   った赤子に対する思いが伝わってくる。
	4) 夜光貝で作られた貝匙やオオツタノハという貝で作られた貝の腕輪を7個以上身に付けた青年男子の人骨。
	  ※この埋葬遺構からは,更に体に突き刺さったと見られる石のやじり(石鏃)が見つかっている。ほぼ同じ時期の埋葬遺跡
	   である,中種子町鳥ノ峯遺跡でも,墓の中から石鏃が見つかっていることから,この時期の種子島では争いがあった可能
	   性がある。
















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