Music: Woman in Red
亀形石造物出土!

−斉明天皇の土木事業− 2000.12.31

	
	平成12年(2000)2月22日、23日の各新聞は、奈良県明日香村で発掘された亀形と小判形の石造物を中心とする遺構
	についての記事を掲載している。いまでもこんなものが出土するとは、明日香と言うところはほんとに何がでてくるか分か
	らない所だ。以下はそれを報道した各社の記事である。



導水構造の亀形石造物 (奈良新聞 2000年2月23日 )
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階段状の石敷き広場や亀形の石造物などが出土した発掘現場(明日香村岡で)

斉明朝「両槻宮」関連? 明日香村・酒船石遺跡

飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594〜661年)が造営したとされる明日香村岡の「酒船石遺跡」の丘陵に囲まれた谷部分から、導水構造を持つ精巧な造りの亀形と小判形の石造物を中心とする遺構が見つかり、22日、調査をしていた同村教委が発表した。石造物の両側には石垣が組まれ、石造物を囲むように石敷きされるなど閉鎖性が高く、立体的な空間を創出。切り出し石の用法から酒船石遺跡の一部をなすもので、日本書紀に記録のある両槻宮(ふたつきのみや)の関連施設と推定されている。石造物や空間全体の性格は判然としていないが、酒船石遺跡の全体像の解明のみならず斉明朝の建造物の全容、当時の思想などを探る上で重要な資料になるものと注目されている。

石造物などが確認されたのは、酒船石から北西約75メートルの丘陵にはさまれた扇状地で、約500平方メートルの広さ。石造物とそこから続く導水路、石垣と付随する排水施設、石敷き、石組み階段、石敷きテラスなどで構成されている。
石造物はいずれも現位置で出土。花こう岩製の小判形石造物は水をためるだ円形の水槽で、貯水槽の長さは約95センチ、幅約60センチ、深さ約20センチ。南側のつくり出し部分に湧水をためるものを置き、貯水槽に水を導くようになっている。一方の亀形石像物は、全長約2.4メートル、幅約2メートル。1石の花こう岩を使い、顔を南に向けた4本の手足を持つ亀の形に彫られている。甲羅の部分は円形にくり抜かれていて、内径約1.25メートル、深さ約20センチ。顔の鼻にあたる部分に2つの穴があり、小判形石造物の突起から水が流れ込むようになっている。水は甲羅部分を通って、しっぽ部の穴から抜け、12メートル四方の石敷きのほぼ中央を北に延びる水路に流れる構造になっている。
また、東側の石垣は8段の階段状になっていて、南北長約6メートル、高さ約2メートル。山すそに沿って花こう岩を積み上げている。西側の石垣は2段分が残り、1段分は天理産の砂岩が使われている。このほか、石敷きの一部や排水路にも天理産の砂岩が使われ、花こう岩との色彩の対比から装飾性を考慮して建造したと考えられている。
亀形石造物は、しっぽ部に栓をし、水をためて使っていたとみられるが用途は不明。また、亀の顔の延長は酒船石につながることが判明したが、関連性についてはよく分かっていない。さらに、空間全体に関しても、何らかの祭祀(さいし)場所であったのか、供宴に使われた苑池のようなものであったのかも不明のまま。しかし、日本書紀の斉明2(656)年の「宮の東側に築いた石垣」が酒船石遺跡と関連する可能性はさらに強まり、両槻宮の存在や酒船石の性格解明での大きな手がかりになりそうだ。
今後、閉鎖空間が造られた背景の研究などを進めることで遺跡の全容解明や斉明朝の石造文化の全貌(ぼう)も明らかになるとみられ、これからの調査に期待が寄せられている。

現地説明会は26、27日の両日、午前10時から午後3時、明日香村岡の発掘現場で。



酒船石遺跡: 石敷きの広場、水溜める石造物発見 奈良 (毎日新聞 2000年2月22日)
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奈良県明日香村岡の酒船石(さかふねいし)遺跡で、石段のある飛鳥時代の石敷きの広場が見つかった。
22日発表した同村教委によると、石材の用い方から、さまざまな土木工事に取り組んだと伝わる斉明天皇時代(在位655〜61)の築造という。広場の中央に亀と小判の形をした水を溜(た)める石造物2点が見つかり、複数の専門家が「水を用いた祭祀(さいし)の場(祭場)」と指摘。また、日本書紀に記述があり、斉明天皇が道教的な思想を背景に築いたとされる両槻宮(ふたつきのみや)の一部だったとも考えられるという。神格化が進んだ飛鳥時代の天皇の権威を示す重要な遺構で、天皇を中心とした国家形成の過程を解明する一級資料となりそうだ。
現場は「岡の酒船石」(国史跡)のある丘陵の北側ふもとにあり、二つの尾根に挟まれた谷にあたる。村教委は、県が近くで建設を進める「万葉ミュージアム」への進入路造成工事の事前調査として、約750平方メートルを発掘した。近くの飛鳥川の河原石を用いた12メートル四方の石敷きの広場が見つかり、同県天理市産の砂岩の石列で区画、西側は砂岩が敷き詰められていたらしい。砂岩は斉明天皇の後飛鳥岡本宮とみられる遺構から大量に出土したものと同種で、遺構の時期を決める根拠となった。広場の東の尾根すそには幅6メートルの石段(8段)とテラス、砂岩を敷いた溝などがあり、西の尾根すそには高さ1メートルの花こう岩と砂岩の石垣と溝などがあった。
亀形と小判形の石造物はいずれも、付近で採れるせん緑岩の一枚岩。亀形は全長2・4メートル、幅2メートル。頭は南向きで鼻と口、しっぽに穴があり、甲羅に水が溜まる構造。小判形石造物は全長1・65メートル、幅1メートル、深さ20センチの水槽状で、北側の穴から水が流れ出て亀の鼻の穴に注ぎ込む仕組み。甲羅の水はしっぽの穴から流れ出て、広場中央を南北に走る溝を伝うようになっていた。
道教の世界観で仙人が住む蓬莱山(ほうらいさん)を支える大亀をモデルにしたと考えられ、遺構は道教の神仙世界を再現したともみられる。南北溝の延長線上の南75メートルの丘陵上に「岡の酒船石」があり、斉明天皇が斉明2(656)年に築いた、と日本書紀が伝える「宮の東の山の石垣」とみられる石垣が、既に近くの斜面から見つかっている。専門家の中には、石垣は斉明天皇が「田身嶺(たむのみね)」に建てたとされる道教風の両槻宮の一部とする説もある。石垣と今回の遺構が同じ石材だったことから、村教委は「広場は以前に見つかっている石垣と同時期に造られた一体の施設」とみている。
現地説明会は26、27日午前10時〜午後3時。近鉄橿原神宮前駅と、JR・近鉄桜井駅から臨時バス(有料)が運行される。車での来場はできない。 【奥野 敦史】




奈良県明日香村で日本最古の流水遺構が出土(asahi.com 2000.2.22 22:30)
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出土した亀形の水槽=奈良県明日香村で

亀の形をした精巧な石の水槽や、石段などを備えた日本最古の流水、石造施設遺構(飛鳥時代)が奈良県明日香村岡で出土し、同村教委が22日、発表した。斉明天皇(在位655―661年)の時代の施設とみられ、酒を造るための設備とされ「酒船石」と呼ばれてきた近くの“なぞの石造物”から水を引いていた可能性が高いという。祭祀(さいし)の場だったのか、庭園だったのかなど専門家の間でも意見が分かれている。昨年6月に約500メートル西で、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)の庭園とされる「飛鳥京庭園跡」が出土したが、今回の遺構は様式が異なるうえ、より古いという研究者もいる。飛鳥時代の宮廷文化を知るうえで極めて貴重な発見という。
奈良県が日本最初の通貨とされる「富本銭(ふほんせん)」が出土した飛鳥池遺跡を埋め立ててつくる博物館「万葉ミュージアム」のための村道工事で見つかった。斉明天皇の時代、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)の離宮だった両槻宮(ふたつきのみや)の施設とみられる。
これまでに分かっている遺構は東西約35メートル、南北約20メートル。中心部とみられる平たん部は約12メートル四方で、人頭大の石が敷き詰められ、その南端に、亀形の水槽と、その頭に接するように小判形の石の水槽がみつかった。亀形石は全長約2.4メートル。花こう岩の一枚岩をくりぬいた直径約1.6メートル、深さ約20センチの円形水槽に、南を向いた亀の頭と4本の脚、尾がある。亀の鼻と尾に溝があり、尾の先から、長さ約10メートル、幅約50センチ、深さ約50センチの水路が北北西へ延びていた。
この水路を反対の南南東へ約75メートル延ばすと、南側の高台の「酒船石」とぶつかった。平らな表面に幾筋もの溝やくぼみのある花こう岩で、長さ約5.3メートル、幅約2.3メートル。江戸時代以降、酒造りの設備では、などと用途について様々な憶測を呼んできた。 しかし今回の発見で、酒船石の溝から流した水を溝やといなどで引いて小判形の水槽にため、さらに亀の鼻から流して甲羅の部分で受け、さらに尾から流した可能性が高まった。





そっくり亀形 壱岐の金銅製飾り金具と明日香の石製水槽(asahi.com 2000.3.5 03:13)
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奈良県明日香村で先月公開された飛鳥時代の亀形の石製水槽と、長崎県・壱岐の古墳(6世紀終末から7世紀初頭)で見つかっていた亀形の金銅製飾り金具が、そっくりな形をしていることがわかり、研究者らは大和朝廷や大陸と壱岐との深いつながりを示すものとして注目している。亀形飾り金具は壱岐を治めた首長の墓とされる笹塚古墳(勝本町)から1989年に出土、町で保管している。長さ7.7センチで、甲羅に渦巻き文を施し、羽のような手足を持つ。馬具ともベルトの飾りともいわれるが、国内のみならず朝鮮半島や中国にも類例がないため、用途は不明だ。
亀形の石製水槽は、斉明朝(7世紀中ごろ)の祭祀(さいし)施設とみられている。中国の神仙思想に説かれる不老不死の仙人が住む蓬莱山を支えた大亀に通じるとされる。当時、亀をモチーフにした意匠は極めて少なく、貴重だとされる。

類似を指摘する九州大の西谷正教授は「上から見た姿がよく似ている。笹塚古墳からは奈良・藤ノ木古墳の副葬品に共通するようなすばらしい馬具が見つかった。亀形の飾り金具も大和政権から贈られたと考えられ、強い結びつきを示すものだ。当時の神仙思想が様々に現れたものだろう」という。




奈良の遺跡で湧水施設、新たに出土 ( 読売新聞 2000年5月24日22:12)
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 奈良県明日香村岡の酒船石(さかふねいし)遺跡で、今年二月に発見された飛鳥時代(七世紀中ごろ)の亀形石造物などに水を供給する湧水(ゆうすい)施設(人工の泉)が新たに出土したと、同村教委が二十四日発表した。
砂岩をコの字形に積み、中央に取水塔を設けた例のない構造。女帝・斉明天皇(在位六五五〜六六一)が営んだ水の祭祀(さいし)を具体的に解明する重要な手がかりとなりそうだ。湧水施設は亀形石の南にある小判形石造物のさらに南側から発掘された。砂岩のブロックを十一段積んで、東西一・八メートル、南北二・四メートル以上、高さ一・三メートルのコの字形の囲いを造り、中央にも砂岩を十一段積み上げ四角い取水塔(縦横〇・六メートル、高さ一・三メートル)を設けていた。取水塔の上部には、北側に傾斜した溝(幅二十センチ、深さ六〜九センチ)を彫り込んだ砂岩一個が置かれ、その上にはふた石二個がかぶせられていた。何らかの方法で取水搭の上部にわき水を上げ、溝付きの石と、その二・五メートル北側にある小判形石造物の間に木製の樋(とい)を渡すなどして水を流したと見られる。
このほか、石造物の北側に広がる石敷きの下に、砂岩の暗渠(あんきょ)(約五メートル)を確認。斉明天皇の時代に築かれた当初は、すべて砂岩敷きだった可能性が高くなった。また、小判形のわきからは平安時代前期(九世紀半ば)の皇朝十二銭、饒益(にょうやく)神寶(しんぽう)も見つかり、平安期まで改修を繰り返しながら、使用されていたことも判明した。

上田正昭・京都大名誉教授(古代史)は「複雑な施設の全容が次第に明らかになり、生命力のシンボルであるわき水に対する信仰や祭りの場ということがはっきりしてきた」と話している。




第37代斉明天皇

	飛鳥時代の女帝で、第35代皇極天皇(在位642-645)の重祚(ちょうそ:再び即位する事)。在位期間は655-661。父は敏達
	天皇(孫茅渟王:チヌノオオキミ)。母は吉備姫女王(キビツヒメノオオキミ)。名は宝。諡名(贈り名)は天豊財重日足
	姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト)。舒明天皇の皇后であったが、天皇の死後、蘇我入鹿らによ
	って即位した。大化改新の翌々日、皇位を弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲り隠棲するが、孝徳天皇の死後再び皇位につき、息
	子の中大兄皇子(後の天智天皇)を皇太子に立て、政務全般を委ねた。蘇我入鹿と愛人関係にあった、ともされる。百済支
	援のため九州に遠征中、朝倉の宮(現福岡県朝倉郡)で死去する。御陵は奈良県高市郡高取町にあり、
	朝倉郡にも「斉明天皇の墓」と称される「御陵山」がある。



石の水槽のすぐ奥に湧き水があり、亀形石造物を通って溝を流れていく。
びっしり敷き詰めた石と石垣がいかにも祀りの空間を演出している。





	斉明天皇は、史学界では「土木工事好き」とか稀代の「建設マニア」として知られている。日本書紀には「狂心の渠」(た
	ぶれごころのみぞ)と表現されており、斉明朝を、学者によっては「造営と狂心の土木工事時代」とか「狂乱の時代」と呼
	ぶ人もいる。皇極天皇時代からの造営・土木工事の軌跡を日本書紀に探してみると以下のように記載がある。


	皇極天皇元年 (642)  9月癸丑( 3日)  百済大寺建立の詔。この寺の建築計画は舒明11年(639)にはじまる。
	       (642) 9月辛未(19日)  飛鳥板蓋宮造営の詔。

	斉明天皇元年(655)10月己酉(13日)   小墾田と、深山広谷に宮殿を造ろうとするが中止。
	斉明天皇2年 (656)是歳条       後飛鳥宮建設。造営と狂心の土木工事。
	斉明天皇3年 (657) 7月辛丑      飛鳥寺西の須彌山像を作り、旦に孟蘭盆会を行ない、墓に覩貨羅を饗す。 
	斉明天皇5年 (659) 3月甲午      天樫丘東之川上に須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗す。 
	斉明天皇6年 (660) 5月        中大兄皇子が初めて漏刻を造る。石上池辺に須彌山を作り、粛慎47人を饗す。 







	655年1月、皇極上皇は飛鳥板蓋宮で2度日の皇位について斉明天皇となった。すでに還暦をすぎていた斉明天皇は、飛鳥の
	岡本に皇居の造営をはじめ、田身嶺(たむのみね)の頂に垣を巡らせ、穎の上の二本の槻(つき)の木のそばに高殿を建て
	て両槻宮(ふたつきのみや)と名付け、吉野に離宮を新造するなど、土木工事を次々に起こした。さらに、女帝は巨大な石
	垣を築く計画をたてた。香具山の西から石上山まで溝を堀るため、三万余とも七万余ともいわれる人夫が集められた。この
	溝は運河のようなもので、完成すれば船を浮かべ、垣にする石を運ぶ計画だったようだが、人びとの間から「狂心の渠」と
	いう怨嗟の声があがった。また、「石の山丘は作るはしから崩れるだろう」と非難された。
	蘇我臣赤兄(そがのあかえ)にそそのかされた有間皇子(ありまのみこ:孝徳天皇の遺児)は、これを批判し、謀反をはか
	ったとして処刑される。民衆を打ちひしぐ大土木工事、陰湿な謀略。斉明朝をして「狂乱の時代」とよぶ研究者がいること
	は、あながち的はずれでもないのである。

	日本書紀の「斉明天皇2年(656)是歳条」には、有名な田身嶺の周垣と両槻宮および「狂心の渠」と石の垣のことは、以下
	のように記されている。

	
	時に、事を興すことを好ゐたまひ、すなわち水工をして渠(みぞ)を穿(ほ)らしめ、
	香具山の西より石上山に至る。
	舟二百隻を以(も)ちて、石上山の石を載(つ)みて、流れの順に宮の東の山に控引(ひ)き、
	石をかさねて垣(かきね)とす。時の人謗(そし)りて曰く、
	「狂心の渠。損費(そこないついや)すこと、功夫(こうふ)三万余。造垣(かきねづくり)功夫七万余。
	宮材(みやのき)爛(ただ)れたり。山椒(やまのすゑ)埋(うず)もれたり」といふ。
	また謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随(まにま)に自ずから破(こわ)れなむ。」といふ。

	
	ここに言う「宮の東の山」は、岡本宮が明日香村岡の板蓋宮伝承地と呼ばれたところにあったから、その東すなわち酒船石
	のある丘とその付近の丘陵と考えられる。平成四年に酒船石のある丘の中腹から、砂岩の切石を四段に積んだ石垣が数十メ
	ートルにわたって発掘され、この推定がうらづけられた。想像通り、酒船石の丘が「石を累ねて垣」としたという「宮の東
	の山」であつたといえる。
	「宮の東の山」における石垣の用途について、歴史家の直木孝次郎氏は、いただきに酒船石を置く丘を美化する修師的な施
	設とみるべきで、換言すれば立体的な庭園を飾る設備である、とする。同氏は2000年1、2月の発掘で酒船石の丘の北の麓か
	ら出土した亀形右・小判形石の水槽、石敷広場等は、この推定に適合するともいう。






	明日香村飛鳥の埋慮文化財展示室に水落遺跡がある。昭和56年(1981)、ここから不思議な遺構が発掘された。版築工法で
	堅く固められた一辺約40メートルの方形基壇 周囲に丁寧な張り石、地下深く埋めた24個の礎石。礎石と礎石の間は、大石
	で梁のように連結されていた。中央に彫り込みのある長方形の大石等々。
	奈良国立文化財研究所が調査したところ、さらに細長い鋼管の埋設が判明、その内部には白い粘土が薄くたまっていた。水
	を導き、排水するための施設と分かった。さらに、建物の念入りな耐震構造が明らかになった。結局、『日本書紀』の斉明
	6年(660)5月条に、「皇太子(中大兄)が初めて造る」と記された漏刻(水時計)の遺構と判断された。サイフォンの原
	理を応用した水時計が一階中央で時を刻み、二階に吊るした大鐘で飛鳥の都に時を告げる施設だったことを、現地の説明板
	が絵解きしている。つまり、朝廷が時の管理まで行なうようになっていたわけだ。


 



	さらに、この水落遺跡の北側に石神遺跡があったという。『日本書紀』によると、」657年に都貨羅(トカラ)国の人、660
	年に高麗・百済の使者が入朝しており、655、658、660の各年に蝦夷(えみし)や粛慎(みつはせ)が入朝したため、これを
	饗応したという記事がある。
	その場所は「飛鳥寺の西」「甘樫丘の東の河原」とあり、石神遺跡の位置と重なる。かつて「石上」を「イソノカミ」と読
	んで天理市の右上と解釈する人もいた。しかし「イシガミ」と読めば「石神」ともなる。香具山の西から石上山まで溝を掘
	るという「狂心の渠」も石神遺跡と関係するのではなかろうか。
	従来、謎の巨石として取りざたされてきた「酒船石」をめぐる議論も、これでケリが尽きそうである。酒船石の記号のよう
	な彫り溝は、この亀形石まで水を流す導水路だったのだ。だとすると、酒船石には他の方向へ流れている溝がまだ何本かあ
	るし、このような遺構が近辺にはまだ幾つか眠っているのかもしれない。


 

 



	斉明天皇は土木・造園に力をつくしたが、斉明が即位した655年前後は、東アジアの国際関係は極度に緊張し、高句麗・百済
	・新羅の朝鮮三国と日本の問の外交使節の往来が少なくなかった。これらの入朝者に日本の国威を示し、外交交渉を有利に
	進めるためには、国力を上まわる労力・財力を投入しても、首都をりつぱに師る必要があったのではなかろうか。


 



	斉明天皇は百済救済のため筑紫に赴くが、斉明七年(661)、筑紫・朝倉宮(橘広庭宮)で崩御した。その遺骸を大和へ運ぶ舟
	中で、息子の中大兄皇子(天智天皇)は、亡くなった母斉明天皇を哀慕しての以下の歌を詠んでいる。

		
		冬十月、癸亥の朔にして己巳の日、天皇の喪、帰りて海に就きき。
		ここに皇太子、一所に泊はてて天皇を哀慕しのび奉り給ひ、
		すなはち口づから号ひ給ひしく

		君が目の恋ほしきからに泊てて居て斯くや恋ひむも君が目を欲り




	
	実はこのHPで見て貰った亀形石の写真の多くはレプリカの写真である。文化庁主催の「発掘された日本列島2000」展に展
	示されているもので、今年の6月から、その他の展示物と一緒に全国を廻っている。レプリカと言ってもヒビの一つまで忠
	実に復元してあり、殆ど実物と変わらない。
	この展覧会は全国を7つのブロックに分けて、ブロック内で毎年持ち回りで一つの博物館を選び開催されている。約半年間
	かけて7つの会場を回り、1年間の発掘の成果を全国で展示するわけだ。今年の関西地方は和歌山市博物館が会場になって
	おり、この写真はそこで撮影した。これは会場外にありレプリカなので撮影OKだったが、その他の出土品は例の如く「撮
	影禁止」である。2001年1月21日から2月18日までの、埼玉県立博物館を最後に「2000年展」は終了する。


 








	また本文中の解説は、その原典は勿論日本書紀に基づくのであるが、多くの示唆と原文の引用を(株)秋田書店発行「歴史
	と旅 2000年11月号 −大和路の日本書紀を歩く−」の「狂乱の時代と呼ばれた斉明朝の大土木工事」(秋田書店:菊池氏
	記述)に依った。記して謝意を表わしたい。




	
	この亀石の出現で明日香村は久々に賑わっている。その可愛らしさと相まって、亀石グッズは人気の的である。最近では大
	きな博物館に行ってもこの亀石グッズが並んでいる。



朝日新聞 2000年8月19日
亀形石グッズ 万来後押し 明日香村

 今年二月に明日香村で見つかった亀形石(飛鳥時代)を模したキーホルダーや灰皿、薬味入れなどのグッズが、観光客や修学旅行生の土産として人気を集めている。愛きょうのある姿と、千円前後と手ごろな価格が人気の秘密のようだ。明日香村を訪れる観光客は年々減少していたが、今年はNHKドラマや亀形石ブームもあって、今年は約四割増という。同村観光開発公社は「亀形石グッズをいかしながら、今後も観光客を増やしていきたい」と話している。

観光客どっと4割増加
今年二月に同村岡の工事現場から亀形石が見つかり、同月二十六、二十七の両日、現地で説明会が開かれ、初日だけで約六千人が訪れた。現地を訪れる観光客の土産にと、同村観光開発公社が絵はがき二千セットとテレホンカード五百枚を用意したが、初日で完売した。その後も現地を訪れる観光客が絶えなかったため、「これはいける」と、同公社が様々なグッズをつくりだした。

絵はがき(二百円)やテレホンカード(千円)のほか、亀形石が描かれているTシャツ(千六百円)、コースター(三百―四百円)、灰皿(三千円)、せんべい(六百三十円)、精密に作られた模型(四千二百円)など、約二十種類が店頭に並んでいる。一番の人気は、甲羅のところがくぼんでいる薬味入れ(四百五十―八百円)で、二、三個まとめて買う観光客も多いという。
同公社によると、村を訪れる観光客は年々減少している。亀形石から南へ約一キロの所にある石舞台古墳の見学者数は、高松塚古墳の壁画が見つかった一九七二年ごろが最も多く、六十万人が訪れたが、昨年はその約半分の三十四万人にまで落ち込んだという。
だが、今年四月から七月までに石舞台古墳を訪れた人は十七万七千人にのぼり、昨年同期の十二万三千人よりも約四割増えた。同公社の福井治男常務理事(六二)は「商品全体の売り上げも、昨年同期と比べて六割ほど増えている。亀形石のおかげです」と話している。亀形石のグッズは村内にある約十軒の土産店や公社で売られている。
 亀形石は、八月いっぱい、土、日曜日の午前十時から午後四時まで現地で見ることができる。無料。(asahi.com 8/19)




これは本物の出土時の写真!












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