池上曽根弥生学習館
平成19年11月11日(日)
大手前大学 森下章司准教授
今年の10月11月は忙しかった。あっちこっちの講演会・セミナーに参加して、新たな知識を導入しようと飛び回っていた。
歴史関係以外でも、同窓会や私用で土・日曜はめいっぱい予定が詰まっていた。冗談だが、「月曜日、会社に行くとホッとする。」
ような状態だった。そんな中、歴史倶楽部の郭公さんが紹介してくれたこの講演会は「鏡」を中心に据えもので全4回のシリーズ
なのだが、今日と次回は参加できそうだった。しかし次回の「鉛同位対比からみた三角縁神獣鏡」というのは、一番聴きたかった
のに風邪で寝込んでしまい、とうとう参加できなかった。
今日の講演は「古代東アジアの鏡」という演題で、大手前大学総合文化学部の森下准教授が講師だ。どんな話が聞けるものやら。
それにしても最近「准」教授というのにお目に掛かるのが増えたが、これって、助教授よりエライんかね。字面からすれば助教授
の上、教授の下のような気がするが、大学も構造化してるんだね。
この建物は「池上曽根遺跡」のすぐ側にある。「弥生文化博物館」は博物館だが、こっちはもっぱら名前の通り「体験学習館」で
ある。講演会やセミナーもやるが、主として「土器造り」や「勾玉つくり」などの体験学習型施設である。
壁一面のモザイク模様の一つ一つは引き出しになっていて、「池上曽根遺跡」からの出土物を手にとってさわれるようになっている。
「弥生文化博物館」にはかなわないが、ここにも「池上曽根遺跡」に関しての展示物が並んでいる。
ここでは会員達が造った土器などの販売もしているようだ。やってみたい人には材料も売っている。
この館の館長、吉房さんが開会の挨拶。吉房さんは、以前は「弥生文化博物館」の副館長だった。
(博物館めぐりの「弥生文化博物館」のコーナーを参照されたし。)
考えてみれば古代の中国は、「中華」という思想の元に東アジア全体に君臨していた訳だから、鏡が東アジア一帯から出土する
のも頷ける。しかし漢鏡がロシアからも出土しているというのには驚いたし、アフガンからおそらくはローマにも渡っていただ
ろうという森下氏の話は壮大だった。日本からローマまで、ほとんど大陸を横断して鏡は運ばれているのだ。或いは今日の講演
のように、それぞれの現地で模倣して造った鏡も相当な数に上るのだろう。それはとりもなおさず、鏡というものの持つ不思議
な力に人々が大いに魅力を感じていたからに相違ない。
日本では、鏡は天照大神の依代(よりしろ)として尊重され、今でも日本皇室の宝の一つである。弥生時代には族長の死と共に
九州の甕棺に収められ、その風習は古墳時代になって近畿圏にも伝播して、やがて古墳の中にも多くの鏡が副葬されるようにな
る。長らく権力の象徴であったと同時に、富の誇示でもあった。その形式分類や編年を通じて古代の有り様を探ろうという試み
は、学者先生でなくとも歴史マニアなら大いに興味をそそられるテーマである。
下は例によって先生に何か質問している郭公さん。彼も、鏡を含む青銅器全般を通じて古代の姿をはっきりさせようとしている
一人である。アマチュアは、学者先生達のように確たる学問上の成果はあげられないかもしれないが、稜々たる古今の流れを自
分なりに掴めれば、それで十分幸せなのだ。まだまだ我々の道のりは遠い。
砂粒混ぜず精巧な文様 中国の銅鏡鋳型(産経新聞 2008年2月13日(水)9時5分)
中国・山東省で見つかった前漢時代(紀元前2世紀後半)の土製の銅鏡鋳型78点を調べたところ、ほとんどが現代の工法とは
異なり、材質強化用の砂粒を含んでいないことが、奈良県立橿原考古学研究所と中国の山東省文物考古研究所の合同調査で分か
った。
砂粒が混じると、文様を彫る際に邪魔になり、精巧な文様が彫れないためとみられる。日本列島でも古墳時代を中心に銅鏡が出
土しているが、土製鋳型の出土例はほとんどなく、謎に包まれた日本の銅鏡の製作方法を解明するための参考となりそうだ。
調査に参加した三船温尚富山大教授(鋳造技術学)によると、粘土だけで作った鋳型は乾燥したり、溶けた青銅を流し込んだ時
にひび割れるため、通常、直径0・3ミリほどの砂粒を混ぜて強化するが、調査した鋳型のほとんどには入っていなかった。
また、鋳型は厚さが約5センチあるものの、水に浮くほど軽かった。中国側の分析で、もみ殻の灰が混ぜられ、内部に多くの気
泡があったことも判明。気泡が急激な熱伝導を妨げ、鋳型のひび割れを防いだようだ。
三船教授は「日本製とみられる銅鏡にも、中国鏡にも負けないほどのシャープな文様のものがあり、中国の技術が日本に伝わっ
ていたかもしれない」と話している。
青銅鏡の鋳造解明へ 富大高岡キャンパスで日中研究者が技法実験 (富山新聞 2008年3月7日(金)1時31分)
日中の研究者が合同で、中国の前漢時代(紀元前二世紀後半)の青銅鏡の鋳造法を解明する研究に乗り出した。六日、富大高
岡キャンパスで研究者ら約二十五人が古代の技法の復元実験を開始した。来年度には中国・山東省で実験を行う予定で、中国
から日本に伝えられたが、解明されることなく、歴史の闇に消えた鋳造技法を研究し、現代の技法の参考とする。
日本では古墳時代以後、中国の青銅鏡をまねた鏡が鋳造されていたが、当時、鋳造技法が軽視されていたことなどから文献の
形で書き残されたものがなかった。昔ながらの土型鋳造の技法が残る高岡の地で実験を行うこととなった。
富大芸術文化学部の三船温尚教授、白雲翔中国社会科学院考古学研究所副所長らが、粘土や山東省の黄土にもみ殻の灰を加え
た鋳型を十種類作り、模様を彫るなどした。実験は三日間実施し、一つの鋳型で連続して鋳造を行うなどして、変化を記録し、
基礎データを収集していく。
銅鏡鋳型は粘土と灰製か(読売新聞 2008年3月21日(金))
謎の多い古代銅鏡の製作技法を解明するため、アジア鋳造技術史学会は、中国山東省で出土した前漢時代(紀元前2世紀)の
銅鏡の鋳型をもとにした日中合同の鋳造実験を、富山大学(富山県高岡市)で行った。
銅鏡は中国で紀元前5世紀に作られ始め、日本では古墳時代に鋳造されるようになったとされる。山東省では約80点の土製鋳
型が出土しているが、砂粒がみられず、粘土に砂を混ぜて作る現代の鋳型とは異なるなど不明な点が多い。
出土品は気泡があって水に浮くほど軽く、灰が混ぜられていたとみられることから、実験では、粘土や中国の黄土に、もみ殻
灰を混ぜて複数の鋳型を製作した。その結果、「黄土と灰」は壊れたが、「粘土と灰」は何度も使え、鋳型は粘土と灰で作ら
れていた可能性が高まった。
実験に参加した中国社会科学院考古研究所の白雲翔副所長は「三角縁神獣鏡の産地は依然として謎だが、製法技術の研究が、
東アジア全体の銅鏡の解明につながる可能性がある」と話した。
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