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佐賀市内散策 2008.10.12 朝





	ホテルで朝食をとった後、バスの出発までだいぶ時間があったので、佐賀市内の歴史散策にでた。今日のシンポジウムの会場は
	吉野ヶ里遺跡なので、そこまでバスが運んでくれるのである。ホテルで貰った佐賀市内案内図によれば一時間も歩けば一回りで
	きそうだった。
	この日、私は不思議な体験をした。私は無神論者だが、この日の体験は「魂」の存在を肯定せざるを得ないような出来事だった。
	それとも、あれは「生き霊」のなせるわざだったのだろうか。





	徴古館(ちょうこかん)は、旧佐賀藩主 鍋島家に伝来した美術工芸品・歴史資料を主に収蔵・展示する博物館である。財団法人
	鍋島報效会が運営にあたり、年に5回程の展示を企画し、大名家の御道具類 や侯爵鍋島家関連資料などを幅広く公開している。
	と言うことだが、まだ朝8時なので当然博物館内部は開館していない。




	同じ場所に佐賀藩校「弘道館跡」の碑があった。佐賀藩のエリート教育は有名で、定期的に行われる試験に合格しなかった者は、
	良くて減俸、悪ければお家取りつぶしであった。そのため一族郎党挙げて受験勉強に明け暮れた。幕末に文明開化の知識を即座
	に吸収して「薩長土肥」の仲間入りが出来たのも、西洋文明をすぐ理解できる英才が多く佐賀藩にいたからなのである。








	佐嘉神社		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	所在地	 佐賀県佐賀市松原2-10-43 
	主祭神	 贈従一位大納言鍋島直正命	従一位勲一等鍋島直大命 
	社格等	 別格官幣社・別表神社 
	創建	 昭和8年(1933年) 
	例祭	 10月12日(松原祭) 

	佐嘉神社(さがじんじゃ)は、佐賀県佐賀市にある神社である。旧社格は別格官幣社。佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島
	直大を祀る。直正は藩政改革を行い、大隈重信・江藤新平らの人材を育成した。直大は戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年に
	は版籍奉還を申し出た。
	直正の歿後の明治6年(1873年)、直正の威徳を賛え、鍋島家の祖先を祀る松原神社に南殿を造営し、直正を祀った。昭和4年
	(1929年)、直正を祀る別格官幣社・佐嘉神社の創建が決定した。昭和8年(1933年)に現在地に社殿を造営し、松原神社の直
	正の霊を遷座した。昭和23年(1948年)、松原神社南殿に祀られていた直大の霊を佐嘉神社に合祀した。
	松原神社は別の神社として運営されていたが、昭和36年に佐嘉神社と運営を一本化した。

	松原神社(まつばらじんじゃ)は、佐嘉神社境内にある神社である。
	安永元年(1772年)、鍋島家の始祖鍋島直茂を祀る神社として創建され、直茂の法号から日峯(にっぽう)大明神(日峯宮)と
	称した。現在も「日峯さん」の通称で呼ばれる。この時代には、各藩で藩祖・祖先を祀る神社が創建されていた。
	文化14年(1817年)に直茂の祖父・清久、直茂の公室・彦鶴姫を合祀した。明治5年、初代藩主・勝茂を合祀し、「松原神社」
	に改称した。明治6年(1873年)、元からあった本殿の北と南に新たに神殿を造営し、南殿に10代藩主鍋島直正を、北殿に鍋島
	氏以前に佐賀を治めていた龍造寺家の隆信・政家・高房を祀った。元からあった本殿は、これ以降「中殿」と称されるようにな
	った。大正12年(1912年)、南殿に、2年前に歿した11代藩主鍋島直大を合祀した。
	昭和8年に佐嘉神社が造営され、南殿の鍋島直正の霊を遷座した。昭和23年、南殿の鍋島直大の霊も佐嘉神社に遷座し、南殿は
	廃止された。昭和38年、松原神社本殿を改築し、中殿・北殿を一つにした。






	カノン砲	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ソ連軍が第二次世界大戦で使用したML-20(M1937) 152mm加農榴弾砲カノン砲(カノンほう)は、大砲の一種。同口径の榴弾砲
	に比べて、砲口直径に対する砲身長(口径長)が長く、高初速、長射程である。日本語では「カノン砲」と言い、漢字では加農
	砲と表記する。これはフランス語の"canon"から来ている。なお同じ単語に由来する英語の"cannon"に対する的確な訳語は大砲
	であり、「カノン砲」に対する正しい英語訳は、"gun"である。
	スポーツ等の大会でも使用されている祝砲で、優勝の決定や王者が誕生したと同時に作動し大量の銀の紙吹雪で王者を祝福する
	ものがあるが、本項で解説される「カノン砲」とは全く関係がない。

	カノン砲は16世紀から17世紀の間は弾丸重量42ポンド以上の大口径の滑腔砲の呼び名として用いられた。また、半カノン砲
	(Demi-cannon)という砲は弾丸重量は32ポンドであった。
	その後、榴弾が発明され三十年戦争を機に野戦においても大砲が多用される様になると榴弾を曲射弾道で撃ち、又、野戦に便利
	な様に砲身をある程度短くするなどした砲は榴弾砲、これまでの様に砲丸や散弾・榴散弾による直射を主に行う大砲はカノン砲
	と区別して運用されるようになった。
	時代が下り、カノン砲でも曲射を行うようになり、第二次世界大戦頃までは、カノン砲は40口径前後、榴弾砲は25口径前後と口
	径長で区別されるようになった。
	現在では長砲身の榴弾砲(Gun-howitzer:この種の砲だけを指す適切な訳語はまだ付けられていない)の出現により、両者の区
	別は事実上なくなっている。
	砲弾に緩焼性の比較的高い多量の火薬を用い、射角45度以下の低い弾道で遠距離射撃が可能で、反対に近距離から目標を直接照
	準で砲撃することも可能でもある。
	弾道が榴弾砲と異なり、高初速で低伸することから敵に射撃位置が察知されにくい。そのため、しばしばゲリラ的戦術による砲
	撃に用いられた。例としてガダルカナル島の戦いにおいて「ピストル・ジョー」と呼ばれた日本軍の九二式十糎加農砲による飛
	行場ゲリラ砲撃や、ルソン島での一式砲戦車によるゲリラ砲撃があげられる。






	上記、『ウィキペディア(Wikipedia)』が解説しているカノン砲をここ佐賀藩ではすでに自前で制作しているのである。

	日本での反射炉の歴史	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	江戸時代末期に、主に洋式の野砲の砲身を鋳造するために各地で作られた。反射炉で鋳造された砲は、幕末には外国勢力への牽制
	として、また、戊辰戦争などの実戦に用いられた。反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用さ
	れるなど、歴史の転換に重要な役割を担った。
	反射炉の製造技術の導入が、日本史において特記されるのは、鉄製の大砲の製造が可能になったからである。かつての鋳造技術で
	は砲身を鉄で製造する場合は材質を均一にできず、砲身が破裂する事故が多発した。そのため大砲は鉄製から青銅製へと"進化"し
	ていった。しかしその後の技術発達において、鉄製であっても材質を均一に砲身を鋳造する事が可能になり、再び鉄製の大砲が登
	場するのだが、日本では青銅砲の段階で技術が停滞したままであった。反射炉による鉄製砲の製造は、日本にとって鎖国下の技術
	停滞、開国による技術革新の象徴的出来事となったのである。
	すでに反射炉が普及していた同時期のヨーロッパでは、生産性の高い転炉 (convertor) が出現したことから、日本での歴史的評
	価のように重要視されることはない。
	江戸時代後期になると日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようなった。外国船に対抗するには精度が高く飛
	距離の長い洋式砲が必要とされたが、従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、外国式の溶解炉が求
	められることとなった。外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、伊豆韮山代官の江川英龍、佐賀藩の鍋島直正など
	が、オランダの技術書(『鉄熕鋳鑑図』Ulrich Huguenin原著、金森建策訳)等を参考に作り始めた。

	1849年 江川英龍が江戸の自宅に小型の反射炉の実験炉を試作した。後に伊豆韮山で作る反射炉の原型。 
	1850年 佐賀藩鍋島直正が日本初の実証炉を建設、洋式砲の鋳造を始める。 
	1853年 江川英敏[1]が伊豆韮山に反射炉を設置。(佐賀藩からの技術支援を受けて) 
	1857年 水戸藩徳川斉昭が現在のひたちなか市に反射炉を2基完成。(水戸藩営大砲鋳造所) 

	現存する遺構は、静岡県伊豆の国市韮山、山口県萩市に存在する。佐賀県佐賀市では、日本初の反射炉を築いたことを後世に伝え
	るため、毎年12月に「反射炉まつり」が開催されている。茨城県ひたちなか市那珂湊には1937年に復元された反射炉がある。
	反射炉自体は現在も、福島県いわき市の小名浜製錬製錬所や回収された金属の精錬等[2]で使用されている。バーナーの炎が壁面
	に沿って回るので、湯に熱が均一に伝わり、攪拌作業でも湯全体を隅々までしっかりと混ぜることができるため酸化物や不純物を
	取り除く精錬作業に向いている。反面、構造上、上部の開口部の空気と接する表面積が広いため、Al・Siなど酸化しやすい元
	素やZnのように消耗しやすい元素を含む材質の熔解に適していない。 












	上記の七賢人は、江藤新平と島義勇を除き、それぞれの分野をリードした人物ばかりである。江藤新平と島義勇は「佐賀の乱」に
	敗れて斬首された。大久保利光はよほど江藤が憎かったのか、わざわざ東京から来て江藤の斬首を見届けている。島義勇は札幌市
	の基礎を築いた人物で、北海道では英雄であり今も札幌市役所前には銅像が建っている。佐賀が産んだ初の総理大臣・大隈重信の
	伝記を読むと、前述した受験勉強のすごさがわかる。「余はこれに耐えたり。」などと書いている。



通り一つがそのまんま「大隈重信通り」である。









その大隈重信通りから会所小路という脇へ入ったところに「大隈重信生誕地」がある。




	大隈重信生家跡地は現在「大隈記念館」になっており、ここに建つ大隈像は昭和63年(1988年)4月に建てられた。大礼服姿の立
	像で、高さは180cmあり、実際の大隈重信の身長と同じとされている。この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。






	大隈重信		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	第8・17 代 内閣総理大臣 
	在任期間 第1次:1898年6月30日 - 1898年11月8日 
	     第2次:1914年4月16日‐ 1916年10月9日
 

	生年月日 1838年3月11日(旧暦天保9年2月16日) 
	出生地 肥前国佐賀藩 
	出身校 佐賀藩蘭学寮 
	学位・資格・称号 従一位大勲位侯爵 
	前職 外務大臣 
	党派 第1次:憲政党	第2次:立憲同志会 
	没年月日 1922年(大正11年)1月10日 
 
	大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、
	政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現早稲田大学)の創立者。

	志士時代の大隈重信佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は
	八太郎。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。
	重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)
	に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、
	この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)鍋島直正にオランダの
	憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

	大隈は、長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、
	佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)に
	て、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知
	り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍 徳川慶喜に
	大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。

	明治維新に際しては明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パ
	ークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の
	制定などの金融行政にも携わった。明治3年(1870年)に参議に補され、明治6年(1873年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議
	兼大蔵卿になった。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って
	大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。民部省
	を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反
	対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太
	政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財
	政運営に携わった。
	自由民権運動に同情して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつ
	ての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。
	いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。明治13年(1880年)には、会計検査院創設のための建
	議をおこなっている。
	野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、
	矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと東京専門学校(現早稲田大学)を東京郊外の早稲田に開設し
	た。明治20年(1887年)、伯爵に叙された。

	大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より、
	大隈は外務大臣に就任した。 同年 黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗
	に遭い、明治22年(1889年)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失うとともに、辞職
	した。明治29年(1896年) 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが薩摩勢と
	対立して明治30年(1897年)に辞職した。
	明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の
	政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文
	相尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると後任人事をめぐって対立はさらに激化。後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いた
	ことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4ヶ月後の
	11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。明治40年(1907年)、いっ
	たん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会
	長への就任など、精力的に文化事業を展開した。
	第一次護憲運動が興ると、政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の
	内閣を組織した。与党は立憲同志会、大隈伯後援会および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確
	保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこなった。翌・大正4年(1915年)には外相 加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。
	しかし内相大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任するなどして内閣を改造するも、内閣は
	次第に国民の支持を失っていった。さらに内閣に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月ついに内閣は総辞職、
	あわせて政界から完全に引退した。退任時の年齢は満78歳6ヶ月で、これは2008年現在も日本の歴代総理大臣中最高齢の記録であ
	る。

	伊藤博文をライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。
	明治30年(1897年)に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。
	様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国
	府津に構え、わずか10年で大磯を引き払っている。 
	大隈と同郷で、かれに目をかけられた行政法学者織田萬のエッセイ集『法と人』(1943年、春秋社教養叢書)によると、早稲田大
	学開学式典で伊藤が「大隈君とはいろいろ競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない」と述べたことに満悦し
	たという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と悲しみつつも本気でうらやんだとのこ
	とである。 大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトやメロンをもって見舞った。

	口癖は「何々であるんである」。時には「何々であるんであるんである」となる。

	あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政
	治家であるため様々な方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、この
	ことが今日に至るまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。

	極めて合理的な考えを持っており、日本の暦を現在使われているグレゴリオ暦に変えた。英雄を認めず、そのためか西郷隆盛を全
	く認めていない。一方、西郷も大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた
	「西郷吉之助意見書」では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切捨て、更に同年に西郷の推挙で
	大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、
	大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べて
	いる。
	平成19年(2007年)、大正4年(1915年)に蝋管(蓄音機の初期型)に録音された総選挙応援演説の肉声が、東大先端科学技術セ
	ンターにより公開された。また、日本初の地方遊説を行った首相でもある。











佐賀城北門前を通る。ここをじっくり見ていたら時間が無いし、急いでホテルへ戻ることにした。




	冒頭に記した「不思議な体験」というのはここからである。

	佐賀城の近くに「佐賀西高校」がある。私の大学の先輩でワンゲルの先輩でもあったKさんはここの卒業生で、私とは仲が良かっ
	た。私が帰省した折には連絡してよく呑んでいた。そのKさんが喉頭癌で入院しているのを知ったのは前回帰郷した時だった。た
	しか七月だったと思うが、その時は大阪へ帰る寸前だったので見舞いにも行けなかったし、その話を聞かせてくれた別の先輩が、
	「今はシンドそうだから、もっと落ち着いてから見舞いに行ったほうがいいぞ。」と言うのでじゃそうするかと、その時は帰阪し
	たのだった。今回時間があればと思っていたが、ここへ来るまでそのことはすっかり忘れていた。

	佐賀西高の前に来たときKさんを思い出して、「あぁそうやKさんもここの卒業生やったな。」と思ったその瞬間だった。「井上」
	と後ろから声がしたのである。思わず振り返ったが勿論だれもいない。その時はKさんの事を考えたのでそれが私の精神に作用し
	て私は空耳を聞いたのだなと思って、急ぎ足でホテルへ戻ったのだった。

	Kさんは、私が声を聞いた殆ど同じその時間に、福岡市の病院で息を引き取っていたのである。

	その事を私が聞いたのは、このイベントが終わって大阪へ戻ってきたその日である。今回も時間が無くて見舞いに行けなかったし、
	まさかそんなに悪いとは思わなかったので、次回は見舞いを優先順位一位にして帰省するかくらいに考えて大阪へ戻ってきたのだ。
	戻ってきた日に、また別の先輩でKさんとは同期の先輩から連絡があった。話を聞くとまさに私がここにいた同時刻くらいに亡く
	なっていたのである。「えぇーつ、その日その時間に、わし佐賀西高の前におったんでっせ。おまけにKさんの声聞いたし。」と
	その先輩に言うと、「そりゃKが呼んだんやな。」

	私は無神論者である。私は死後の世界は信じないし、勿論霊魂の存在も信じられない。もう40年近く前、祖父と弟が相次いで死
	んだとき、私は霊魂の存在を信じたかった。幽霊でもいいから祖父や弟に会いたかった。しかし一晩中庭に立ちつくしていても、
	結局二人が現れる事はなかった。
	自分の目で見ていないからという訳ではないが、私にはそのようなものの存在は信じがたい。受けてきた自然科学の教育から判断
	しても、死後の人間の何かが、死後も他人や社会に対して何か作用するとは、私にはどうしても考えられないのである。「霊」と
	は、人や生物の、死生観の根源的な解釈のための概念に過ぎないと思う。

	しかしこの日のあのKさんの声はどう考えたらいいのだろう。死に往く寸前のエネルギーが母校の前に現れ、そこに居た私を呼び
	とめたのだろうか。死後の霊魂が母校へ飛んできたとはとても考えられない。死ぬ寸前のエネルギーが何かした可能性はある。
	生きている人間の持つエネルギーは、霊魂に比べればまだ信じられる。生体は、生きている故にまだ世の中に作用する力を持って
	いる可能性がある。いわゆる「生き霊」と呼ばれるエネルギーである。私自身はそういう経験をしたことはないが、生きている人
	間なら、何か社会に及ぼす影響力を持っているのかもしれない。上田秋成の「菊下の契り」なども、腹を切って死に絶えるまでの
	間なら千里を駆けることも出来そうな気がする。Kさんも死の直前に母校を訪れたのかもしれない。



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