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2.基調報告 長江下流域における古代文明
王根富(Wang Genfu)



	【講演者プロフィール】
		王根富(Wang Genfu)
		1960年生まれ。江蘇省金壇市出身
		南京博物院考古研究所副研究員、中国考古学会会員、江蘇考古学会理事。南京大学歴史系考古学科卒業
		発掘責任者として発掘した金壇三星村遺跡は、「1098年全国十大考古新発見」に選ばれ、
		「国家文物局田野考古三等賞」を受賞。



	【講演の要点】
		(1).中国文明の起源問題は、中国にとってもそうだが世界的にも重要な研究課題となっている。初期の中国考古学の調査研究は
		    黄河流域に集中していたが、長江下流域もまた文明誕生の重要な地区の一つである。多くの歴史文明はここにその「源」を探れる。
		(2).金壇三星村遺址の発掘は新発見が相次ぎ、今後の研究に重要な意義をもたらした。
		(3).長江下流域の稲作起源の問題を探ることは、日本の稲作のルーツを探る上でも重要な意義を持つ。
		(4).三星村からは大量の人骨が出土しているが、これらの人骨の総合的な計測データは、日本列島西部から出土している弥生人のデータ
		    に近く、縄文人とはかなり異なっている。日本人の祖先の中には、この長江下流域から来た人々がいたと考えられる。
		(5).従来、古代日本への文化の伝播については、(1).北方ルート、(2).朝鮮半島ルート、(3).東中国海(東シナ海)ルート、
		    (4).沖縄ルート、(5).南洋ルートという5つのルートが考えられてきたが、考古学資料から観れば、(3)の東中国海ルートが重要な
		    ルートであったと考えられる。
		(6).<三星村遺址−発掘状況スライド説明−>




	【論旨】
		●中国文明の起源についての主要な観点は「一元論」と「多元論」である。黄河中心論は中国文明についての伝統的観点である。考古学上の
		 発見から見ても、中国の初期の考古学の調査研究は、黄河流域に集中している。仰詔文化、龍山文化、大■(さんずいに文)口文化、
		 夏商周文化等。全国的な考古学上の発見が相次ぎ、多くの旧来の観点・認識は修正を迫られている。中国文明の誕生は多元的で、発展は
		 アンバランスである。長江下流域は近年、文明誕生の重要な地区の一つとされ、多くの文明はここにその「源流」を探ることが出来る。

		●長江下流域における先史文化の発展の順序
 考古学時代   考古学文化   年  代   場  所 
 旧石器時代晩期  三山島文化   12,000年前頃   江蘇省呉県太湖三山島 
   河姆渡文化   7,000−5,400年前   浙江省余姚県河姆渡 
   羅家角類型   7,090−5,400年前   浙江省桐郷羅家角 
 新石器時代初期   馬家浜文化   7,000−6,000年前   浙江省嘉興県馬家浜 
   ■(山かんむりの下に松)澤文化   6,000−5,200年前   上海市青浦県■澤 
 新石器時代中期   三星村文化   6,500−5,500年前   江蘇省金壇市三星村 
 新石器時代晩期   良渚文化   5,200−4,200年前   江蘇省余杭県良渚鎮 
		●年代6,500年前−5,500年前、三星村遺址の初期段階遺構は住居跡で、高床式建築と灰杭が見つかっており、大量の炭化米(1mのモミ殻の
		 層、120トン)が出土した。この事は稲作農業が既に生活の主要な基盤であった事を示している。居住区が廃棄された跡は墓葬区(墓区)
		 となり、1,000年余り使われる。墓葬は密集しており、保存状態は良好、規則性・習俗が見られる。




		●「雲雷紋」のほどこされた高杯が出土し、従来の出土年代を約1,000年遡らせた、この文様はそのまま青銅器の文様へ発展する。



		●三星村遺址の重要性
		 ・先史文化研究の地理的空白、新石器時代の体質人類学研究の空白を埋めるものになった。
		 ・国家文明起源研究、農業起源研究に重要な意義をもたらした。


 


	【稲作起源研究の新しい展開】
		★新石器時代(縄文時代中期−後期)における稲作遺跡の出現は、稲作起源の研究に重要な意味合いを持つ。
		★従来の統計では、稲作遺跡は80ケ所ほど発見されており、うち40ケ所が長江下流域にある。分布は太湖地区と杭州湾南岸に集中しており、
		 年代は、今から7,000年前から3,000年前くらいまでの約4,000年に渡っている。
		★早期の稲は長粒型と短粒型が混在しているが、長粒型が主流である。後期も混在するが、短粒型が主流となる。
		★長粒型と短粒型の形成をめぐっては学会でも意見が分かれている。
		★長江下流域の稲作の起源を解明していくことは、日本の稲作の起源研究に関しても重要な意味をもっている。

 




	【国家文明起源研究の新しい展開】

		●良渚文化(5,200−4,200年前)の大型貴族墓地の発見は、その文化発達のレベルを示しており、初期段階の階級対立が既に
		 あらわれ、初期古代国家がすでに形成されていた事をしめしている。
		●草鞋山、趙陵山、福泉山、良渚文化墓群(反山、揺山、雁観山など)の墓葬の規模は大きく、副葬品の玉器には神秘的な獣面
		 紋や神のシンボルがみられる。良渚文化がこのように発達した原始文明であることは、それ以前に起源や発展の段階があった
		 はずであり、三星村遺趾の発見はこの問題の解決にひとつの契機をもたらした。
		●三星村遺趾の石えつは、権力、地位、身分を示す礼器であり、石斧から変化してきた最も原始的な「えつ」である。良渚文化の
		 玉えつの確かな「源」であり、玉えつはその後商周文化の青銅えつへと発展する。従って、「石斧→石えつ→玉えつ→青銅えつ」
		 という変化の流れにおいて、三星村遺趾の石えつは起源的に重要な位置を占めている。






		●おなじく、三星村遺趾出土の雲雷紋のある高坏の文様の特徴は、良渚文化の玉■(玉へんに宗)の文様や商周時代の青銅器
		 に見られる雲雷紋の風格と完全に一致している。これは最初の雲雷紋であり、良渚文化の玉器に見られるそれよりも、1,000年
		 あまり時代がさかのぼる事になる。
		●三星村からの大量の人骨は、日本列島西部から出土している弥生人のデータに極めて近く、縄文人とはかなり異なっている。
		 日本人の祖先の中には、この長江下流域から来た人々がいたと考えられる。


	【スライド披露】



		★発掘現場の状況を説明する王さん。(通訳の人は、王さんに確認しながら通訳していた。)



		★上記の土器は、後々の鼎(てい)につながる土器ではないか、と言う。(なるほど形はそっくりだ。)



		★上記の土偶はあきらかに豚である。当時すでに家畜を飼っていたと言うことは、それだけの余裕のある生活をしていたという事を物語っている。




		★長江流域で大量の人骨が出土したのは、三星村遺趾のみである。土こう墓に埋葬され、身体的特徴は日本西部の弥生人達に
		 近い。これらの中から、渡来して日本へ渡った者がいたのではないか。人骨には、殴られて頭蓋骨が陥没したり、損傷を受けて
		 いるものが多量に発見されている。



	【講演を聴いての私の感想】
		◆今まで漠然と脳裏にあったものを、ドーンと突きつけられた感じだった。既に5、000年前に長江下流には一大農耕社会があり、
		 すでに争いも起きていた。まだ日本は縄文後期である。争いに負けた者が、わずかの稲束や豚や蚕やその他の技術を携えて
		 東シナ海を東へ東へと逃げてきたのだ。そして日本に上陸している。前述佐藤洋一郎氏の言う「b遺伝子」はこういう経路で日本
		 へ渡ってきたに違いない。少なくとも北九州においては、朝鮮半島からの多量の民族移入がある前に、中国からの渡来人達に
		 よって本格的な「渡来」の受け入れ基盤が既にできあがっていたのかもしれない。
		★稲作の源流のみならず、石えつと言い、雲雷紋と言い、後の中国文化の「源」もここ長江下流なのかもしれない。発掘調査の結果
		 研究が進むにつれて、まだまだとんでもない発見が出現しそうな気がする。
		★この遺跡も是非とも見に行きたい。来年百済の旅が終わったらこの「長江下流域の旅」を企画しようかな。



		★講演後、王さんも一緒になって拍手をしていた。日本の習慣とは違う一面だが、ふと、TVでよく見る、中国共産党の人代大会の
		 模様を思い出してしまった。




【参考記事】









邪馬台国大研究ホームページ / 学ぶ邪馬台国 /chikuzen@inoues.net