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1.基調講演 イネと稲作の日本史
−DNAから見た稲の道− 佐藤洋一郎




	【講演者プロフィール】
	佐藤洋一郎
	1952年和歌山県生まれ。静岡大学農学部助教授、農学博士。京都大学卒業 同大学大学院農学研究科修士課程修了
	1992年「アッサム・雲南起源説」と稲の祖先の一元論を否定して、ジャポニカだけが長江中・下流域で生まれたという
	「ジャポニカ長江起源説」を発表。


	【講演の要点】
	
	(1).今までの史観では、弥生時代に現在へ繋がるような稲作が始まったという事になっているが、私は最近これに異論を唱えている。
	(2).弥生時代には水稲は来なかった。発掘されて、従来水田跡と言われてきた部分は、実は大半が休耕田である。
	(3).弥生時代の稲作の跡と言われている所から出土する稲は、その一部が熱帯ジャポニカと言われる種類で、これは縄文時代の稲が
	    弥生時代になってもそのまま栽培されていた事を示しており、古墳時代にもこの傾向は続き、江戸時代になっても熱帯ジャポニ
		カの稲は出土する。
	(4).結論として、弥生時代に外部からやってきた稲はあったとしても極めて少ないと考えられる。弥生時代=稲作という概念は今後
	    改める必要があろう。


焼き畑耕作。

 

	【論旨】
	
	●従来考古学者達は、縄文時代に稲作があったということをなかなか認めようとしなかった。これは遺跡から水田跡が発見されないから
	 であるが、稲作=水田稲作という図式は実は正しくない。インドシナ半島辺りで行われている焼き畑での稲作(陸稲)などは非常に高
	 い 生産性を上げているし、我が国の初期の稲作もこの焼き畑、或いは直播きによる稲作であろうと考えれば、水田はなくて当然なの
	 だ。
	●そして、縄文時代に栽培されていた稲は、現在の温帯ジャポニカではなく、熱帯ジャポニカといわれる種類のものだったと考えられる。
	●ここに、縄文時代=熱帯ジャポニカ、弥生時代=温帯ジャポニカという稲作史論が登場したが、弥生遺跡に於ける稲のDNA鑑定の結
	 果では、これも疑わしい。

	★青森県・高樋V遺跡から出土した炭化米のDNA鑑定によれば、熱帯ジャポニカに特徴的な「7C6A」という配列を示していた。
	★上記以外にも、弥生時代の遺跡として有名な以下の遺跡群からも熱帯ジャポニカは出土し、その割合は決して少なくないし、また調査
	 した遺跡もほぼ全国に渡っている。(下図参照されたし。)

	 	・下の郷遺跡(滋賀県守山市)・唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)・池上曽根遺跡(大阪府泉大津市)
		・菜畑遺跡(佐賀県唐津市)・妻木晩田遺跡(鳥取県淀江町)・登呂遺跡(静岡県静岡市)等々

	★この範囲は東北北部から九州地方北部に及んでおり、このことは、弥生時代日本列島の大方の場所では、水田で熱帯ジャポニカが栽培
	 されていた事になる。
 

	
	●熱帯ジャポニカはいつ何処で生まれたのか? 世界で最も古い稲作の跡が、中国・長江の中・下流域である事はほぼ疑いがない。
	 約7,000年前のイネの籾が出土している。ここでは多量の炭化米の中に野生イネの種子も混じっていた。江西省の仙人洞遺跡からは、
	 11,000年ないし16,000年前の地層からイネの微化石が見つかっているから、長江中下流域がイネの起源地である事はまず確かだろう。
	●長江域で出土した炭化米から取り出したDNAを分析すると、20粒すべてジャポニカで、20粒のうち2粒が熱帯ジャポニカだった。
	  残りは熱帯ジャポニカか温帯ジャポニカか判別できなかった。想像だが、長江域に発生したジャポニカは熱帯ジャポニカだったとも
	 考えられる。
	●では温帯ジャポニカの起源はどこだろうか。現在、この問題に迫るアプローチは見つかっていない。
	●長江流域で水田稲作が生まれ、それに適応する形で熱帯ジャポニカの一部が温帯ジャポニカに変化していったという仮説を立てると、
	 温帯ジャポニカもまた、長江流域で発生したという仮説が成り立つ。



	
	★遺伝子は、遺伝情報の担い手で4種類の塩基(A,T,C,Gと書くならわしである)の並びによって必要な情報を書きあらわしている。
	 一方DNAには、何の遺伝子情報も持たないのりしろのような部分が存在する。
	★SSR領域とは、AAAAA・・・や、TATATA・・などのように、短い配列(Simple Sequence)の繰り返し(Repeat)のことで、頭文字を取
	 ってSSRと呼ばれるが、SSR領域はこの「のりしろ」の部分に多くが見つかり、何の情報も含んでいず、個体や品種のSSR領
	 域の配列には変形版が非常に多い。この、変形版が多いという性質を利用してイネの品種をきちんと区別できるようになる。



	
	●中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これらには小文字のaか
	 らhまでの字があてられる。aからhまでの変形版がどこに位置するかを調べると以下の図のようになる。


	
	●中国には8種類全ての変形が存在し、朝鮮にはbを除く7つが存在するのに、日本の品種の多くはaまたはbに限られている。
	●aからhのタイプが「中立」だった事を考えると、日本列島に運んでこられた水稲の量がわずかだった、という推論が成り立つ。
	 (このあたりはちょっと理解できなかった。)
	●SSRの多型を調べてみたら、以外にも日本列島に渡ってきた水稲が小さな集団でしかなかったことがわかる。弥生時代に、多量
	 の水稲が水田耕作の技術とともに渡来したという従来の史観には大きな疑問が生じる。
	●従来、稲の伝わってきたルートは朝鮮半島経由だというのが考古学の結果から推論されていた。しかしSSR多型の観察からは、も
	 う一つの渡来の経路が想定される。
	●それは、8遺伝子のうちb遺伝子が朝鮮半島の在来品種の中に見つからないという点である。にもかかわらず、中国と日本には高い
	 割合で分布している。おそらく過去には、中国大陸から直接日本へ到達するモノの流れがあり、b遺伝子を持つ水稲もそのルートを
	 経てきたものと思われる。また、a遺伝子は中国ではそんなに高頻度では分布しないが、朝鮮半島と日本列島には高い頻度で分布す
	 る。この遺伝子は朝鮮半島を経てきたと推測できる。
	●唐古鍵遺跡と池上曽根遺跡の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥生時代中期(宇約2100〜2200
	 年前)の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた
	 事がわかる。すなわち、2000年前、明らかに中国大陸からb遺伝子を含む水稲が、近畿にも渡来してきたことが実証できるのである。



	【結論 −DNAから見たイネの道−】
	
	★「縄文の要素」・・・・・イネと稲作は、縄文時代前期の終わり頃はじめて日本列島に渡来した。当時のイネと稲作は現代とは違い、
	 焼き畑式の耕作スタイルに、熱帯ジャポニカと言われる陸稲だった。何処から渡来したかについては明確でないが、柳田国男以来の
	 「海上の道」である可能性が濃厚である。
	★「弥生の要素」・・・・・中国大陸長江流域で生まれたであろう水稲(温帯ジャポニカ)は、水田稲作の技術とセットになって、縄
	 文時代晩期の終わり頃日本列島にやってきた。
	★「弥生の要素」には2つのルートがあった。1つは朝鮮半島経由で、稲作技術とともに渡来した。もう一つは中国大陸からのもので
	 他の文化とともに東シナ海を渡って日本列島に達した。(b遺伝子を持つ温帯ジャポニカ)
	★2つの「弥生の要素」は、日本列島で再び一つになって日本列島を東進する。その過程で、池上曽根・唐古鍵遺跡にもb遺伝子を持
	 つイネが栽培されており、東進の一局面ととらえられる。
	★東進の多くの局面で、「縄文の要素」と「弥生の要素」は併用されていたものと思われる。すなわち、
	★「弥生の要素」は来たものの、温帯ジャポニカはそんなに大量にはやってこなかった。人々は、水田耕作の技術や稲作道具は受け入
	 れたが、焼き畑耕作の栽培方法は手放さなかった。イネも多くが熱帯ジャポニカのままであった。つまり弥生の人々は「縄文の要素」
	 を脈々と受け継いだのである。「縄文の要素」は中世末頃までは残存した。
	★土地の全面が水田であるような平野の景観や、稲作中心の農村風景は、少なくとも近世に入るまでは存在していなかった。

	【講演を聴いての私の感想】
	
	◆驚いた! 稲の渡来ルートが2つ以上あり、南方の東南アジアから南九州へ、長江下流から東シナ海を抜けて長崎や佐賀の西・北九州
	 に、という仮説は知っていた。しかし、弥生時代に稲穂が実った水田光景など全くなかったという話は想像もしていなかった。驚き
	 だ。DNA分析という自然科学の力を借りての検証だけに、その信憑性は高い。焼き畑稲作! 一体どんな光景だったのだろう。

【参考】









邪馬台国大研究ホームページ / 学ぶ邪馬台国 /chikuzen@inoues.net