Music: Pretty Woman







 

 

 


	歴史倶楽部の服部さん東江さんと、大阪府立弥生文化博物館で開催されている「卑弥呼の宝石箱」展を見に行った。女性会
	員の寺ちゃん達は別の日に行って、なんと2時間以上もここに居たそうだ。げに、おなごと宝石の組み合わせは・・・・・
	じゃのう。
	
	大阪府立弥生文化博物館 平成10年秋季特別展
	「卑弥呼の宝石箱−ちょっとオシャレな弥生人−」

	弥生人のアクセサリーは、貝・骨・ヒスイなど縄紋時代の伝統をひきついだ品々に、新しい素材として伝わったガラスや碧
	玉・金属。その輝きは、卑弥呼のような首長や呪術者に力を与えたものかもしれません。弥生のアクセサリーに加え、現代
	の宝飾品も比較展示します。 
	

	主 催:大阪府立弥生文化博物館・毎日新聞社・毎日放送
	会 期:平成10年10月3日(土)〜11月29日(日)
	休館日:毎週月曜日(ただし11月23日[月]は開館、11月24日[火]は休館)
	入館料:一般600円、高大生400円、65歳以上・中学生以下は無料。
	【この項、弥生文化博物館。以下黒字部分も同様。】



 

 

 





説明ガイドに従って点滅するライトを眺める東江さん。(下右)
 




 
この特別展は撮影禁止である。通常ならこっそり写すのだが、そこは私の一番好きな博物館に敬意を表して、今回会場の撮影はやめにした。その代わり、博物館発行の資料(右)からSCANした画像をお届けしたい。(まっ、同じようなもんか。)暗い会場での写真より、こちらのほうが綺麗なものもあるが、なんと言っても訪れて実見するのが一番である。会場に行けばすばらしい輝きを放つこれらの宝石を自分の目でとくと見物できる。
 





	【第1部】弥生アクセサリーの系譜
	弥生アクセサリーの系譜:弥生のアクセサリーはどこから?水田稲作をいち早く受け入れた菜畑遺跡のアクセサリー。縄紋
	の伝統と大陸の素材・技術が交わる過程を考察し弥生のアクセサリーの系譜を探ります。日本最大の「ヒスイの勾玉」(東
	京都四葉遺跡)を展示。 
	
	人はいったい、何時の頃から自分の身を装飾品で飾りだしたのであろうか?この展覧会の図録によれば、現在の所最古のア
	クセサリーは、三重県の出張(でばり)遺跡から出土した有孔円盤(ゆうこうえんばん)と呼ばれる、千枚岩の薄板を丸く
	加工して、中央に小孔を開けた、直径が6cm程の頭飾りということである。今から17,000年ほど前の、旧石器時代
	後期に作られたものらしい。中国大陸では揚子江中流域で陸稲栽培が行われていた頃だ。
	縄文時代になるとアクセサリーの種類も増え、色々な材料を用いて装飾品を製造するようになる。縄文時代早期前葉(約8
	500年前)には、遠く沖縄諸島で取れたイモガイ、タカラガイ、ツノガイ等の貝殻を加工した腕輪などが、四国や中部地
	方で発見されている。
	縄文時代が早期から前期へ移る頃(今から約6500年前)には、髪飾りや耳飾り(イアリング)、首飾り(ペンダント)
	などは、ほぼ出揃うようである。
	縄文の終わりから弥生にかけて、広く日本人の間で重宝され、奈良時代の初めくらいまで大流行した宝石がある。ヒスイで
	ある。どこかのコーナーにも書いたが、世界中でこのヒスイを貴重な宝石として珍重したのは、この時代の日本人と、14
	世紀のインカ人達だけらしい。白色で不透明な輝き、加工に難儀するような硬さを持ったこの石は、既に縄文時代前期後葉
	(今から約5300年前)には頭飾りとして用いられていた。弥生時代になると、ヒスイは最も貴重な宝石として、勾玉、
	管玉、小玉などに加工され、支配者層の貴重な装身具になる。

 





 




	【第2部】アクセサリーの技と想い
	アクセサリーの技と想い:弥生のアクセサリーは、素材・色・形、そしてどこに飾るか、多種多様です。吉武高木遺跡の豊
	富な副葬品に秘められるさまざまな想いを考え、美しく加工する技術についても展示します。弥生時代最古の水晶玉(福岡
	県高木遺跡)を展示。 
	
	アクセサリーを素材の面から見れば、ヒスイのような宝石の他に、粘土を焼き、玉や耳飾りにしたものもある。特に円形の
	土製耳飾りは、縄文後期(今から約4,000年前)には特に東日本を中心に、おそらくは土偶や土器造りの延長として盛
	んに製造されたようである。
	又、土を用いて作った勾玉も各地から出土しており、奈良県唐古・鍵遺跡出土の土製勾玉は、弥生時代後期の製造と思われ
	る。縄文時代全般を通じて見られる、動物の角や骨、魚の骨などを用いて作られた装身具類も、弥生時代中期あたり(今か
	ら約2,000年前)まで製造された。弥生人も、動物の牙や骨を加工して装身具を製造していたが、それは単なるアクセ
	サリーとしてではなく、その体の一部を自分の身に付けることによって、動物の持っていた霊力や呪力を自分自身に取り込
	もうとしていた、という見方もある。

	弥生時代になると、宝石としてはヒスイに並ぶ重要な素材がふたつ我が国にもたらされる。ガラスと金属である。とくにガ
	ラスはアクセサリーとしては極めて貴重で、甕棺の中に、小玉1つとか数個とかいう単位で副葬されている事をみてもその
	貴重さが窺える。弥生時代中期になると、とくに北九州を中心にして我が国でもガラス製品の製造が行われるようになる。
	弥生時代後期にはいると小玉を中心に多くのガラス製品が作られるが、ガラスを身につけることが出来たのは、支配者層の
	中でも特に限られた、ごくごく一部の人達だけだったようだ。ガラスに関しては製造の殆どが北九州に限られるが、北九州
	以外ではただ1ケ所、丹後半島におびただしいガラス製品の出土をみる。果たして、北九州からもたらされたものなのか、
	それとも丹後で独自に製造していたものなのか、まだ結論は出ていないようである。

 

 

  

  

 

 

 



  

  



 



 





 


	【第3部】弥生アクセサリーのゆくえ 
	弥生アクセサリーのゆくえ:古墳時代以降、アクセサリーへの想いはどこへ行くのでしょう。色とりどりの「きもの」にア
	クセサリーを捨てた日本人ですが、現代は、性を問わずにアクセサリーを着ける時代。弥生に通じる何かを考えます。アク
	セサリーを着けた埴輪や、現代のアクセサリーも展示します。

	古墳時代にももちろん、縄文・弥生以来の装身具の系統は続いていくのであるが、それは次第に様相を変えていくようであ
	る。弥生時代に大流行したヒスイはさほど珍重されなくなり、ガラス製品も廃れていく。世界的に見れば、ガラスはその後
	も各地で発展を遂げ、高度な製造技術を身につけて、ヨーロッパにおいては現在とさほど変わらないような製品がすでに十
	世紀頃には出現するが、我が国ではガラスの技術はピタリととまってしまう。再び我が国でガラスが貴重な財産とされるの
	は江戸時代になってからである。

	古墳時代にはアクセサリーは装身具としてより、王の権威を示すものとしての役割が強くなるようだ。貝を用いて製造して
	いた腕輪や足輪などが青銅器によって作られるようになる。おそらくは金属器による各種製品の製造技術が発展し、金属が
	新しい権威の象徴、即ち威信財となっていったからだろうと思われる。特に古墳時代の終末期あたりに金銀が移入されてく
	ると、金の持つ魔力がそれまでの自然材によるアクセサリーの価値をことごとく駆逐してしまう。金のイアリング、ネック
	レス、腕輪、王冠、金の勾玉もある。これは、金を財産の頂点としていた朝鮮民族の影響によるもののような気がする。
	なったって、名前にまで「金」と付けるような民族なのだから。そう言えばこの弥生文化博物館の館長の名前も「金関」だ。

 

 



 









	帰りに池上曽根遺跡(博物館のすぐ隣にある)の側を歩いていると、先月(10月?だったかな)上棟式を行った、弥生の大
	型建造物の復元作業現場が見えた。あのテントの中で、一段下の写真のような作業が行われているのだ。建物の完成は来年
	の春だそうだが、これを皮切りにぞくぞくと弥生時代が復元される予定である。2002年には一大「弥生公園」が出現する。
	ちなみにこの建造物の復元も、担当しているのは「大林組」(科学する邪馬台国、のコーナー参照)である。







1990年3月、「卑弥呼撮影会」の帰りに通ったらもう完成していた。4月30日にお披露目パーティだそうだ。




邪馬台国大研究・ホームページ/ 学ぶ邪馬台国 / 卑弥呼の宝石箱