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よみがえる漢王朝展
99.4.25(日)
 − 2000年の時をこえて −
 Han Dynasty
2000年前、中国の「漢」王朝は東アジア最大の帝国として君臨した。農民出身の劉邦が楚の項羽を倒し「秦」帝国滅亡後の中国を支配した。「漢」は400年に渡って隆盛を極め、7代武帝の時にはシルクロードが開かれるなどアジア全体に渡って多大な影響力を及ぼす。
今日我々が使用する「漢字」にしても「漢詩」にしても、あるいは1週間を示す「月火水木金土日」の用語など天文学の基礎についても、 すべてこの時代にその体系の完成を見たのであり、又「後漢」の時代には光武帝から金印を賜るなど、我が国の歴史と文化を語る上でこの王朝の存在を抜きにしては語れない。
1999年4月13日から6月6日まで、大阪市立美術館においてこの「漢王朝」の栄華と足跡をしるした特別展覧会が開かれている。ここでは、そのごく一部を紹介したいと思う。会場は原則写真撮影禁止だったので2,3のスナップ以外はすべて読売新聞大阪本社発行の「よみがえる漢王朝」によった。
ちなみに漢王朝繁栄の400年間は、我が国では弥生時代と重なっている。





	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』 
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	漢(かん)とは、中国の地名、王朝名、民族名である。 
	「漢」という文字は「水の流れていない川」をあらわす象形文字で、本来、天上の銀河のことであるが、転じて長江の支流
	で現在の陝西省南部、秦嶺山脈の南麓に源を発し、湖北省に注いで武漢(漢口)に注ぐ漢江(漢水)を指すようになった。
	戦国時代、この地を支配した秦は漢江の上流域に漢中郡を置いた。秦が滅ぼされると、咸陽攻略の功労者劉邦が漢中の地に
	王として封ぜられ、漢王を名乗った。劉邦は漢中とその奥地、巴蜀で力を蓄え、項羽との戦いに勝利して、秦についで中国
	の再統一を果たした。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の
	国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて4
	百年の長きに渡ったため、「漢」は中国の地を指す代名詞のように用いられるようになった。漢民族、漢字などの語は漢王
	朝の名に由来している。また、漢王朝の時代に古代中国文化が完成したため、崇拝をこめて漢王朝が回顧されることが中国
	では一般的である。

	前漢 出典: 同上
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	前漢(ぜんかん)は、紀元前3世紀、漢王劉邦によって建てられた中国の統一王朝。中国では西漢と呼ぶ。都は長安。漢は
	元々は四川省の一地方をさす言葉であったが、劉邦がそこに封じられ、やがて天下統一したことから、地方名から中国全土、
	さらには中国人・中国文化そのものをさす言葉になった。前漢は、漢王朝と総称される一連の王権のうち、成立から王莽に
	よる簒奪までを指し、光武帝による再興から魏朝に滅ぼされるまでを後漢と呼ぶ。ただし、中国においては、その都の位置
	からそれぞれ西漢(長安)、東漢(洛陽)とする呼び分けのほうが一般的である。
	漢王朝の支配は朝鮮から中央アジア、モンゴルからベトナムにまで及ぶが、実際には華北がほとんどで、後は植民地的なも
	のであったらしい。
	前漢はその成立当初から匈奴の侵略に悩まされ、一時は劉邦自身が包囲攻撃される危機を迎えた。文帝・景帝は静かに戦乱
	によって衰えた民力の回復を図り、武帝はその基盤を元に匈奴攻略を試みた。衛青、霍去病、李広利らの将軍を遣わし、打
	撃を試みたが、決定的なダメージを与えることはできなかった。しかし、匈奴は漢との抗争、内紛から疲弊し、分裂してそ
	の勢力は衰えた。一方の前漢もまた、軍事負担によって重税がかされ、農民は疲弊し、小作農化が進行した。小作農は豪族
	の支配下に入り、地方に豪族が割拠する状況が出現するようになり、豪族を代表する外戚の王莽によって帝位を奪われて滅
	んだ。日本列島の人々は、前漢が朝鮮半島に設けた楽浪郡を通じてこの時代から中国との交流があり、稲作、製鉄、文字な
	ど、様々な技術文化が日本にもたらされた。

		前漢の皇帝

		高祖(劉邦、在位紀元前206年〜紀元前195年) 
		恵帝(劉盈、在位紀元前195年〜紀元前188年)高祖の子 
		少帝恭(劉恭、在位紀元前188年〜紀元前184年)恵帝の子 
		少帝弘(劉弘、在位紀元前184年〜紀元前180年)恵帝の子、少帝恭の弟 
		文帝(劉恒、在位紀元前180年〜紀元前157年)高祖の子、少帝弘の叔父 
		景帝(劉啓、在位紀元前157年〜紀元前141年)文帝の子 
		武帝(劉徹、在位紀元前141年〜紀元前87年)景帝の子 
		昭帝(劉弗陵、在位紀元前87年〜紀元前74年)武帝の子 
		廃帝賀(劉賀、在位紀元前74年)武帝の孫、昭帝の甥 
		宣帝(劉詢、在位紀元前74年〜49年)武帝の曾孫 
		元帝(劉?、在位紀元前49年〜紀元前33年)宣帝の子 
		成帝(劉?、在位紀元前33年〜紀元前7年)元帝の子 
		哀帝(劉欣、在位紀元前7年〜1年)元帝の孫、成帝の甥 
		平帝(劉?、在位1年〜6年)元帝の孫、哀帝の従兄弟 
		孺子嬰(劉嬰、在位6年〜8年)宣帝の玄孫 



	前漢の最盛期をもたらしたのは、武帝の時代である。紀元前141年から紀元前87年の長きにわたって君臨した。儒教を
	国教化したり、匈奴と戦い西方に国土を拡張した。やがて、漢も衰退期を迎え、外戚の王莽が平帝を暗殺して「新」を作る
	が、新」は15年間しか持たなかった。
	「新」を滅ぼしたのは、劉秀こと光武帝である。光武帝は漢王朝を再興し、宮を「長安」から「洛陽」に移した。後漢は儒
	教を国教とし、中華思想を周辺の国々にも浸透させようと多くの海外からの使節を受け入れた。我が国でも、紀元57年、
	光武帝が崩御する一ヶ月前に使者が訪問し、「漢委奴国王」と刻印された金印を貰っている。紀元220年、漢は求心力を
	失い瓦解する。


	後漢 出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』 
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	後漢(ごかん)は、中国の王朝(23年 - 220年)。漢王朝の王族に連なる劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた前漢を再興
	して立てた。都は洛陽。東漢とも言う。自身が前漢の終わり頃から地方に勃興してきた豪族の出身である光武帝は、他の豪
	族の力を借りて漢王朝を再興したため、後漢の皇帝は豪族の意向を無視できなくなり、早期に弱体化した。宮廷では豪族と、
	宦官とが勢力争いを繰り返し、内乱や飢饉が頻出する。
	その最たるものが黄巾党の乱であり、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。後漢自体はそれからも命脈を保つが、
	最後は曹操の子、曹丕によって滅ぼされた。後漢書東夷伝の記述で知られるように、この時代から日本列島の人々が中国の
	王朝と直接交渉を始めたことが知られ、福岡県で発見された「漢委奴国王」金印がこれを裏付けている。 

 

 



 


	中国の歴史書は漢代に始まる。紀元前97年、武帝の時代に司馬遷によって「史記」が成立した。この歴史書は中国二十五
	史の頭初に位置するものである。黄帝から武帝までの歴代王朝の帝王のことを記した「本紀」、帝王を支えてきた諸侯の歴
	史「世家」、「列伝」は、「本紀」や「世家」と連動して歴史を彩る個人の歴史である。これらは全く異なった性格で記述
	されたが、すべてをまとめると総合的な歴史書としての体系が浮かび上がるようになっている。こうした歴史の記述を「紀
	伝体」と言う。この形式は後漢の班固に受け継がれて、紀元92年、「漢書」として成立を見る。

 


	何とか実見の美しさをと思ったが、とても本物の持つ美はここでは伝わらないと思う。どうしてこんなものが2000年もその
	美しさを失わず今に残っているのか、考えれば実に不思議である。
	数々の工芸品・装飾品の持つ「美」は見飽きる事がない。しかもこれらの多くが2000年近くの年月を経ていると思うと、人
	間の持つ能力の偉大さや感受性の豊かさに感嘆してしまう。ややもすれば、絶望的にさせられるような出来事ばかりが蔓延
	している今日にあって、これらに接していると、人間も捨てたものじゃないという気にさせられる。

  

 



  




	漢王朝は、前後漢の間に王莽、劉玄の短い統治期間を持ち、前漢(B.C.202〜A.D.8年)と後漢(A.D.25〜220年)に分けら
	れている。前漢の都は長安に、後漢の都は洛陽にあった。前後漢を通じての漢の領土は広大なもので、東は楽浪四郡、西は
	パミール高原やバルハシ湖以東の西域都護府に至り、南は南シナ海の北部湾岸地域にまで及んでいた。北の境界は鮮卑、匈
	奴に阻まれさほどの北進は果たせなかったが、全体として見れば驚くべき範囲である。
	これが、一つの王朝の中央集権的な行政管理により統一されていたとは全く驚きである。しかも、万とある部族の文化的な
	制度や慣習を、残し或いは変革しながら一つの「漢文化」を形成してしまった過程はまさしく驚嘆に値する。



 

 



 


	漢墓

	漢代の人たちは、現世の生活をそのまま地下に持ち込み、死後の生活の安定を図り、機が熟せば永遠の楽土である天空に高
	く聳える昆崙山に移住して仙人に変身する事を期待した。その故に墳丘は山をかたどり、また丘陵そのものを利用し、地上
	の建築に準じた宮殿や居室を死者の栖である地下に構築する。肉体の腐敗を防ぎ仙界の神々を呼び寄せるため身辺に壁など
	の玉器を配し、皇帝や諸侯王はさらに特製の玉衣を着せる。ちなみに以下は、中山靖王劉勝の后だの金縷玉衣である。死者
	が日頃使用した愛用品の数々もそのまま地下に運び、死者にかしずく家来や兵士たちは、木製や陶製の俑(よう:人形)と
	し、家臣たちを維持する器材や家畜は小型の模造品でつくった。家畜小屋や井戸などの陶製の模造品は明器(めいき)と呼
	ばれる。近年このような漢墓が多く発掘されており、漢代の人々が身代を傾けて作り上げた陵墓の構造や副葬品の数々によ
	って、漢代の優れた文明を目にする事ができるようになった。

 





	前漢は,建国の高祖(劉邦)が紀元前202年に皇帝の位についてから,第7代武帝の時代に最盛期を迎え、紀元5年に外
	戚である王奔に政権を奪われるまでで、光武帝が再興し220年に魏によって滅ぼされるまでの間が後漢である。前漢の首
	都である長安城は、解放後積極的に調査が行われてきたが、1997年から、奈良国立文化財研究所が北京の中国社会科学
	院考古研究所と共同で、西安・漢代長安城跡の発掘調査に着手したのを機に今回の展示が企画された。今回の企画展示では、
	この発掘の成果を中心としながら、長安城創建期の瓦や様々な表情の陶俑、さらに後漢の都・洛陽出土の銅鏡など、中国各
	地の文物で構成されている。河北省満城県にある武帝の異母兄、中山王劉勝とその妻の墓「満城漢墓」出土の銅器や武器類、
	王妃の金縷玉衣(きんるぎょくい)など華麗な遺品は、王朝の栄華そのものである。

  




	この展覧会は大阪市美術館を皮切りに、以後、6月22日(火)〜8月22日(日)千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館、8月
	31日(火)〜9月26日(日)青森県立郷土館、10月7日(木)〜11月28日(日)山口県立萩美術館・浦上記念館と、今年い
	っぱい日本中で開催される予定なのでぜひ一度訪問される事をお勧めする。我々の先祖達が「倭」を目指して玄界灘を渡っ
	ていた頃、本土に残った中国人達はすばらしい文化を育んでいたのである。




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