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「よみがえる白鳳の伽藍」シンポジウム
2000.3.11(土) 大阪府寝屋川市立エスポアール




	昨年の11月13日(土曜日)に、歴史倶楽部の東江氏と一緒に、大阪府寝屋川市教育委員会が主催した「寝屋川の古墳巡り」
	一日ツアーに参加した。その時最後に「高宮廃寺」を見学したが、今回その「高宮廃寺」についてのシンポジウムが開催さ
	れると、東江氏から再びお誘いがあった。早速参加した。広く古代寺院についての話でなかなか面白かった。古代史は色ん
	な側面から研究できる。

 



なかなかきれいな会場だ。最近はどこの自治体に行ってもほんとにきれいな講演会場が揃っている。日本も金持ちになった。

 

司会の紹介に続き、寝屋川市教育委員会鈴木委員長の挨拶。

 

総合司会と解説は、滋賀大学教授の小笠原好彦教授(考古学)。シンポジウムでは司会を離れて自説もどんどん披露していた。






報告NO1.塩山則之氏(寝屋川市教育委員会)



	報告の開始は、地元寝屋川市の教育委員会に勤務する塩山氏。昨年の11月には寝屋川市の文化財を訪ねて一日一緒に廻った
	人だ。あの時も高宮廃寺の解説は塩山氏がやっていたが、この人が発掘したんだ。

  





高宮廃寺は数回の発掘調査により、金堂・東塔・回廊・中門の位置が明確になりました。また、講堂・南門についても、創建時の遺構は明確ではありませんが、遺物の出土状況から推定することが出来ました。そして、寺の創建は白鳳時代、平安時代に一時廃絶し、鎌倉時代に講堂跡を利用して新たに寺(神宮寺)が建てられたことが明らかになりました。
高宮廃寺跡の伽藍配置は、奈良の薬師寺によく似た伽藍配置であることが発掘調査などであきらかになりましたが、現在大社御祖神社の鎮座する高まりが西塔あるいは西金堂であるのか不明な点、北回廊と講堂の取り付きの不明な点、回廊が寺の中軸線を挟んで左右対称になっていない点、中門と南門の距離が50mもあるなどまだまだ多くの問題点を残しています。
高宮廃寺跡については、文献資料等は何も残されていないため、造営氏族については不明ですが、高宮の丘の上に形成された大型の掘建柱建物群を営んだ氏族が考えられます。その氏族については、この地の大社御祖神社(祭神 天萬魂命:あめのよろずみたまのみこと)および高宮神社(祭神 天剛風命:あめのたけかぜのみこと)の両延喜式内社は、『先代旧事本紀』に「次萬魂尊 児天剛川命 高宮神主等祖」とあり、高宮神主がその祖神を祭ったものであり、高宮廃寺は両延喜式内社と氏寺氏神の関係にあったものと推察される事から、造営氏族については、高宮神主(氏)が考えられます。
しかし、まだまだ不明な点も多く、先述の問題点も含めて今後さらに多方面からの検討を加えていく必要があります。
高宮廃寺は、古代北河内地方における初期寺院の展開と、氏族経営のあり方をうかがう上で重要な遺跡として、昭和55年(1980)5月13日に国の史跡指定を受けました。






報告NO2.竹原伸二氏(枚方市教育委員会)



	まだ若いのに、北河内地方の伽藍の研究ではなかなかのものらしい。貰った資料は、この人の部分が半分くらいを占めてい
	た。蘇我氏物部氏の対立に始まる「仏教伝来」から、蘇我氏による飛鳥寺の建立、四天王寺の瓦は樟葉で灼いていた話など
	なかなか面白い話をしてくれた。いわゆる北河内地方には77ケ所の古代寺院があって、その内17ケ所がこの周辺(寝屋川
	・枚方・四条畷等)にあって、その内5ケ所が白鳳寺院だそうだ。白鳳寺院は有力氏族の氏寺の性格を持っている。寺院独
	自の瓦も沢山出土するそうで、各寺院はその寺で専属の瓦工場を持っていたらしいとの事だった。
	他に、考古学から見た北河内地方の古代寺院分布や、瓦から寺院造営に関するどんな事がわかるかという話など、興味深か
	った。このHPでも取りあげている、鳥取の「上淀廃寺」や樟葉の「西山廃寺」、近江の「志賀南廃寺」の話なども出て、
	「あぁ、そこ行ったでと叫びたかった。「高宮廃寺」も有力な渡来系豪族の氏寺だったのだ。







報告NO3.若井敏明氏(関西大学講師)



	この人は寺院よりも仏教の専門家らしい。文献、特に日本書紀に現れる佛教や寺院に関する記事の説明をしてくれた。仏教
	の伝来当初からしばらくは、考古学の調査結果から、文献に現れる寺院の大半は近畿地方にあった。それが白鳳時代になる
	と全国展開されるようになる。ちょうど「大化の改新」を境目にしているようだ。同じ氏(うじ)に属していても、人によ
	って違う寺を建てたりしているので、若井氏は、氏寺というより個人の利益のために寺を建立したのではないかと言う。







− 昼食 −

寝屋川の町中で、昼間から豪勢な焼き肉を食った。Volumeたっぷりで1,300円と安かった。

 

 



  

昼食後、ロビーで一服する東江氏(右端:わざわざ注しなくても後は瓦だけじゃないかって。)




講演 千田稔氏(国際日本文化研究センター教授)


	演題は「・・・開拓」となっていたが「継体天皇」の話ばかりしていた。ちょうど継体天皇の出自を勉強している所だった
	のでおもしろかったが、「邪馬台国は奈良に決まっとる」と言った時にはカチンと来た。このオッサンは、神功皇后は実在
	せず、継体天皇の出自(近江の息長氏)を正当化するためにデッチ上げたものだという。これはちょっと無理があろう。
	アガタ(県)とミヤケ(屯倉)の話もしていた。

  





シンポジウム



 


	小笠原教授の司会でシンポジウム。広く仏教と寺院の話から「高宮廃寺」の話へと、なかなかうまい司会であった。塩山氏
	の話では、出土した瓦から見て、「高宮廃寺」の建立は7世紀後半の前半とかいうことだ。その瓦については、「どこから
	来たのか、よくわからない。」(竹原氏)との事。小笠原教授の、「高宮廃寺は薬師寺式の寺となっているが、年代が合わ
	ないのでは? むしろ飛鳥の川原寺式と言ったほうがぴったりする」という意見に、塩山氏、竹原氏は「検討を要しますね。」
	千田氏はこの地方に17しか寺院がないのを、「北河内は物部氏が押さえ込んでいたので、他の氏族が育たなかったのでは
	ないか。」と言い、「その後、政争に蘇我氏が勝って、北河内地方を蘇我氏と聖徳太子で分けた。淀川水系は重要なので聖
	徳太子が欲しかったのだろう」と話していた。

	前もって質問用紙なども配布されていて、シンポジウムの際、講師連が応答していた。近辺の地図に「お食事処」も書き込
	んであって、なかなかきめ細かい裏方作業も光っていた。貰った資料も、大抵の所ではCOPYしたものだが、ちゃんと簡易製
	本されていたのは嬉しかった。

 



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