2006年の年が明けて、歴史倶楽部の杉本さんから、昨年の納会例会(京都嵐山)の時、杉本さんがみんなに見せて いた講演会(?)の案内を貰った。1月3連休の初日。皆さんにメイルを回覧したが前日の夜だったので、さすがに来 てる人はいなかった。おまけに大阪は、昨年から何回目かの「今季最大の寒波!」という予報だったので敬遠した人も いたのだろう。
講演会と思っていたら「新春対談」で、二人で対談しながら2時間過ごすというもので、こういう形式は初めてだった。 数人でやるシンポジウムは、みんなが好き勝手言うから最後には焦点がぼけて、おもしろいものはほとんど無いが、こ れは2人なので結構おもしろかった。新聞や説明会では聞けないような話もいっぱいあって、今日は勉強になった。こ れは池田銀行の関係会社である「自然総研」という団体が主催している文化クラブの講座の一環のようだ。毎回いろん な学識者を呼んで、もう数回開催されているようで、次回は3月とか言っていた。また行こう。
飛鳥で例のない古墳発見 斜面造成、2千枚以上の板石 2005年12月02日03時03分 asahi.com カヅマヤマ古墳の板石積み石室。14世紀の地震で、大半が左奥の人物の方向に崩れた =1日、奈良県明日香村で カヅマヤマ古墳の墳丘復元図(イメージ) カヅマヤマ古墳周辺の地図 奈良県明日香村で、山の斜面を大規模に造成し、2000枚以上の板石を積んだ石室を持つ古墳時代後期 の方墳が見つかった。同村教委が1日、発表し、地名からカヅマヤマ古墳と命名した。670年代の築造 とみられ、古代政治の中心だった飛鳥地域では類例のない形状。一帯は高松塚など同時期の有名な古墳が 集中する地域で、造成の規模や石室の豪華さから、村教委は皇族や渡来系王族など有力人物が埋葬された とみている。 丘陵を幅100メートル以上、高さ約10メートルにわたって緩いU字形に削ったうえで平らな斜面を造 成し、そこから突き出す形で、土を何層もたたき固めて墳丘を造っていた。墳丘は少なくとも高さ約10 メートルの3段構造。最下段は地震で崩れた痕跡もあり、2段目は一辺約24メートルだった。 最上段に納まった石室は板状の結晶片岩(厚さ約5センチ、幅約20センチ、長さ約30センチ)を積み 重ねて造られ、奥行き5メートル以上、幅1.8メートル、高さ2メートル。床以外は白いしっくいで塗 り固めてあった。板石積み石室は百済の王墓など朝鮮半島に多く見られる。床の中央に高さ30センチの 石の台があり、漆片が出土していることから、ここに漆塗り木棺を載せたらしい。 石室内からは被葬者とみられる1人分の人骨片約50個も見つかった。鑑定した片山一道・京大大学院教 授(自然人類学)によると、30〜60代の男性という。盗掘されており、副葬品は見つかっていない。 一帯には、7世紀末〜8世紀初めの皇族級の人物が埋葬されたとする説が有力なマルコ山、高松塚、キト ラなどの古墳が数多くある。 14世紀の南海地震によるとみられる跡が4カ所以上あり、墳丘南側や石室の壁が約2メートル下に滑り 落ちていた。 現地見学会は3日午前10時〜午後3時。近鉄飛鳥駅から南西約1キロ。駐車場はない。小雨決行。
平城京の羅城、簡略版か 十条大路があったのは確実 2006年03月10日23時31分 asahi.com 平城京の羅城跡が見つかった発掘現場(手前)から羅城門のあった西方面(上)を望む。右の道路が九条 7大路にあたり、その左約530メートルに十条大路があったとみられる=奈良県大和郡山市で、本社ヘリ から 奈良時代の首都、平城京(710〜784年)の九条大路南側にあった羅城(らじょう)(城壁)跡の 一部が奈良県大和郡山市で新たに見つかった。同市教委と元興寺文化財研究所(奈良市)が10日、発表 した。平城京が模した古代中国の都城は、堅固な土壁でできた高さ10メートル以上の羅城で囲まれてい たが、平城京では簡易な瓦ぶきの板塀だった可能性が高い。また、京の南端とされていた九条大路より南 で、昨年に続い て区画道路跡が出土し、平城京遷都当時に十条大路があったことが確実になった。 羅城跡は、九条大路中央の羅城門から東約520メートルで出土。柱(直径約30センチ)の穴が東西 方向に2.4〜2.7メートル間隔で2列(幅1.5〜1.8メートル)に並んでいた。古代中国の羅城 のような基礎工事の跡がなく、出土品は瓦だけ。柱の太さからみて、高さ2〜3メートルだったらしい。 瓦の特徴などから築造は750年ごろとみられる。 今回の出土地点で羅城跡は途切れており、東端と確認。羅城門を中心に左右対称とすると総延長は1キロ 余り。東西4.3キロだった平城京の約4分の1ということになる。 区画道路跡は九条大路の南約400メートルで見つかり、3カ所の交差点を確認。いずれも平城京内と 同規格の道路がさらに南へ続いていた。
上をクリックして貰えば、讀賣新聞片岡正人記者による「回顧2005年文化財」記事が読めます。高松塚古墳の文化 庁の対応や判断の誤りを鋭く糾弾した、最近では珍しい硬派の記事である。文化庁のような「やかましい、金を出して やっているのはわしじゃ、つべこべいうな!」という、明治時代の旦那のような機関に媚びへつらうマスコミ人が多い 中にあって、「よく言った!がんばれ!」と拍手したくなるような記事である。ここで使用した記事は、このスクラッ プに綴じ込んであった新聞記事から転載した。はじめて見る記事も幾つかあった。